sairo

Open App

木漏れ日の下。美しく咲き誇る藤の花をスケッチブックに描いていた。
静かだ。何の音も聞こえない。風が葉を揺らす音も、鉛筆を走らせる音も。
不意に顔を上げる。変わらず音は聞こえない。辺りを見渡しても、何もない。
僅かな違和感に首を傾げる。スケッチブックに視線を落として、さらに困惑した。
スケッチブックの中の、藤の花。繊細なその線は、はたして自分のものだっただろうか。
そもそも森の景色より、海を描く事の方が好きではなかったか。大切なあの人のために、海を。
もう一度顔を上げる。やはり音は聞こえない。視線を巡らせて、後ろを振り返った。

「――っ」

彼がいた。少し困ったように眉を下げている。
何かあっただろうか。込み上げる不安に無言でいれば、彼は徐に口を開いた。
何も聞こえない。唇が言葉を形作っているのが見えているはずであるのに、声が聞こえない。
哀しげに微笑み、聞こえない言葉を紡ぐ事を止めた彼が背を向けた。
歩き出す。音もなく、去ってしまう。
胸の痛みと苦しさに眉が寄る。急ぎ立ち上がり、駆け出して。
追いすがるように手を伸ばした。



木漏れ日の下。スケッチブックに無心で絵を描く彼女を見つけ、笑みが浮かぶ。
今度は何を描いているのだろう。自由で力強い彼女の絵を思い、足音を立てぬよう静かに彼女に近づいていく。
不意に足を止めた。どこか違和感を感じて、周りを見渡した。
何も可笑しな所はない。木と草花と、土と風。けれど何かが違う。
絵を描く彼女に声をかけるのではなく、絵を描いている時に彼女に声をかけられるのが、正しいのではないか。その方が、何故かしっくりくる。しっくりくるのに、今のこの立ち位置では、彼女に声をかけるのが正しい。
不思議な違和感を感じながら、とりあえずは声をかけてみようと歩き出す。彼女ならば、何か知っているのかもしれない。
一度顔を上げた彼女は、またスケッチブックを見ている。こちらに気づく様子はない。
気づいてもらうために、彼女の名前を呼んだ。
はずだった。

「――っ」

呼んだはずの声は、音にはならない。掠れた息だけが溢れて落ちていく。
喉をさする。もう一度彼女の名前を呼んでも、やはり声は出なかった。
何かに気づいたのか、彼女がゆっくりとこちらに振り向いた。
驚いたように目を見開いて、不安そうな表情をする彼女に、何かを言わなければと口を開いた。
声は出ない。でも何故か、とても伝えたい気持ちがあった。

――ありがとう。

声が出ないのだから、聞こえないのは当然だ。けれどそれを知らない彼女は、益々不安そうだ。伝える事を諦めて、小さく笑う。
そろそろ戻らないといけない。何故かそう思い、彼女に背を向けて歩き出す。
スケッチブックの落ちる音。慌てて立ち上がって、こちらに走り寄ってくる足音。
待って、と近くで声が聞こえて。

視界が一瞬で、暗い群青に染まった。



気がつけば、海の中。
懐かしい夢を見ていた気がする。昔の、まだ絵を描く前の夢。
不思議な夢だった。彼が私だった夢。とても可笑しな、優しい森の中の思い出。
流れに身を任せながら、遠い水面を見上げた。届かなく成ってしまったあの森を、彼は覚えているだろうか。
静かだ。いつもの責める声も、時々響く深みからの鳴く声も、何も聞こえない。
流れが変わる。ほんの小さな、何かが近くにきた時の流れ。いつもは気にしないその流れの変化が気になって、視線を向けた。



海の中を、流れのままに揺蕩っている。
恐怖はない。どこへ向かうのか不安も、何もない。凪いだ感情が、すべてを受け入れている。
逆らわず身を任せながら、進む先に視線を向ける。ただの気まぐれ。何かを期待した訳ではなかった。
目を瞬く。視線の先、同じように海を漂う彼女がいた。
彼女もこちらに気づいたらしい。驚き目を見張る彼女に、その名を呼ぼうと口を開いた。
声は出ない。海の中にいるのだから当然か。それでもと、唇が彼女の名を形作る。

