sairo

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5/2/2025, 8:53:22 AM

激しい風の吹き荒ぶ、切り立った岩壁の上。妖が一人、坐禅を組んでいる。
風が妖の髪や結袈裟《ゆいげさ》を煽るが、妖がそれを気にかける素振りは見せない。
岩壁を登る幼子が一人。小さな体で必死に風に抗い、妖の元へと辿り着くために手を伸ばす。
幼子の白い片翼が、首から提げた長鼻の赤い翁面が、風に遊ばれ激しくなびく。空へと誘うように、引き込むように、風はより一層激しく強く、幼子の片翼に纏わり付き。

刹那、幼子の体が宙へと投げ出された。

高く空を舞い上がる。抵抗も出来ぬままに風に弄ばれ、幼子の表情に焦りが浮かぶ。藻掻いても自由にならぬ体。さらに高く押し上げられ、一瞬の凪の後に、無抵抗な体は地へと墜ちていく。
興味を失ったのか、風が再び幼子を飛ばす様子はない。近づく大地に、幼子は強く目を瞑った。

しゃん、と澄んだ音。
風が勢いをなくしていく。幼子の周りで渦を巻き、墜ちる体を引き止める。
息も出来ぬほどの激しさを湛えていた風の変化に、幼子は恐る恐る目を開けた。

「――ごめん、なさい」

静かにこちらを見下ろす妖に、幼子は眉を下げながら謝罪する。それに答える代わりに、妖は幼子の体を抱き上げ、音もなく地に降り立った。

「風を読まず無暗に進めば、自ずと風は貴殿の障害となる」

幼子を下ろし、妖は告げる。
その言葉に幼子は項垂れ、ゆるゆると頭を振った。

「よく分からない。くり返しても、風がわからない」

気まぐれに吹き抜ける風が、幼子の片翼を揺する。下から上へと吹き上げ、俯く幼子の顔を無理矢理に上向かせた。
目を逸らすな、と言いたげに。
妖の凪いだ眼と視線を合わせ、幼子はくしゃりと顔を歪ませる。道に迷い、途方に暮れたその表情を妖は暫し無言で見つめ、不意に視線を逸らし歩き出した。

「貴殿が分からぬというなれば、それは風を知らぬ故にだ」

僅かに遅れて、幼子は妖の後について歩き出す。
それを風が阻む事はない。

「風は流れ、揺らぎ、どこまでも伸びていくものだ。それは木に通ずる。東を司り、春の象徴でもある木。風のはじまりはここにある」
「木…」
「北を司り、冬の象徴である水は、凍てつき湿った風を生む。南、夏の象徴である火。熱を纏い、揺らぐ風。西、秋の象徴の金は鋭い風を生み、時に反響して風を知覚させる事だろう。そして、季節の移ろいである土。風は遮られ、返り、潜る」

足を止めぬまま、幼子は周囲を見渡した。自由に吹き抜けていく風。木々の合間から差し込む陽の熱を纏った風は暖かい。鬱蒼と生い茂る草木を揺らす風は、湿った冷たさを感じた。
木々が騒めく。どこかで唸るような低い声に似た音が聞こえた。岩間に遮られ、跳ね返り、時に潜り抜ける風の声が、反響してここまで届いたのだろう。

「陰陽五行。万物を構成するそれは、風と共に在る我らと切り離せぬものだ」
「五行…切りはなせないもの」
「山を自らの足で歩き、触れ、その身すべてで五行を感じると良い。貴殿に足りぬのは、知る事だ」

妖は振り返る事なく歩き続ける。どこか遠く、夢見心地のようにふわふわとした気持ちで、幼子はその後に続いた。



――神域。

妖について辿り着いた場所を目にし、幼子は思わず感嘆の吐息を溢す。
山の奥。誰も訪れぬだろうそこに、密かに広がる清水。
静寂が場を満たしている。澄んだ空気と水の匂いを受け入れるように、深く呼吸をする。
風が凪いでいる。不用意に音を立てる事を、誰もが怖れているようだ。
前に立つ妖が、音もなく座り禅を組む。少し悩み、幼子は妖の隣で、同じように禅を組んだ。
目を閉じる。妖の言葉に習うべく、五行を感じ取ろうと意識を外へと向けた。
感じるのは陽の暖かさ。清水の清らかで冷えた気配。
微かに水の音がする。静かでゆったりとした、水の湧き出る音。この清水が今も生きている証である鼓動。
或いはそれは己の鼓動か、妖のものか。幼子には分からない。


