船が沖へと進んでいく。それをただ見つめていた。
風の凪いだ夜。静かな海を人影を乗せた船が、音もなく進む。大人や子供も皆、船に乗り込んで行ってしまった。
船を見送りながら、砂浜に一人座っている。何かを忘れているような気もするが、ぼんやりした意識は思考する事を望まない。
そんな事も、たまにはあるだろう。気にする事を止めて、沖を行く船を見る。船はしばらく進んだ後、ゆらり、と揺らめいた。
その場を旋回し、やがて止まる。
そして帰る場所を見つけたように、静かに海へと沈んでいった。
「あの船は常世《とこよ》に行くんだよ」
いつの間にか隣にいた、面をつけた子供が言う。
「新しい目覚めのために、眠りにつくんだ……これで、送り出しが終わったね」
「あれは、ジュウ?」
気になって尋ねる。海から来たものが海へと還る。不思議な光景が、目に焼き付いて離れない。
「ジュウかもね。燈里《あかり》がジュウを命だと認識したから、海に溶けていたいくつもの命が形を持って沈んでいくんだよ。これは燈里の夢なんだから」
「――夢」
そうか。夢なのか。
沖へと沈む船に見た、人影を懐かしいと思うのは、ここが夢であり、記憶の底にいるからなのか。
隣を見る。面を着けた子供。けれどその面は以前見たふくよかな笑みを湛えた男のそれではない。
翁面。懐かしくも怖ろしい、あの悪夢の祭を象徴する面だった。
「あなたも夢?忘れたはずなのに」
その問いに、子供――妖は肩を竦めてみせる。
「忘れてなんかないよ。忘れなければいけない、と思う事と、忘れたいでは大きく違うでしょう」
首を傾げる。言葉の違いだけで、意味はさほど変わらないだろう。ふたつに何の違いがあるのか分からない。
「忘れたいと望むのではなく、忘れると断定するでもない。忘れなければいけないと義務感だけでは、そこに隙間が生じるんだよ」
妖は手を伸ばし、頭を撫でる。幼い子供にするかのような優しい手つきが、どこか落ち着かない。
「優しい子。彼のため、そして他でもない僕のために忘れようとしてくれたんだね。でも本心では忘れたくなかった……そうでしょう?」
小さく頷いた。
頷いて、思い出す。祭の事。選ばれた子供の事。彼の事。
忘れたくはなかった。震えるほどの恐怖を味わった。逃げたいと、終わらせたいと思っていた。
それでも忘れたくなかったのは、選ばれた子供の事を、導いてくれていた先生《彼》の事を忘れたくなかったからだ。
夢だからだろうか。今ははっきりと思い出せる。
選ばれたのだと最後まで信じて、面に呑まれてしまった子。あの子はどこへ行ったのだろうか。
「忘れたくなかった。忘れられない気持ちが一欠片でもあれば、それが隙間を作る。その隙間がある限り、燈里の記憶の片隅に僕は存在し続ける」
「――ごめんなさい」
あの日。祭を終わらせた後、妖は忘れろと言った。忘れない優しさは、妖にとっては毒なのだと。
結局忘れられずに妖を苦しめている事に、自分の不甲斐なさを感じて俯いた。
「本当に優しい子だね。大丈夫だよ。待つのは嫌いじゃない。待っててあげるから」
さらに頭を撫でられて、怖ず怖ずと顔を上げる。面越しの柔らかい目に見つめられ、だがそれは次の瞬間には鋭さを増した。
「それよりも、問題は彼の事だよ」
彼。冬玄《かずとら》の事だろう。
自分の婚約者。いや、違う。彼は婚約者ではなく。
「家族が皆いなくなった時、一度だけ彼に望んだね?」
問いかけの形を取りながらも断定する妖の言葉に、力なく頷く。
そうだ。あの葬儀のすべてが終わった一人の夜に、寂しさに耐えきれなくて、彼に望んだのだ。
――一人は寂しい。一緒にいて。
だから彼は――“トウゲン様”は“冬玄”として、側にいてくれるようになった。自分が望んだからそれに応えて、守り神でありながら、婚約者の真似事をしてくれていたのだ。
「いつまでもこのままという訳にもいかないよ。彼は宮代《みやしろ》という血筋を守るのではなく、燈里を守る事に執着しだしているから。それが続けば、次に燈里になにかあった時……彼は完全に堕ちてしまうだろう」
息を呑む。何かを言いかけ開いた口からは、掠れた吐息しか漏れずに、諦めて口を噤んだ。
「大丈夫だよ」
妖は言う。頭から手を離して、代わりに手を取られる。促されて立ち上がった。
「目が覚めたら、改めて望むんだ。神として祀り直すか、人として側にいるか。中途半端だから、彼も欲張るんだよ。守りたいし、誰にも渡したくない。だから望んで、彼をどちらかに定めてあげないと……決められるでしょう?」
最初から答えは知っている、という口ぶりだった。
頷く。その二つであるならば、自分にも決められる。
「さあ、行っておいで。後悔のないようにね」
背中を押されて歩き出す。
海ではなく、陸へ。
目覚めるために。
「起きたのか」
暖かな温もりと、鼻腔を擽る蝋梅の香り。
愛しい腕に抱かれ、眠っていた事に燈里は気づく。
辺りはまだ暗い。朝はまだ遠いのだろう。
「ねえ――」
冬玄、と言いかけて、止める。瞳を覗き込む冬玄に燈里は微笑んで、懐かしい言葉を口にした。
「先生」
それは燈里にとっての北の星。導きの星の名だった。
「思い出したのか」
静かな声だった。諦めのような、何も感じていないような、静謐の声音。
それに頷いて、燈里は腕を伸ばす。冬玄の首に抱きついて、甘えるように擦り寄った。
「燈里」
「ねえ、先生。お願いがあるの」
小さく囁いた。まるで内緒話でもするかのように、燈里は冬玄と目を合わせた。
「何でも言っていいぞ。望めば応えてやるから」
燈里の髪を撫ぜ、冬玄は微笑む。どこか嬉しそうに、寂しそうに。続く燈里の言葉を待った。
