誰かが笑う。それを誰かは嘆き悲しんだ。
波間に揺蕩いながら、声を聞いていた。
「今時――なんて。――のは、おれだ。ならば――とおれの勝手だろう」
「だが――は――。――なければ」
どうして。
言葉にならない思いは、揺らぎとなって渦巻いた。
強欲。傲慢。何故忘れてしまえるのか。受け取る意味を考えずにいられるのか。
「下らない。これだから年寄りは困る。いつまでも古い考えに支配されるなど、愚かでしかない」
「罰当たりめが。憂いなく、健やかでいられる事を幸運だと思えぬ方が、愚かだろう」
嗤う声。嘆く声。
正反対が衝突し、渦を巻く。ぐるりぐるりと大きさを増して、それは一つの流れになる。
「どうしてもと言うなら、祭好きなハフリベにでもやらせればいい。それがあれらの役目だろう」
どうして、と思いが過ぎる。
ひとつを差し出した。たくさんの中の一つ。けれども代わりのないひとつ。
差し出したのだから、一つ返してもらわなければ。それが道理というものだ。返さぬのならば、均衡が崩れてしまう。
流れが変わる。渦を呑み込み大きさを増して、陸へと向かい流れていく。
返してもらわなければ。それが力ずくであったとしても。
流れが波を起こす。陸を舐め、そこにあるものすべてを喰らい尽くしていく。
返してもらう。ジュウはたくさんではあるが、ひとつなのだから。
再び訪れた学校は、恩師を含めて数人の教師がいるばかりで、平日だというのに生徒の姿は見当たらなかった。
恩師によると、目に見えての異変があるのは美術部の顧問だけではあるが、体調不良や異変を訴える生徒がここ数日後を絶たず、しばらくは休校扱いになっているらしい。曰く、何かの音や誰かの声が聞こえて眠れない。視界の隅に黒い何かが映り込み、目を開けているのが怖い。青の色ばかりが気になって、何も手に付かない。等々。
美術室へと向かいつつ、恩師の話を聞いて眉を寄せる彼女とは対照的に、彼は肩を竦め、だろうなと呟いた。
「なにか知っているの?」
問いかけに、彼は彼女に視線を向ける。多分だけどな、と前置きをした上で答えた。
「その教師とやらは、キャンバスに直接触れちまったんだろう。ジュウを受け取ったと判断されたんだ。生徒らの方はまだ触れてないが、ジュウの青を見て影響を受けちまった」
「ジュウの、青」
彼の言葉を繰り返す。
ここ数日。白昼夢の如くに垣間見る何かの記憶が思い起こされた。
ふるり、と震える彼女の肩を抱き寄せて、彼は立ち止まる。戸惑いに揺れる彼女の目を見据え、囁いた。
「どうする?引き返すなら、今のうちだ」
笑みを浮かべながらも真剣な眼差し。その目を見返して、彼女はゆるりと首を振った。
今更、戻れるはずなどない。なかった事にして日常に戻るには、彼女はあまりにも深く足を踏み入れてしまっていた。
「私は大丈夫。一人じゃないから」
彼の頬に手を伸ばし、彼女は笑う。
踏み入れる先が暗闇だろうと、道を示してくれる星明かりはここにいる。だから何も怖くはないのだと、理由は分からないながらに、彼女は大丈夫だと繰り返した。
「燈里」
彼女の名を呼ぶ。頬に触れる手に手を重ね、彼は何かを言いかけ。
不意に、音がした。
しんと静まりかえる廊下に、音が微かに響き渡る。
波の音のような。誰かの声のような。何かの旋律のような。
単調な音。一つがいくつも重なり合い、無数に広がる歌へとなる。
不快に眉を顰める彼は、彼女を抱く腕に僅かに力を込めた。
「物寂しい歌。哀しくて、まるで泣いているみたい」
「これが歌、ねえ?哀《あい》を歌ってるってか。くだらない」
彼女の呟きを、彼は険しさを湛えた視線を前に向けながら笑う。
「どうせなら愛でも歌ってくれりゃあいいのに。その方が気分も幾分か晴れるだろう」
「冬玄《かずとら》」
名を呼ばれ、彼は彼女の耳元に唇を寄せる。戯けながらも、響く音に逆らうように、愛の歌を囁いた。
