沈み揺蕩う暗闇の中、微かな声が差し込んだ。
責める声ではない。彼ら/私の声よりも遙か高みから、降りてくる。
それは、先生であり、兄であり、父でもあった大切な人。両親の代わりに手を引き、声を聴き、寂しい時には寂しいと――そう言える事を教えてくれた。優しくて、まるで春の青空のように穏やかな人だった。
目を開ける。遙か遠い水面を見上げ、その先の空を想う。
届いていただろうか。せめてもの願いが。他でもない、彼を沈ませないための言葉が。
それはもはや確かめようのない事。海の中では、意味のない記憶。
目を閉じ、暗闇に身を任せる。
今日は随分と流れが穏やかだ。彼の声を思いながら、空の夢を見るのもいいかもしれない。
「――いま一度、此方《こなた》へ」
声が聞こえる。彼ら/私ではなく、私を呼んでいる。
呼ぶ声と共に、閉じた瞼の向こう側で光が降り注いだ。
目を開ける。暗闇の中、一筋の光が差し込んでいた。
導き、呼ぶ声。そして光。
迷いなどあるはずもない。私はその光へと、真っ直ぐに手を伸ばした。
沈黙した教師の体が傾ぐ。
「門廻《せと》先生っ!」
慌てたように声を上げる彼女が教師に近寄るが、それより早く教師は徐に立ち上がった。
確かめるように自身の手を見つめ、次いでキャンバスを見つめる。
そして近くで様子を見守る彼女を振り返り、微笑んだ。
「来てくれたんですね」
教師のものではない、少女の声音。柔らかなその響きは、彼女が一度だけ聞いた、青に沈んだ少女のものであった。
「あなたが来てくれればいいと思っていました。守られているあなたなら、きっと先生を助けてくれるって。そう思ったから」
「藍留、さん?」
恐る恐る呼びかければ、教師――生徒は静かに頷いた。
届いたのだ、生徒に。呼び声は聞き届けられ、生徒は応えてここにいる。
ならば状況を伝えなければ。そう思い彼女は逸る気持ちを抑えながら、口を開く。だが、唇から言葉が紡がれる前に、生徒はゆるく首を振り、その必要はないのだと告げた。
「先生の記憶が混ざって、やるべき事もやり方も分かります。仮巫《かんなぎ》として、ジュウの歓待と送別の儀礼を執り行うのですね?先生が私のためにすべてを賭けてくれたのだから、私はそれに応えないと」
強い意志を湛えた群青色の目をして、生徒はキャンバスを――その背後の祠に向き直った。
「時間がありません。長引けば、それだけ先生に負担がかかるから…だから、始めましょう」
風が吹き抜ける。
一つ呼吸をして、生徒は祠に向けて深く礼をした。
塩と酒。そして赤飯を小皿に盛り付け、祠の前に置く。
これが彼女に出来る最後だ。後は、どんな結果となるにせよ、儀礼が終わるまでを見届けるしかない。
生徒を見つめながら、彼の側に寄る。優しく抱き留める彼の腕の中で、どうか、と声なく祈った。
「掛《か》けまくも畏《かしこ》き、海《わた》の戎大神《えびすのおおかみ》の大前《おおまえ》に白《もう》さく」
生徒の声が響き渡る。
潮騒に解けるように、ことばが広がっていく。
「遠つ世より浜に流れ寄る青き石を、恵みと歓待《うけいれ》、祀りし我らが代替わり重ね、遂に祭《まつり》を倦《う》み祟りを蒙《こうむ》りしこと、痛みて恐み畏《かしこ》み」
それは祈りの詞《ことば》。終わらせるための言葉。
受け入れた命に対する感謝の想い《ことば》だ。
声が聞こえた。かつて村でジュウを受け入れて生きた村人の声。そしてジュウの声。
「今ここに、かつての戎《ジュウ》にて描《えが》きし海の青を削り取り、塩と酒と赤飯を添へ、小舟に乗せて、潮路《しおじ》へ送り奉る」
ジュウとは命だ。揺らぐ海を見ながら、彼女はぼんやりと思う。
生きていく者の命を繋ぐ、終わったものの命。糧として、恵みの証として。生きる者が呼び込み、受け取る礼として歓待する。そして一部を返し、再来を願う。
死が生を紡ぐ。繰り返される円環の理。
「恵み賜ひし日々を深く謝し奉り、斯《か》くなすを以て、安らけく眠り給へと願い奉る」
海から流れ着くもの。戎《ジュウ》。
「恐み恐みも白さく」
それは確かに、命だった。
言葉が止む。
祠に向かい祝詞《のりと》を奏上していた仮巫《藍留》が、ゆっくりと歩き出す。
キャンバスを過ぎ、祠の前に膝をつく。敷かれた白布の上に置かれた。群青の絵の具を乗せた貝殻を手に取った。
隣に置かれた、葦で作られた舟に乗せる。その舟の底には朱色で「帰」の文字が書かれていた。
舟を手に取り、仮巫は再び立ち上がる。波打ち際まで寄ると、そっと舟を海に流した。
「ありがとうございました」
不意に紡がれたのは、純粋な感謝の言葉。
海へと、ジュウへと向けて、深く深く礼をする。