「先生。この先、私がおばあちゃんになっても、そして終を迎えたとしても……ずっと側にいて下さい。もしも海で終わるなら一緒の船に乗って。陸で終わるなら手を繋いで歩いて……最期まで、私と生きてほしい」
燈里の望みに、冬玄は息を呑む。ゆっくりと目を瞬き、泣くように目を細めて、燈里の額に唇を触れさせた。
それが冬玄の応えだ。
「先生……冬玄、大好き」
さらに強く冬玄に抱きついた。頬に触れ、燈里は自分の手越しに口付ける。
「――まったく。そこで恥ずかしがるな」
呆れたような、それでも楽しそうな冬玄の目から燈里は視線を逸らす。
頬が赤い。恥ずかしいのか、離れていこうとする燈里の体を、許さないとばかりに冬玄は引き寄せて。
「俺も、好きだ」
燈里が口付けた手を取り、見せつけるように唇を触れさせた。
20250511 『未来への船』
木漏れ日の下。美しく咲き誇る藤の花をスケッチブックに描いていた。
静かだ。何の音も聞こえない。風が葉を揺らす音も、鉛筆を走らせる音も。
不意に顔を上げる。変わらず音は聞こえない。辺りを見渡しても、何もない。
僅かな違和感に首を傾げる。スケッチブックに視線を落として、さらに困惑した。
スケッチブックの中の、藤の花。繊細なその線は、はたして自分のものだっただろうか。
そもそも森の景色より、海を描く事の方が好きではなかったか。大切なあの人のために、海を。
もう一度顔を上げる。やはり音は聞こえない。視線を巡らせて、後ろを振り返った。
「――っ」
彼がいた。少し困ったように眉を下げている。
何かあっただろうか。込み上げる不安に無言でいれば、彼は徐に口を開いた。
何も聞こえない。唇が言葉を形作っているのが見えているはずであるのに、声が聞こえない。
哀しげに微笑み、聞こえない言葉を紡ぐ事を止めた彼が背を向けた。
歩き出す。音もなく、去ってしまう。
胸の痛みと苦しさに眉が寄る。急ぎ立ち上がり、駆け出して。
追いすがるように手を伸ばした。
木漏れ日の下。スケッチブックに無心で絵を描く彼女を見つけ、笑みが浮かぶ。
今度は何を描いているのだろう。自由で力強い彼女の絵を思い、足音を立てぬよう静かに彼女に近づいていく。
不意に足を止めた。どこか違和感を感じて、周りを見渡した。
何も可笑しな所はない。木と草花と、土と風。けれど何かが違う。
絵を描く彼女に声をかけるのではなく、絵を描いている時に彼女に声をかけられるのが、正しいのではないか。その方が、何故かしっくりくる。しっくりくるのに、今のこの立ち位置では、彼女に声をかけるのが正しい。
不思議な違和感を感じながら、とりあえずは声をかけてみようと歩き出す。彼女ならば、何か知っているのかもしれない。
一度顔を上げた彼女は、またスケッチブックを見ている。こちらに気づく様子はない。
気づいてもらうために、彼女の名前を呼んだ。
はずだった。
「――っ」
呼んだはずの声は、音にはならない。掠れた息だけが溢れて落ちていく。
喉をさする。もう一度彼女の名前を呼んでも、やはり声は出なかった。
何かに気づいたのか、彼女がゆっくりとこちらに振り向いた。
驚いたように目を見開いて、不安そうな表情をする彼女に、何かを言わなければと口を開いた。
声は出ない。でも何故か、とても伝えたい気持ちがあった。
――ありがとう。
声が出ないのだから、聞こえないのは当然だ。けれどそれを知らない彼女は、益々不安そうだ。伝える事を諦めて、小さく笑う。
そろそろ戻らないといけない。何故かそう思い、彼女に背を向けて歩き出す。
スケッチブックの落ちる音。慌てて立ち上がって、こちらに走り寄ってくる足音。
待って、と近くで声が聞こえて。
視界が一瞬で、暗い群青に染まった。
気がつけば、海の中。
懐かしい夢を見ていた気がする。昔の、まだ絵を描く前の夢。
不思議な夢だった。彼が私だった夢。とても可笑しな、優しい森の中の思い出。
流れに身を任せながら、遠い水面を見上げた。届かなく成ってしまったあの森を、彼は覚えているだろうか。
静かだ。いつもの責める声も、時々響く深みからの鳴く声も、何も聞こえない。
流れが変わる。ほんの小さな、何かが近くにきた時の流れ。いつもは気にしないその流れの変化が気になって、視線を向けた。
海の中を、流れのままに揺蕩っている。
恐怖はない。どこへ向かうのか不安も、何もない。凪いだ感情が、すべてを受け入れている。
逆らわず身を任せながら、進む先に視線を向ける。ただの気まぐれ。何かを期待した訳ではなかった。
目を瞬く。視線の先、同じように海を漂う彼女がいた。
彼女もこちらに気づいたらしい。驚き目を見張る彼女に、その名を呼ぼうと口を開いた。
声は出ない。海の中にいるのだから当然か。それでもと、唇が彼女の名を形作る。
――藍留《あいる》。
彼女が手を伸ばす。それに応えるために同じように手を伸ばし。
手が触れ合い、離れぬようにと強く繋いだ。
「先生」
声が聞こえた。それとも呼んだのは自分だったのか。
「藍留」
応える声は、どちらのものか。
目の前にいるのは自分か、相手なのか。
触れ合う手から溶け合うように、思考が混じり合う。自分の視点が相手の視点で、相手の声は自分の声だった。
ねえ、と彼/彼女が囁く。なに、と彼/彼女が応え。
「かえろうか」
願うように言葉を紡ぎ、どちらともなく目を閉じた。
海の中。揺蕩い、微睡み。意識を沈め。
自分達はひとつなのだと。
閉じた瞼の裏。
確かに、そう思った。
目が覚めた。
一つ息を吐き、藍留はゆっくりと体を起こす。
カーテン越しの外は暗い。ベッドサイドのデジタル時計を確認すれば、丁度日付が変わる時間帯であった。
