sairo

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誰かが笑う。それを誰かは嘆き悲しんだ。
波間に揺蕩いながら、声を聞いていた。

「今時――なんて。――のは、おれだ。ならば――とおれの勝手だろう」
「だが――は――。――なければ」

どうして。
言葉にならない思いは、揺らぎとなって渦巻いた。
強欲。傲慢。何故忘れてしまえるのか。受け取る意味を考えずにいられるのか。

「下らない。これだから年寄りは困る。いつまでも古い考えに支配されるなど、愚かでしかない」
「罰当たりめが。憂いなく、健やかでいられる事を幸運だと思えぬ方が、愚かだろう」

嗤う声。嘆く声。
正反対が衝突し、渦を巻く。ぐるりぐるりと大きさを増して、それは一つの流れになる。

「どうしてもと言うなら、祭好きなハフリベにでもやらせればいい。それがあれらの役目だろう」

どうして、と思いが過ぎる。
ひとつを差し出した。たくさんの中の一つ。けれども代わりのないひとつ。
差し出したのだから、一つ返してもらわなければ。それが道理というものだ。返さぬのならば、均衡が崩れてしまう。
流れが変わる。渦を呑み込み大きさを増して、陸へと向かい流れていく。
返してもらわなければ。それが力ずくであったとしても。
流れが波を起こす。陸を舐め、そこにあるものすべてを喰らい尽くしていく。
返してもらう。ジュウはたくさんではあるが、ひとつなのだから。





再び訪れた学校は、恩師を含めて数人の教師がいるばかりで、平日だというのに生徒の姿は見当たらなかった。
恩師によると、目に見えての異変があるのは美術部の顧問だけではあるが、体調不良や異変を訴える生徒がここ数日後を絶たず、しばらくは休校扱いになっているらしい。曰く、何かの音や誰かの声が聞こえて眠れない。視界の隅に黒い何かが映り込み、目を開けているのが怖い。青の色ばかりが気になって、何も手に付かない。等々。
美術室へと向かいつつ、恩師の話を聞いて眉を寄せる彼女とは対照的に、彼は肩を竦め、だろうなと呟いた。

「なにか知っているの?」

問いかけに、彼は彼女に視線を向ける。多分だけどな、と前置きをした上で答えた。

「その教師とやらは、キャンバスに直接触れちまったんだろう。ジュウを受け取ったと判断されたんだ。生徒らの方はまだ触れてないが、ジュウの青を見て影響を受けちまった」
「ジュウの、青」

彼の言葉を繰り返す。
ここ数日。白昼夢の如くに垣間見る何かの記憶が思い起こされた。
ふるり、と震える彼女の肩を抱き寄せて、彼は立ち止まる。戸惑いに揺れる彼女の目を見据え、囁いた。

「どうする?引き返すなら、今のうちだ」

笑みを浮かべながらも真剣な眼差し。その目を見返して、彼女はゆるりと首を振った。
今更、戻れるはずなどない。なかった事にして日常に戻るには、彼女はあまりにも深く足を踏み入れてしまっていた。

「私は大丈夫。一人じゃないから」

彼の頬に手を伸ばし、彼女は笑う。
踏み入れる先が暗闇だろうと、道を示してくれる星明かりはここにいる。だから何も怖くはないのだと、理由は分からないながらに、彼女は大丈夫だと繰り返した。

「燈里」

彼女の名を呼ぶ。頬に触れる手に手を重ね、彼は何かを言いかけ。

不意に、音がした。
しんと静まりかえる廊下に、音が微かに響き渡る。
波の音のような。誰かの声のような。何かの旋律のような。
単調な音。一つがいくつも重なり合い、無数に広がる歌へとなる。
不快に眉を顰める彼は、彼女を抱く腕に僅かに力を込めた。

「物寂しい歌。哀しくて、まるで泣いているみたい」
「これが歌、ねえ?哀《あい》を歌ってるってか。くだらない」

彼女の呟きを、彼は険しさを湛えた視線を前に向けながら笑う。

「どうせなら愛でも歌ってくれりゃあいいのに。その方が気分も幾分か晴れるだろう」
「冬玄《かずとら》」

名を呼ばれ、彼は彼女の耳元に唇を寄せる。戯けながらも、響く音に逆らうように、愛の歌を囁いた。
彼女と目を合わせ、頷く。にっと唇を歪め、彼女を抱いたまま、ゆっくりと歩き出した。

「行くぞ」

奥の美術室に近づく程、音が大きくなる。廊下全体に反響し、音を呑み込み増幅していく。
まるで海の中にいるようだ。音に飲まれぬよう彼の腕にしがみつきながら、彼女は思う。
波と、海に生きるものと、海で死んだものと。この音は、歌は海が奏でているのだ。
歌う海の中を進み、美術室の前まで辿り着く。彼と視線を合わせ彼女は頷くと、扉に手をかけた。

歌が止まる。最初から何もなかったと言わんばかりに、反響していた音は、扉を開けると同時、掻き消えた。
静寂が戻る。ただ一つ、筆の走る音以外を除いて。
美術室の中央。キャンバスに向かい、教師が無心で絵筆を動かしている。じわりと滲み出す青を封じるように、朱色でキャンバスを塗り潰していた。
ゆっくりと歩み寄る。彼女達に気づく様子もなく、教師は只管にキャンバスを朱色に染めている。その顔は涙に濡れて、声に出さずに何かを繰り返し呟いている。

「門廻《せと》先生」

彼女が声をかける。教師は反応を見せず、筆を動かす手も止める様子もない。

「先生。このままじゃ駄目です。ちゃんと終わらせないと、返さないと意味がありません」

教師の目が彼女に向けられる。手は止めず、流れ落ちる涙もそのままに、彼女の言葉の真意を目が問うている。

「この元の絵は、ジュウで描かれているんです。海から流れ着いたもの。人はそれを呼び込み歓待する事で、福を得ていました」

教師の手が止まる。
端からじわりと滲み出す青を視界にいれながら、彼女は静かに教師に告げた。

「人はそれをマレビトと呼び、昔から敬い畏れてきました…ジュウとはつまり、戎。連れて行かれた生徒は、エビスを呼び入れたのです」



20250506 『ラブソング』

5/6/2025, 2:16:36 PM