「きれい」

思わず声が漏れた。
静寂を乱す行為に、はっとして目を開ける。不安に彷徨う目が清水を見、空を見て、そして最後に妖を見上げた。
妖は何も言わない。感情の読めぬ凪いだ眼が、ただ幼子を見下ろし。
不意にその視線が清水へと移る。
ただ一点を見る妖の視線を追って、幼子も清水に視線を向ける。水面は鏡のように静謐さを纏い、まるで時を止めているかのようだ。
訪れた時と何も変わらない光景に、幼子は首を傾げ妖を見る。妖の視線はまだ清水に注がれたまま。
何かいるのだろうか。幼子は不安と期待からそろりと立ち上がると、恐る恐る水面に近づいた。
音を立てぬよう、殊更ゆっくりと水面を覗き込む。底まで見える澄んだ水の中には、何もない。見えるのは水底と、水面に映る己の姿のみ。
不安そうな顔。その背の片翼も力なく折りたたまれている。
同じ顔。同じ片翼。しかしどこか違和感を感じ、幼子はじっと水面を見つめ続けた。
同じ姿。反射して対となった白の片翼。
何かが、足りない。

「――っ」

息を呑む。同じように息を呑む水面に映る幼子の表情が、泣きそうに歪んだ。
手を伸ばす。水面越しの幼子も、同じように手を伸ばし。
その手が触れ合う刹那。
強く、風が吹き抜けた。水面を揺らし、幼子の姿を掻き消していく。

――飛べ。

声が聞こえた気がした。

――飛んで。高く。

無意識に片翼を広げる。空を見上げ、一度大きく羽ばたいて。
風を読み。風と共に。


導かれるまま、空へと飛んだ。


「……いた。見つけた」

遠く燃えるような緑の稜線を見つめ、幼子は呆然と呟いた。
自身の半身。失った片翼。確かに、見えた。
かたかたと、首から提げた面が音を立てる。面を抱きしめ、一筋涙を流した。

「風は読めたか」

静かな声。顔を上げて、妖を見つめた。
頷きを返そうとして、暫し思い留まり幼子は首を振る。風を読んだのではない。風に導かれたのだ。

「声が、した」

風と、風ではない声。声に促されるままに飛んだのだと、幼子は首を振る。それに一つ頷きを返して、妖は幼子の体を抱き上げた。
風が幼子の片翼から離れていく。地に引かれる感覚を僅かに感じながら、ほぅと小さく吐息を溢した。

「あちらだ」

妖が指を差す。その先にば、木々に紛れるように、黒い翼を持つ誰かがいた。

「風に愛され、声を聞くモノ。話を聞くと良い。貴殿の求めるものへの導を教えてくれるだろう」

妖を見て、黒の翼を持つ誰かを見る。妖はそれ以上何も告げる事はない。
小さく頷いて、幼子は妖の腕から飛び降りた。片翼を広げる。飛ぶ必要はない。黒の翼の元まで降りる事が出来ればよい。
ばさり、と黒の翼が羽ばたく。落ちてくる幼子を受け止めるため、慌てたように年若い妖が飛び出した。

「吃驚した。危ない事するなよ」

幼子を抱き留め、深く息を吐く。
どこか幼さの残る、その仕草を幼子は無言で見つめ。

「それで?何か、聞きたい事があるのか」

問いかける黒の翼を持つ妖と視線を合わせ、幼子は丁寧に頭を下げた。



20250501 『風と』

5/1/2025, 3:53:00 AM

苔むした畳を踏み締め、奥へと向かう。
誰もいなくなってしまった屋敷は、傷みが激しい。まるで死んだようにあちらこちらで朽ちてしまっている。
ぐるり、と辺りを見渡した。何かないかと鼻をひくつかせる。
母の生まれた場所。生まれたというだけで、さほど縁は深くない屋敷。期待はしていなかったけれど、やはり何も興味を引くものを見つけられずに鼻白む。

――何か、秘密の一つや二つあってもいいのに。

つまらない、と尾を揺らす。軋む梁の音に嘆息して、仕方がないと外へと駆け出した。



「――宝探しは終わったのか?」
「ととさま」

屋敷の外。腕を組みながらこちらを見下ろす父の姿に目を瞬く。珍しい事もあるものだ。父が屋敷を出るなんて。
狸から人間の姿へと形を変えて、父の元へと駆け寄った。頭に被った埃を、髪をかき混ぜるようにしながら払い、父は呆れたように笑う。