「先生」
小さく呟いて、少し迷う素振りを見せた後。藍留は音を立てぬよう、慎重にベッドから抜け出した。
素足で触れる床の冷たさが、意識を鮮明にさせる。軽く頭を振って僅かに残る眠気を振り払うと、隣のベッドへと近づいた。
「先生」
昏々と眠り続ける丹司《あきかず》を見下ろして、藍留は項垂れるようにベッド脇の丸椅子へと腰掛けた。
とても静かだ。耳を澄ませど物音一つ、眠る丹司の寝息や彼の命を繋ぐ機械の音すらも聞こえない。藍留の世界からは、完全に音が失われている。
藍留の記憶は曖昧だ。
目覚めてから、藍留の中でいくつもの記憶が流れ過ぎていく。流れ漂う記憶が折り重なり、複雑に絡み合ってどれが自身の記憶であるのか、藍留にはもう分からない。
明確に覚えているのは、海の記憶。絵を描くために海を求めていた。
まだ描いた事のない海に向かい電車に揺られ、辿り着いた無人駅。導かれるように海を目指し、気づけば砂浜に降り立っていた。
いつもと同じ。ただ、いつもと異なるのは、そこで拾い物をした事だ。
青い、海のそれと同じ色をした石。常ならば決して持ち帰る事はしない。特に石は。記憶を宿す器だと、幼い頃に聞いた怪談が、藍留の記憶の底に染みついて、何年も経った今でも忘れた事はなかった。
だというのに石を持ち帰り、砕いて顔料とした。その顔料を用いて海を描いた。
石は大切なものだった。遠い異国で働く父からもらった、綺麗な青い石。巾着に入れて常に持ち歩いていた。
あの日もそうだ。父に会いに行くため、母と船に乗り込んだ。はっきりとは思い出せないが、父と共に暮らすためだったようにも思う。
嵐の夜だった。昼間は穏やかだった海が激しく船を揺らし、母にしがみついて嵐が過ぎ去るのを待っていた。
海は怖ろしいものだ。深く底の見えない恐怖が、海を視界に入れる度に、自身を苛み苦しめる。
幼い頃に何かがあったという訳でないはずだ。一度両親に聞いた際に、この恐れは物心がつく前からだと知らされた。
しかし、同時にこうも教えられた。
曰く、自身には祝部《はふりべ》の血が流れており、最後の祝部として生きた高祖父は、海に呑まれたのだ、と。
一夜にして村は海となり、それを曾祖母が見ていた。その記憶が血を介して、恐怖として刻まれているのだろう。そう言って、哀しく微笑い頭を撫でてくれたのは、兄だっただろうか。
兄は常に優しかった。一回りも年が離れているせいだろうか。喧嘩などほとんど記憶にはない。あったとしても、幼い自分の我が儘を兄が宥め、時に叱る。それだけだ。
兄は大人になり、医者となった。結婚し、子供も生まれ、小さいながらに病院を持つようになった。
常に忙しい兄らに代わり兄の子の面倒を見るようになったのは、兄に憧れていたという理由が大きい。幾分か年の近い兄の子。妹が出来たようで、兄のようになれた気がして嬉しかったのだ。
だから妹のために――。
頬を撫でる風に、はっとして顔を上げた。
どうやらまた記憶に呑まれていたらしい。目覚めてから、藍留はこうして込み上げる記憶に呑まれる事が多々あった。
両親の病院で目覚めた日。藍留はいくつかを失っていた。
聴覚。そして青の色彩。目に映る青は、どれも色を宿してはいない。壁に掛けられた絵画や窓から見える景色。どれだけ探しても、青だけは見つける事が出来なかった。
丹司もそうだ。眠ったまま、目覚めない。
藍留のために危険な事をしたのだと、音を失った藍留に筆談で父は教えてくれた。海に攫われた藍留を助けて、そのまま意識が戻らないらしい。
藍留が目覚めたのは、助け出されてから七日後の事。それから十日が経つが、丹司はまだ目覚めない。
「あきにぃ」
幼い頃の呼び名で、丹司を呼ぶ。
僅かに開いた窓から、吹き抜ける風がカーテンを揺らし、眠る丹司の伸びた髪を揺らした。
徐に手を伸ばす。僅かに乱れた髪を直そうと、藍留の指先が丹司の頬に触れた。
かちこち、と時計の音。
風がそっと窓を叩く。
規則的な機械の音。
肩を震わせ、手を離す。
一つ息を吐いて、耳を澄ませた。
何も聞こえない。けれど確かに、音が聞こえていた。
胸元に寄せた手を見つめる。握り開いて、突然の事に呆然としながら、もう一度、丹司へと視線を移して。
――目が、あった。
「あきにぃ?」
呼びかければ、丹司は目を細め、淡く微笑んだ。じわりと滲み出す藍留の視界に映る丹司が微かに唇を動かしていく。
声は聞こえない。
驚くように口を閉ざす丹司の様子から、藍留が聞こえていないのではなく、丹司の声が出ないのだと気づいた。
「あきにぃ。声が、出ないの?」
頷く丹司に、藍留は目を伏せて、零れ落ちる涙を隠す。目覚めたばかりなのだから、それは一時的なものだろう。そう思い込もうとするが、思考はこのまま丹司は声をなくして生きていくのだろうと囁いている。
込み上げる哀しさと苦しさに、いっそ泣き叫びたい気持ちに藍留は必死で耐える。未来への不安に、俯いたままでいれば、視界の隅に動く何かを見て、藍留は視線を向けた。
布団の端から、丹司の手が出ていた。痩せた指が、緩慢に布団から外へと出て、藍留へと伸ばされる。
そして動けないでいる藍留の、固く握り締めた手に、そっと触れた。
「――あ」
音が溢れる。
その瞬間に、藍留は理解した。
「あきにぃ。私ね、夢を見たの。静かな森の中で、藤の花を描いてしているの。あきにぃじゃなくて、私が」
夢の光景を思い出しながら、藍留は丹司の手を両手包み込む。
「あきにぃが私で、私があきにぃだった。あの森で藤を描いていたのは、あきにぃだったはずで。その姿を見ていたのは私で……私は何も聞こえなくて。きっとあきにぃは声が出なかった」
