暗闇を、一人歩き続けていた。
ここがどこなのか。いつから歩いているのか。
暗闇の中では、何も分からない。
ただ、真っ直ぐに進んでいるようで、ぐるぐると同じ場所を回り続けている。そんな感覚がしていた。
――これから、どうしよう。
心の中で息を吐き、背後の気配を探る。
暗闇。形のないそれが蠢いている。静かに、だが確実に自分を追いかけてきていた。
まだ遠く、触れられない位置にいるが、足を止めてしまえば、すぐに追いつくだろう。そして自分を跡形もなく呑み込んでしまうのだ。
不思議と恐怖はなかった。
生きなければいけないとは思う。だが生きたいとは思っていなかった。
きっと、それが理由なのだろう。
立ち止まるべきか。進み続けるべきか。
それは生きるか、死ぬかの選択だ。
――仕方がない。もう、どうしようもない。
言い訳のように、繰り返す。
背後の暗闇との力量差は明白だ。
抵抗する間もなく、気づけば自分はこの暗闇にいたのだから。
周囲を見渡す。
外の気配も、出るための綻びも、何も見えない。
――これから、どうするべきか。
終わるのは簡単だ。ただ足を止める。それだけでいい。
そうすれば、この胸の中に渦巻く暗い気持ちを、これ以上抱えずに済む。一人の寂しさと、失う怖さを抱えて生きるのは、とても苦しい。
思わず自嘲する。
仕方がないと繰り返しても、それは言い訳にすぎない。
自分はただ、逃げたいだけなのだ。
目の前で母を失った、あの幼い日。
自分の代わりに暗闇に連れて行かれた母を覚えている。
その記憶が、今も心の底に刻みつき自分を臆病にさせる。
母のように、大切な誰かがいなくなるのが、何よりも怖かった。
「――あぁ、もしかして」
ふと気づく。
背後の暗闇の気配を感じながら、浮かんだ一つの可能性に、小さく声を上げて笑った。
――今度こそ、連れて行くつもりなのか。
今は誰もいない。一人きりだ。
少しだけ、歩みを緩める。
濃くなる暗闇の気配に、目を細めた。
近づいてくる。ゆっくりと、だが確実に。
一人きり。あの時のように自分を守ってくれる誰かは、もういない。
不意に過ぎた一人の妖の事には、あえて気づかない振りをした。
暗闇が近づく。蠢く気配を背後に感じ、けれど歩みは止めないまま、その時を待った。
広がる気配。呑み込むために、暗闇が形を変えていく。
距離がなくなり、広がる暗闇に覆われる。その瞬間。
鋭い光が差し込んだ。
差し込む――そんな柔らかいものではない。
空から降りた白刃の煌めきに似た光が、自分と背後の暗闇を切り離すように、鋭く地に突き刺さる。
振り返った視線の先、暗闇の一部を貫いたその光が、一匹のイタチの姿に変わる。
金茶の毛並みは、赤く濡れていた。
ふらつきながらも、イタチは暗闇を見据え、動かない。
思わず駆け寄ろうと足を踏み出せば、鋭い鳴き声がそれを咎める。
立ち尽くす自分を、イタチは一度だけ振り返った。
笑っている。
間に合った事を安堵し、どこか誇らしげに。
――そんな気がして、胸が苦しくなった。
あの日、最後に見た母も微笑んでいた。
自分を守り切れた事を心から喜ぶように、晴れやかに。
鮮明なその笑顔が、今目の前のイタチの姿と重なる。
再び暗闇に向き直った彼の体が、暗闇に呑まれていく。
それを、ただ見ている事しか出来なかった。
否、一つだけ、自分にも出来る事がある。
それには覚悟が必要だった。
闇に呑まれたイタチ――飯綱《いづな》使いの母の管《くだ》であった妖と契約を結ぶ事。
一人にはなりたくなかった。
