sairo

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放課後の美術室。生徒が一人、キャンバスに向かい、無心で何かを描いている。
否、正しくはキャンバスを一色で塗り潰している。その手が止まる事はなく、けれどもキャンバスを見つめる瞳は酷く虚ろだ。
元は一面の緋色が、青で塗り潰されていく。深い青。群青色。
まるで灯り一つない夜のように。深い海の中のように。
朱を青で染め上げて、生徒はようやく筆を置いた。微笑みを携え、塗り上げたばかりの青へと手を伸ばす。
不意に、虚ろな瞳が焦点を結ぶ。一つ、二つ瞬きをして、伸ばした手を見つめ、そしてキャンバスを見た。

「――ぁ……あぁ。ああぁあっ」

目を見開き、言葉にならない悲鳴が漏れる。伸ばした腕を急いで引き、視線は逸らせぬままに、手探りで絵の具を手繰り寄せる。
叩きつけるようにパレットに出したのは、朱色。青を描いた筆とは別の筆を取り出し、半狂乱になりながら染めたばかりの青を朱で塗り潰していく。

「ぃや。や、いや。青が、どうしてっ。青、青い、青い…いやだっ」

青が朱に染められていく。混じり合う事はない。青を覆い隠すように、封じるように朱を重ねていく。

「どうして、なんで……青い、青、が」

繰り返す。何度でも。キャンバスに青と朱が重ねられていく。


それは美術室に教師が訪れ、止めるまで続けられていた。





彼女が母校へと足を運んだのは、恩師から連絡を受けてから三日後の事であった。

「お久しぶりです。先生」
「久しぶりね、宮代さん。元気そうでなによりよ…急に呼び出してしまって申し訳ないわね」

眉を下げる恩師に、彼女は微笑んで首を振る。

「大丈夫です。ちょうど今、仕事も落ち着いていますし…それよりも」

笑みを収め、彼女は真剣な面持ちで恩師を見つめる。さらに眉を下げ憂う表情を浮かべながら、恩師は彼女を促し職員室を出た。


「ごめんなさいね。精神的なものだろうって言われているのだけれど、どうしてもそれだけではない気がして…何ていうのかしら。取り憑かれている、ような」
「私は霊能者ではないので、本当に取り憑かれていても何も出来ないですよ」

申し訳ない、と何度も謝罪しながら、不安を色濃くする恩師の目に微かな希望と期待を見て、彼女は苦笑する。
フリーライターとして地方の廃れた伝統や風習を中心に記事を書く彼女は、確かに他よりはそういったものに関しての知識がある。だがそれだけだ。少しばかり詳しいというだけで、物語のように鮮やかに恩師の憂いを取り除く事など、出来るはずがない。
彼女の困惑を感じ取ったのだろう。恩師は話題を変えるように穏やかに微笑み、努めて明るい声を上げた。

「気にしなくていいの。どちらかと言えば、私が貴女に会いたくなってしまったのよ。卒業してから、連絡がなくなるのは仕方がないけれど、他の子は一度くらいは顔を見せに来てくれたのに、貴女と言ったら」
「すみません。大学で民俗学を専攻したら、色々と忙しくって。卒業して就職したら、さらに地方を飛び回る事になったものですから」
「まったく。いつも心配していたのよ。在学中、数週間も昏睡状態で。その時から貴女は何かが変わった感じもするし…本当に心配していたのよ」

心から彼女の身を案ずる恩師に、彼女は頭を下げるしかない。その当時の朧気な記憶が過ぎ、胸の内に暖かさが広がると同時に、冷たいひとひらが降り注ぐ。それを掻き消すように、恩師に謝罪の言葉を口にしかけ、だがそれは形になる事はなかった。
聞こえたのは、誰かの声。焦りを含み、何かを止めようと声を上げている。
声はどうやら、向かうはずだった美術室から聞こえているらしい。一度恩師に視線を向けてから、彼女は美術室を目指し足を速めた。





美術室の扉を開けて、足を踏み入れた彼女の目を奪ったのは、キャンバスを覆う一面の青だった。
深い群青色。海の中深くにいるような錯覚に、無意識に呼吸が止まる。

「止めなさい!」

叫ぶような声に、はっとして視線を向ける。キャンバスの前、絵筆を手にする生徒と、それを静止しようとする教師。まるで教師の事が見えていないように、生徒は無心でキャンバスを青で塗り潰している。
ふと感じた違和感に、彼女は目を凝らす。遅れて美術室に訪れた恩師の引き止める声も気にかけず、キャンバスへと近づいた。