彼女と目を合わせ、頷く。にっと唇を歪め、彼女を抱いたまま、ゆっくりと歩き出した。
「行くぞ」
奥の美術室に近づく程、音が大きくなる。廊下全体に反響し、音を呑み込み増幅していく。
まるで海の中にいるようだ。音に飲まれぬよう彼の腕にしがみつきながら、彼女は思う。
波と、海に生きるものと、海で死んだものと。この音は、歌は海が奏でているのだ。
歌う海の中を進み、美術室の前まで辿り着く。彼と視線を合わせ彼女は頷くと、扉に手をかけた。
歌が止まる。最初から何もなかったと言わんばかりに、反響していた音は、扉を開けると同時、掻き消えた。
静寂が戻る。ただ一つ、筆の走る音以外を除いて。
美術室の中央。キャンバスに向かい、教師が無心で絵筆を動かしている。じわりと滲み出す青を封じるように、朱色でキャンバスを塗り潰していた。
ゆっくりと歩み寄る。彼女達に気づく様子もなく、教師は只管にキャンバスを朱色に染めている。その顔は涙に濡れて、声に出さずに何かを繰り返し呟いている。
「門廻《せと》先生」
彼女が声をかける。教師は反応を見せず、筆を動かす手も止める様子もない。
「先生。このままじゃ駄目です。ちゃんと終わらせないと、返さないと意味がありません」
教師の目が彼女に向けられる。手は止めず、流れ落ちる涙もそのままに、彼女の言葉の真意を目が問うている。
「この元の絵は、ジュウで描かれているんです。海から流れ着いたもの。人はそれを呼び込み歓待する事で、福を得ていました」
教師の手が止まる。
端からじわりと滲み出す青を視界にいれながら、彼女は静かに教師に告げた。
「人はそれをマレビトと呼び、昔から敬い畏れてきました…ジュウとはつまり、戎。連れて行かれた生徒は、エビスを呼び入れたのです」
20250506 『ラブソング』
ふと、居間のテーブルに置かれた一枚の封筒に、彼女は目を留めた。
白の封筒。宛名には『宮代 燈里《みやしろ あかり》様』と書かれているのみで、それ以外は何もない。
首を傾げながら、彼女は封筒を手に取った。裏を見るも、やはり何も書かれてはいなかった。
彼が置いたのだろうか。過ぎる思考に、それはないなと否定する。彼の筆跡ではないし、そもそも同じ屋根の下で暮らしているのだから、伝えたい事があれば直接話せばよい事だ。
では誰が。疑問に思いながらも、彼女はさほど警戒はせず。
封に手をかける。然程抵抗なく離れた封を開け。
中を覗き込んだ。
波の音が聞こえる。
単調で、静かな音。優しく、怖ろしささえ感じるそれに誘われるように、彼女はゆるり、と瞼を開いた。
「――っ!?」
息を呑む。微睡む意識が一瞬で覚醒し、視界に映る光景を凝視する。
夜の闇を照らすいくつもの提灯の灯り。賑わいを見せる様々な出店。
子供達の笑い声がする。誰かが談笑しながら彼女の側を通り過ぎる。
遠くで聞こえる祭り囃子の笛の音に、彼女はふるりと肩を震わせた。
「どうしたの、お姉ちゃん?」
手を握る感触と、高い子供の声に視線を向けた。ふくよかな笑みを湛えた男の面を着けた子供が、首を傾げながら彼女を見つめている。
きゅっと繋いだ手が、少しばかり強く握られる。祭の奥へ行こうと、彼女を誘う。
「早く行こう?お神楽が始まっちゃうよ」
神楽。その言葉に、彼女の表情が強張った。
知っている。提灯の灯りも、祭を楽しむ人の声も。この先にある、舞台の事も。
それは、彼女が学生時代に見た悪夢だ。忘れようとして、忘れたくはなくて、記憶の奥底に刻みつけて封をした。長い夜の夢だった。
「行こうよ。運が良ければ――様が見られるかもしれないし」
先ほどより強く手を引かれる。嫌だと硬直する体は、だが彼女の意思に反して、子供に手を引かれるままに歩き出した。行かない、と一言口にする事も、首を振る事すら出来ず、彼女は子供と共に奥へと歩いていく。
