sairo

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ふと、居間のテーブルに置かれた一枚の封筒に、彼女は目を留めた。
白の封筒。宛名には『宮代 燈里《みやしろ あかり》様』と書かれているのみで、それ以外は何もない。
首を傾げながら、彼女は封筒を手に取った。裏を見るも、やはり何も書かれてはいなかった。
彼が置いたのだろうか。過ぎる思考に、それはないなと否定する。彼の筆跡ではないし、そもそも同じ屋根の下で暮らしているのだから、伝えたい事があれば直接話せばよい事だ。
では誰が。疑問に思いながらも、彼女はさほど警戒はせず。
封に手をかける。然程抵抗なく離れた封を開け。

中を覗き込んだ。





波の音が聞こえる。
単調で、静かな音。優しく、怖ろしささえ感じるそれに誘われるように、彼女はゆるり、と瞼を開いた。

「――っ!?」

息を呑む。微睡む意識が一瞬で覚醒し、視界に映る光景を凝視する。
夜の闇を照らすいくつもの提灯の灯り。賑わいを見せる様々な出店。
子供達の笑い声がする。誰かが談笑しながら彼女の側を通り過ぎる。
遠くで聞こえる祭り囃子の笛の音に、彼女はふるりと肩を震わせた。

「どうしたの、お姉ちゃん?」

手を握る感触と、高い子供の声に視線を向けた。ふくよかな笑みを湛えた男の面を着けた子供が、首を傾げながら彼女を見つめている。
きゅっと繋いだ手が、少しばかり強く握られる。祭の奥へ行こうと、彼女を誘う。

「早く行こう?お神楽が始まっちゃうよ」

神楽。その言葉に、彼女の表情が強張った。
知っている。提灯の灯りも、祭を楽しむ人の声も。この先にある、舞台の事も。
それは、彼女が学生時代に見た悪夢だ。忘れようとして、忘れたくはなくて、記憶の奥底に刻みつけて封をした。長い夜の夢だった。

「行こうよ。運が良ければ――様が見られるかもしれないし」

先ほどより強く手を引かれる。嫌だと硬直する体は、だが彼女の意思に反して、子供に手を引かれるままに歩き出した。行かない、と一言口にする事も、首を振る事すら出来ず、彼女は子供と共に奥へと歩いていく。

「今回はね、隣のおじさんが――様に選ばれたんだって。いいなぁ。幸せになれるんでしょう?…いいなぁ」

子供と二人、手を繋いで奥へと歩いて行く。心底羨ましそうに呟く言葉は、彼女に取って恐怖でしかなかった。

――祭で、選ばれた者は。

固く閉ざしたはずの封をこじ開け、記憶が溢れ出す。
夜の祭。面。選ばれた者。その行く末を思い出さぬよう、彼女はきつく目を閉じた。
思い出してはいけない。これは思い出さなくてもいいものだ。
何度も自身に言い聞かせる。手を繋いでいない手で胸元を探り、守り袋を強く掴んだ。

「お姉ちゃん」

静かな声が彼女を呼ぶ。目的地に着いたのか、立ち止まっている事に気づいた。
賑やかな声も笛の音も聞こえない。聞こえるのは波の音だけ。

「お姉ちゃん。――様だよ」

繋いだ手が離れていく。
行ってしまう。何故かそれが怖くて、目を開けた。

「――え?」

視界に広がる、夜の海。寄せては返す波の音に、彼女は目を瞬いた。
困惑して、手を繋いでいた子供へと視線を向ける。だが子供は彼女の事など眼中にない様子で、ただ一点を見つめていた。

「ほら、――様。今回はおじさんが呼び込んだんだ」

一点を見つめたまま、子供は指を差す。促されて指の差す方へと視線を向け、彼女は動きを止めた。
小さな小舟。波に揺られるその船から、一人の男が下りて来た。その腕には何かを抱いている。布にくるまれたそれを抱いて、男は彼女らの方へと近づいてきた。
まるで見えていないように、男は彼女に一瞥もくれずその前を通り過ぎる。視線を外せずにいた彼女は、男が過ぎ去る際に、その抱いたものを見てしまった。
ひゅぅ、と張り付く喉がなる。叫ぶ事も目を逸らす事も出来ずに、彼女はただ男を見つめ続けている。
困惑と混乱。一切の理解が出来ず、じわりと視界の端が歪んだ。

「カンタイが始まるよ」

子供の声を聞きながら、彼女は男を見続ける。
岸壁に開いた洞《あな》。海蝕洞に足を踏み入れた男は、祠の前に抱いていた何かを置いた。
深く礼をする。三回。ぼそぼそと何かを唱える声がした。

「お塩と、お酒。あとお魚かお米…一口ずつ。お供えをするんだよ」

子供の言葉の通りに、男が麻の袋から何かを取り出し、祠に供える。また深く礼をして、男は何かを唱え出す。
これは祝詞《のりと》だろうか。単調な声に意識が揺らぎ出す。

「終わったらね、送り出すの。今回の――様は――だから、海に送る事は出来ないけれど。ちゃんと――を」

子供の声が遠く聞こえる。滲み出した視界で、先ほど見た何かを思い出す。
布に包まれたもの。だらりと垂れ下がる青白いあれは。布の隙間から見えた、水を吸ってふやけたあの白は。


「お姉ちゃん、忘れないでね。ジュウ様を呼び入れたら、ちゃんと歓待して、送り出すんだよ」

視界が黒く染まり出す。
遠くなる子供の声に、記憶の中の誰かの声が重なった。



かたん。
小さな音に、彼女は肩を揺らし顔を上げた。
自宅の居間。何も変わらない、いつもの光景。

「今、のは…?」

目を瞬く。夢を、見ていたのだろうか。
ぼんやりとする意識で、彼女は白の封筒を探した。取り落としてしまったらしい封筒が、足下に落ちている事に気づき、徐に身を屈め封筒に手を伸ばした。
しかし、それより速く彼女ではない手が封筒を拾い上げる。封筒を追って視線を向けた彼女は、その手が彼のものだと気づき、目を見張った。

「燈里《あかり》」

低く名を呼ばれ、彼女はびくりと身を縮こませる。ごめんなさい、と無意識に彼への謝罪を口にした。

「これから先、俺の許可したもの以外は不用意に触るな」

小さく頷く。俯く視界の隅で彼が封筒を逆さにし、中身を手に取るのを見ながら、守り袋を握り締めた。
彼の手の上に、数枚の花びらが落ちる。名も知らぬそれは、彼の手の中で色を青から朱へと色を変え、消えていく。

「冬玄《かずとら》」
「警告…いや、示唆か。燈里、何を見たのか教えてくれ」

彼に呼ばれ、彼女は不安げな面持ちで彼を見る。手招く彼の姿に、一瞬誰かの姿を重ね見て。

――先生。

言いかけて、口を噤む。
気のせいなのだと首を振り、彼女は縋るように彼の腕の中に飛び込んだ。



20250505 『手紙を開くと』

5/5/2025, 2:05:22 PM