「――赤?」

塗り潰す青の下に見える色の痕跡を見つけ、彼女は訝しげに眉を寄せた。
赤よりも鮮やかなそれは、朱色。魔を払う力を持つとされる丹《に》の色。それが青に塗り潰されていく。
キャンバスの厚みに、それが何度も繰り返されてきた事に、彼女は気づいて身を震わせた。何度も朱で封じ、その封を破って青が浸食する。

「っ、駄目!」

青を止めようと生徒に駆け寄るが、僅かばかり遅かった。
恍惚と微笑む生徒。筆を置き、キャンバスに手を伸ばす。
その手を止めようとしていた教師が掴むが、それを意に介さず生徒の指先がキャンバスの青に触れた。

聞こえたのは声か、旋律か。
嘆き恨む声のような。祈り願う旋律のような。
音が、美術室に響き渡る。

最初に悲鳴を上げたのは、生徒を止めていた教師だった。手を離し、後退る勢いで崩れ落ちる。見開かれた目は生徒ではなくキャンバスだけを凝視し、地べたに座ったままでさらに後退していく。
声にならない悲鳴が生徒から漏れる。青に触れていた生徒の手が、キャンバスから伸びた手に掴まれ、引き込まれていく。
恐怖で強張り動けない生徒の体を、いくつもの手が覆う。青白い死者の手が、青の向こうに広がる昏い海へと生徒を連れて行く。
その一つ、細い手が生徒の隣で佇む彼女へと伸びた。

「止めろ。これはお前らのもんじゃない」

低い声。ぐいと背後に体が引かれ、手が彼女に届く事はない。
しばらく宙を彷徨う手は、やがて諦めて生徒の肩を掴む。
悲鳴すら出せないでいる生徒を引き寄せていく。

「――いやっ」

か細い声。生徒の指先が逃れるように動き、涙に濡れた目が彼女を見た。
咄嗟に助けようと彼女は身じろぐが、背後から抱き込まれるようにして拘束する誰かの腕がそれを許さない。誰かのもう片方の手は彼女の視界を覆い、嫌だと踠く彼女を生徒と青から隔離した。
音が響く。高く、低く渦を巻くような音は、多重に折り重なった人々の想いだ。
喜び。悲しみ。嘆き。願う。それに似た声を、彼女はかつて聞いた事があった気がした。
水音がする。ぱしゃん、と最後の抵抗のような微かな音を最後に、音のすべては消えた。
彼女の視界を覆う手が外され、拘束する腕の力が緩む。身じろいで背後を振り返り、彼女はか細い声で彼の名を呼んだ。

「冬玄《かずとら》」

一筋零れ落ちた彼女の涙を拭い、彼は微笑んだ。慰めるように背を撫でられ、彼女は彼の胸に凭れながら辺りを見渡した。
床に倒れている教師。戸に凭れるように崩れ落ちている恩師。どうやら意識を失っているようで、動く様子はなかった。
生徒の姿はない。青に塗り潰されたキャンバスが一つ、残されたまま。
生徒の、あの最後の表情が思い返され、なんでと言いかけ、慌てて強く唇を噛んだ。
彼に守られた身で、彼を責める事は出来ない。

「いい。助けてやれなかったのは事実だ」

静かな彼の言葉に、必死で首を振る。強く目を瞑り、自身を落ち着かせるように、彼女は首から提げている守り袋を掴んで深く呼吸をする。
何度か繰り返し、落ち着きを取り戻して、彼女はそろりと目を開けた。
キャンバスに視線を向ける。塗り潰されたキャンバスの青が、波打つように微かに揺らいだように見えた。

「これは…何?さっきのは」

漏れそうになる悲鳴を押し殺し、彼女は問う。

「――ジュウ。海を描いた青。悲しみの色であり、喜びの色。青い青い、命の色」

握り締めた手の中の守り袋が、僅かに熱を帯びる。

「これは、ジュウの青だ」

険しさを滲ませた彼の表情に、誰かの姿が重なって見えた。そんな気がした。



20250503 『青い青い』

5/4/2025, 6:15:24 AM