「今回はね、隣のおじさんが――様に選ばれたんだって。いいなぁ。幸せになれるんでしょう?…いいなぁ」
子供と二人、手を繋いで奥へと歩いて行く。心底羨ましそうに呟く言葉は、彼女に取って恐怖でしかなかった。
――祭で、選ばれた者は。
固く閉ざしたはずの封をこじ開け、記憶が溢れ出す。
夜の祭。面。選ばれた者。その行く末を思い出さぬよう、彼女はきつく目を閉じた。
思い出してはいけない。これは思い出さなくてもいいものだ。
何度も自身に言い聞かせる。手を繋いでいない手で胸元を探り、守り袋を強く掴んだ。
「お姉ちゃん」
静かな声が彼女を呼ぶ。目的地に着いたのか、立ち止まっている事に気づいた。
賑やかな声も笛の音も聞こえない。聞こえるのは波の音だけ。
「お姉ちゃん。――様だよ」
繋いだ手が離れていく。
行ってしまう。何故かそれが怖くて、目を開けた。
「――え?」
視界に広がる、夜の海。寄せては返す波の音に、彼女は目を瞬いた。
困惑して、手を繋いでいた子供へと視線を向ける。だが子供は彼女の事など眼中にない様子で、ただ一点を見つめていた。
「ほら、――様。今回はおじさんが呼び込んだんだ」
一点を見つめたまま、子供は指を差す。促されて指の差す方へと視線を向け、彼女は動きを止めた。
小さな小舟。波に揺られるその船から、一人の男が下りて来た。その腕には何かを抱いている。布にくるまれたそれを抱いて、男は彼女らの方へと近づいてきた。
まるで見えていないように、男は彼女に一瞥もくれずその前を通り過ぎる。視線を外せずにいた彼女は、男が過ぎ去る際に、その抱いたものを見てしまった。
ひゅぅ、と張り付く喉がなる。叫ぶ事も目を逸らす事も出来ずに、彼女はただ男を見つめ続けている。
困惑と混乱。一切の理解が出来ず、じわりと視界の端が歪んだ。
「カンタイが始まるよ」
子供の声を聞きながら、彼女は男を見続ける。
岸壁に開いた洞《あな》。海蝕洞に足を踏み入れた男は、祠の前に抱いていた何かを置いた。
深く礼をする。三回。ぼそぼそと何かを唱える声がした。
「お塩と、お酒。あとお魚かお米…一口ずつ。お供えをするんだよ」
子供の言葉の通りに、男が麻の袋から何かを取り出し、祠に供える。また深く礼をして、男は何かを唱え出す。
これは祝詞《のりと》だろうか。単調な声に意識が揺らぎ出す。
「終わったらね、送り出すの。今回の――様は――だから、海に送る事は出来ないけれど。ちゃんと――を」
子供の声が遠く聞こえる。滲み出した視界で、先ほど見た何かを思い出す。
布に包まれたもの。だらりと垂れ下がる青白いあれは。布の隙間から見えた、水を吸ってふやけたあの白は。
「お姉ちゃん、忘れないでね。ジュウ様を呼び入れたら、ちゃんと歓待して、送り出すんだよ」
視界が黒く染まり出す。
遠くなる子供の声に、記憶の中の誰かの声が重なった。
かたん。
小さな音に、彼女は肩を揺らし顔を上げた。
自宅の居間。何も変わらない、いつもの光景。
「今、のは…?」
目を瞬く。夢を、見ていたのだろうか。
ぼんやりとする意識で、彼女は白の封筒を探した。取り落としてしまったらしい封筒が、足下に落ちている事に気づき、徐に身を屈め封筒に手を伸ばした。
しかし、それより速く彼女ではない手が封筒を拾い上げる。封筒を追って視線を向けた彼女は、その手が彼のものだと気づき、目を見張った。
「燈里《あかり》」
低く名を呼ばれ、彼女はびくりと身を縮こませる。ごめんなさい、と無意識に彼への謝罪を口にした。
「これから先、俺の許可したもの以外は不用意に触るな」
小さく頷く。俯く視界の隅で彼が封筒を逆さにし、中身を手に取るのを見ながら、守り袋を握り締めた。
彼の手の上に、数枚の花びらが落ちる。名も知らぬそれは、彼の手の中で色を青から朱へと色を変え、消えていく。