かつての人が大切にしていたもの。いつしか人が忘れてしまったもの。
「今まで、恵みを与えてくださり、本当にありがとうございました。どうぞゆっくりとお休みください」
それは仮巫としての詞ではなく、生徒の心からの言葉だった。
舟が沖へと流れていく。
静かだ。聞こえていた潮騒も、聞こえない。
ゆらり、舟が凪いだ海で揺れる。音もなくその場で旋回し、帰る場所を見つけたように。
そのままゆっくりと沈んでいった。
「終わった、の?」
舟が沈み、海はまた潮騒を奏でる。
ジュウは帰ったのだろうか。不安に揺れる目で、彼女は彼に問いかける。
それに彼は微笑んで、肯定するように彼女の頭を撫でた。
「後は絵を丹《に》で封じるだけだ…頑張ったな。燈里《あかり》」
褒められて、彼女はほぅと息を吐く。
すべて終わったのだ。安堵に微笑み彼女が彼に声をかけるのと、とさり、と何かが崩れ落ちる音が聞こえたのは、ほぼ同時だった。
「藍留さんっ!」
波打ち際。倒れる生徒を視界に入れて、弾かれるように彼女は駆け出した。
「しっかりして、藍留さん!」
生徒を抱き起こす。虚ろに揺れる瞳が彼女を見つめ、小さく微笑んだ。
「ごめん、なさい…先生を」
「なに、言って」
嫌な予感に、彼女は生徒を支えながら、キャンバスの前まで戻る。
白布に生徒を寝かせ、何も言わせまいと言葉をかける。
「大丈夫。ジュウは帰ったんだから、全部元に戻れるよ」
「だめ、なの。だから、先生に伝えて」
「そんな事ない!全部、終わったのに」
嫌だと、認めたくない首を振る彼女に、生徒はそっと手を伸ばす。唇に指が触れ、彼女は肩を震わせ生徒を見た。
「あのね。先生にありがとう、って。お願い」
「そん、なの」
「私は、ジュウだから。私も、帰らない、と」
ふふ、と穏やかに笑い、生徒は目を閉じる。楽しい思い出を思い浮かべるように、幸せそうにあのね、と呟いた。
「先生ね。優しい人、なの。とっても、素敵な、人。だから、助けてあげて、ください」
ぎり、と唇を噛みしめる。伸ばされた手を握り、彼女は分かった、と掠れた声で呟いた。
「あり、がとう…本当にね、素敵なの。もっと、一緒にいたかった、な。いろんな所…見て、描いて」
微かに息を一つ。微笑みを携えて。
閉じた瞼から、涙が一筋零れ落ちた。
「――藍留?」
ぽつり、と微かな呟き。低い男の声は、教師のものだ。
薄く開いた目が彷徨い。求める人がいない事を知り、力尽きたように閉じていく。
何も言えずに、彼女は涙を流す。教師から離れ立ち上がり、穏やかな海を睨めつけた。
足を踏み出す。海へと近づく。
諦めてしまうのは、どうしても出来そうになかった。
「燈里」
進む体を背後から伸びた腕が止める。引き寄せられ、泣きながら振り向く彼女に、彼は困ったように微笑んだ。
「泣くな……今回は、特別だぞ」
「冬玄《かずとら》?」
彼女の涙を拭い、そのまま頬へと指を滑らせる。そして彼は彼女の手を取ると、指を絡めて深く繋ぐ。
「望むんなら、何とかしてやるって言っただろう?…頑張ったからな、特別に望まなくても何とかしてやるさ」
繋いだ手の熱が、彼女の心に広がる深い悲しみを解かしていく。解けた悲しみが、彼女の意思と記憶を包み込み、その輪郭を曖昧にさせる。微睡みに似た意識の中、彼女は彼に促されるまま、キャンバスまで歩み寄った。
「――先生」
冬玄、と名を呼んだつもりであった。
だが零れ落ちたのは、閉ざされた記憶の名残。それに彼は笑って応えると、徐にその手をキャンバスの海へと沈めた。
「ひとつ受け取れば、ひとつ返す。藍を返したんだ。その分の藍を戻してもらうのが道理だろう?」
海に沈めた腕でしばらく何かを探る。不意に動きを止めると、一気に引き抜いた。
彼の腕と、その手に掴まれた誰かの手。ゆっくりとキャンバスから外へと出る。
戻ってくる。
彼方《うみ》から此方《りく》へ。
海の中で、夢を絶たれて漂う一人の少女が、再び夢を描くため、還ってくる。
「燈里の記憶に、これ以上傷をつけられたらたまらない。代償はあるだろうが、それだけで戻れるんだ。精々ささやかな夢でも見続けているこった」
潮の匂い。
道理に従い、生徒を戎《ジュウ》から人へと引き戻した彼は、無感情に呟いた。
20250509 『夢を描け』
ぼんやりと漂いながら、空を見上げた。
暗い藍色には灯り一つない。星や月の灯りも、日の光さえも見つける事は出来なかった。
ゆらりと体が揺れる。あまり動かす事の出来ない体は、流れのままに過ぎて行くだけ。
――カンタイを。
どこからか、声がした。
――受け取ったのだ。
――ハフリベとしてカンタイせよ。
声が責める。意味の分からない言葉を並べ立て、動かない事を責め続ける。
