潮騒が反響する海蝕洞の奥に、その祠はある。
真新しい、木で作られた祠は、ごく最近に作られた事を示していた。
その祠を、一人の少女が見つめている。閉じた扉の奥を見透かすように、静かな目がただ一点に向けられていた。
「おや。お嬢ちゃんもお参りかい?」
不意にかけられた言葉に、少女はゆっくりと振り向いた。
海蝕洞の入口から、老婆が一人歩み寄る。杖をつき、ゆったりとした足取りで祠に向かう老婆に譲るように、少女は数歩壁際に寄った。
「あぁ、ありがとうね……もしかして、お嬢ちゃんがこの祠をつくってくれたのかい?」
「違うわ。わたしじゃない」
老婆の問いかけに少女は首を振る。
そうかい、とどこか残念そうに老婆は呟いて、祠の前へ歩み寄る。持っていた袋から陶器の小皿とお猪口を祠の前へ置くと、そこへ塩を盛り、御神酒を注いだ。
「これだけで申し訳ありませんが、どうぞお上がり下さい」
深く礼をして、老婆は祈る。その様を静かに見つめながら、少女は声を出さずにありがとう、と呟いた。
「誰がつくってくれたのだろうね。もうあの村を知るのはいないと思っていたんだが……ありがたい事だ」
「誰かしら。でもきっと優しい人だわ」
老婆の呟きに、少女は僅かに微笑む。少女の言葉に、そうだねぇ、と同意して、老婆は眩しそうに祠を見つめた。
「――お嬢ちゃんは知っているかい?ここには昔村があって、海の神様をお祀りしていたんだよ」
「知っているわ」
昔を懐かしむような、哀愁を含みながらも静かな言葉。それに頷いて、少女は眉間に皺を寄せる。
「お祀りをしなくなったら神様が怒って、村を沈めてしまったのでしょう?……噂になっているわ。ここには海の祟りにあった村人の亡霊が出て、見つかったら海に引き摺り込まれてしまうんですって」
ふん、と鼻を鳴らし、少女は肩を竦める。その眼に浮かぶのは少しの怒りと、寂しさだけだ。そんな少女を見て、老婆もまた、哀しげに笑う。
「そんな事ないのにね。だって今まで誰も気づいてくれなかったじゃない。気づいてくれたのは一人だけよ。ただ一人……わたしの大切な青で、綺麗な海を描いてくれた、君だけ」
微かな呟きは、老婆には届かなかったのだろう。
何か言ったか尋ねる老婆に何もないと首を振り、不機嫌そうにしながらも、少女は真っ直ぐに老婆を見つめた。
「この祠がある限り、海は応えてくれる。でも忘れてしまったら……返してもらうために、海はまたすべてを沈めるわ」
「それは……お嬢ちゃんは、一体……?」
老婆の困惑した疑問に、少女は答えずに歩き出す。
海蝕洞の外。海へと向かって。
「もうかえるわ。わたしの大切なものは帰ってきたもの」
少女は静かに海へと還っていく。
その姿を言葉なく見送って、老婆は深く礼をした。
「この前は、本当にありがとう。あれから体調不良を訴えていた生徒達もすっかりよくなって……なんてお礼を言ったらいいか」
「大げさですよ。先生」
電話口の向こうで、嬉しそうに頭を下げているだろう恩師を思い浮かべ、燈里《あかり》は口元を綻ばせた。
あの海での儀礼から、一月が経とうとしている。
何度も感謝を述べる恩師から話を聞けば、もうすっかり学校は日常を取り戻しているようだ。
ただ二人を除いては。
ジュウを受け取り、一度はジュウとなった生徒、門廻藍留《せとあいる》。
そしてその叔父であり、儀礼を執り行うために藍留の依坐《よりまし》となった門廻丹司《あきつぐ》。
二人は意識こそは回復したものの、藍留は音と青の色彩を、丹司は声を失い、学校へは戻れなかったという。
「あとね。これは生徒達の噂でしかないのだけれど」
そう言って、恩師は僅かに声を潜めた。
「夕暮れ時にね、美術室に一人でいると潮騒が聞こえるそうなのよ。それに潮の匂いがすると美術室の片隅に、海を描いた油絵が現れるのですって」
あくまで噂だと言いながら、やはり気になるのだろう。恩師の声音には、困惑と不安が浮かんでいる。
「海の、油絵……」
海。そして油絵の単語に、燈里は密かに眉を寄せる。
脳裏を過ぎるのは、あの海での儀礼の際、塗り潰された青の下から現れた海の絵の事だ。
僅かに擡げた不安に、詳細を尋ねようと燈里は口を開きかけ。
だが言葉が溢れるより速く、背後から伸びた大きな手が、燈里の視界を塞いだ。
小さく肩を震わせて、燈里は静かに口を噤む。急な沈黙に恩師が声をかければ、燈里はのろのろと口を開き、大丈夫です、と答えた。
「ただの噂ですよ。美術室であんな事があったんですから、仕方がない事です。噂なんて、気にしない方がいいですよ」
どこか機械的な口調でそれだけを告げ、それでは失礼します、と恩師の返答も待たずに燈里は話を切り上げた。