「冬玄《かずとら》」
「警告…いや、示唆か。燈里、何を見たのか教えてくれ」
彼に呼ばれ、彼女は不安げな面持ちで彼を見る。手招く彼の姿に、一瞬誰かの姿を重ね見て。
――先生。
言いかけて、口を噤む。
気のせいなのだと首を振り、彼女は縋るように彼の腕の中に飛び込んだ。
20250505 『手紙を開くと』
海の中を、流れのままに漂っていた。
潮が満ち、引いていく。抗う事なくその流れに身を任せ、ここに辿り着いた。
ぼんやりと、空を見上げる。遠く揺らめく空はいつでも昏く、今が昼か夜かすらも分からない。
今となっては、意味のない事。海の中では、時間の概念などありはしないのだから。
潮の流れが変わった。また新しく、流れ着くものがあるだろう。今度は物か、それとも者なのか。
どちらでも、何であれども変わらない。ここに流れ着いたものは、すべて等しくジュウに成る。物体も命も、何もかもが解けて混じり合う。混じり合ってひとつになり、たくさんになるのだ。
流れが変わる。水面が近づいて、岸が近い事を知る。
水面越しに、誰かと目が合った。男か女か、はっきりとはしない。合っていると思う目すら、きっとすれ違っているのだろう。
岸が近い。強く引き寄せられ水面越しの誰かの姿が、少しだけ輪郭をはっきりさせる。
誰かが手を伸ばす。抗わずその手に身を任せ。
カンタイの予感に、ざわりとジュウが揺らめいた。
「――燈里《あかり》!」
名を呼ばれて、彼女ははっと顔を上げた。
視線を巡らせる。自宅の居間。食べかけのトースト。
眉を寄せる、彼。
「あ。ごめんね。何だっけ?」
眉を下げる彼女を、暫し無言で彼は見つめ。
重苦しく溜息を吐く。首を振り、彼は静かに立ち上がった。
「冬玄《かずとら》?」
「やっぱり、行かせるべきじゃなかったか」
低い呟きに、彼女は目を瞬く。不安げに瞳を揺らし彼に手を伸ばすが、普段のようにその手が取られる事はなかった。伸ばした手を戻し俯く彼女を一瞥し、彼は居間を出る。
「冬玄…」
呼んでも答える声はない。それが余計に心細くなり、彼女はごめんなさい、と声に出さずに呟いた。
学校から戻ってきてから、彼と少しばかり距離が開いた事を、彼女は感じていた。彼女自身、彼の目を以前のようにまっすぐには見れないでいる。
彼の目を見る時、不意に誰かの目と重なる時があるのだ。それが誰なのか、彼女には分からない。そんな彼女に彼も何かを言う事はなく。あれから数日が過ぎていた。
「燈里」
彼に呼ばれ、彼女は顔を上げる。その目は彼に向けられているが、やはり視線が合う事はない。戻ってきた彼の手に収まる小さな守り袋を意味なく見つめながら、彼女はもう一度ごめんなさいと心の中で呟いた。
「止めた所で今更だしな。それに中途半場で引き摺る方が、危険だろう」
「どういう、意味?」
困惑する彼女に彼は微笑んで、手にした守り袋を彼女の首に提げる。そのまま背後から抱きしめながら、幼い子供にするように優しく彼女の頭を撫でた。
「朝メシ。冷めるぞ」
あ、と間の抜けた声が彼女から漏れる。それに笑って彼は彼女から離れると、食後のコーヒーを入れるために台所へと足を向けた。
生徒が一人消えたあの日。それから音沙汰のなかった恩師から連絡が入ったのは、その日の午後の事であった。
「――え?美術部の先生が、ですか?」
電話の向こう側の恩師の声が震えているのを感じながら、彼女は小さく身を震わせた。
「そうなのよ。あの子と同じように、絵を赤と青で塗り潰しているの。他の先生方や生徒達にも不安が広がっていて」
あの絵。あの海のような昏い群青色を思い出す。
その色を、彼は「ジュウの青」だと言った。それが何を意味するのかを、彼女はまだ彼に聞いていなかった事に気づく。
「宮代《みやしろ》さん。その…貴女の伝手で、誰かいないかしら……こういった、よく分からないものを解決してくれそうな人に」