大切な誰かを失うのも、嫌だった。
これ以上、そんな我が儘は言えない。目を逸らし続ける事は許されない。
周りの優しさに甘えて、我が儘を言う子供の時間は終わったのだ。
「――紫電《しでん》」
名を呼ぶ。鋭い刃の煌めきのような、気高い彼の名を。
覚悟は出来た。
後は、一歩、踏み出すだけだ。
「契約を。管生詞葉《すごうことは》が命じる。闇を貫く刃として、その身を差し出せ」
暗闇から、一筋の光が漏れた。
貫く光に、手を伸ばす。
「紫電!」
名を呼ぶ。
光を見据え、声を張り上げる。
「――光輝け、暗闇に!!」
その瞬間。
光が弾け、周囲を白に染め上げた。
暖かな腕に抱かれていた。
頭を撫でられる。よくやったと、褒める撫で方に頬が緩んだ。
「詞葉」
優しい声。寝ぼけた振りをして、胸に擦り寄る。
暖かい。彼はここに、自分の側にいるのだと。そんな当たり前の事が、泣きたくなるくらいに嬉しかった。
「帰ろうか」
僅かな浮遊感を感じ、抱き上げられたのだと気づく。
寝たふりなどとっくに気づいているだろうに、あえて起こさないようにと静かに歩いていく。
ゆったりとした振動に意識が微睡み始めた。夢うつつに思い浮かぶのは、彼との記憶ばかりだ。
生まれた時から側にいた彼。母がいなくなってからは、彼が親代わりだった。
術師としての在り方。式札の打ち方。学校の勉強や、日常の生き方すら、彼が教えてくれた。
頬が緩む。親だった彼が、自分の管になる。そんな不思議な感覚が、気恥ずかしくて嬉しい。
ふふ、と隠し切れず笑みが零れ落ちた。
「すっかり懐いちゃって。守るように命じたのはわたしだけど、ちょっと焼けちゃうな」
彼ではない声がした。
少女のような声音。忘れかけていたその響き。
懐かしく、暖かい。
その声は、母の声だった。
「――っ!?」
微睡む意識が一瞬で覚醒し、目を開ける。
「あ、起きちゃった」
声のした方へと視線を向ければ、くすくすと笑う、あの日のままの母がいた。
「か、さん……?」
「しばらく見ない間に、立派になったね。ことちゃん」
微笑む母の姿が滲んでいく。呼吸が乱れてしゃくり上げる。
伸ばした手はすり抜ける事もなく、暖かい手に確かに繋がれた。
「泣き虫なのは、相変わらずなのね」
手を引かれる。そのまま母の胸へと引き寄せられて、抱きしめられた。
記憶よりも遙かに小さなその体。離れていた時間の長さを感じて、離れないようにとしがみつく。
暖かい。生きている。
聞こえる鼓動に、声を上げて泣いた。
「母さん、ごめんっ……ごめんなさい」
「もう、謝らないの。ママはちゃんと生きているんだから……いつも言ってたでしょ?ママには強い管がたくさんいてくれるんだって」
「でも、だって……」
「あの状況では、死んだと思っても不思議ではないだろう。僕ですら、助からないと思っていたのだから」
苦笑する声。ふわりと浮遊感の後、母の元から彼の腕の中へと抱き上げられる。
宥めるように背を撫でられる。次第に呼吸が落ち着いて、滲む世界が僅かに輪郭を取り戻した。
「ちょっと。まだ全然ことちゃんを堪能できてないんだけど」
「その前に、詞葉に説明してあげてほしいな。何故、貴女がこうして生きているのかを」
むぅ、と頬を膨らませる母を見る。あの日から何一つ変わらない、その姿。化生《けしょう》に連れ去られ、それでも生き残っている事の理由。
いくらか冷静になった頭に、疑問符が浮かぶ。彼の言うように、何があったのか説明がなければ、不安で母が偽物ではと疑ってしまいそうだ。
