sairo

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風が吹いていた。

「――灰?」

手を伸ばし、風に舞う細かな白を掬う。手のひらに乗せた僅かな灰は、どうやら異国から来たようだ。脳裏に浮かぶ風景に、目を細めた。
風に灰を流し、その行く末を追う。鬱蒼と茂る木々の向こう。暗がりに蠢く、白の影を見た。

「珍しい。死霊の塊か。それも、異国のものとは」

興味を引かれて影に近づく。影に触れれば、響き渡るのは聞き慣れぬ異国の言葉。記憶を探り、この国の言葉へと移し替えていく。

「我らは、忘れられた、ね」

繰り返される言葉の意味を理解して、はぁ、と息を吐いた。人間から忘れられた。忘れられたからこそ、この影はここにいるのだという。
人間から認識される事で初めて存在を保つ妖。人間から忘れられた事で存在するという目の前の影。
首を傾げつつ、記憶を探る。その真逆の在り方を、どこか知識として記憶に留めてあったはずだ。

「――あぁ、そうだ。異国の鎮まらぬ死者か。不完全な埋葬。正しく祀られず、祈られず。忘却されていく者達の悲しみだね」

影が呻く。その声は怨嗟のようであり、悲嘆のようでもあった。
人間が聞けば気が触れるであろうその響き。腕に纏わり付く影が、皮膚を突き破り内へと浸食し始める。じわり戸広がる穢れの灼けつく感覚を受け入れながら、ふと思いつき、口を開く。

「誰に、忘れられたくなかったのかな」

声が、動きが止まる、腕を引き抜き、答えを待った。
答える声はない。首を傾げ、繰り返した。

「忘れられたくなかった者がいたはずだ。君らを知らぬ他者の祈りなど、慰めにはならないのだから。親か兄弟か、或いは恋人か…誰に忘れられたくなかったんだい?」

ざわり、と影が蠢いた。ざわりざわり、と形を変えながら、幼い少女の声色で一つの答えを高らかに告げた。

――弟よ!

蠢く影が二つに分かたれ、小さな影を形作る。その影と視線を合わせるように身を屈め、さらに問いかける。

「では何故、弟に忘れられたくないのかな」
――だって私は姉だもの。弟を守ったのよ。そりゃあ褒められた方法ではなかったけれど。それでも忘れられるのはあんまりだわ。

小さな影は輪郭を成し、小さな少女を形作る。影だった少女は目に涙を湛えながらも、気丈にこちらを見上げていた。
――私は、子供達に忘れられたくはなかった。

別の声がした。影が分かたれ、それは凜と佇む女性の姿を成していく。

――どんな形であれ、覚えてくれているのであればよかった。あの子達にだけは忘れられたくはなかったわ。

目を伏せ、女性は微笑む。悲しみを滲ませながらも、そこに涙はない。

――私は妻に。他の誰もが、私を悪だと罵るとしても、妻には信じ続けてもらいたかった。

別の声。壮年の男性が、空を仰ぎ呟いた。

――俺は親友に、俺がいた事を覚えていてもらいたかった。俺の覚悟を、知っていてほしかった。
――俺も仲間にだけは、忘れてほしくなかった。俺達の誇りを、生き様を。ただ一人でいい。記憶していてほしかった。

最後に影は二つに分かたれ、それは二人の青年の姿を形作る。
それぞれ強い目をして、二人の青年はそれでも笑っていた。


「強い者達だね。信念を持って、生きた者の目をしている。ではどうしようか。君らのいた地へ戻るかい?あちらには、赦しを与える神、とやらがいるのだろう」

灰に乗ってこの地まで辿り着いた者らが、果たして復活の時に赦しを与えられるのかは疑問ではあるが。
だが予想に反して彼らは皆、赦しの言葉にそれぞれ顔を顰め否定する。

「嫌よ。私の罪を何も知らない誰かに赦されたくなんてないわ」
「そうね。私を赦すのは、私か子供達だけ。他者の赦しは必要ない」
「あぁ。赦されぬ事すら覚悟の上だった。妻以外の誰かになど、私の罪を量ってもらいたくはない」
「俺の罪は誇りだ。赦しはいらないからこそ、俺はこの身を燃やして弔うように願った」
「部外者の赦しは傲慢だ。それならいっそすべてを忘れて、永遠の影として漂う方がいい」