解決。
一番最初に思い浮かんだのは、婚約者である彼の事だった。
頭を振る。彼に頼む訳にはいかないと、意識を切り替え、すみません、と恩師に謝罪した。
「あの、先生」
短い沈黙の後の別れの挨拶の前に、彼女は恩師に声をかける。なにかしら、とどこか気落ちした恩師の声に、口籠もりそうになる気持ちを堪えて、口を開く。
「お願いがあるんです…あの絵を、もう一度見せてもらう事は出来ませんか?」
電話の向こうで息を呑む音がした。僅かに明るい、了承の返答を受けて、後日伺う旨と受け入れてもらえた事の礼を言って電話を切る。
深い溜息を吐いて顔を上げれば、腕を組んだ彼の目と視線が合った。
「俺も行く。いいな」
静かに問われ、目を逸らすように彼女は頷く。無意識に首から提げた守り袋を握り締める。
――…せい。
馴染んだ響き。記憶の奥底に刻みつく恐怖に形を与える言葉。
――先生。
恩師ではない。別の誰か。目を閉じ、耳を塞いで、忘れようと踠く悪夢に差し込む一筋の星明かり。
顔も声も思い出す事はないというのに、忘れられない愛しい響き。
何故だか、無性に泣きたかった。
「冬玄」
腕を伸ばし、彼に抱きつく。避けられず受け入れられた事で、余計に泣きたくなり、彼の胸に縋り付いた。
「冬玄、冬玄っ」
頭を撫でられる感覚に、絶えきれず彼女の目から涙が零れ落ちる。嗚咽を溢す彼女の頭を撫でながら、彼は優しく囁いた。
「大丈夫だ、怖くない。怖いものは何もないだろう」
「ほんと、に?」
「あぁ…それでも怖いって言うなら、俺に望め。何とかしてやるから」
涙で滲む視界越しに彼を見上げる。安堵と、幾許かの怖れを抱きながら、彼女は小さく頷いた。
――望み過ぎたら……気ぃつけぇ。
誰かの忠告が、彼女の頭を過ぎる。
それが誰だったのか、彼女は覚えてはいなかった。
20250504 『すれ違う瞳』
放課後の美術室。生徒が一人、キャンバスに向かい、無心で何かを描いている。
否、正しくはキャンバスを一色で塗り潰している。その手が止まる事はなく、けれどもキャンバスを見つめる瞳は酷く虚ろだ。
元は一面の緋色が、青で塗り潰されていく。深い青。群青色。
まるで灯り一つない夜のように。深い海の中のように。
朱を青で染め上げて、生徒はようやく筆を置いた。微笑みを携え、塗り上げたばかりの青へと手を伸ばす。
不意に、虚ろな瞳が焦点を結ぶ。一つ、二つ瞬きをして、伸ばした手を見つめ、そしてキャンバスを見た。
「――ぁ……あぁ。ああぁあっ」
目を見開き、言葉にならない悲鳴が漏れる。伸ばした腕を急いで引き、視線は逸らせぬままに、手探りで絵の具を手繰り寄せる。
叩きつけるようにパレットに出したのは、朱色。青を描いた筆とは別の筆を取り出し、半狂乱になりながら染めたばかりの青を朱で塗り潰していく。
「ぃや。や、いや。青が、どうしてっ。青、青い、青い…いやだっ」
青が朱に染められていく。混じり合う事はない。青を覆い隠すように、封じるように朱を重ねていく。
「どうして、なんで……青い、青、が」
繰り返す。何度でも。キャンバスに青と朱が重ねられていく。
それは美術室に教師が訪れ、止めるまで続けられていた。
彼女が母校へと足を運んだのは、恩師から連絡を受けてから三日後の事であった。
「お久しぶりです。先生」
「久しぶりね、宮代さん。元気そうでなによりよ…急に呼び出してしまって申し訳ないわね」
眉を下げる恩師に、彼女は微笑んで首を振る。
「大丈夫です。ちょうど今、仕事も落ち着いていますし…それよりも」
笑みを収め、彼女は真剣な面持ちで恩師を見つめる。さらに眉を下げ憂う表情を浮かべながら、恩師は彼女を促し職員室を出た。
「ごめんなさいね。精神的なものだろうって言われているのだけれど、どうしてもそれだけではない気がして…何ていうのかしら。取り憑かれている、ような」