「あ、いる」
掠れた丹司の声が、藍留を呼ぶ。声が出た事に目を見張る丹司に微笑んで、藍留はさらに続ける。
「それから海の中にいた。そこではたくさんがひとつで、ひとつがたくさんだった。やっぱり何も聞こえなくて、あきにぃは声が出なかった」
「――知って、る。私も、見ていた……私達も、二人だけどひとつだった」
そう言って、丹司は体を起こす。ふらつく体に藍留は片手を離して支え、寄り添う。
体制が変わり、流れ落ちなくなったのだろう。点滴のアラームが鳴る。
「あきにぃ。私たち、きっと一人じゃ今までのように生きていけない。私はもう音が聞こえないし、青も見えないの。やりたい事も、夢も何もかも。たくさん諦めなきゃいけなくなる」
「そうだな。きっと、元には戻れない」
「でも、二人で一緒に生きていく事は出来る……ひとつだけ、あきにぃとずっと一緒にいたいって、その夢は叶えられるから」
外が騒がしい。アラームを聞きつけて、看護師達が集まってきている。
「私が、藍留をおろしたせいだ……すまない」
悲しみに顔を歪めて謝罪する丹司に、藍留は首を振って否定する。
丹司が藍留をその身におろさなければ、藍留は海を漂ったままだった。海から呼び戻され、還る間際にひとつの奇跡が起きて、藍留はここにいる。
まだ人として、生きていけるのだ。
部屋に入ってきた看護師が、寄り添う二人を見て慌てて医師を呼びに行く。後から入ってきた看護師の母が電気をつけて、その眩しさに藍留は目を細める。
点滴の確認と、丹司への体調の確認と。
母の邪魔にならぬように藍留は丸椅子に座り直すが、丹司と繋いだ手はそのままだ。
賑やかになった病室内の音が、逆に心地好い。訪れる睡魔に頭が揺れる。
ベッドに戻らなければと思いはすれど、藍留は繋いだ手を離す事が出来なかった。
微睡む意識で、ふと誰かの言葉を思い出す。
――ささやかな夢でも見続けていろ。
確かに、と藍留は声に出さずに笑う。ひとつだけ許されたのは、ささやかな夢だ。二人で共に生きる事。ささやかでありながら何よりも尊い夢に、藍留はありがとう、と誰かに呟いた。
父が入ってくる。一瞬だけ、泣くように顔を歪め、すぐに戻るのは医師としての誇りからだろうか。
久しぶりに聞く父と母の声、それに答える丹司の声を聞きながら、藍留はぼんやりと丹司を見つめる。
視線に気づいた丹司が、藍留を見つめ。
その眼の中に、藍留は深い海の青――一人では見る事が叶わない群青を見つけた。
20250510 『静かなる森へ』
沈み揺蕩う暗闇の中、微かな声が差し込んだ。
責める声ではない。彼ら/私の声よりも遙か高みから、降りてくる。
それは、先生であり、兄であり、父でもあった大切な人。両親の代わりに手を引き、声を聴き、寂しい時には寂しいと――そう言える事を教えてくれた。優しくて、まるで春の青空のように穏やかな人だった。
目を開ける。遙か遠い水面を見上げ、その先の空を想う。
届いていただろうか。せめてもの願いが。他でもない、彼を沈ませないための言葉が。
それはもはや確かめようのない事。海の中では、意味のない記憶。
目を閉じ、暗闇に身を任せる。
今日は随分と流れが穏やかだ。彼の声を思いながら、空の夢を見るのもいいかもしれない。
「――いま一度、此方《こなた》へ」
声が聞こえる。彼ら/私ではなく、私を呼んでいる。
呼ぶ声と共に、閉じた瞼の向こう側で光が降り注いだ。
目を開ける。暗闇の中、一筋の光が差し込んでいた。
導き、呼ぶ声。そして光。
迷いなどあるはずもない。私はその光へと、真っ直ぐに手を伸ばした。
沈黙した教師の体が傾ぐ。
「門廻《せと》先生っ!」
慌てたように声を上げる彼女が教師に近寄るが、それより早く教師は徐に立ち上がった。
確かめるように自身の手を見つめ、次いでキャンバスを見つめる。
そして近くで様子を見守る彼女を振り返り、微笑んだ。
「来てくれたんですね」
教師のものではない、少女の声音。柔らかなその響きは、彼女が一度だけ聞いた、青に沈んだ少女のものであった。
「あなたが来てくれればいいと思っていました。守られているあなたなら、きっと先生を助けてくれるって。そう思ったから」
「藍留、さん?」
恐る恐る呼びかければ、教師――生徒は静かに頷いた。
届いたのだ、生徒に。呼び声は聞き届けられ、生徒は応えてここにいる。
ならば状況を伝えなければ。そう思い彼女は逸る気持ちを抑えながら、口を開く。だが、唇から言葉が紡がれる前に、生徒はゆるく首を振り、その必要はないのだと告げた。
「先生の記憶が混ざって、やるべき事もやり方も分かります。仮巫《かんなぎ》として、ジュウの歓待と送別の儀礼を執り行うのですね?先生が私のためにすべてを賭けてくれたのだから、私はそれに応えないと」
強い意志を湛えた群青色の目をして、生徒はキャンバスを――その背後の祠に向き直った。
「時間がありません。長引けば、それだけ先生に負担がかかるから…だから、始めましょう」
風が吹き抜ける。
一つ呼吸をして、生徒は祠に向けて深く礼をした。
塩と酒。そして赤飯を小皿に盛り付け、祠の前に置く。
これが彼女に出来る最後だ。後は、どんな結果となるにせよ、儀礼が終わるまでを見届けるしかない。
生徒を見つめながら、彼の側に寄る。優しく抱き留める彼の腕の中で、どうか、と声なく祈った。
「掛《か》けまくも畏《かしこ》き、海《わた》の戎大神《えびすのおおかみ》の大前《おおまえ》に白《もう》さく」
生徒の声が響き渡る。
潮騒に解けるように、ことばが広がっていく。
