sairo

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沈み揺蕩う暗闇の中、微かな声が差し込んだ。
責める声ではない。彼ら/私の声よりも遙か高みから、降りてくる。
それは、先生であり、兄であり、父でもあった大切な人。両親の代わりに手を引き、声を聴き、寂しい時には寂しいと――そう言える事を教えてくれた。優しくて、まるで春の青空のように穏やかな人だった。
目を開ける。遙か遠い水面を見上げ、その先の空を想う。
届いていただろうか。せめてもの願いが。他でもない、彼を沈ませないための言葉が。
それはもはや確かめようのない事。海の中では、意味のない記憶。
目を閉じ、暗闇に身を任せる。
今日は随分と流れが穏やかだ。彼の声を思いながら、空の夢を見るのもいいかもしれない。


「――いま一度、此方《こなた》へ」

声が聞こえる。彼ら/私ではなく、私を呼んでいる。
呼ぶ声と共に、閉じた瞼の向こう側で光が降り注いだ。
目を開ける。暗闇の中、一筋の光が差し込んでいた。
導き、呼ぶ声。そして光。
迷いなどあるはずもない。私はその光へと、真っ直ぐに手を伸ばした。





沈黙した教師の体が傾ぐ。

「門廻《せと》先生っ!」

慌てたように声を上げる彼女が教師に近寄るが、それより早く教師は徐に立ち上がった。
確かめるように自身の手を見つめ、次いでキャンバスを見つめる。
そして近くで様子を見守る彼女を振り返り、微笑んだ。

「来てくれたんですね」

教師のものではない、少女の声音。柔らかなその響きは、彼女が一度だけ聞いた、青に沈んだ少女のものであった。

「あなたが来てくれればいいと思っていました。守られているあなたなら、きっと先生を助けてくれるって。そう思ったから」
「藍留、さん?」

恐る恐る呼びかければ、教師――生徒は静かに頷いた。
届いたのだ、生徒に。呼び声は聞き届けられ、生徒は応えてここにいる。
ならば状況を伝えなければ。そう思い彼女は逸る気持ちを抑えながら、口を開く。だが、唇から言葉が紡がれる前に、生徒はゆるく首を振り、その必要はないのだと告げた。

「先生の記憶が混ざって、やるべき事もやり方も分かります。仮巫《かんなぎ》として、ジュウの歓待と送別の儀礼を執り行うのですね?先生が私のためにすべてを賭けてくれたのだから、私はそれに応えないと」

強い意志を湛えた群青色の目をして、生徒はキャンバスを――その背後の祠に向き直った。

「時間がありません。長引けば、それだけ先生に負担がかかるから…だから、始めましょう」

風が吹き抜ける。
一つ呼吸をして、生徒は祠に向けて深く礼をした。



塩と酒。そして赤飯を小皿に盛り付け、祠の前に置く。
これが彼女に出来る最後だ。後は、どんな結果となるにせよ、儀礼が終わるまでを見届けるしかない。
生徒を見つめながら、彼の側に寄る。優しく抱き留める彼の腕の中で、どうか、と声なく祈った。

「掛《か》けまくも畏《かしこ》き、海《わた》の戎大神《えびすのおおかみ》の大前《おおまえ》に白《もう》さく」

生徒の声が響き渡る。
潮騒に解けるように、ことばが広がっていく。

「遠つ世より浜に流れ寄る青き石を、恵みと歓待《うけいれ》、祀りし我らが代替わり重ね、遂に祭《まつり》を倦《う》み祟りを蒙《こうむ》りしこと、痛みて恐み畏《かしこ》み」

それは祈りの詞《ことば》。終わらせるための言葉。
受け入れた命に対する感謝の想い《ことば》だ。
声が聞こえた。かつて村でジュウを受け入れて生きた村人の声。そしてジュウの声。

「今ここに、かつての戎《ジュウ》にて描《えが》きし海の青を削り取り、塩と酒と赤飯を添へ、小舟に乗せて、潮路《しおじ》へ送り奉る」

ジュウとは命だ。揺らぐ海を見ながら、彼女はぼんやりと思う。
生きていく者の命を繋ぐ、終わったものの命。糧として、恵みの証として。生きる者が呼び込み、受け取る礼として歓待する。そして一部を返し、再来を願う。
死が生を紡ぐ。繰り返される円環の理。

「恵み賜ひし日々を深く謝し奉り、斯《か》くなすを以て、安らけく眠り給へと願い奉る」

海から流れ着くもの。戎《ジュウ》。

「恐み恐みも白さく」

それは確かに、命だった。


言葉が止む。
祠に向かい祝詞《のりと》を奏上していた仮巫《藍留》が、ゆっくりと歩き出す。
キャンバスを過ぎ、祠の前に膝をつく。敷かれた白布の上に置かれた。群青の絵の具を乗せた貝殻を手に取った。
隣に置かれた、葦で作られた舟に乗せる。その舟の底には朱色で「帰」の文字が書かれていた。
舟を手に取り、仮巫は再び立ち上がる。波打ち際まで寄ると、そっと舟を海に流した。