「私は霊能者ではないので、本当に取り憑かれていても何も出来ないですよ」
申し訳ない、と何度も謝罪しながら、不安を色濃くする恩師の目に微かな希望と期待を見て、彼女は苦笑する。
フリーライターとして地方の廃れた伝統や風習を中心に記事を書く彼女は、確かに他よりはそういったものに関しての知識がある。だがそれだけだ。少しばかり詳しいというだけで、物語のように鮮やかに恩師の憂いを取り除く事など、出来るはずがない。
彼女の困惑を感じ取ったのだろう。恩師は話題を変えるように穏やかに微笑み、努めて明るい声を上げた。
「気にしなくていいの。どちらかと言えば、私が貴女に会いたくなってしまったのよ。卒業してから、連絡がなくなるのは仕方がないけれど、他の子は一度くらいは顔を見せに来てくれたのに、貴女と言ったら」
「すみません。大学で民俗学を専攻したら、色々と忙しくって。卒業して就職したら、さらに地方を飛び回る事になったものですから」
「まったく。いつも心配していたのよ。在学中、数週間も昏睡状態で。その時から貴女は何かが変わった感じもするし…本当に心配していたのよ」
心から彼女の身を案ずる恩師に、彼女は頭を下げるしかない。その当時の朧気な記憶が過ぎ、胸の内に暖かさが広がると同時に、冷たいひとひらが降り注ぐ。それを掻き消すように、恩師に謝罪の言葉を口にしかけ、だがそれは形になる事はなかった。
聞こえたのは、誰かの声。焦りを含み、何かを止めようと声を上げている。
声はどうやら、向かうはずだった美術室から聞こえているらしい。一度恩師に視線を向けてから、彼女は美術室を目指し足を速めた。
美術室の扉を開けて、足を踏み入れた彼女の目を奪ったのは、キャンバスを覆う一面の青だった。
深い群青色。海の中深くにいるような錯覚に、無意識に呼吸が止まる。
「止めなさい!」
叫ぶような声に、はっとして視線を向ける。キャンバスの前、絵筆を手にする生徒と、それを静止しようとする教師。まるで教師の事が見えていないように、生徒は無心でキャンバスを青で塗り潰している。
ふと感じた違和感に、彼女は目を凝らす。遅れて美術室に訪れた恩師の引き止める声も気にかけず、キャンバスへと近づいた。
「――赤?」
塗り潰す青の下に見える色の痕跡を見つけ、彼女は訝しげに眉を寄せた。
赤よりも鮮やかなそれは、朱色。魔を払う力を持つとされる丹《に》の色。それが青に塗り潰されていく。
キャンバスの厚みに、それが何度も繰り返されてきた事に、彼女は気づいて身を震わせた。何度も朱で封じ、その封を破って青が浸食する。
「っ、駄目!」
青を止めようと生徒に駆け寄るが、僅かばかり遅かった。
恍惚と微笑む生徒。筆を置き、キャンバスに手を伸ばす。
その手を止めようとしていた教師が掴むが、それを意に介さず生徒の指先がキャンバスの青に触れた。
聞こえたのは声か、旋律か。
嘆き恨む声のような。祈り願う旋律のような。
音が、美術室に響き渡る。
最初に悲鳴を上げたのは、生徒を止めていた教師だった。手を離し、後退る勢いで崩れ落ちる。見開かれた目は生徒ではなくキャンバスだけを凝視し、地べたに座ったままでさらに後退していく。
声にならない悲鳴が生徒から漏れる。青に触れていた生徒の手が、キャンバスから伸びた手に掴まれ、引き込まれていく。
恐怖で強張り動けない生徒の体を、いくつもの手が覆う。青白い死者の手が、青の向こうに広がる昏い海へと生徒を連れて行く。
その一つ、細い手が生徒の隣で佇む彼女へと伸びた。
「止めろ。これはお前らのもんじゃない」
低い声。ぐいと背後に体が引かれ、手が彼女に届く事はない。
しばらく宙を彷徨う手は、やがて諦めて生徒の肩を掴む。
悲鳴すら出せないでいる生徒を引き寄せていく。