耳を塞ぎたいのに、腕が動かない。否定したいのに、声が出ない。
藍色がさらに暗く色をおとす。怖くなって、思わず目を閉じた。
――カンタイせよ。
声は止まらない。ざわざわと増えていく声が、皆揃って責め立ててくる。
――呼び込み、受け入れた。
――ならばカンタイし、返すのが道理。
――返せ。
声は言う。何度も返せと繰り返す。
分からない。ハフリベも、カンタイも。何一つ見当がつかない。
何を返せばいいのだろう。拾った石は既に砕いて、絵の具として使ってしまった。だから返せるものは何もないのに。
――そのまま黙するつもりか。
――ハフリベとしての役割を放棄するのか。
たくさんの声が責める。
体がゆっくりと沈んでいくような感覚に、目を開けた。
空はもう藍から黒へと色を変えてしまっている。これではもう、空だと思い込む事は出来ない。
あの色は海の色。昏くて深い海の色だ。
ここは海の中なのだ。
――ならばおまえはハフリベではない。
声がする。冷たい声が、すぐ近くで聞こえる。
――返さぬおまえは、ジュウとなるしかあるまい。
深みに落ちていく。昏くてもう何も見えない。
かえりたい場所には、きっと届かない。
「本当によろしいのですね」
彼女の問いに、教師は無言で頷いた。
潮騒に体が震えている。教師の顔は今にも倒れてしまいそうな程に青ざめている。
「だい、じょうぶ……です」
無理矢理に作る笑みが痛々しい。
本当は怖くて堪らないだろうに。姪だという生徒を救う可能性にかけてこの海辺まできた教師の覚悟に、彼女は敬服する。
教師の前。青いキャンバスに視線を向ける。美術室で揺らいでいたはずの青は、今は沈黙を保ったままだ。
一度深く呼吸をし、彼女は教師にナイフを手渡した。ナイフを受け取ったのを確認し、教師がキャンバスにそれを向けるのを静かに見守った。
震える手でナイフを握り、青の絵の具を慎重に削ぎ落としていく。削がれた青は地に落ちる事はなく、波間に漂うかのようにその場で揺らぎ、色を濃くしていく。
その青を貝殻に盛る。盛られた青は貝殻の中で、互いに繋がり形を変え、乾いた絵の具からさらりとした液体へと変化した。それはまるで貝殻の中で海が広がっているかのような光景であった。
貝殻に盛った青を、キャンバスの後ろ、敷いた白布の中央に置く。清めた石白布、榊で作られた簡易的な祠に、依代となる青を据えて、ジュウのための祠は完成した。
ぐらり、と教師の体が僅かに傾ぐ。祠のすぐ先は、海だ。直に嗅いだ潮の匂いに、意識が揺らいだのだろう。
教師に肩を貸しながら、彼女は教師と共に、キャンバスの前に移動する。祠のものとは別の敷いた白布の上に座り、教師は小さく息を吐いた。
「門廻《せと》先生」
膝をつき、彼女は教師と視線を合わせる。
「一度“おろし”たら、もう後戻りは出来ません。どんな結果になっても、進み続けるしかないんです」
僅かに目を揺らがせて、彼女は告げる。
依坐《よりまし》の儀。口寄せ、憑坐《よりまし》降ろしとも呼ばれる降霊儀は、依坐という器に魂を降ろし、言葉を紡がせるものだ。教師を依坐に、生徒の魂を降ろす。祝部《はふりべ》の血筋ではあるが、今までそれに触れる事もなかった教師が行うには、あまりにも危険が高すぎる。
確立の低い、賭けであった。
「藍留《あいる》さんの状況も分かりません。ジュウに完全に取り込まれている可能性だってある。それにもし、先生の人としての認識が儀式中に保てなくなれば、先生も藍留さんも、二度と此方側には戻れなくなるでしょう」
海を畏れ、これから成そうとする事を怖れて歪む教師の表情は、けれどもその眼に灯した覚悟の色を少しも失ってはいない。
無駄な忠告だと思いながらも、彼女は何度目からの確認のために口を開いた。
「本当に、進めてしまってもよいのですね」
静かな、真剣さを帯びた彼女の問いに、教師ははっきりと頷いた。
目を伏せて、彼女は数歩下がる。これから行う事は、教師と生徒にしか出来ない事だ。すべてが終わるまで見守るしか出来ない歯がゆさに、教師の背を見つめながら彼女は強く手を握りしめた。
「燈里《あかり》」
静かな声が彼女を呼ぶ。背を抱き寄せられ、薫る蝋梅《ろうばい》に、縋るように背後の彼へと凭れた。
彼の手が固く握り締めた彼女の手に伸び、ゆっくりと解いていく。開いた手を取り、彼女が首から提げている守り袋へと導き、握らせた。
「冬玄《かずとら》」
震える声で彼女は彼を呼ぶ。見上げる彼の横顔は、凍てつく鋭さを湛えて、穏やかな海を見つめていた。
「門廻藍留。海に囚われし者よ。この詞《ことば》を波にのせ、汝に届け給《たも》う。
我、門廻丹司《あきかず》の身を器とし、汝の声を授け願い給え。いま一度、此方《こなた》へ。その魂を灯し――」
