箱を開ける。
古ぼけた手紙と写真、そして割れた鏡。朝に見た時と何も変わらない。
手紙を取り出し、目を通す。読まなくても一字一句覚えているその手紙は、幼い頃に大切な友人とお互いに交換しあったものだ。
文字を目で追いかける。夏祭りに行った事、森の中で虫取りをした事、海で泳いだ事。
一緒に遊んだ思い出を、文字と共に辿っていく。
――ずっと、ともだちでいよう。
最後の一文を、頭の中で何度も繰り返す。口の中で言葉を転がして、強く唇を噛みしめた。
今日も友人は帰ってこなかった。
もう十年近くも前になる。友人は忽然と姿を消した。
今でもはっきりと思い出せる。
最低な別れ方。酷い喧嘩をして、さよならも言わずに家から追い出した。
喧嘩ですらない。自分が一方的に責め立て、八つ当たりをしたのだ。
「母ちゃん」
割れた鏡を見る。
あの日友人に頼まれ手渡した時に、誤って落として割れた母の形見。
しっかりと手渡さなかった自分も悪いというのに、一方的に責め立てた。見せて欲しいと言わなければなどと、酷い言葉を投げつけた。
友人は否定をしなかった。ただごめんなさいと謝り続けて、泣きそうに顔を歪めながらも、涙は見せなかった。
きっと自分が泣いていたからだろう。
泣いて叫んで、言い返さないのをいい事に、母のいない寂しさを怒りに変えて友人に当たった。それでも友人は謝るだけだった。
だから次第に抑えが効かず、自分を止められなくなり。
――お前が死ねばよかったのに!そうすれば母ちゃんは今も生きててくれたかもしれないのにっ!
理屈も何もない、感情にまかせた最低な言葉。
僅かに目を見張り、俯く友人をそのまま家から追い出した。
冷静になれたのは、その日の夜になってからだ。
明日必ず謝らなければと、焦りと不安を抱いて眠りについた。
けれど謝る機会など、訪れる事はなく。今もこうして手紙の文字に縋りながら、友人が帰ってくるのを待っている。
「――母ちゃん、頼む。あいつを家に帰してやってくれ。お願いだ」
あの日からずっと、寝る前に必ず母に祈る。
明日には、友人が帰って来てくれるように、願い続けている。
鏡をなぞる。鏡面は割れ、裏にも罅が入っているが、藤の蒔絵が施された玉虫塗の手鏡は、今も美しい光沢を纏ったままだ。
「どうか、帰ってきて」
呟いて、手紙を箱に戻す。写真の中の、晴れやかに笑う二人を見つめ、友人の姿を指でなぞる。
「おやすみ……明日こそ、帰ってきて。許さなくていい……なんだったら、俺が消えてもいい。だから――帰ってきて」
友人がいなくなってから、何年も経っている。もう誰も――友人の両親ですら、友人が帰って来る事を諦めてしまっている。
忘れられていく。それが怖くて哀しくて。
「また明日な」
こうして今日も、箱の中の思い出を閉じ込める。
誰かに呼ばれた気がして振り返る。
誰もいない。視界に広がるのは、鮮やかな緑だけだ。
知らない森の中。ここに迷い込んでから、どれだけの時間が過ぎたのだろうか。
小さく息を吐いて、近くの木の根元に腰を下ろす。ポケットの中から、折りたたまれた写真と手紙を取り出して、丁寧に開いていく。
幼い頃に友達と撮った写真と、お互いに宛てた手紙。何度も読み返してすっかり草臥れてしまった手紙は、折り目のついた端が少し破れてしまっている。
写真の中の笑う友達を指でなぞる。苦い後悔に、唇を噛みしめた。
森に迷い込む前日、友達に酷い事をした。彼の母の形見だという手鏡。その裏の蒔絵の藤が綺麗で、見せて欲しいと頼み込んだのだ。
大切なものだと知りながら、手を滑らせて落とし、割ってしまった。割れた直後の、呆然とした友達の表情を今でもはっきと覚えている。
最低な事をした。だから何を言われても否定はしなかった。責めて当然なのだ。他に換えはない、ただ一つの大切なものだったのだから。
だからこれは、きっと自分への罰なのだろう。
言葉には力が宿る。
両親にも学校の先生達にも言われた事だ。学校の規則でも、他人に悪意の言葉を吐かない事と書かれている。実際規則を破り、酷い事を言って言葉の通りになってしまったらしい上級生の話を聞いた事がある。
あの日、泣き叫ぶ友達が自分に対して言った「死ね」という言葉。幼い子供だったせいか本当に死ぬ事はなく、その代わりに知らない森の中へと迷い込んでいた。