「ととさま。髪の毛ぼさぼさするの、止めてよ」
「埃まみれなんだから仕方ないだろ――で?満足する宝は見つかったのか?」

子供扱いに、むっと頬を膨らませる。何にも、と首を振り、父の手から逃れて髪を整えた。

「別に宝を探してた訳じゃないもん。わたし、絶対に守れるような凄い秘密を探してるんだもん。ととさまやかかさまのような、凄い祓い屋になれるような秘密を探してたのっ!」
「秘密、ねぇ」

目を細める父の視線から逃げるように、服の埃を払いながら歩き出す。遅れてついてくる父の気配に顔を顰めながら、努めて気にしないように、辺りを見回した。
何かないだろうか。誰にも、特に親友にも知られていない、とっておきの秘密になりそうなものは。

「ついてこないでよ」
「秘密探しに、この父様も付き合ってやるってんだ。嬉しいだろ」
「嬉しくなんてない…事もないけど。でも」
「耳としっぽ。出てんぞ」

揶揄うように言われて、慌てて頭に手を当て耳を隠す。ゆらりと揺れる尾と熱くなる頬や耳を感じながら、振り返り父を睨み付けた。

「いじわる」
「何のことだか」

肩を竦める父はとても上機嫌だ。何を言っても敵いそうにない。
おいで、と身を屈めて手を伸ばされる。頬を膨らませながらもその腕の中に飛び込んで。そのまま抱き上げて笑う父の頬を、悔し紛れに引っ張った。

「こら。痛いだろ」
「痛くないって顔してる」

そっぽを向きながら、手を離す。

「そう拗ねるな。いい事を教えてやるから」
「いい事?」
「そうだ。とっておきの秘密だ」

少しだけ声を潜めた父に視線を向ける。暖かな色を浮かべた父の目を見ながら、興味を抑えきれずに続きを促した。

「オマエの母様の事だ。元は人間だった母様が、どうして父様と結ばれたのか。その軌跡を特別に話してやろう」

ちらり、と後ろの廃墟を見てから、父はゆっくりと歩き出す。

「昔々の話だ。まだ母様が生まれる前に、あの家の人間は父様と契約をしたがっていた。だがな、父様は人間に従うつもりはまったくなかったんだ」

その時の事を思い出しているのか、父の表情は穏やかだ。長い物語を語るようば、静かな声が心地良い。父の肩に凭れて、その光景を思い描く。

「そこで諦めればいいものを、人間はある対価を提示した。未来の約束という形で成された契約を持ちかけたんだ。『この先、娘が産む子供が男女の双子であるのなら、女の方を対価として捧げる』…生まれる可能性など殆どない。そんな豪胆な契約に、興味を持った」
「それで、契約したの?」
「あぁ。退屈しのぎの、飽きるまでの契約だ。いつでも破棄できるだろうと思っていたんだがな。娘が本当に双子を産んじまった」

呆れを滲ませて、父は笑う。誰も――捧げる側も、捧げられる側も、予想をしていなかったのだろう。生まれるはずがないと思っていた子供。でも生まれてしまった。
生まれた子の片方を捧げるのは、どんな気持ちだったのか。

「小さな子だった。オマエよりもよっぽど小さく、弱い生き物だったな。まだ仔を持ってなかった父様は、そりゃあ焦ったもんだ。自分の仔すら育てた事はないってのに、相手は人間だ。どうすればいいのか、誰も分かりゃしない…それでも、その時は誰一人、子供を返そうとか喰おうとか言う奴はいなかった。皆手探りで、必死に子供を育てようとした」
「それが…かかさま」

ぐしゃぐしゃと、頭を撫でられた。

「大変だったぞ。泣くわ、動き回るわ…そんなお転婆な所は、そっくりだな。もっとおしとやかに育ってくれたらよかったのに」
「ととさまみたいな、いじわるしない良い子に育ってくれたって、かかさまは喜んでいるからいいんだもん」

ふい、と視線を逸らして、頭を撫で回す手をはたき落とす。
髪を直す振りをして、こっそり見た父の表情は、やはり穏やかだ。優しい色の目に、意味もなく落ち着かなくなる。

「いじわるなととさまと番になったかかさまが、ちょっとだけ可哀想」
「そうだな。父様もそう思う時がある。特に最初の頃は、ただの暇つぶしの玩具だと思っていたからな」
「そうなの?」
「あぁ。最初は暇つぶし。人間っていう命に惹かれたってのもあるが、それだけだった…でもな、いつからだったか。情が出て、そして欲が出始めた」