静寂に教師の声が広がる。
変化はない。教師も、海も。青も。
応えはない。海は穏やかに寄せては引き。風はなく、生き物の声すら聞こえない。
沈黙。
無音。
声も、音も。何もかもが消える。静寂が満ちていく。
あぁ、と誰かの吐息が溢れ落ちる。それは彼女か、それとも教師のものなのか。
「藍留」
呟く声に、彼女は教師の背を見つめた。
項垂れる背は悲哀が纏い、今にも消えてしまいそうに頼りない。
「仕方がありません。藍留がおりないのであれば、このまま私が儀礼を執り行いましょう」
凪いだ声だった。諦念と、無力感と。求める事を止めた哀しい声が、責務だけで儀礼の続行を告げた。
教師は静かに立ち上がる。ゆっくりと力なく。終わらせるためにと、キャンバスの前に立つ。
ふと、海から柔らかな風が吹き抜けた。
「――届いてないな」
微かな呟き。視線を海に向けたまま、彼は言う。
「滲んでいるだけだな。祠に据えた青は“本体”じゃない。上から重ねた青と朱に、届くものまで塞がれている」
その言葉に彼女は彼を見て、そしてキャンバスを見た。青に塗り潰されたキャンバス。幾重にも重ねられた青と朱。
はっとして、声を上げた。
「門廻先生!依代を変えて下さい。一番最初に描かれたものがジュウです。幾重にも塗り重ねた青では、深みには潜れない。そこで呼びかけても、ジュウにも藍瑠さんにも届かない!」
彼女の言葉が終わるよりも早く、教師は動いた。
青を削り取ったナイフを手にし、キャンバスを真一文字に切り裂く。切り裂かれた線からどろりと青が溶け出して、まるで血のように流れ出した。
裂いた線から絵の具を剥がそうとするも、溶け出す青に阻まれる。再度切り裂くも、その先に見えるのは青ばかりだ。
「届けっ。邪魔をするな!」
何度もナイフを振るう。だが変わらぬ青に、彼女は耐えきれず、背後の彼を振り払い、教師の下へと駆け寄った。
キャンバスの切れ目に手を入れ、直接絵の具を引き剥がしに掛かる。どろりとした生ぬるい感覚に、顔を顰めながらも指先に力を込めて。
青が揺らめいた。波紋のように揺らめいて、いくつもの白の点を浮かばせる。
それは次第に大きさを増す。輪郭が露わになっていくにつれ、彼女は息を呑んだ。
「――っ!?」
手だ。あの日、生徒をキャンバスに引きずり込んだいくつもの青白い手が、青の中から浮かび上がる。境界を越え、現に抜け出してナイフを握る教師の腕を掴んだ。
「やめろ。離せっ!」
教師が手を引き剥がそうとするが、次々と現れる手がそれを許さない。腕を肩を、胴や首を掴み、青の中へと引きずり込んでいく。
「門廻先生!」
彼女の腕にも、白の手が伸びる。だがそれは彼女に触れる直前で動きを止めた。
怯え硬直する彼女の目の前で、白い指先に霜が降りる。じわりと広がる霜が指を手を凍らせる。細かく痙攣する手は、すべてが凍り付いたと同時、一度大きく震え。
無慈悲に、いっそ残酷に。
音すら立てずに、砕け散った。
「先生」
無意識に彼女はひとつの言葉を口にした。
それは、隣にいる教師に向けられたものではない。
昔、忘れようとした祭の記憶。悪夢の夜が、硬く閉じた蓋の隙間から溢れ出し、彼女は叫ぶように声を上げた。
「これは幻。塗り重ねた絵の具なんて、すぐに剥がれ落ちる。藍留さんに届かないなんて、そんなのは絶対にありえないっ!」
手に力を込める。指先に感じる、硬い絵の具の層に爪を立て。
力の限り、引き裂いた。
「――海、だ」
現れたのは、目の前の海。深い群青の色を湛えて、穏やかにそこに在る。
塗り重ねられていた青が地に落ちる。白い手はすでにない。
手から解放され、教師は一つ息を吐く。キャンバスに描かれた海を見てどこか哀しげに微笑むと、祠へと移動する。
白布に据えられた貝殻を手にキャンバスの前まで戻り、中のただの絵の具に戻った青を地面に落とす。あらためてナイフを握り、その海の群青を削り取った。
「この色は、藍銅鉱…アズライトです。おそらくは、この海で拾った藍銅鉱を砕いて顔料にしたのでしょう……私のために、あの子は海のもので絵を描き、そして海に連れて行かれてしまった」
「門廻先生」
不安げな彼女に、大丈夫だと教師は微笑む。そこにはもう、悲哀の色は見られない。
「続けます。今ならば、藍留に声が届けられる。それがどんな形か、どのような結果となるのかは分かりませんが…受け取った以上、返さなければ」
だろう、とそっと絵を撫でてから、教師は群青を盛った貝殻を白布の上に据え直した。
その背を見つめ、彼女は無言で彼の元まで下がる。
無意識に握り閉めた守り袋が、仄かに暖かい。
その熱に誰かの温もりを重ねて、彼女は静かに目を閉じた。