「――いやっ」
か細い声。生徒の指先が逃れるように動き、涙に濡れた目が彼女を見た。
咄嗟に助けようと彼女は身じろぐが、背後から抱き込まれるようにして拘束する誰かの腕がそれを許さない。誰かのもう片方の手は彼女の視界を覆い、嫌だと踠く彼女を生徒と青から隔離した。
音が響く。高く、低く渦を巻くような音は、多重に折り重なった人々の想いだ。
喜び。悲しみ。嘆き。願う。それに似た声を、彼女はかつて聞いた事があった気がした。
水音がする。ぱしゃん、と最後の抵抗のような微かな音を最後に、音のすべては消えた。
彼女の視界を覆う手が外され、拘束する腕の力が緩む。身じろいで背後を振り返り、彼女はか細い声で彼の名を呼んだ。
「冬玄《かずとら》」
一筋零れ落ちた彼女の涙を拭い、彼は微笑んだ。慰めるように背を撫でられ、彼女は彼の胸に凭れながら辺りを見渡した。
床に倒れている教師。戸に凭れるように崩れ落ちている恩師。どうやら意識を失っているようで、動く様子はなかった。
生徒の姿はない。青に塗り潰されたキャンバスが一つ、残されたまま。
生徒の、あの最後の表情が思い返され、なんでと言いかけ、慌てて強く唇を噛んだ。
彼に守られた身で、彼を責める事は出来ない。
「いい。助けてやれなかったのは事実だ」
静かな彼の言葉に、必死で首を振る。強く目を瞑り、自身を落ち着かせるように、彼女は首から提げている守り袋を掴んで深く呼吸をする。
何度か繰り返し、落ち着きを取り戻して、彼女はそろりと目を開けた。
キャンバスに視線を向ける。塗り潰されたキャンバスの青が、波打つように微かに揺らいだように見えた。
「これは…何?さっきのは」
漏れそうになる悲鳴を押し殺し、彼女は問う。
「――ジュウ。海を描いた青。悲しみの色であり、喜びの色。青い青い、命の色」
握り締めた手の中の守り袋が、僅かに熱を帯びる。
「これは、ジュウの青だ」
険しさを滲ませた彼の表情に、誰かの姿が重なって見えた。そんな気がした。
20250503 『青い青い』
風が吹いていた。
「――灰?」
手を伸ばし、風に舞う細かな白を掬う。手のひらに乗せた僅かな灰は、どうやら異国から来たようだ。脳裏に浮かぶ風景に、目を細めた。
風に灰を流し、その行く末を追う。鬱蒼と茂る木々の向こう。暗がりに蠢く、白の影を見た。
「珍しい。死霊の塊か。それも、異国のものとは」
興味を引かれて影に近づく。影に触れれば、響き渡るのは聞き慣れぬ異国の言葉。記憶を探り、この国の言葉へと移し替えていく。
「我らは、忘れられた、ね」
繰り返される言葉の意味を理解して、はぁ、と息を吐いた。人間から忘れられた。忘れられたからこそ、この影はここにいるのだという。
人間から認識される事で初めて存在を保つ妖。人間から忘れられた事で存在するという目の前の影。
首を傾げつつ、記憶を探る。その真逆の在り方を、どこか知識として記憶に留めてあったはずだ。
「――あぁ、そうだ。異国の鎮まらぬ死者か。不完全な埋葬。正しく祀られず、祈られず。忘却されていく者達の悲しみだね」
影が呻く。その声は怨嗟のようであり、悲嘆のようでもあった。
人間が聞けば気が触れるであろうその響き。腕に纏わり付く影が、皮膚を突き破り内へと浸食し始める。じわり戸広がる穢れの灼けつく感覚を受け入れながら、ふと思いつき、口を開く。
「誰に、忘れられたくなかったのかな」
声が、動きが止まる、腕を引き抜き、答えを待った。
答える声はない。首を傾げ、繰り返した。
「忘れられたくなかった者がいたはずだ。君らを知らぬ他者の祈りなど、慰めにはならないのだから。親か兄弟か、或いは恋人か…誰に忘れられたくなかったんだい?」
ざわり、と影が蠢いた。ざわりざわり、と形を変えながら、幼い少女の声色で一つの答えを高らかに告げた。
――弟よ!
