ぼんやりと漂いながら、空を見上げた。
暗い藍色には灯り一つない。星や月の灯りも、日の光さえも見つける事は出来なかった。
ゆらりと体が揺れる。あまり動かす事の出来ない体は、流れのままに過ぎて行くだけ。
――カンタイを。
どこからか、声がした。
――受け取ったのだ。
――ハフリベとしてカンタイせよ。
声が責める。意味の分からない言葉を並べ立て、動かない事を責め続ける。
耳を塞ぎたいのに、腕が動かない。否定したいのに、声が出ない。
藍色がさらに暗く色をおとす。怖くなって、思わず目を閉じた。
――カンタイせよ。
声は止まらない。ざわざわと増えていく声が、皆揃って責め立ててくる。
――呼び込み、受け入れた。
――ならばカンタイし、返すのが道理。
――返せ。
声は言う。何度も返せと繰り返す。
分からない。ハフリベも、カンタイも。何一つ見当がつかない。
何を返せばいいのだろう。拾った石は既に砕いて、絵の具として使ってしまった。だから返せるものは何もないのに。
――そのまま黙するつもりか。
――ハフリベとしての役割を放棄するのか。
たくさんの声が責める。
体がゆっくりと沈んでいくような感覚に、目を開けた。
空はもう藍から黒へと色を変えてしまっている。これではもう、空だと思い込む事は出来ない。
あの色は海の色。昏くて深い海の色だ。
ここは海の中なのだ。
――ならばおまえはハフリベではない。
声がする。冷たい声が、すぐ近くで聞こえる。
――返さぬおまえは、ジュウとなるしかあるまい。
深みに落ちていく。昏くてもう何も見えない。
かえりたい場所には、きっと届かない。
「本当によろしいのですね」
彼女の問いに、教師は無言で頷いた。
潮騒に体が震えている。教師の顔は今にも倒れてしまいそうな程に青ざめている。
「だい、じょうぶ……です」
無理矢理に作る笑みが痛々しい。
本当は怖くて堪らないだろうに。姪だという生徒を救う可能性にかけてこの海辺まできた教師の覚悟に、彼女は敬服する。
教師の前。青いキャンバスに視線を向ける。美術室で揺らいでいたはずの青は、今は沈黙を保ったままだ。
一度深く呼吸をし、彼女は教師にナイフを手渡した。ナイフを受け取ったのを確認し、教師がキャンバスにそれを向けるのを静かに見守った。
震える手でナイフを握り、青の絵の具を慎重に削ぎ落としていく。削がれた青は地に落ちる事はなく、波間に漂うかのようにその場で揺らぎ、色を濃くしていく。
その青を貝殻に盛る。盛られた青は貝殻の中で、互いに繋がり形を変え、乾いた絵の具からさらりとした液体へと変化した。それはまるで貝殻の中で海が広がっているかのような光景であった。
貝殻に盛った青を、キャンバスの後ろ、敷いた白布の中央に置く。清めた石白布、榊で作られた簡易的な祠に、依代となる青を据えて、ジュウのための祠は完成した。
ぐらり、と教師の体が僅かに傾ぐ。祠のすぐ先は、海だ。直に嗅いだ潮の匂いに、意識が揺らいだのだろう。
教師に肩を貸しながら、彼女は教師と共に、キャンバスの前に移動する。祠のものとは別の敷いた白布の上に座り、教師は小さく息を吐いた。
「門廻《せと》先生」
膝をつき、彼女は教師と視線を合わせる。
「一度“おろし”たら、もう後戻りは出来ません。どんな結果になっても、進み続けるしかないんです」
僅かに目を揺らがせて、彼女は告げる。
依坐《よりまし》の儀。口寄せ、憑坐《よりまし》降ろしとも呼ばれる降霊儀は、依坐という器に魂を降ろし、言葉を紡がせるものだ。教師を依坐に、生徒の魂を降ろす。祝部《はふりべ》の血筋ではあるが、今までそれに触れる事もなかった教師が行うには、あまりにも危険が高すぎる。
確立の低い、賭けであった。
「藍留《あいる》さんの状況も分かりません。ジュウに完全に取り込まれている可能性だってある。それにもし、先生の人としての認識が儀式中に保てなくなれば、先生も藍留さんも、二度と此方側には戻れなくなるでしょう」
海を畏れ、これから成そうとする事を怖れて歪む教師の表情は、けれどもその眼に灯した覚悟の色を少しも失ってはいない。
無駄な忠告だと思いながらも、彼女は何度目からの確認のために口を開いた。
「本当に、進めてしまってもよいのですね」
静かな、真剣さを帯びた彼女の問いに、教師ははっきりと頷いた。
目を伏せて、彼女は数歩下がる。これから行う事は、教師と生徒にしか出来ない事だ。すべてが終わるまで見守るしか出来ない歯がゆさに、教師の背を見つめながら彼女は強く手を握りしめた。
「燈里《あかり》」
静かな声が彼女を呼ぶ。背を抱き寄せられ、薫る蝋梅《ろうばい》に、縋るように背後の彼へと凭れた。
彼の手が固く握り締めた彼女の手に伸び、ゆっくりと解いていく。開いた手を取り、彼女が首から提げている守り袋へと導き、握らせた。
「冬玄《かずとら》」
震える声で彼女は彼を呼ぶ。見上げる彼の横顔は、凍てつく鋭さを湛えて、穏やかな海を見つめていた。