20250508 『届かない』
そこには、何もなかった。
己の生家も、友人の家も。記憶と重なるものは、何一つ残っていない。幼少期を過ごしたあの神社の鳥居さえ、どんなに目をこらせど見つける事は叶わなかった。
静かだ。聞こえる潮騒も遠く、生きるものの声などこそともしない。
あぁ、と声が漏れた。震える足が、とうとう耐えきれずに崩れ膝をつく。
一夜だ。たった一夜で、己の故郷は海の下に沈んでしまった。エビスを正しく祀る事が出来なかった村の末路だ。
目の前に広がるのは、穏やかな円形の湾。村を根こそぎ呑み込んで、海にしてしまったのだ。
やはり嫁ぐべきではなかったのだ。老いた父が一人残った所で、祝部《はふりべ》としての役目を全うする事など出来ぬと分かっていたというのに。
後悔が内から溢れ、涙として流れ落ちていく。
滲む視界でも色を失わない、眼下に広がる海を睨めつける。不意に、海に煌めく何かが見えた。涙を拭い、目を凝らす。
ひゅぅ、と喉がなった。悲鳴が喉に張り付き、息が詰まる。
海に揺らぐ、朱色。折れた鳥居の一部が、波に漂い揺れ動いている。
その朱が、次第に色を失っていく。海水に晒され、端から腐食し崩れていく。
明らかな異常。鮮やかだったはずの朱が、青に侵されて海に溶けて消えていく。
そうしてすべてが崩れ溶けて消えていき。村は完全に、海となった。
呆然と海を見下ろす。父はこの最期に何を想ったのだろうか。
目を瞬く。零れ落ちる滴が頬を伝い、地面の色を僅かに濃くする。
穏やかな海。激しさを隠して揺れる青。
その昏い青を、この先生涯にわたって忘れる事などないのだろう。
「エビス…」
掠れた声が、教師の戦慄く唇から溢れ落ちる。
そこに困惑や否定の色はない。最初から理解しているかのように、どこか諦めにも似た響き。俯くその表情は分からない。
「藍留《あいる》はやはり、戻る事はないんだな」
「あいる?」
聞き慣れない名に、彼女は首を傾げた。
「この青に攫われた生徒です。門廻《せと》藍留…私の、姪でした」
顔を上げ、教師は微笑んだ。希望をなくした、哀しい笑みだった。
キャンバスに視線を向ける。手にしたままの絵筆を置いて、教師は徐に手を伸ばした。
青に触れる、その寸前。手が止まり、教師の顔が哀しげに歪む。指先が迷い彷徨って宙を掻き、やがて諦めたように離れていった。
「門廻先生」
「声が、聞こえるのです。この青の向こう側から…意味の分からない大勢の声と。藍留の声」
彼女に向き直り、教師は言う。生徒が最初の絵を描き始めてから、ずっと声が聞こえるのだと。
それは喜びに笑っているようでもあり、悲しみに嘆いているようでもあり。言葉のようで、旋律のようにも聞こえる。そんな不思議な声が、今も聞こえ続けているのだと教師は力なく呟いた。
「先生は、ジュウを知っていたのですか?」
感じた違和感に、彼女は疑問を口にする。教師の態度は、未知の非日常を前にしているとは思えぬほどに落ち着いていた。近しい人を目の前で失った事による嘆きによるものだけではない。まるで最初からすべてを理解しているかのような、そんな無気力とも異なる静けさに、彼女は僅かに表情を険しくした。
だがその問いは、ゆるく首を振られ否定される。悲しみと恐怖に彩られた目をして、教師は遠く、何かを想いながら語り出した。
「ジュウは知りません。ですが私の先祖は昔、海辺の村で祝部として、エビスの儀礼を執り行っていたそうです。曾祖母の父。高祖父の代に、その村はエビスの祟りを受けて海に沈んだと、そう聞いています」
「エビスの、祟り」
「はい。曾祖母は既に他の村に嫁いでおりましたので、無事ではありましたが…話によれば、一夜で村は海に沈んだとの事です」
目を伏せ、教師は一つ息を吐いた。
「私は、幼少の頃より海が怖かった。その話を繰り返し聞かされたからなのか、それとも血筋によるものか…とにかく、海が怖くて今も近づけないほどです」
自嘲して、教師はキャンバスに視線を向ける。青の向こうを透かし見るように、目を細めた。
「あの子は…藍留はそんな私のために、いつからか海を描くようになりました。海が怖いなんて可愛い、と戯けながらも、慰めのように海を描き、私に見せてくれたのです」
視線の先の、滲み出す青が揺らぐ。まるで波紋が広がるように。
揺らぎ、広がり。そして波打つ。キャンバスの中で海が広がっていく。
「思えば、藍留は木漏れ日のような子でした。柔らかな木漏れ日の光が、一歩そこから離れただけで身を焼く光となるように。私が少しでも誤った言動を取れば、穏やかな微笑みを消して、厳しく接する……だからなのでしょうね。あの子の声が聞こえるようになったのは」