「遠つ世より浜に流れ寄る青き石を、恵みと歓待《うけいれ》、祀りし我らが代替わり重ね、遂に祭《まつり》を倦《う》み祟りを蒙《こうむ》りしこと、痛みて恐み畏《かしこ》み」
それは祈りの詞《ことば》。終わらせるための言葉。
受け入れた命に対する感謝の想い《ことば》だ。
声が聞こえた。かつて村でジュウを受け入れて生きた村人の声。そしてジュウの声。
「今ここに、かつての戎《ジュウ》にて描《えが》きし海の青を削り取り、塩と酒と赤飯を添へ、小舟に乗せて、潮路《しおじ》へ送り奉る」
ジュウとは命だ。揺らぐ海を見ながら、彼女はぼんやりと思う。
生きていく者の命を繋ぐ、終わったものの命。糧として、恵みの証として。生きる者が呼び込み、受け取る礼として歓待する。そして一部を返し、再来を願う。
死が生を紡ぐ。繰り返される円環の理。
「恵み賜ひし日々を深く謝し奉り、斯《か》くなすを以て、安らけく眠り給へと願い奉る」
海から流れ着くもの。戎《ジュウ》。
「恐み恐みも白さく」
それは確かに、命だった。
言葉が止む。
祠に向かい祝詞《のりと》を奏上していた仮巫《藍留》が、ゆっくりと歩き出す。
キャンバスを過ぎ、祠の前に膝をつく。敷かれた白布の上に置かれた。群青の絵の具を乗せた貝殻を手に取った。
隣に置かれた、葦で作られた舟に乗せる。その舟の底には朱色で「帰」の文字が書かれていた。
舟を手に取り、仮巫は再び立ち上がる。波打ち際まで寄ると、そっと舟を海に流した。
「ありがとうございました」
不意に紡がれたのは、純粋な感謝の言葉。
海へと、ジュウへと向けて、深く深く礼をする。
かつての人が大切にしていたもの。いつしか人が忘れてしまったもの。
「今まで、恵みを与えてくださり、本当にありがとうございました。どうぞゆっくりとお休みください」
それは仮巫としての詞ではなく、生徒の心からの言葉だった。
舟が沖へと流れていく。
静かだ。聞こえていた潮騒も、聞こえない。
ゆらり、舟が凪いだ海で揺れる。音もなくその場で旋回し、帰る場所を見つけたように。
そのままゆっくりと沈んでいった。
「終わった、の?」
舟が沈み、海はまた潮騒を奏でる。
ジュウは帰ったのだろうか。不安に揺れる目で、彼女は彼に問いかける。
それに彼は微笑んで、肯定するように彼女の頭を撫でた。
「後は絵を丹《に》で封じるだけだ…頑張ったな。燈里《あかり》」
褒められて、彼女はほぅと息を吐く。
すべて終わったのだ。安堵に微笑み彼女が彼に声をかけるのと、とさり、と何かが崩れ落ちる音が聞こえたのは、ほぼ同時だった。
「藍留さんっ!」
波打ち際。倒れる生徒を視界に入れて、弾かれるように彼女は駆け出した。
「しっかりして、藍留さん!」
生徒を抱き起こす。虚ろに揺れる瞳が彼女を見つめ、小さく微笑んだ。
「ごめん、なさい…先生を」
「なに、言って」
嫌な予感に、彼女は生徒を支えながら、キャンバスの前まで戻る。
白布に生徒を寝かせ、何も言わせまいと言葉をかける。
「大丈夫。ジュウは帰ったんだから、全部元に戻れるよ」
「だめ、なの。だから、先生に伝えて」
「そんな事ない!全部、終わったのに」
嫌だと、認めたくない首を振る彼女に、生徒はそっと手を伸ばす。唇に指が触れ、彼女は肩を震わせ生徒を見た。
「あのね。先生にありがとう、って。お願い」
「そん、なの」
「私は、ジュウだから。私も、帰らない、と」
ふふ、と穏やかに笑い、生徒は目を閉じる。楽しい思い出を思い浮かべるように、幸せそうにあのね、と呟いた。
「先生ね。優しい人、なの。とっても、素敵な、人。だから、助けてあげて、ください」
ぎり、と唇を噛みしめる。伸ばされた手を握り、彼女は分かった、と掠れた声で呟いた。
「あり、がとう…本当にね、素敵なの。もっと、一緒にいたかった、な。いろんな所…見て、描いて」
微かに息を一つ。微笑みを携えて。
閉じた瞼から、涙が一筋零れ落ちた。
「――藍留?」
ぽつり、と微かな呟き。低い男の声は、教師のものだ。
薄く開いた目が彷徨い。求める人がいない事を知り、力尽きたように閉じていく。
何も言えずに、彼女は涙を流す。教師から離れ立ち上がり、穏やかな海を睨めつけた。
足を踏み出す。海へと近づく。
諦めてしまうのは、どうしても出来そうになかった。
「燈里」
進む体を背後から伸びた腕が止める。引き寄せられ、泣きながら振り向く彼女に、彼は困ったように微笑んだ。
「泣くな……今回は、特別だぞ」
「冬玄《かずとら》?」
彼女の涙を拭い、そのまま頬へと指を滑らせる。そして彼は彼女の手を取ると、指を絡めて深く繋ぐ。
「望むんなら、何とかしてやるって言っただろう?…頑張ったからな、特別に望まなくても何とかしてやるさ」
繋いだ手の熱が、彼女の心に広がる深い悲しみを解かしていく。解けた悲しみが、彼女の意思と記憶を包み込み、その輪郭を曖昧にさせる。微睡みに似た意識の中、彼女は彼に促されるまま、キャンバスまで歩み寄った。
「――先生」
冬玄、と名を呼んだつもりであった。
だが零れ落ちたのは、閉ざされた記憶の名残。それに彼は笑って応えると、徐にその手をキャンバスの海へと沈めた。
「ひとつ受け取れば、ひとつ返す。藍を返したんだ。その分の藍を戻してもらうのが道理だろう?」
海に沈めた腕でしばらく何かを探る。不意に動きを止めると、一気に引き抜いた。
彼の腕と、その手に掴まれた誰かの手。ゆっくりとキャンバスから外へと出る。
戻ってくる。
彼方《うみ》から此方《りく》へ。
海の中で、夢を絶たれて漂う一人の少女が、再び夢を描くため、還ってくる。