それとも死ななかったのは、この手紙と写真があったからだろうか。友達への未練があるから、ぎりぎりの所で留まっているのかもしれない。
手紙と写真を見る。笑っている二人が羨ましい。
羨ましくて、でもそれを壊したのは自分だと思い知って、じわりと視界が滲んでいく。
泣く資格などないのに。
唇を噛みしめ、必死に涙を堪えた。
ふと、声が聞こえた気がした。それは友達の声に似ていて、そんな事はないだろうと自嘲する。
いつまでもこの手紙と写真を手放せないからだ。友達に対する未練が残っているせいで、何でも関連付けて捉えてしまうに違いない。
ならば、手放さなければ。手紙と写真を持つ手を伸ばす。
そのまま手を離したら、風が遠くに運んでくれるはずだ。
未練など持つべきではない。
長い間歩き続けていたが、森の終わりに辿り着けなかった。空腹も疲労も感じない体。夜の来ない森。
もう二度と家には帰れないのだろうから。
けれど――。
分かっていても、手放す事は怖かった。
友達との縁《えにし》がなくなる事も、その後で一人になる事も怖ろしい。
いくら風が吹けど、手は離せず。逆に伸ばした腕を戻して、手紙と写真を抱きしめる。
意気地のない自分自身を嫌悪しながらも、手を離せる勇気はまだなかった。
「お手伝い致しましょうか」
聞こえた声に、はっとして顔を上げた。
視界を染める、水色の振袖。控えめに微笑む少女が、小首を傾げて自分を見つめていた。
「暖かな思いの込められた、良き手紙。わたくしが頂きましょうか」
白く華奢な手が差し出される。優美な仕草を呆然と見つめていると、少女は微笑んだまま僅かに眉を下げる。
「手放せないのはそのふたつが貴女様にとって、とても大切なものだからではありませんか?失う事への恐怖は、確かにあるのでしょう。ですが、それ以上に大切な縁の行き着く先が分からない事を怖れているように、わたくしには見受けられます」
「行き着く先……」
目を瞬く。手紙と写真に視線を向けて、もしもを想像する。
もしも、風に飛ばされた先で、心ない人に攫われたとしたら。木の枝に突き刺さったり、水の中に落ちてしまったとしたら。
想像して、泣きたくなった。大切な友達が、踏みにじられていくようで、それだけは絶対に嫌だった。
「わたくしが頂きましょう」
少女は囁く。
会ったばかりではあるけれど、少女は手紙も写真も大切にしてくれる気がした。
それでも迷いは消えない。あと一歩を踏み出すには、自分は少女を知らなすぎた。
それを少女も感じ取ったのだろう。失礼致しました、と一礼して、恥ずかしげに頬を染めた。
「わたくし、荷葉《かよう》と申します。女性の恋文への想いに応えて形を取った妖で御座います。文に対しての扱いに心得があります故、貴女様の想いを決して無下には致しません」
美しく微笑む少女に、不安が解けて行く。ここまで丁寧に伝えてくれたのだから、きっと大丈夫だ。
あとは、自分が一歩を踏み出すだけ。最後にと、手紙の文字を追いかけ、写真の二人に触れる。
目を閉じて、深く呼吸をする。
怖がる気持ちはまだある。けれどこのまま自分が手放さずにいれば、この先、寂しさに負けて友達を引き込んでしまうかもしれないから。
目を開ける。
真っ直ぐに少女を見て、ゆっくりと手紙と写真を手渡した。
「貴女様の大切な想い。確かに受け取りました。大切に預からせて頂きますね」
ほぅ、と吐息を溢した。手放した事への寂しさはある。けれども、それよりも清々しい気持ちで満たされていた。
「ありがとう」
礼を言って立ち上がる。
体が軽い。今なら、どこへだって行けそうだ。
「貴女様が行く先を、わたくしは存じ上げません。ですが、望む場所へと辿り着く事を想っております」
「うん……手紙と写真、よろしくね」
「はい。お任せ下さい」
深く礼をする少女に、ありがとうと告げて歩き出す。
どこへ行くべきかなど分からない。常世《あのよ》か現世《このよ》か。
声が聞こえた気がした。哀しげな誰かの声。
「大丈夫だよ」
呟いて空を見る。何も持たない手を伸ばし、笑ってみせる。
「大丈夫。手放す事は、怖くないよ」
伝わるかは分からない。
けれど――。
「忘れる事は、何も悪い事じゃないんだよ」
大丈夫と繰り返す。
嘆くこの声に、少しでも伝わればいいと、願っている。
20250516 『手放す勇気』
5/17/2025, 9:19:44 AM