教師は笑い、再びキャンバスに広がる青へと手を伸ばす。僅かに触れぬ距離で指先を止め、また一つ吐息を溢した。
「声が聞こえるのです。あの子の声で青を朱で塗り潰せ、と。先生なら出来るよね。このまま青が広がれば、今度は他の生徒が連れて行かれるかもしれない。そんな酷い事、あの時何も出来なくて後悔している先生には出来ないよね、と…あの時、何も出来ないで、怖くて逃げるだけで精一杯だった私を、そう言って責めるのです…いや、責めてもいないか。正しい道へと戻そうと、あえて厳しい言葉をかけているだけ。あの子は、正義感の強い子だったから」
手を下ろし、唇を噛みしめる。強く手を握り締めながら、顔を上げて諦めと、覚悟を決めた目をして教師は彼女を見つめた。
「これがエビスなら、歓待し送別するのが儀礼だ…どうか私にやらせてください。それがあの時何も出来なかった私に出来る、藍留に対する唯一の贖罪だ」
教師の言葉は、哀しいほどに強さを湛え。
彼女は息を呑む。これほどまでの覚悟で望まれたのだから、それに誠実に応えなければ失礼にあたる。揺らぐ視線を隣にいる彼に向け、一度目を閉じた。
一呼吸して目を開け、教師を見据える。了承を口にしかけ、不意に一つの可能性が思考を過ぎていった。
「――先生は、藍留さんを助けたい、ですか?」
「助けられるものでしたら。代われるというのなら、すぐにでも代わってやりたいくらいだ」
真剣な眼差しに、彼女は迷うように口籠もる。だが強い望みに応えるように、教師と目を合わせ口を開いた。
「一つだけ、可能性があります。確実ではありませんし、危険を伴う方法ですが」
「教えてください。それがどんな危険なものであっても構わない。藍留を助けられるのなら、どうか」
息を吸い。吐く。目は逸らさない。
記憶の中にある、一つの方法を呼び起こし、教師へと提示する。
「門廻先生が藍留さんの依坐《よりまし》になり、彼女に儀礼を行わせるのです。ジュウを呼び込んだ者が、歓待し、送別する…そうすれば、戻ってこられるかもしれない」
彼女の提示した可能性に、教師は迷わずに頷き了承した。
20250507 『木漏れ日』
誰かが笑う。それを誰かは嘆き悲しんだ。
波間に揺蕩いながら、声を聞いていた。
「今時――なんて。――のは、おれだ。ならば――とおれの勝手だろう」
「だが――は――。――なければ」
どうして。
言葉にならない思いは、揺らぎとなって渦巻いた。
強欲。傲慢。何故忘れてしまえるのか。受け取る意味を考えずにいられるのか。
「下らない。これだから年寄りは困る。いつまでも古い考えに支配されるなど、愚かでしかない」
「罰当たりめが。憂いなく、健やかでいられる事を幸運だと思えぬ方が、愚かだろう」
嗤う声。嘆く声。
正反対が衝突し、渦を巻く。ぐるりぐるりと大きさを増して、それは一つの流れになる。
「どうしてもと言うなら、祭好きなハフリベにでもやらせればいい。それがあれらの役目だろう」
どうして、と思いが過ぎる。
ひとつを差し出した。たくさんの中の一つ。けれども代わりのないひとつ。
差し出したのだから、一つ返してもらわなければ。それが道理というものだ。返さぬのならば、均衡が崩れてしまう。
流れが変わる。渦を呑み込み大きさを増して、陸へと向かい流れていく。
返してもらわなければ。それが力ずくであったとしても。
流れが波を起こす。陸を舐め、そこにあるものすべてを喰らい尽くしていく。
返してもらう。ジュウはたくさんではあるが、ひとつなのだから。
再び訪れた学校は、恩師を含めて数人の教師がいるばかりで、平日だというのに生徒の姿は見当たらなかった。
恩師によると、目に見えての異変があるのは美術部の顧問だけではあるが、体調不良や異変を訴える生徒がここ数日後を絶たず、しばらくは休校扱いになっているらしい。曰く、何かの音や誰かの声が聞こえて眠れない。視界の隅に黒い何かが映り込み、目を開けているのが怖い。青の色ばかりが気になって、何も手に付かない。等々。
美術室へと向かいつつ、恩師の話を聞いて眉を寄せる彼女とは対照的に、彼は肩を竦め、だろうなと呟いた。
「なにか知っているの?」
問いかけに、彼は彼女に視線を向ける。多分だけどな、と前置きをした上で答えた。
「その教師とやらは、キャンバスに直接触れちまったんだろう。ジュウを受け取ったと判断されたんだ。生徒らの方はまだ触れてないが、ジュウの青を見て影響を受けちまった」
「ジュウの、青」
彼の言葉を繰り返す。
ここ数日。白昼夢の如くに垣間見る何かの記憶が思い起こされた。
ふるり、と震える彼女の肩を抱き寄せて、彼は立ち止まる。戸惑いに揺れる彼女の目を見据え、囁いた。