「燈里の記憶に、これ以上傷をつけられたらたまらない。代償はあるだろうが、それだけで戻れるんだ。精々ささやかな夢でも見続けているこった」
潮の匂い。
道理に従い、生徒を戎《ジュウ》から人へと引き戻した彼は、無感情に呟いた。
20250509 『夢を描け』
ぼんやりと漂いながら、空を見上げた。
暗い藍色には灯り一つない。星や月の灯りも、日の光さえも見つける事は出来なかった。
ゆらりと体が揺れる。あまり動かす事の出来ない体は、流れのままに過ぎて行くだけ。
――カンタイを。
どこからか、声がした。
――受け取ったのだ。
――ハフリベとしてカンタイせよ。
声が責める。意味の分からない言葉を並べ立て、動かない事を責め続ける。
耳を塞ぎたいのに、腕が動かない。否定したいのに、声が出ない。
藍色がさらに暗く色をおとす。怖くなって、思わず目を閉じた。
――カンタイせよ。
声は止まらない。ざわざわと増えていく声が、皆揃って責め立ててくる。
――呼び込み、受け入れた。
――ならばカンタイし、返すのが道理。
――返せ。
声は言う。何度も返せと繰り返す。
分からない。ハフリベも、カンタイも。何一つ見当がつかない。
何を返せばいいのだろう。拾った石は既に砕いて、絵の具として使ってしまった。だから返せるものは何もないのに。
――そのまま黙するつもりか。
――ハフリベとしての役割を放棄するのか。
たくさんの声が責める。
体がゆっくりと沈んでいくような感覚に、目を開けた。
空はもう藍から黒へと色を変えてしまっている。これではもう、空だと思い込む事は出来ない。
あの色は海の色。昏くて深い海の色だ。
ここは海の中なのだ。
――ならばおまえはハフリベではない。
声がする。冷たい声が、すぐ近くで聞こえる。
――返さぬおまえは、ジュウとなるしかあるまい。
深みに落ちていく。昏くてもう何も見えない。
かえりたい場所には、きっと届かない。
「本当によろしいのですね」
彼女の問いに、教師は無言で頷いた。
潮騒に体が震えている。教師の顔は今にも倒れてしまいそうな程に青ざめている。
「だい、じょうぶ……です」
無理矢理に作る笑みが痛々しい。
本当は怖くて堪らないだろうに。姪だという生徒を救う可能性にかけてこの海辺まできた教師の覚悟に、彼女は敬服する。
教師の前。青いキャンバスに視線を向ける。美術室で揺らいでいたはずの青は、今は沈黙を保ったままだ。
一度深く呼吸をし、彼女は教師にナイフを手渡した。ナイフを受け取ったのを確認し、教師がキャンバスにそれを向けるのを静かに見守った。
震える手でナイフを握り、青の絵の具を慎重に削ぎ落としていく。削がれた青は地に落ちる事はなく、波間に漂うかのようにその場で揺らぎ、色を濃くしていく。
その青を貝殻に盛る。盛られた青は貝殻の中で、互いに繋がり形を変え、乾いた絵の具からさらりとした液体へと変化した。それはまるで貝殻の中で海が広がっているかのような光景であった。
貝殻に盛った青を、キャンバスの後ろ、敷いた白布の中央に置く。清めた石白布、榊で作られた簡易的な祠に、依代となる青を据えて、ジュウのための祠は完成した。
ぐらり、と教師の体が僅かに傾ぐ。祠のすぐ先は、海だ。直に嗅いだ潮の匂いに、意識が揺らいだのだろう。
教師に肩を貸しながら、彼女は教師と共に、キャンバスの前に移動する。祠のものとは別の敷いた白布の上に座り、教師は小さく息を吐いた。
「門廻《せと》先生」
膝をつき、彼女は教師と視線を合わせる。
「一度“おろし”たら、もう後戻りは出来ません。どんな結果になっても、進み続けるしかないんです」
僅かに目を揺らがせて、彼女は告げる。
依坐《よりまし》の儀。口寄せ、憑坐《よりまし》降ろしとも呼ばれる降霊儀は、依坐という器に魂を降ろし、言葉を紡がせるものだ。教師を依坐に、生徒の魂を降ろす。祝部《はふりべ》の血筋ではあるが、今までそれに触れる事もなかった教師が行うには、あまりにも危険が高すぎる。
確立の低い、賭けであった。
「藍留《あいる》さんの状況も分かりません。ジュウに完全に取り込まれている可能性だってある。それにもし、先生の人としての認識が儀式中に保てなくなれば、先生も藍留さんも、二度と此方側には戻れなくなるでしょう」
海を畏れ、これから成そうとする事を怖れて歪む教師の表情は、けれどもその眼に灯した覚悟の色を少しも失ってはいない。
無駄な忠告だと思いながらも、彼女は何度目からの確認のために口を開いた。
「本当に、進めてしまってもよいのですね」
静かな、真剣さを帯びた彼女の問いに、教師ははっきりと頷いた。
目を伏せて、彼女は数歩下がる。これから行う事は、教師と生徒にしか出来ない事だ。すべてが終わるまで見守るしか出来ない歯がゆさに、教師の背を見つめながら彼女は強く手を握りしめた。
「燈里《あかり》」
静かな声が彼女を呼ぶ。背を抱き寄せられ、薫る蝋梅《ろうばい》に、縋るように背後の彼へと凭れた。
彼の手が固く握り締めた彼女の手に伸び、ゆっくりと解いていく。開いた手を取り、彼女が首から提げている守り袋へと導き、握らせた。
「冬玄《かずとら》」
震える声で彼女は彼を呼ぶ。見上げる彼の横顔は、凍てつく鋭さを湛えて、穏やかな海を見つめていた。
「門廻藍留。海に囚われし者よ。この詞《ことば》を波にのせ、汝に届け給《たも》う。
我、門廻丹司《あきかず》の身を器とし、汝の声を授け願い給え。いま一度、此方《こなた》へ。その魂を灯し――」
静寂に教師の声が広がる。
変化はない。教師も、海も。青も。
応えはない。海は穏やかに寄せては引き。風はなく、生き物の声すら聞こえない。
沈黙。
無音。
声も、音も。何もかもが消える。静寂が満ちていく。