「門廻藍留。海に囚われし者よ。この詞《ことば》を波にのせ、汝に届け給《たも》う。
我、門廻丹司《あきつぐ》の身を器とし、汝の声を授け願い給え。いま一度、此方《こなた》へ。その魂を灯し――」
静寂に教師の声が広がる。
変化はない。教師も、海も。青も。
応えはない。海は穏やかに寄せては引き。風はなく、生き物の声すら聞こえない。
沈黙。
無音。
声も、音も。何もかもが消える。静寂が満ちていく。
あぁ、と誰かの吐息が溢れ落ちる。それは彼女か、それとも教師のものなのか。
「藍留」
呟く声に、彼女は教師の背を見つめた。
項垂れる背は悲哀が纏い、今にも消えてしまいそうに頼りない。
「仕方がありません。藍留がおりないのであれば、このまま私が儀礼を執り行いましょう」
凪いだ声だった。諦念と、無力感と。求める事を止めた哀しい声が、責務だけで儀礼の続行を告げた。
教師は静かに立ち上がる。ゆっくりと力なく。終わらせるためにと、キャンバスの前に立つ。
ふと、海から柔らかな風が吹き抜けた。
「――届いてないな」
微かな呟き。視線を海に向けたまま、彼は言う。
「滲んでいるだけだな。祠に据えた青は“本体”じゃない。上から重ねた青と朱に、届くものまで塞がれている」
その言葉に彼女は彼を見て、そしてキャンバスを見た。青に塗り潰されたキャンバス。幾重にも重ねられた青と朱。
はっとして、声を上げた。
「門廻先生!依代を変えて下さい。一番最初に描かれたものがジュウです。幾重にも塗り重ねた青では、深みには潜れない。そこで呼びかけても、ジュウにも藍瑠さんにも届かない!」
彼女の言葉が終わるよりも早く、教師は動いた。
青を削り取ったナイフを手にし、キャンバスを真一文字に切り裂く。切り裂かれた線からどろりと青が溶け出して、まるで血のように流れ出した。
裂いた線から絵の具を剥がそうとするも、溶け出す青に阻まれる。再度切り裂くも、その先に見えるのは青ばかりだ。
「届けっ。邪魔をするな!」
何度もナイフを振るう。だが変わらぬ青に、彼女は耐えきれず、背後の彼を振り払い、教師の下へと駆け寄った。
キャンバスの切れ目に手を入れ、直接絵の具を引き剥がしに掛かる。どろりとした生ぬるい感覚に、顔を顰めながらも指先に力を込めて。
青が揺らめいた。波紋のように揺らめいて、いくつもの白の点を浮かばせる。
それは次第に大きさを増す。輪郭が露わになっていくにつれ、彼女は息を呑んだ。
「――っ!?」
手だ。あの日、生徒をキャンバスに引きずり込んだいくつもの青白い手が、青の中から浮かび上がる。境界を越え、現に抜け出してナイフを握る教師の腕を掴んだ。
「やめろ。離せっ!」
教師が手を引き剥がそうとするが、次々と現れる手がそれを許さない。腕を肩を、胴や首を掴み、青の中へと引きずり込んでいく。
「門廻先生!」
彼女の腕にも、白の手が伸びる。だがそれは彼女に触れる直前で動きを止めた。
怯え硬直する彼女の目の前で、白い指先に霜が降りる。じわりと広がる霜が指を手を凍らせる。細かく痙攣する手は、すべてが凍り付いたと同時、一度大きく震え。
無慈悲に、いっそ残酷に。
音すら立てずに、砕け散った。
「先生」
無意識に彼女はひとつの言葉を口にした。
それは、隣にいる教師に向けられたものではない。
昔、忘れようとした祭の記憶。悪夢の夜が、硬く閉じた蓋の隙間から溢れ出し、彼女は叫ぶように声を上げた。
「これは幻。塗り重ねた絵の具なんて、すぐに剥がれ落ちる。藍留さんに届かないなんて、そんなのは絶対にありえないっ!」
手に力を込める。指先に感じる、硬い絵の具の層に爪を立て。
力の限り、引き裂いた。
「――海、だ」
現れたのは、目の前の海。深い群青の色を湛えて、穏やかにそこに在る。
塗り重ねられていた青が地に落ちる。白い手はすでにない。
手から解放され、教師は一つ息を吐く。キャンバスに描かれた海を見てどこか哀しげに微笑むと、祠へと移動する。
白布に据えられた貝殻を手にキャンバスの前まで戻り、中のただの絵の具に戻った青を地面に落とす。あらためてナイフを握り、その海の群青を削り取った。
「この色は、藍銅鉱…アズライトです。おそらくは、この海で拾った藍銅鉱を砕いて顔料にしたのでしょう……私のために、あの子は海のもので絵を描き、そして海に連れて行かれてしまった」
「門廻先生」
不安げな彼女に、大丈夫だと教師は微笑む。そこにはもう、悲哀の色は見られない。
「続けます。今ならば、藍留に声が届けられる。それがどんな形か、どのような結果となるのかは分かりませんが…受け取った以上、返さなければ」
だろう、とそっと絵を撫でてから、教師は群青を盛った貝殻を白布の上に据え直した。
その背を見つめ、彼女は無言で彼の元まで下がる。
無意識に握り閉めた守り袋が、仄かに暖かい。
その熱に誰かの温もりを重ねて、彼女は静かに目を閉じた。
20250508 『届かない』
5/9/2025, 3:38:26 AM