sairo

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海の中を、流れのままに漂っていた。
潮が満ち、引いていく。抗う事なくその流れに身を任せ、ここに辿り着いた。
ぼんやりと、空を見上げる。遠く揺らめく空はいつでも昏く、今が昼か夜かすらも分からない。
今となっては、意味のない事。海の中では、時間の概念などありはしないのだから。
潮の流れが変わった。また新しく、流れ着くものがあるだろう。今度は物か、それとも者なのか。
どちらでも、何であれども変わらない。ここに流れ着いたものは、すべて等しくジュウに成る。物体も命も、何もかもが解けて混じり合う。混じり合ってひとつになり、たくさんになるのだ。
流れが変わる。水面が近づいて、岸が近い事を知る。
水面越しに、誰かと目が合った。男か女か、はっきりとはしない。合っていると思う目すら、きっとすれ違っているのだろう。
岸が近い。強く引き寄せられ水面越しの誰かの姿が、少しだけ輪郭をはっきりさせる。
誰かが手を伸ばす。抗わずその手に身を任せ。


カンタイの予感に、ざわりとジュウが揺らめいた。





「――燈里《あかり》!」

名を呼ばれて、彼女ははっと顔を上げた。
視線を巡らせる。自宅の居間。食べかけのトースト。
眉を寄せる、彼。

「あ。ごめんね。何だっけ?」

眉を下げる彼女を、暫し無言で彼は見つめ。
重苦しく溜息を吐く。首を振り、彼は静かに立ち上がった。

「冬玄《かずとら》?」
「やっぱり、行かせるべきじゃなかったか」

低い呟きに、彼女は目を瞬く。不安げに瞳を揺らし彼に手を伸ばすが、普段のようにその手が取られる事はなかった。伸ばした手を戻し俯く彼女を一瞥し、彼は居間を出る。

「冬玄…」

呼んでも答える声はない。それが余計に心細くなり、彼女はごめんなさい、と声に出さずに呟いた。
学校から戻ってきてから、彼と少しばかり距離が開いた事を、彼女は感じていた。彼女自身、彼の目を以前のようにまっすぐには見れないでいる。
彼の目を見る時、不意に誰かの目と重なる時があるのだ。それが誰なのか、彼女には分からない。そんな彼女に彼も何かを言う事はなく。あれから数日が過ぎていた。

「燈里」

彼に呼ばれ、彼女は顔を上げる。その目は彼に向けられているが、やはり視線が合う事はない。戻ってきた彼の手に収まる小さな守り袋を意味なく見つめながら、彼女はもう一度ごめんなさいと心の中で呟いた。


「止めた所で今更だしな。それに中途半場で引き摺る方が、危険だろう」
「どういう、意味?」

困惑する彼女に彼は微笑んで、手にした守り袋を彼女の首に提げる。そのまま背後から抱きしめながら、幼い子供にするように優しく彼女の頭を撫でた。

「朝メシ。冷めるぞ」

あ、と間の抜けた声が彼女から漏れる。それに笑って彼は彼女から離れると、食後のコーヒーを入れるために台所へと足を向けた。





生徒が一人消えたあの日。それから音沙汰のなかった恩師から連絡が入ったのは、その日の午後の事であった。

「――え?美術部の先生が、ですか?」

電話の向こう側の恩師の声が震えているのを感じながら、彼女は小さく身を震わせた。

「そうなのよ。あの子と同じように、絵を赤と青で塗り潰しているの。他の先生方や生徒達にも不安が広がっていて」

あの絵。あの海のような昏い群青色を思い出す。
その色を、彼は「ジュウの青」だと言った。それが何を意味するのかを、彼女はまだ彼に聞いていなかった事に気づく。

「宮代《みやしろ》さん。その…貴女の伝手で、誰かいないかしら……こういった、よく分からないものを解決してくれそうな人に」

解決。
一番最初に思い浮かんだのは、婚約者である彼の事だった。
頭を振る。彼に頼む訳にはいかないと、意識を切り替え、すみません、と恩師に謝罪した。

「あの、先生」

短い沈黙の後の別れの挨拶の前に、彼女は恩師に声をかける。なにかしら、とどこか気落ちした恩師の声に、口籠もりそうになる気持ちを堪えて、口を開く。

「お願いがあるんです…あの絵を、もう一度見せてもらう事は出来ませんか?」

電話の向こうで息を呑む音がした。僅かに明るい、了承の返答を受けて、後日伺う旨と受け入れてもらえた事の礼を言って電話を切る。
深い溜息を吐いて顔を上げれば、腕を組んだ彼の目と視線が合った。

「俺も行く。いいな」

静かに問われ、目を逸らすように彼女は頷く。無意識に首から提げた守り袋を握り締める。

――…せい。

馴染んだ響き。記憶の奥底に刻みつく恐怖に形を与える言葉。

――先生。

恩師ではない。別の誰か。目を閉じ、耳を塞いで、忘れようと踠く悪夢に差し込む一筋の星明かり。
顔も声も思い出す事はないというのに、忘れられない愛しい響き。

何故だか、無性に泣きたかった。

「冬玄」

腕を伸ばし、彼に抱きつく。避けられず受け入れられた事で、余計に泣きたくなり、彼の胸に縋り付いた。

「冬玄、冬玄っ」

頭を撫でられる感覚に、絶えきれず彼女の目から涙が零れ落ちる。嗚咽を溢す彼女の頭を撫でながら、彼は優しく囁いた。

「大丈夫だ、怖くない。怖いものは何もないだろう」
「ほんと、に?」
「あぁ…それでも怖いって言うなら、俺に望め。何とかしてやるから」

涙で滲む視界越しに彼を見上げる。安堵と、幾許かの怖れを抱きながら、彼女は小さく頷いた。

――望み過ぎたら……気ぃつけぇ。

誰かの忠告が、彼女の頭を過ぎる。
それが誰だったのか、彼女は覚えてはいなかった。



20250504 『すれ違う瞳』

5/4/2025, 2:01:29 PM