あぁ、と誰かの吐息が溢れ落ちる。それは彼女か、それとも教師のものなのか。
「藍留」
呟く声に、彼女は教師の背を見つめた。
項垂れる背は悲哀が纏い、今にも消えてしまいそうに頼りない。
「仕方がありません。藍留がおりないのであれば、このまま私が儀礼を執り行いましょう」
凪いだ声だった。諦念と、無力感と。求める事を止めた哀しい声が、責務だけで儀礼の続行を告げた。
教師は静かに立ち上がる。ゆっくりと力なく。終わらせるためにと、キャンバスの前に立つ。
ふと、海から柔らかな風が吹き抜けた。
「――届いてないな」
微かな呟き。視線を海に向けたまま、彼は言う。
「滲んでいるだけだな。祠に据えた青は“本体”じゃない。上から重ねた青と朱に、届くものまで塞がれている」
その言葉に彼女は彼を見て、そしてキャンバスを見た。青に塗り潰されたキャンバス。幾重にも重ねられた青と朱。
はっとして、声を上げた。
「門廻先生!依代を変えて下さい。一番最初に描かれたものがジュウです。幾重にも塗り重ねた青では、深みには潜れない。そこで呼びかけても、ジュウにも藍瑠さんにも届かない!」
彼女の言葉が終わるよりも早く、教師は動いた。
青を削り取ったナイフを手にし、キャンバスを真一文字に切り裂く。切り裂かれた線からどろりと青が溶け出して、まるで血のように流れ出した。
裂いた線から絵の具を剥がそうとするも、溶け出す青に阻まれる。再度切り裂くも、その先に見えるのは青ばかりだ。
「届けっ。邪魔をするな!」
何度もナイフを振るう。だが変わらぬ青に、彼女は耐えきれず、背後の彼を振り払い、教師の下へと駆け寄った。
キャンバスの切れ目に手を入れ、直接絵の具を引き剥がしに掛かる。どろりとした生ぬるい感覚に、顔を顰めながらも指先に力を込めて。
青が揺らめいた。波紋のように揺らめいて、いくつもの白の点を浮かばせる。
それは次第に大きさを増す。輪郭が露わになっていくにつれ、彼女は息を呑んだ。
「――っ!?」
手だ。あの日、生徒をキャンバスに引きずり込んだいくつもの青白い手が、青の中から浮かび上がる。境界を越え、現に抜け出してナイフを握る教師の腕を掴んだ。
「やめろ。離せっ!」
教師が手を引き剥がそうとするが、次々と現れる手がそれを許さない。腕を肩を、胴や首を掴み、青の中へと引きずり込んでいく。
「門廻先生!」
彼女の腕にも、白の手が伸びる。だがそれは彼女に触れる直前で動きを止めた。
怯え硬直する彼女の目の前で、白い指先に霜が降りる。じわりと広がる霜が指を手を凍らせる。細かく痙攣する手は、すべてが凍り付いたと同時、一度大きく震え。
無慈悲に、いっそ残酷に。
音すら立てずに、砕け散った。
「先生」
無意識に彼女はひとつの言葉を口にした。
それは、隣にいる教師に向けられたものではない。
昔、忘れようとした祭の記憶。悪夢の夜が、硬く閉じた蓋の隙間から溢れ出し、彼女は叫ぶように声を上げた。
「これは幻。塗り重ねた絵の具なんて、すぐに剥がれ落ちる。藍留さんに届かないなんて、そんなのは絶対にありえないっ!」
手に力を込める。指先に感じる、硬い絵の具の層に爪を立て。
力の限り、引き裂いた。
「――海、だ」
現れたのは、目の前の海。深い群青の色を湛えて、穏やかにそこに在る。
塗り重ねられていた青が地に落ちる。白い手はすでにない。
手から解放され、教師は一つ息を吐く。キャンバスに描かれた海を見てどこか哀しげに微笑むと、祠へと移動する。
白布に据えられた貝殻を手にキャンバスの前まで戻り、中のただの絵の具に戻った青を地面に落とす。あらためてナイフを握り、その海の群青を削り取った。
「この色は、藍銅鉱…アズライトです。おそらくは、この海で拾った藍銅鉱を砕いて顔料にしたのでしょう……私のために、あの子は海のもので絵を描き、そして海に連れて行かれてしまった」
「門廻先生」
不安げな彼女に、大丈夫だと教師は微笑む。そこにはもう、悲哀の色は見られない。
「続けます。今ならば、藍留に声が届けられる。それがどんな形か、どのような結果となるのかは分かりませんが…受け取った以上、返さなければ」
だろう、とそっと絵を撫でてから、教師は群青を盛った貝殻を白布の上に据え直した。
その背を見つめ、彼女は無言で彼の元まで下がる。
無意識に握り閉めた守り袋が、仄かに暖かい。
その熱に誰かの温もりを重ねて、彼女は静かに目を閉じた。
20250508 『届かない』
そこには、何もなかった。
己の生家も、友人の家も。記憶と重なるものは、何一つ残っていない。幼少期を過ごしたあの神社の鳥居さえ、どんなに目をこらせど見つける事は叶わなかった。
静かだ。聞こえる潮騒も遠く、生きるものの声などこそともしない。
あぁ、と声が漏れた。震える足が、とうとう耐えきれずに崩れ膝をつく。
一夜だ。たった一夜で、己の故郷は海の下に沈んでしまった。エビスを正しく祀る事が出来なかった村の末路だ。
目の前に広がるのは、穏やかな円形の湾。村を根こそぎ呑み込んで、海にしてしまったのだ。
やはり嫁ぐべきではなかったのだ。老いた父が一人残った所で、祝部《はふりべ》としての役目を全うする事など出来ぬと分かっていたというのに。
後悔が内から溢れ、涙として流れ落ちていく。
滲む視界でも色を失わない、眼下に広がる海を睨めつける。不意に、海に煌めく何かが見えた。涙を拭い、目を凝らす。
ひゅぅ、と喉がなった。悲鳴が喉に張り付き、息が詰まる。
海に揺らぐ、朱色。折れた鳥居の一部が、波に漂い揺れ動いている。
その朱が、次第に色を失っていく。海水に晒され、端から腐食し崩れていく。