父の目が僅かに陰る。温かさにほんの少しの寂しい色を湛えて、父は空を仰ぎ見た。

「母様にはな、全部伝えてあった。人間だという事。父様に捧げられた事。何もかも、全部。だからアイツは何もかもを諦めて、ただ受け入れるようになった」

形だけは反抗して、相手の反応を見て行動を切り替えている。捧げられた者の役目として、出来るだけ長く興味を引けるように振る舞う行為に、自身の意思はどこにもない。
それが寂しかったのだと、父は言う。もっと我が儘になって欲しかったと、力なく笑った。
手を伸ばし、父の頭に触れる。いつもされているように、両手で力任せに髪をかき混ぜた。

「こら。髪が乱れるだろう」
「かかさまは、ととさまが大好きだと思うよ」

掻き回す手を止めず呟けば、父は驚いたように目を見開いた。
今まで全く気づいてなかったのだろうか。間の抜けた表情が可笑しくて、笑い声が漏れる。

「かかさまはね、素直になれないだけで、ととさまをいつも思っているよ。ととさまと一緒で、素直でないだけ」

大切な事は二回言うべきだと聞いた事がある。素直でないと強調すれば、父の目が柔らかく綻んだ。

「素直でないのは、オマエもだろ」
「だってかかさまと、ととさまの娘だもん」

素直でない二人から生まれたのだから、素直でないのは当然だ。

「それより、肝心な部分がまだだよ。そこからどうしてととさまとかかさまは番になったの?ととさまが無理矢理そうしたの?」

本気ではなかったが、黙り込む父の姿に溜息が出た。
可哀想、と思わず呟けば、慌てたように父は否定する。

「そりゃあ、騙したようなもんだったけどよ。契約した人間が死んで契約自体がなくなった後も、母様は父様の側にいるんだ。終わりよければ全てよしだろうが」

そう言って、父は眉を下げる。
話題を変えるように、一つ咳払いをして地面に下ろされた。
気づけば屋敷の前。誰もいない、朽ちた廃墟ではない、大好きな皆のいる家の前。

「ま。そういった軌跡を辿って、父様と母様が番になって、オマエが生まれたって訳だ。んでもって、可愛いオマエに特別な秘密《キセキ》を教えてやろう」

にやり、と意地悪な笑みを浮かべて、父は顔を寄せて囁いた。

「母様に会えなくて寂しいのはもうすぐ終わる。藤の花が咲き乱れる頃に、オマエには弟や妹が出来るんだ」

ひゅっと、息を呑んだ。父の言葉を何度も頭の中で繰り返し、目を瞬いて。

「つまりオマエは――って、どうした!?」

慌てる父の声が、どこか遠くに聞こえる。笑顔だったはずの父の表情が、滲んで見えなくなっていく。
徐に頬に触れた。濡れる感覚に困惑して、滲む父を見上げた。

「ととさま。わたし、泣いているの?」
「――あぁ、そうだな」

父の大きな手が目元を拭い、少しだけ輪郭を取り戻した父が、悲しげに笑う。

「そんなに嫌か?姉になるのは」

問われて首を振る。
嫌な訳ではない。嫌ではないのに、何故か涙が止まらない。

「嬉しいの。わたし、とっても嬉しいのに……どうして、止まってくれないの」

乱暴に目を擦る。それでも止まらない涙に、焦りが募る。
どうして、どうして、と繰り返していれば、温かい手が涙を拭う手を止めた。
くすり、と笑う声。優しく頭を撫でられて、焦る気持ちが段々と落ち着いていく。

「それは流して良い涙だ。嬉しい時にも涙は流れるもんだからな」

そっと抱き上げられる。背を撫でられて、思わず父にしがみついた。

「思う存分泣いて甘えておけ。今だけだ。姉になったからには、いつまでも泣き虫ではいられないだろう?」
「っ、うん。うんっ!」

涙で滲む父に笑いかける。何度も頷いて、強く抱きついた。

「今日は久しぶりに父様と寝るか。一緒に飯を食って、風呂に入って。今の間に、父様を一人占めさせてやるよ」

優しい声が降り注ぐ。いつもなら嫌だと逃げていくだろう事も、姉になった後ではきっと軽々しく出来ない事だ。
今日くらいはいいかと、父に擦り寄り頷いた。



20250430 『軌跡』

4/30/2025, 5:41:53 AM

「おはよう。ご飯出来てるわよ」
「おはようございます」

いつもの日常。いつもと変わらない会話。
笑顔の叔母に笑みを返して、いつもの席へと座った。
テーブルの斜め向かいの席には、従兄弟の姿。叔父はすでに仕事に出たのか、その姿はなかった。