「ありがとうございました」

不意に紡がれたのは、純粋な感謝の言葉。
海へと、ジュウへと向けて、深く深く礼をする。
かつての人が大切にしていたもの。いつしか人が忘れてしまったもの。

「今まで、恵みを与えてくださり、本当にありがとうございました。どうぞゆっくりとお休みください」

それは仮巫としての詞ではなく、生徒の心からの言葉だった。

舟が沖へと流れていく。
静かだ。聞こえていた潮騒も、聞こえない。
ゆらり、舟が凪いだ海で揺れる。音もなくその場で旋回し、帰る場所を見つけたように。
そのままゆっくりと沈んでいった。



「終わった、の?」

舟が沈み、海はまた潮騒を奏でる。
ジュウは帰ったのだろうか。不安に揺れる目で、彼女は彼に問いかける。
それに彼は微笑んで、肯定するように彼女の頭を撫でた。

「後は絵を丹《に》で封じるだけだ…頑張ったな。燈里《あかり》」

褒められて、彼女はほぅと息を吐く。
すべて終わったのだ。安堵に微笑み彼女が彼に声をかけるのと、とさり、と何かが崩れ落ちる音が聞こえたのは、ほぼ同時だった。

「藍留さんっ!」

波打ち際。倒れる生徒を視界に入れて、弾かれるように彼女は駆け出した。

「しっかりして、藍留さん!」

生徒を抱き起こす。虚ろに揺れる瞳が彼女を見つめ、小さく微笑んだ。

「ごめん、なさい…先生を」
「なに、言って」

嫌な予感に、彼女は生徒を支えながら、キャンバスの前まで戻る。
白布に生徒を寝かせ、何も言わせまいと言葉をかける。

「大丈夫。ジュウは帰ったんだから、全部元に戻れるよ」
「だめ、なの。だから、先生に伝えて」
「そんな事ない!全部、終わったのに」

嫌だと、認めたくない首を振る彼女に、生徒はそっと手を伸ばす。唇に指が触れ、彼女は肩を震わせ生徒を見た。

「あのね。先生にありがとう、って。お願い」
「そん、なの」
「私は、ジュウだから。私も、帰らない、と」

ふふ、と穏やかに笑い、生徒は目を閉じる。楽しい思い出を思い浮かべるように、幸せそうにあのね、と呟いた。

「先生ね。優しい人、なの。とっても、素敵な、人。だから、助けてあげて、ください」

ぎり、と唇を噛みしめる。伸ばされた手を握り、彼女は分かった、と掠れた声で呟いた。

「あり、がとう…本当にね、素敵なの。もっと、一緒にいたかった、な。いろんな所…見て、描いて」

微かに息を一つ。微笑みを携えて。
閉じた瞼から、涙が一筋零れ落ちた。


「――藍留?」

ぽつり、と微かな呟き。低い男の声は、教師のものだ。
薄く開いた目が彷徨い。求める人がいない事を知り、力尽きたように閉じていく。
何も言えずに、彼女は涙を流す。教師から離れ立ち上がり、穏やかな海を睨めつけた。
足を踏み出す。海へと近づく。
諦めてしまうのは、どうしても出来そうになかった。


「燈里」

進む体を背後から伸びた腕が止める。引き寄せられ、泣きながら振り向く彼女に、彼は困ったように微笑んだ。

「泣くな……今回は、特別だぞ」
「冬玄《かずとら》?」

彼女の涙を拭い、そのまま頬へと指を滑らせる。そして彼は彼女の手を取ると、指を絡めて深く繋ぐ。

「望むんなら、何とかしてやるって言っただろう?…頑張ったからな、特別に望まなくても何とかしてやるさ」

繋いだ手の熱が、彼女の心に広がる深い悲しみを解かしていく。解けた悲しみが、彼女の意思と記憶を包み込み、その輪郭を曖昧にさせる。微睡みに似た意識の中、彼女は彼に促されるまま、キャンバスまで歩み寄った。

「――先生」

冬玄、と名を呼んだつもりであった。
だが零れ落ちたのは、閉ざされた記憶の名残。それに彼は笑って応えると、徐にその手をキャンバスの海へと沈めた。

「ひとつ受け取れば、ひとつ返す。藍を返したんだ。その分の藍を戻してもらうのが道理だろう?」

海に沈めた腕でしばらく何かを探る。不意に動きを止めると、一気に引き抜いた。
彼の腕と、その手に掴まれた誰かの手。ゆっくりとキャンバスから外へと出る。
戻ってくる。
彼方《うみ》から此方《りく》へ。
海の中で、夢を絶たれて漂う一人の少女が、再び夢を描くため、還ってくる。

「燈里の記憶に、これ以上傷をつけられたらたまらない。代償はあるだろうが、それだけで戻れるんだ。精々ささやかな夢でも見続けているこった」

潮の匂い。
道理に従い、生徒を戎《ジュウ》から人へと引き戻した彼は、無感情に呟いた。



20250509 『夢を描け』

5/9/2025, 2:03:59 PM