蠢く影が二つに分かたれ、小さな影を形作る。その影と視線を合わせるように身を屈め、さらに問いかける。
「では何故、弟に忘れられたくないのかな」
――だって私は姉だもの。弟を守ったのよ。そりゃあ褒められた方法ではなかったけれど。それでも忘れられるのはあんまりだわ。
小さな影は輪郭を成し、小さな少女を形作る。影だった少女は目に涙を湛えながらも、気丈にこちらを見上げていた。
――私は、子供達に忘れられたくはなかった。
別の声がした。影が分かたれ、それは凜と佇む女性の姿を成していく。
――どんな形であれ、覚えてくれているのであればよかった。あの子達にだけは忘れられたくはなかったわ。
目を伏せ、女性は微笑む。悲しみを滲ませながらも、そこに涙はない。
――私は妻に。他の誰もが、私を悪だと罵るとしても、妻には信じ続けてもらいたかった。
別の声。壮年の男性が、空を仰ぎ呟いた。
――俺は親友に、俺がいた事を覚えていてもらいたかった。俺の覚悟を、知っていてほしかった。
――俺も仲間にだけは、忘れてほしくなかった。俺達の誇りを、生き様を。ただ一人でいい。記憶していてほしかった。
最後に影は二つに分かたれ、それは二人の青年の姿を形作る。
それぞれ強い目をして、二人の青年はそれでも笑っていた。
「強い者達だね。信念を持って、生きた者の目をしている。ではどうしようか。君らのいた地へ戻るかい?あちらには、赦しを与える神、とやらがいるのだろう」
灰に乗ってこの地まで辿り着いた者らが、果たして復活の時に赦しを与えられるのかは疑問ではあるが。
だが予想に反して彼らは皆、赦しの言葉にそれぞれ顔を顰め否定する。
「嫌よ。私の罪を何も知らない誰かに赦されたくなんてないわ」
「そうね。私を赦すのは、私か子供達だけ。他者の赦しは必要ない」
「あぁ。赦されぬ事すら覚悟の上だった。妻以外の誰かになど、私の罪を量ってもらいたくはない」
「俺の罪は誇りだ。赦しはいらないからこそ、俺はこの身を燃やして弔うように願った」
「部外者の赦しは傲慢だ。それならいっそすべてを忘れて、永遠の影として漂う方がいい」
強い者らだ。余程の覚悟がそこにはあったのだろう。
苦笑して、それならどうするか、と思考する。一つの選択肢を思いながら、そう言えばと疑問を口にする。
「君らの国の風は、どうして君らを遠く離れたこの地に届けたのだろうね」
故郷を離れてしまえば、さらに彼らを知る者はなくなる。忘れられる事を厭う彼らは、何故ここにいるのだろうか。
吹く風に意識を向ける。何も語らず自由に舞う風は、楽しげにくるりと円を描きながら、高く舞い上がっていく。
風を追って見上げた空に、風に乗った花弁が舞い踊る。極彩色に彩られた空を見ていれば、誰かが小さく声を漏らした。
「懐かしいわ。家族で花畑に行ったのよ。花びらが舞ってとても綺麗だった」
「最後の日の朝に見たのが、こんな空だった。風に花が舞って、それに勇気づけられた」
「妻に花を送ったのです。別れと覚悟を託して…妻は笑ってくれました」
「弟はね、花が好きなのよ。だからいつも遊ぶ時は、秘密の花畑に行ったの」
「この身を燃やす時に、一輪で良いから花を手向けて欲しいと願った。それだけは叶えてくれたな」
目を細め、それぞれ思い出に浸る彼らはとても穏やかだ。
ここに来たのは偶然ではない。そういう事かと苦笑する。
「君らの大切な者は、どうやら君らを最後まで覚えていたようだね。だがその者がいなくなり、君らを正しく知る者はなくなった。故に、君らは祀られず、忘れられ。鎮まらぬ死者となったのだろう。そして、君らの大切な者の想いが、君らをここまで運ばせた」
風に舞う花弁が、彼らに降り頻る。手を伸ばし受け入れる彼らは、泣くように皆笑った。
今の彼らならば、停滞するのではなく先に進む事も出来るだろう。
「君らは、赦しを必要ないと言った。だが同時にすべてを忘却しても構わないとも言ったね。ならば、この地で新しく目覚めるために眠るかい?」
彼らの視線を受けながら、笑う。
「常世。新しい目覚めを待つ間の、揺り籠のような所さ。赦しも裁きもない。すべてを忘れて眠る場所」
例外はあるが。心の内だけで付け足した。
妖に成ったもの。妖と深く関わった者。堕ちたモノ。
彼らにも残るものはあるだろうが、彼らは大丈夫だろう。根拠のない確信に小さく笑い、手を差し伸べる。戸惑う彼らを見つめ、どうする、と囁いた。
最初に動いたのは誰だったか。互いを見て頷き、受け入れる。
差し出した手を握る少女の小さな手を握り返し、歩き出した。
「あなたはだあれ?ここの神なの?」
問いかける少女に視線を向けて、肩を竦め首を振る。
この身は神などと、人間に奉られた存在ではない。
「ただの木さ。生えている場所が他と少しばかり違う位の、ただの長くを見てきた老木だよ」
首を傾げる少女に笑いかける。訝しげな顔をする彼らに、良くある事だろう、と呟いた。
そこまで珍しいものではないだろうに。眠る人間の置いていった記憶では、彼らの故郷でも、木が人間になる事はよくあるはずだ。
「常世に在る橘。君らの揺り籠役を任されている、一本の何の変哲もない木だよ」
そう語れば彼らは皆、驚いたようにそれぞれに声を上げた。
20250502 『sweet memories』