――藍留《あいる》。

彼女が手を伸ばす。それに応えるために同じように手を伸ばし。

手が触れ合い、離れぬようにと強く繋いだ。



「先生」

声が聞こえた。それとも呼んだのは自分だったのか。

「藍留」

応える声は、どちらのものか。
目の前にいるのは自分か、相手なのか。

触れ合う手から溶け合うように、思考が混じり合う。自分の視点が相手の視点で、相手の声は自分の声だった。
ねえ、と彼/彼女が囁く。なに、と彼/彼女が応え。

「かえろうか」

願うように言葉を紡ぎ、どちらともなく目を閉じた。

海の中。揺蕩い、微睡み。意識を沈め。
自分達はひとつなのだと。
閉じた瞼の裏。
確かに、そう思った。





目が覚めた。
一つ息を吐き、藍留はゆっくりと体を起こす。
カーテン越しの外は暗い。ベッドサイドのデジタル時計を確認すれば、丁度日付が変わる時間帯であった。

「先生」

小さく呟いて、少し迷う素振りを見せた後。藍留は音を立てぬよう、慎重にベッドから抜け出した。
素足で触れる床の冷たさが、意識を鮮明にさせる。軽く頭を振って僅かに残る眠気を振り払うと、隣のベッドへと近づいた。

「先生」

昏々と眠り続ける丹司《あきつぐ》を見下ろして、藍留は項垂れるようにベッド脇の丸椅子へと腰掛けた。
とても静かだ。耳を澄ませど物音一つ、眠る丹司の寝息や彼の命を繋ぐ機械の音すらも聞こえない。藍留の世界からは、完全に音が失われている。

藍留の記憶は曖昧だ。
目覚めてから、藍留の中でいくつもの記憶が流れ過ぎていく。流れ漂う記憶が折り重なり、複雑に絡み合ってどれが自身の記憶であるのか、藍留にはもう分からない。
明確に覚えているのは、海の記憶。絵を描くために海を求めていた。
まだ描いた事のない海に向かい電車に揺られ、辿り着いた無人駅。導かれるように海を目指し、気づけば砂浜に降り立っていた。
いつもと同じ。ただ、いつもと異なるのは、そこで拾い物をした事だ。
青い、海のそれと同じ色をした石。常ならば決して持ち帰る事はしない。特に石は。記憶を宿す器だと、幼い頃に聞いた怪談が、藍留の記憶の底に染みついて、何年も経った今でも忘れた事はなかった。
だというのに石を持ち帰り、砕いて顔料とした。その顔料を用いて海を描いた。

石は大切なものだった。遠い異国で働く父からもらった、綺麗な青い石。巾着に入れて常に持ち歩いていた。
あの日もそうだ。父に会いに行くため、母と船に乗り込んだ。はっきりとは思い出せないが、父と共に暮らすためだったようにも思う。
嵐の夜だった。昼間は穏やかだった海が激しく船を揺らし、母にしがみついて嵐が過ぎ去るのを待っていた。

海は怖ろしいものだ。深く底の見えない恐怖が、海を視界に入れる度に、自身を苛み苦しめる。
幼い頃に何かがあったという訳でないはずだ。一度両親に聞いた際に、この恐れは物心がつく前からだと知らされた。
しかし、同時にこうも教えられた。
曰く、自身には祝部《はふりべ》の血が流れており、最後の祝部として生きた高祖父は、海に呑まれたのだ、と。
一夜にして村は海となり、それを曾祖母が見ていた。その記憶が血を介して、恐怖として刻まれているのだろう。そう言って、哀しく微笑い頭を撫でてくれたのは、兄だっただろうか。
兄は常に優しかった。一回りも年が離れているせいだろうか。喧嘩などほとんど記憶にはない。あったとしても、幼い自分の我が儘を兄が宥め、時に叱る。それだけだ。
兄は大人になり、医者となった。結婚し、子供も生まれ、小さいながらに病院を持つようになった。
常に忙しい兄らに代わり兄の子の面倒を見るようになったのは、兄に憧れていたという理由が大きい。幾分か年の近い兄の子。妹が出来たようで、兄のようになれた気がして嬉しかったのだ。
だから妹のために――。

頬を撫でる風に、はっとして顔を上げた。
どうやらまた記憶に呑まれていたらしい。目覚めてから、藍留はこうして込み上げる記憶に呑まれる事が多々あった。
両親の病院で目覚めた日。藍留はいくつかを失っていた。
聴覚。そして青の色彩。目に映る青は、どれも色を宿してはいない。壁に掛けられた絵画や窓から見える景色。どれだけ探しても、青だけは見つける事が出来なかった。
丹司もそうだ。眠ったまま、目覚めない。
藍留のために危険な事をしたのだと、音を失った藍留に筆談で父は教えてくれた。海に攫われた藍留を助けて、そのまま意識が戻らないらしい。
藍留が目覚めたのは、助け出されてから七日後の事。それから十日が経つが、丹司はまだ目覚めない。

「あきにぃ」

幼い頃の呼び名で、丹司を呼ぶ。
僅かに開いた窓から、吹き抜ける風がカーテンを揺らし、眠る丹司の伸びた髪を揺らした。
徐に手を伸ばす。僅かに乱れた髪を直そうと、藍留の指先が丹司の頬に触れた。