明らかな異常。鮮やかだったはずの朱が、青に侵されて海に溶けて消えていく。
そうしてすべてが崩れ溶けて消えていき。村は完全に、海となった。
呆然と海を見下ろす。父はこの最期に何を想ったのだろうか。
目を瞬く。零れ落ちる滴が頬を伝い、地面の色を僅かに濃くする。
穏やかな海。激しさを隠して揺れる青。
その昏い青を、この先生涯にわたって忘れる事などないのだろう。
「エビス…」
掠れた声が、教師の戦慄く唇から溢れ落ちる。
そこに困惑や否定の色はない。最初から理解しているかのように、どこか諦めにも似た響き。俯くその表情は分からない。
「藍留《あいる》はやはり、戻る事はないんだな」
「あいる?」
聞き慣れない名に、彼女は首を傾げた。
「この青に攫われた生徒です。門廻《せと》藍留…私の、姪でした」
顔を上げ、教師は微笑んだ。希望をなくした、哀しい笑みだった。
キャンバスに視線を向ける。手にしたままの絵筆を置いて、教師は徐に手を伸ばした。
青に触れる、その寸前。手が止まり、教師の顔が哀しげに歪む。指先が迷い彷徨って宙を掻き、やがて諦めたように離れていった。
「門廻先生」
「声が、聞こえるのです。この青の向こう側から…意味の分からない大勢の声と。藍留の声」
彼女に向き直り、教師は言う。生徒が最初の絵を描き始めてから、ずっと声が聞こえるのだと。
それは喜びに笑っているようでもあり、悲しみに嘆いているようでもあり。言葉のようで、旋律のようにも聞こえる。そんな不思議な声が、今も聞こえ続けているのだと教師は力なく呟いた。
「先生は、ジュウを知っていたのですか?」
感じた違和感に、彼女は疑問を口にする。教師の態度は、未知の非日常を前にしているとは思えぬほどに落ち着いていた。近しい人を目の前で失った事による嘆きによるものだけではない。まるで最初からすべてを理解しているかのような、そんな無気力とも異なる静けさに、彼女は僅かに表情を険しくした。
だがその問いは、ゆるく首を振られ否定される。悲しみと恐怖に彩られた目をして、教師は遠く、何かを想いながら語り出した。
「ジュウは知りません。ですが私の先祖は昔、海辺の村で祝部として、エビスの儀礼を執り行っていたそうです。曾祖母の父。高祖父の代に、その村はエビスの祟りを受けて海に沈んだと、そう聞いています」
「エビスの、祟り」
「はい。曾祖母は既に他の村に嫁いでおりましたので、無事ではありましたが…話によれば、一夜で村は海に沈んだとの事です」
目を伏せ、教師は一つ息を吐いた。
「私は、幼少の頃より海が怖かった。その話を繰り返し聞かされたからなのか、それとも血筋によるものか…とにかく、海が怖くて今も近づけないほどです」
自嘲して、教師はキャンバスに視線を向ける。青の向こうを透かし見るように、目を細めた。
「あの子は…藍留はそんな私のために、いつからか海を描くようになりました。海が怖いなんて可愛い、と戯けながらも、慰めのように海を描き、私に見せてくれたのです」
視線の先の、滲み出す青が揺らぐ。まるで波紋が広がるように。
揺らぎ、広がり。そして波打つ。キャンバスの中で海が広がっていく。
「思えば、藍留は木漏れ日のような子でした。柔らかな木漏れ日の光が、一歩そこから離れただけで身を焼く光となるように。私が少しでも誤った言動を取れば、穏やかな微笑みを消して、厳しく接する……だからなのでしょうね。あの子の声が聞こえるようになったのは」
教師は笑い、再びキャンバスに広がる青へと手を伸ばす。僅かに触れぬ距離で指先を止め、また一つ吐息を溢した。
「声が聞こえるのです。あの子の声で青を朱で塗り潰せ、と。先生なら出来るよね。このまま青が広がれば、今度は他の生徒が連れて行かれるかもしれない。そんな酷い事、あの時何も出来なくて後悔している先生には出来ないよね、と…あの時、何も出来ないで、怖くて逃げるだけで精一杯だった私を、そう言って責めるのです…いや、責めてもいないか。正しい道へと戻そうと、あえて厳しい言葉をかけているだけ。あの子は、正義感の強い子だったから」
手を下ろし、唇を噛みしめる。強く手を握り締めながら、顔を上げて諦めと、覚悟を決めた目をして教師は彼女を見つめた。
「これがエビスなら、歓待し送別するのが儀礼だ…どうか私にやらせてください。それがあの時何も出来なかった私に出来る、藍留に対する唯一の贖罪だ」
教師の言葉は、哀しいほどに強さを湛え。
彼女は息を呑む。これほどまでの覚悟で望まれたのだから、それに誠実に応えなければ失礼にあたる。揺らぐ視線を隣にいる彼に向け、一度目を閉じた。
一呼吸して目を開け、教師を見据える。了承を口にしかけ、不意に一つの可能性が思考を過ぎていった。
「――先生は、藍留さんを助けたい、ですか?」
「助けられるものでしたら。代われるというのなら、すぐにでも代わってやりたいくらいだ」
真剣な眼差しに、彼女は迷うように口籠もる。だが強い望みに応えるように、教師と目を合わせ口を開いた。
「一つだけ、可能性があります。確実ではありませんし、危険を伴う方法ですが」
「教えてください。それがどんな危険なものであっても構わない。藍留を助けられるのなら、どうか」
息を吸い。吐く。目は逸らさない。
記憶の中にある、一つの方法を呼び起こし、教師へと提示する。
「門廻先生が藍留さんの依坐《よりまし》になり、彼女に儀礼を行わせるのです。ジュウを呼び込んだ者が、歓待し、送別する…そうすれば、戻ってこられるかもしれない」
彼女の提示した可能性に、教師は迷わずに頷き了承した。
20250507 『木漏れ日』