「だから、言ったじゃない。ママにはね、強い管がたくさんいて、守ってくれるんだって」
「――管?」
あぁ、そう言えば。霞む記憶を手繰り寄せる。
母には彼の他にも、たくさんの管を従えていた。
彼に視線を向け、そして母を見た。どこか寂しそうな目をして、母は微笑む。
「ほとんどが、わたしを守って消えてしまったけどね……戻ったら、増やしてあげないと」
あの子たちのためにも。
呟いて、母はこちらへ手を伸ばす。一度彼を見て、怖ず怖ずと母のそれに手を重ね、地に降りた。
自分より僅かに低い母の姿。腕を伸ばした母に、いい子と頭を撫でられて、落ち着かなさに視線を彷徨わせた。
気恥ずかしいと思うのは、自分が成長した証だ。母との距離も、今より広がっていくのだろう。その寂しさに気づかない振りをして、今だけは母の温もりを受け入れた。
「――そろそろ帰ろうか」
「そうね。帰りましょうか」
静かに彼が呟いて、母が頷く。
当然のように母に左手を繋がれて、反対の右手は彼に繋がれた。
母と彼と。三人、手を繋いで歩き出す。
「帰ったら、一緒にお風呂に入ろうね。ことちゃん」
「え。あ……えと」
「詞葉はもう、一人で湯浴みは出来るよ。もちろん好き嫌いなく食事も取れている」
「ことちゃんの親みたいな事を言うの、止めてくれる?ことちゃんのママはわたし!なんだから」
彼の静かな声に大して、母が不機嫌に言い返す。
そうでしょう、と必死な母に頷いて。
育てたのは僕だ、と微笑む彼に、否定しきれず目を逸らした。
「ああ、もう!あんなやつに捕まらなければ、ことちゃんの初めてが奪われる事もなかったのに!」
「母さん。その言い方はちょっと」
「言わせておけばいい。母親なのに詞葉の成長を見られないというのは、とても可哀想な事だからね」
「いや、そういう言い方もちょっと」
自分を挟んで、二人が言い合いを始める。
とても賑やかだ。一人の寂しさはどこにもない。
二人に気づかれないように、下を向いて小さく笑う。両手を繋ぐ二人の手を見ながら、幼い頃の記憶と重ねてみた。手を握る。握り返される事が、泣きたいくらいに嬉しい。
「ことちゃん!今日は一緒に寝ようね」
「詞葉はもう、一人で寝れるよ……心配しなくても、管である僕が詞葉の側にいる。貴女は安心して、一人で眠るといい」
「そうじゃないの!わたしが、ことちゃんと、寝たいのっ!!」
「子供のような我が儘を言わないでくれ。貴女は詞葉の母親なのだろう?」
「あの、さ。もう、それくらいで」
「ことちゃんは、ママの事が嫌いになったの?」
「いや、そうじゃなくて」
賑やかだ。いっそ煩いと、そう思える程に。
握った手を離してみる。けれど手は離れない。離してはもらえない。
突き刺さる二人の視線から逃れるように前を向く。
景色が歪んでいる。出口が近いのだろう。
「ことちゃん!」
「あ、うん。取りあえず、帰ろう。その後で、色々を考えた方がいいよ」
あれこれと急いで考える必要はない。
母は戻り、彼は自分の管になったのだから。
「これからは、ずっと一緒にいられるんだし」
小さく呟く。
熱を持つ頬を誤魔化すように俯いた。
景色が歪む。境界を抜けて、白から茜に染まる空の下へと帰ってきた。
手はどちらも繋いだまま。
「ただいま、ことちゃん」
母が笑う。優しい微笑みに、つられて笑顔になる。
「おかえり、母さん」
手を繋ぎ、三人で。
遠くで聞こえるカラスの声と共に、家路に就いた。
20250515 『光輝け、暗闇に』
5/16/2025, 9:55:27 AM