「どうする?引き返すなら、今のうちだ」
笑みを浮かべながらも真剣な眼差し。その目を見返して、彼女はゆるりと首を振った。
今更、戻れるはずなどない。なかった事にして日常に戻るには、彼女はあまりにも深く足を踏み入れてしまっていた。
「私は大丈夫。一人じゃないから」
彼の頬に手を伸ばし、彼女は笑う。
踏み入れる先が暗闇だろうと、道を示してくれる星明かりはここにいる。だから何も怖くはないのだと、理由は分からないながらに、彼女は大丈夫だと繰り返した。
「燈里」
彼女の名を呼ぶ。頬に触れる手に手を重ね、彼は何かを言いかけ。
不意に、音がした。
しんと静まりかえる廊下に、音が微かに響き渡る。
波の音のような。誰かの声のような。何かの旋律のような。
単調な音。一つがいくつも重なり合い、無数に広がる歌へとなる。
不快に眉を顰める彼は、彼女を抱く腕に僅かに力を込めた。
「物寂しい歌。哀しくて、まるで泣いているみたい」
「これが歌、ねえ?哀《あい》を歌ってるってか。くだらない」
彼女の呟きを、彼は険しさを湛えた視線を前に向けながら笑う。
「どうせなら愛でも歌ってくれりゃあいいのに。その方が気分も幾分か晴れるだろう」
「冬玄《かずとら》」
名を呼ばれ、彼は彼女の耳元に唇を寄せる。戯けながらも、響く音に逆らうように、愛の歌を囁いた。
彼女と目を合わせ、頷く。にっと唇を歪め、彼女を抱いたまま、ゆっくりと歩き出した。
「行くぞ」
奥の美術室に近づく程、音が大きくなる。廊下全体に反響し、音を呑み込み増幅していく。
まるで海の中にいるようだ。音に飲まれぬよう彼の腕にしがみつきながら、彼女は思う。
波と、海に生きるものと、海で死んだものと。この音は、歌は海が奏でているのだ。
歌う海の中を進み、美術室の前まで辿り着く。彼と視線を合わせ彼女は頷くと、扉に手をかけた。
歌が止まる。最初から何もなかったと言わんばかりに、反響していた音は、扉を開けると同時、掻き消えた。
静寂が戻る。ただ一つ、筆の走る音以外を除いて。
美術室の中央。キャンバスに向かい、教師が無心で絵筆を動かしている。じわりと滲み出す青を封じるように、朱色でキャンバスを塗り潰していた。
ゆっくりと歩み寄る。彼女達に気づく様子もなく、教師は只管にキャンバスを朱色に染めている。その顔は涙に濡れて、声に出さずに何かを繰り返し呟いている。
「門廻《せと》先生」
彼女が声をかける。教師は反応を見せず、筆を動かす手も止める様子もない。
「先生。このままじゃ駄目です。ちゃんと終わらせないと、返さないと意味がありません」
教師の目が彼女に向けられる。手は止めず、流れ落ちる涙もそのままに、彼女の言葉の真意を目が問うている。
「この元の絵は、ジュウで描かれているんです。海から流れ着いたもの。人はそれを呼び込み歓待する事で、福を得ていました」
教師の手が止まる。
端からじわりと滲み出す青を視界にいれながら、彼女は静かに教師に告げた。
「人はそれをマレビトと呼び、昔から敬い畏れてきました…ジュウとはつまり、戎。連れて行かれた生徒は、エビスを呼び入れたのです」
20250506 『ラブソング』
ふと、居間のテーブルに置かれた一枚の封筒に、彼女は目を留めた。
白の封筒。宛名には『宮代 燈里《みやしろ あかり》様』と書かれているのみで、それ以外は何もない。
首を傾げながら、彼女は封筒を手に取った。裏を見るも、やはり何も書かれてはいなかった。
彼が置いたのだろうか。過ぎる思考に、それはないなと否定する。彼の筆跡ではないし、そもそも同じ屋根の下で暮らしているのだから、伝えたい事があれば直接話せばよい事だ。
では誰が。疑問に思いながらも、彼女はさほど警戒はせず。
封に手をかける。然程抵抗なく離れた封を開け。
中を覗き込んだ。
波の音が聞こえる。
単調で、静かな音。優しく、怖ろしささえ感じるそれに誘われるように、彼女はゆるり、と瞼を開いた。
「――っ!?」
息を呑む。微睡む意識が一瞬で覚醒し、視界に映る光景を凝視する。
夜の闇を照らすいくつもの提灯の灯り。賑わいを見せる様々な出店。
子供達の笑い声がする。誰かが談笑しながら彼女の側を通り過ぎる。
遠くで聞こえる祭り囃子の笛の音に、彼女はふるりと肩を震わせた。
「どうしたの、お姉ちゃん?」
手を握る感触と、高い子供の声に視線を向けた。ふくよかな笑みを湛えた男の面を着けた子供が、首を傾げながら彼女を見つめている。
きゅっと繋いだ手が、少しばかり強く握られる。祭の奥へ行こうと、彼女を誘う。
「早く行こう?お神楽が始まっちゃうよ」
神楽。その言葉に、彼女の表情が強張った。