強い者らだ。余程の覚悟がそこにはあったのだろう。
苦笑して、それならどうするか、と思考する。一つの選択肢を思いながら、そう言えばと疑問を口にする。

「君らの国の風は、どうして君らを遠く離れたこの地に届けたのだろうね」

故郷を離れてしまえば、さらに彼らを知る者はなくなる。忘れられる事を厭う彼らは、何故ここにいるのだろうか。
吹く風に意識を向ける。何も語らず自由に舞う風は、楽しげにくるりと円を描きながら、高く舞い上がっていく。
風を追って見上げた空に、風に乗った花弁が舞い踊る。極彩色に彩られた空を見ていれば、誰かが小さく声を漏らした。

「懐かしいわ。家族で花畑に行ったのよ。花びらが舞ってとても綺麗だった」
「最後の日の朝に見たのが、こんな空だった。風に花が舞って、それに勇気づけられた」
「妻に花を送ったのです。別れと覚悟を託して…妻は笑ってくれました」
「弟はね、花が好きなのよ。だからいつも遊ぶ時は、秘密の花畑に行ったの」
「この身を燃やす時に、一輪で良いから花を手向けて欲しいと願った。それだけは叶えてくれたな」

目を細め、それぞれ思い出に浸る彼らはとても穏やかだ。
ここに来たのは偶然ではない。そういう事かと苦笑する。

「君らの大切な者は、どうやら君らを最後まで覚えていたようだね。だがその者がいなくなり、君らを正しく知る者はなくなった。故に、君らは祀られず、忘れられ。鎮まらぬ死者となったのだろう。そして、君らの大切な者の想いが、君らをここまで運ばせた」

風に舞う花弁が、彼らに降り頻る。手を伸ばし受け入れる彼らは、泣くように皆笑った。
今の彼らならば、停滞するのではなく先に進む事も出来るだろう。

「君らは、赦しを必要ないと言った。だが同時にすべてを忘却しても構わないとも言ったね。ならば、この地で新しく目覚めるために眠るかい?」

彼らの視線を受けながら、笑う。

「常世。新しい目覚めを待つ間の、揺り籠のような所さ。赦しも裁きもない。すべてを忘れて眠る場所」

例外はあるが。心の内だけで付け足した。
妖に成ったもの。妖と深く関わった者。堕ちたモノ。
彼らにも残るものはあるだろうが、彼らは大丈夫だろう。根拠のない確信に小さく笑い、手を差し伸べる。戸惑う彼らを見つめ、どうする、と囁いた。
最初に動いたのは誰だったか。互いを見て頷き、受け入れる。
差し出した手を握る少女の小さな手を握り返し、歩き出した。



「あなたはだあれ?ここの神なの?」

問いかける少女に視線を向けて、肩を竦め首を振る。
この身は神などと、人間に奉られた存在ではない。

「ただの木さ。生えている場所が他と少しばかり違う位の、ただの長くを見てきた老木だよ」

首を傾げる少女に笑いかける。訝しげな顔をする彼らに、良くある事だろう、と呟いた。
そこまで珍しいものではないだろうに。眠る人間の置いていった記憶では、彼らの故郷でも、木が人間になる事はよくあるはずだ。


「常世に在る橘。君らの揺り籠役を任されている、一本の何の変哲もない木だよ」

そう語れば彼らは皆、驚いたようにそれぞれに声を上げた。



20250502 『sweet memories』

5/3/2025, 10:23:59 AM