かちこち、と時計の音。
風がそっと窓を叩く。
規則的な機械の音。

肩を震わせ、手を離す。
一つ息を吐いて、耳を澄ませた。
何も聞こえない。けれど確かに、音が聞こえていた。
胸元に寄せた手を見つめる。握り開いて、突然の事に呆然としながら、もう一度、丹司へと視線を移して。

――目が、あった。

「あきにぃ?」

呼びかければ、丹司は目を細め、淡く微笑んだ。じわりと滲み出す藍留の視界に映る丹司が微かに唇を動かしていく。
声は聞こえない。
驚くように口を閉ざす丹司の様子から、藍留が聞こえていないのではなく、丹司の声が出ないのだと気づいた。

「あきにぃ。声が、出ないの?」

頷く丹司に、藍留は目を伏せて、零れ落ちる涙を隠す。目覚めたばかりなのだから、それは一時的なものだろう。そう思い込もうとするが、思考はこのまま丹司は声をなくして生きていくのだろうと囁いている。
込み上げる哀しさと苦しさに、いっそ泣き叫びたい気持ちに藍留は必死で耐える。未来への不安に、俯いたままでいれば、視界の隅に動く何かを見て、藍留は視線を向けた。
布団の端から、丹司の手が出ていた。痩せた指が、緩慢に布団から外へと出て、藍留へと伸ばされる。
そして動けないでいる藍留の、固く握り締めた手に、そっと触れた。

「――あ」

音が溢れる。
その瞬間に、藍留は理解した。

「あきにぃ。私ね、夢を見たの。静かな森の中で、藤の花を描いてしているの。あきにぃじゃなくて、私が」

夢の光景を思い出しながら、藍留は丹司の手を両手包み込む。

「あきにぃが私で、私があきにぃだった。あの森で藤を描いていたのは、あきにぃだったはずで。その姿を見ていたのは私で……私は何も聞こえなくて。きっとあきにぃは声が出なかった」
「あ、いる」

掠れた丹司の声が、藍留を呼ぶ。声が出た事に目を見張る丹司に微笑んで、藍留はさらに続ける。

「それから海の中にいた。そこではたくさんがひとつで、ひとつがたくさんだった。やっぱり何も聞こえなくて、あきにぃは声が出なかった」
「――知って、る。私も、見ていた……私達も、二人だけどひとつだった」

そう言って、丹司は体を起こす。ふらつく体に藍留は片手を離して支え、寄り添う。
体制が変わり、流れ落ちなくなったのだろう。点滴のアラームが鳴る。

「あきにぃ。私たち、きっと一人じゃ今までのように生きていけない。私はもう音が聞こえないし、青も見えないの。やりたい事も、夢も何もかも。たくさん諦めなきゃいけなくなる」
「そうだな。きっと、元には戻れない」
「でも、二人で一緒に生きていく事は出来る……ひとつだけ、あきにぃとずっと一緒にいたいって、その夢は叶えられるから」

外が騒がしい。アラームを聞きつけて、看護師達が集まってきている。

「私が、藍留をおろしたせいだ……すまない」

悲しみに顔を歪めて謝罪する丹司に、藍留は首を振って否定する。
丹司が藍留をその身におろさなければ、藍留は海を漂ったままだった。海から呼び戻され、還る間際にひとつの奇跡が起きて、藍留はここにいる。
まだ人として、生きていけるのだ。

部屋に入ってきた看護師が、寄り添う二人を見て慌てて医師を呼びに行く。後から入ってきた看護師の母が電気をつけて、その眩しさに藍留は目を細める。
点滴の確認と、丹司への体調の確認と。
母の邪魔にならぬように藍留は丸椅子に座り直すが、丹司と繋いだ手はそのままだ。
賑やかになった病室内の音が、逆に心地好い。訪れる睡魔に頭が揺れる。
ベッドに戻らなければと思いはすれど、藍留は繋いだ手を離す事が出来なかった。
微睡む意識で、ふと誰かの言葉を思い出す。

――ささやかな夢でも見続けていろ。

確かに、と藍留は声に出さずに笑う。ひとつだけ許されたのは、ささやかな夢だ。二人で共に生きる事。ささやかでありながら何よりも尊い夢に、藍留はありがとう、と誰かに呟いた。
父が入ってくる。一瞬だけ、泣くように顔を歪め、すぐに戻るのは医師としての誇りからだろうか。
久しぶりに聞く父と母の声、それに答える丹司の声を聞きながら、藍留はぼんやりと丹司を見つめる。
視線に気づいた丹司が、藍留を見つめ。

その眼の中に、藍留は深い海の青――一人では見る事が叶わない群青を見つけた。



20250510 『静かなる森へ』

5/11/2025, 2:42:17 AM