知っている。提灯の灯りも、祭を楽しむ人の声も。この先にある、舞台の事も。
それは、彼女が学生時代に見た悪夢だ。忘れようとして、忘れたくはなくて、記憶の奥底に刻みつけて封をした。長い夜の夢だった。
「行こうよ。運が良ければ――様が見られるかもしれないし」
先ほどより強く手を引かれる。嫌だと硬直する体は、だが彼女の意思に反して、子供に手を引かれるままに歩き出した。行かない、と一言口にする事も、首を振る事すら出来ず、彼女は子供と共に奥へと歩いていく。
「今回はね、隣のおじさんが――様に選ばれたんだって。いいなぁ。幸せになれるんでしょう?…いいなぁ」
子供と二人、手を繋いで奥へと歩いて行く。心底羨ましそうに呟く言葉は、彼女に取って恐怖でしかなかった。
――祭で、選ばれた者は。
固く閉ざしたはずの封をこじ開け、記憶が溢れ出す。
夜の祭。面。選ばれた者。その行く末を思い出さぬよう、彼女はきつく目を閉じた。
思い出してはいけない。これは思い出さなくてもいいものだ。
何度も自身に言い聞かせる。手を繋いでいない手で胸元を探り、守り袋を強く掴んだ。
「お姉ちゃん」
静かな声が彼女を呼ぶ。目的地に着いたのか、立ち止まっている事に気づいた。
賑やかな声も笛の音も聞こえない。聞こえるのは波の音だけ。
「お姉ちゃん。――様だよ」
繋いだ手が離れていく。
行ってしまう。何故かそれが怖くて、目を開けた。
「――え?」
視界に広がる、夜の海。寄せては返す波の音に、彼女は目を瞬いた。
困惑して、手を繋いでいた子供へと視線を向ける。だが子供は彼女の事など眼中にない様子で、ただ一点を見つめていた。
「ほら、――様。今回はおじさんが呼び込んだんだ」
一点を見つめたまま、子供は指を差す。促されて指の差す方へと視線を向け、彼女は動きを止めた。
小さな小舟。波に揺られるその船から、一人の男が下りて来た。その腕には何かを抱いている。布にくるまれたそれを抱いて、男は彼女らの方へと近づいてきた。
まるで見えていないように、男は彼女に一瞥もくれずその前を通り過ぎる。視線を外せずにいた彼女は、男が過ぎ去る際に、その抱いたものを見てしまった。
ひゅぅ、と張り付く喉がなる。叫ぶ事も目を逸らす事も出来ずに、彼女はただ男を見つめ続けている。
困惑と混乱。一切の理解が出来ず、じわりと視界の端が歪んだ。
「カンタイが始まるよ」
子供の声を聞きながら、彼女は男を見続ける。
岸壁に開いた洞《あな》。海蝕洞に足を踏み入れた男は、祠の前に抱いていた何かを置いた。
深く礼をする。三回。ぼそぼそと何かを唱える声がした。
「お塩と、お酒。あとお魚かお米…一口ずつ。お供えをするんだよ」
子供の言葉の通りに、男が麻の袋から何かを取り出し、祠に供える。また深く礼をして、男は何かを唱え出す。
これは祝詞《のりと》だろうか。単調な声に意識が揺らぎ出す。
「終わったらね、送り出すの。今回の――様は――だから、海に送る事は出来ないけれど。ちゃんと――を」
子供の声が遠く聞こえる。滲み出した視界で、先ほど見た何かを思い出す。
布に包まれたもの。だらりと垂れ下がる青白いあれは。布の隙間から見えた、水を吸ってふやけたあの白は。
「お姉ちゃん、忘れないでね。ジュウ様を呼び入れたら、ちゃんと歓待して、送り出すんだよ」
視界が黒く染まり出す。
遠くなる子供の声に、記憶の中の誰かの声が重なった。
かたん。
小さな音に、彼女は肩を揺らし顔を上げた。
自宅の居間。何も変わらない、いつもの光景。
「今、のは…?」
目を瞬く。夢を、見ていたのだろうか。
ぼんやりとする意識で、彼女は白の封筒を探した。取り落としてしまったらしい封筒が、足下に落ちている事に気づき、徐に身を屈め封筒に手を伸ばした。
しかし、それより速く彼女ではない手が封筒を拾い上げる。封筒を追って視線を向けた彼女は、その手が彼のものだと気づき、目を見張った。
「燈里《あかり》」
低く名を呼ばれ、彼女はびくりと身を縮こませる。ごめんなさい、と無意識に彼への謝罪を口にした。
「これから先、俺の許可したもの以外は不用意に触るな」
小さく頷く。俯く視界の隅で彼が封筒を逆さにし、中身を手に取るのを見ながら、守り袋を握り締めた。
彼の手の上に、数枚の花びらが落ちる。名も知らぬそれは、彼の手の中で色を青から朱へと色を変え、消えていく。
「冬玄《かずとら》」
「警告…いや、示唆か。燈里、何を見たのか教えてくれ」
彼に呼ばれ、彼女は不安げな面持ちで彼を見る。手招く彼の姿に、一瞬誰かの姿を重ね見て。
――先生。
言いかけて、口を噤む。
気のせいなのだと首を振り、彼女は縋るように彼の腕の中に飛び込んだ。
20250505 『手紙を開くと』