sairo

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そこには、何もなかった。
己の生家も、友人の家も。記憶と重なるものは、何一つ残っていない。幼少期を過ごしたあの神社の鳥居さえ、どんなに目をこらせど見つける事は叶わなかった。
静かだ。聞こえる潮騒も遠く、生きるものの声などこそともしない。
あぁ、と声が漏れた。震える足が、とうとう耐えきれずに崩れ膝をつく。
一夜だ。たった一夜で、己の故郷は海の下に沈んでしまった。エビスを正しく祀る事が出来なかった村の末路だ。
目の前に広がるのは、穏やかな円形の湾。村を根こそぎ呑み込んで、海にしてしまったのだ。
やはり嫁ぐべきではなかったのだ。老いた父が一人残った所で、祝部《はふりべ》としての役目を全うする事など出来ぬと分かっていたというのに。
後悔が内から溢れ、涙として流れ落ちていく。
滲む視界でも色を失わない、眼下に広がる海を睨めつける。不意に、海に煌めく何かが見えた。涙を拭い、目を凝らす。
ひゅぅ、と喉がなった。悲鳴が喉に張り付き、息が詰まる。
海に揺らぐ、朱色。折れた鳥居の一部が、波に漂い揺れ動いている。
その朱が、次第に色を失っていく。海水に晒され、端から腐食し崩れていく。
明らかな異常。鮮やかだったはずの朱が、青に侵されて海に溶けて消えていく。
そうしてすべてが崩れ溶けて消えていき。村は完全に、海となった。
呆然と海を見下ろす。父はこの最期に何を想ったのだろうか。
目を瞬く。零れ落ちる滴が頬を伝い、地面の色を僅かに濃くする。
穏やかな海。激しさを隠して揺れる青。

その昏い青を、この先生涯にわたって忘れる事などないのだろう。





「エビス…」

掠れた声が、教師の戦慄く唇から溢れ落ちる。
そこに困惑や否定の色はない。最初から理解しているかのように、どこか諦めにも似た響き。俯くその表情は分からない。

「藍留《あいる》はやはり、戻る事はないんだな」
「あいる?」

聞き慣れない名に、彼女は首を傾げた。

「この青に攫われた生徒です。門廻《せと》藍留…私の、姪でした」

顔を上げ、教師は微笑んだ。希望をなくした、哀しい笑みだった。
キャンバスに視線を向ける。手にしたままの絵筆を置いて、教師は徐に手を伸ばした。
青に触れる、その寸前。手が止まり、教師の顔が哀しげに歪む。指先が迷い彷徨って宙を掻き、やがて諦めたように離れていった。

「門廻先生」
「声が、聞こえるのです。この青の向こう側から…意味の分からない大勢の声と。藍留の声」

彼女に向き直り、教師は言う。生徒が最初の絵を描き始めてから、ずっと声が聞こえるのだと。
それは喜びに笑っているようでもあり、悲しみに嘆いているようでもあり。言葉のようで、旋律のようにも聞こえる。そんな不思議な声が、今も聞こえ続けているのだと教師は力なく呟いた。

「先生は、ジュウを知っていたのですか?」

感じた違和感に、彼女は疑問を口にする。教師の態度は、未知の非日常を前にしているとは思えぬほどに落ち着いていた。近しい人を目の前で失った事による嘆きによるものだけではない。まるで最初からすべてを理解しているかのような、そんな無気力とも異なる静けさに、彼女は僅かに表情を険しくした。
だがその問いは、ゆるく首を振られ否定される。悲しみと恐怖に彩られた目をして、教師は遠く、何かを想いながら語り出した。

「ジュウは知りません。ですが私の先祖は昔、海辺の村で祝部として、エビスの儀礼を執り行っていたそうです。曾祖母の父。高祖父の代に、その村はエビスの祟りを受けて海に沈んだと、そう聞いています」
「エビスの、祟り」
「はい。曾祖母は既に他の村に嫁いでおりましたので、無事ではありましたが…話によれば、一夜で村は海に沈んだとの事です」

目を伏せ、教師は一つ息を吐いた。

「私は、幼少の頃より海が怖かった。その話を繰り返し聞かされたからなのか、それとも血筋によるものか…とにかく、海が怖くて今も近づけないほどです」

自嘲して、教師はキャンバスに視線を向ける。青の向こうを透かし見るように、目を細めた。

「あの子は…藍留はそんな私のために、いつからか海を描くようになりました。海が怖いなんて可愛い、と戯けながらも、慰めのように海を描き、私に見せてくれたのです」

視線の先の、滲み出す青が揺らぐ。まるで波紋が広がるように。
揺らぎ、広がり。そして波打つ。キャンバスの中で海が広がっていく。

「思えば、藍留は木漏れ日のような子でした。柔らかな木漏れ日の光が、一歩そこから離れただけで身を焼く光となるように。私が少しでも誤った言動を取れば、穏やかな微笑みを消して、厳しく接する……だからなのでしょうね。あの子の声が聞こえるようになったのは」

教師は笑い、再びキャンバスに広がる青へと手を伸ばす。僅かに触れぬ距離で指先を止め、また一つ吐息を溢した。

「声が聞こえるのです。あの子の声で青を朱で塗り潰せ、と。先生なら出来るよね。このまま青が広がれば、今度は他の生徒が連れて行かれるかもしれない。そんな酷い事、あの時何も出来なくて後悔している先生には出来ないよね、と…あの時、何も出来ないで、怖くて逃げるだけで精一杯だった私を、そう言って責めるのです…いや、責めてもいないか。正しい道へと戻そうと、あえて厳しい言葉をかけているだけ。あの子は、正義感の強い子だったから」

手を下ろし、唇を噛みしめる。強く手を握り締めながら、顔を上げて諦めと、覚悟を決めた目をして教師は彼女を見つめた。

「これがエビスなら、歓待し送別するのが儀礼だ…どうか私にやらせてください。それがあの時何も出来なかった私に出来る、藍留に対する唯一の贖罪だ」

教師の言葉は、哀しいほどに強さを湛え。
彼女は息を呑む。これほどまでの覚悟で望まれたのだから、それに誠実に応えなければ失礼にあたる。揺らぐ視線を隣にいる彼に向け、一度目を閉じた。
一呼吸して目を開け、教師を見据える。了承を口にしかけ、不意に一つの可能性が思考を過ぎていった。

「――先生は、藍留さんを助けたい、ですか?」
「助けられるものでしたら。代われるというのなら、すぐにでも代わってやりたいくらいだ」

真剣な眼差しに、彼女は迷うように口籠もる。だが強い望みに応えるように、教師と目を合わせ口を開いた。

「一つだけ、可能性があります。確実ではありませんし、危険を伴う方法ですが」
「教えてください。それがどんな危険なものであっても構わない。藍留を助けられるのなら、どうか」

息を吸い。吐く。目は逸らさない。
記憶の中にある、一つの方法を呼び起こし、教師へと提示する。

「門廻先生が藍留さんの依坐《よりまし》になり、彼女に儀礼を行わせるのです。ジュウを呼び込んだ者が、歓待し、送別する…そうすれば、戻ってこられるかもしれない」

彼女の提示した可能性に、教師は迷わずに頷き了承した。



20250507 『木漏れ日』

5/7/2025, 2:07:14 PM