後ろから伸びた手が燈里の持つスマホを奪い、電話を終了させる。奪われたままの体制から動かず、再び沈黙する燈里を抱き寄せて、冬玄《かずとら》はくつり、と喉を震わせた。
「もうあれに関わるな。他の人間らが噂話としてジュウ擬きを作り上げようが、それは自業自得だ。その結果がどうなろうと、関係ない」
燈里の耳元に唇を寄せて、冬玄は囁く。
「いいか、燈里。俺は他の人間なんてどうでもいいんだ。ただお前だけが無事であれば、それでいい。だからいい子に出来るよな?」
緩慢な動作で頷く燈里に満足そうに頷いて、冬玄は燈里のこめかみに唇を触れさせると、視界を塞ぐ手をどけた。
虚ろな瞳が、ゆるりと瞬く。次第に光を取り戻し、燈里は首を傾げて背後の冬玄を振り返った。
「――冬玄?」
「飯、出来てるぞ。立ったまま寝そうになるくらいなら、飯を食ってから布団に入れ」
にやりと笑う冬玄に、燈里の頬に朱がはしる。ばか、と小さな文句を受け流しながら、冬玄は燈里を促し居間へと向かった。
「遅いよ、お姉ちゃん」
居間に入った瞬間に聞こえた声と姿に、燈里は硬直する。
聞いた事のある声。そしてその姿。
「――何でいやがる」
背後の険しさを浮かべた冬玄の声すらも気にかける余裕はない。それほどに頬を膨らませて席に着く子供の姿に、燈里は記憶を揺さぶられていた。
面を着けていないが、間違えるはずもない。幾度となく夢の中で出会い、助言をくれていた、あの小さな妖。
「あなたは……」
どうして、と尋ねようとした声は、近づいてきた子供に手を取られた事で途切れる。
「お姉ちゃん。早くご飯食べようよ」
小首を傾げて、子供は燈里と視線を合わせる。僅かに光を失った目をして、燈里は小さく頷いた。
「っ、おい」
冬玄の声にも反応を見せず、燈里は手を引かれるままに席へと向かう。促されて席に着く燈里の姿に、子供はふふ、と微笑んだ。
「優しい子。君の中で忘れられるのを待とうと思ったけど、止めた。そこの哀れな守り神擬きに隠されるのは、流石に可哀想だ。それに君の優しさが、消えるだけだった僕を掬い上げてくれたのだから、代わりに守ってあげるよ――ただ君だけを」
そう言って、険しい顔をした冬玄に、にやりと笑ってみせる。さらに険を帯びる目をする冬玄に、きゃあ、と声を上げて燈里に抱きついた。
「お姉ちゃん。あいつが怖い顔をしているよ。きっと僕が邪魔なんだ」
大げさに怖がってみせれば、燈里の手が子供の頭を撫でる。
そんな事はないよ、と困ったように、だが優しく燈里は微笑んだ。
「だって楓《かえで》は私の大切な妹なんだから。たった二人だけの姉妹なのに、冬玄がそんな酷い事を想う訳ないでしょう?」
そう言って、背後の冬玄を振り返る。
柔らかに笑む燈里の目に絶対的な信頼を見て、冬玄は渋い顔をしながらも、そうだな、と呟いた。
柔らかな日差しの差し込む、午後の頃。
冬玄に凭れ、穏やかな寝息を立てて眠る燈里は気づかない。
「まったく……燈里の望みは人間として共に生きる事だったろうに」
はぁ、と呆れて、子供――楓は息を吐く。
言外に、燈里の意識に干渉した事を責めているのだろう。言葉こそは穏やかだが、その目は鋭く冬玄を射抜く。
「あれは仮巫《かんなぎ》の娘を引き戻した対価だ」
何も問題はないと呟きつつも、冬玄はさりげなく視線を逸らす。
言い訳でしかない事を、正しく理解しているのだ。ジュウに対してひとつを帰し、余剰分となるひとつを戻す。道理に従い引き戻した行為は、そこで完結している。その他が入り込む隙はない。
「あれが最後だ。あとは燈里が飽きるまで、人間ごっこに付き合うさ」
「だいぶ歪んでるねえ」
目を細め、楓はくすくす笑う。
まあいいか、と呟いて、部屋の外へ向かい歩き出す。
「君みたいな堕ちかけが隣にいると、逆に冷静になれていいね……どうぞご自由に。足を踏み外したら、そのまま堕ちる前には止めてあげるから」
「そりゃ、どうも」
気のない冬玄の返事を振り返りもせずに聞きながら、楓は部屋を出る。
そのまま玄関まで向かい、静かに外へ出た。
晴れ渡る空を仰ぎ、その青に海の青を重ね見て。
「おかしいな。祭の真似事をしてた妖が、祭の元の妖の世話を焼くなんて」
普通は逆じゃないかと、誰にでもなく呟いて。
「仕方ないか。燈里は優しい、いい子だからね」
仕方ない、仕方ないと繰り返して、一人笑った。
潮騒が聞こえる。海の声が響き渡る。
それは悲しみの詩《うた》であり、喜びの祈り。
音はどこまでも広がり、反響する。
広がる音は、やがて潮の香りを纏い返る。
潮騒が聞こえる。黄昏を潮の香りが満たしていく。
誰もいない美術室の隅。
キャンバスに描かれた海が、穏やかに揺らめいた。
20250512 『ただ君だけ』
5/12/2025, 2:05:11 PM