「いただきます」

テーブルの上に用意されている、叔母の作った朝食に手をつける。いつもと同じ味。変わらない。
笑みを繕いながらも、機械的に手を動かす。穏やかな叔母との会話の裏で、冷めた目をした自分が下らない、と吐き捨てるのを感じた。ちらりと横目で見る従兄弟は、こちらを気にする事なく無言で朝食を食べている。これもいつもと同じ、変わらない朝の光景だ。

いつまでこの生活が続くのか。
朝食を終え、食器をシンクで洗いながら考える。家族と離れこの家に来てから、もう何年も過ぎてしまっている。
帰りたいと、泣く声は枯れた。反発する事も止め、受け入れたように取り繕うのも、もう慣れた。けれども、この家で暮らし続ける事を、未だに納得は出来てはいない。
思わず溜息を吐きそうになるのを、すんでのところで堪える。叔母も従兄弟も、家事や準備でこの場にはいないと分かってはいる。それでも気持ちを表に出せないのは、もう誤魔化す事に慣れすぎているからなのだろう。



「――行くぞ」

玄関を開けた先。いつものように待っている従兄弟に、心の中だけで顔を顰める。
無言で頷く。歩き出す従兄弟の少し後ろをついて歩くのも、いつもの事だ。
会話はない。けれど学校へ行く時も帰る時も、必ず従兄弟は側にいる。同じ学校、同じ家。まるで四六時中監視されているみたいに。
さりげなく俯いて、密かに息を吐く。憂鬱でしかないこの時間が、何よりも嫌だった。

幼い頃は憧れて大好きだったはずの従兄弟を、もう好きにはなれない。
家族と引き離された原因。裏切った従兄弟を、この先もきっと許す事はないだろう。


――みんなには、ひみつだよ。

毎年恒例のお泊まり会で、夜の浜辺に妹と一緒に従兄弟を連れ出した。
誰にも、特に大人には内緒の秘密を、従兄弟と共有するために。
波の音。静かで優しいその音に、揺れ動くいくつもの光の玉。両親には見えなかった、蛍みたいに淡く光る幻想的な光景。大好きな従兄弟ならば見えるだろうと、妹と相談して打ち明けた、特別な秘密。
あの夜。絶対だという約束に、従兄弟は頷いたのに。それなのに彼は裏切った。
あれから、一度も家に帰れてはいない。大好きな妹とも、一度も会う事は許されなかった。

不意に従兄弟が立ち止まる。一呼吸遅れて、同じように立ち止まった。
顔を上げる。視界の端で光の玉が揺れ動くのを感じたのと、従兄弟が声をかけたのはほぼ同時だった。

「何もない。光の玉なんて、幻想だろう」

振り返りもせずに、告げられた言葉。無感情な響きに、唇を噛んで強く手を握り締めた。
視界の隅。確かにいたはずの光の玉が、消えている。自分のすべてを否定されているようで、苦しくて何も言えずに立ち尽くす。
静かに、従兄弟が振り返る。その眼に批判や責めるような冷たい色は浮かんでいない。ただ真っ直ぐに、決して逸らさずこちらを見つめている。

「行くぞ。遅刻する」

動けない自分の手を取り、握り締める拳を開いてそのまま繋がれる。そうして手を繋いだまま歩き出すのを、振り解く事も出来ずについて歩く。
従兄弟を好きにはなれない。
けれど彼だけは、いつでも側にいてくれる。
寂しくて眠れない夜も、悲しくて泣いた朝も。いつでも隣にいる。
嫌いになれたなら、きっと楽になるだろう。お前のせいだと、思いの全てを吐き出す事が出来たなら、この胸の中の、どろどろとした昏い思いはなくなるはずだ。
それでも。そうだとしても、従兄弟を前にすると、罵りの言葉一つ出てはこない。
差し出されるその手を離せる強さを、手を振り解いて一人で立てる勇気を、臆病で弱い自分は持っていないのだから。
繋いだ手に視線を向ける。気づかれないよう伺い見る従兄弟の横顔に、大好きだった頃の面影を重ねて、急いで目を逸らした。
もしも今、何もかもを忘れて、昔のように彼を好きになれたのなら。そんな奇跡が起きたなら、幸せにだってなれるのに。
従兄弟を好きにはなれない。けれど嫌いにもなれない。
どちらかに傾く事を許さない天秤。その揺らぎを抱いたままを生きるのは、とても痛くて苦しかった。





何も言わず隣を歩く、従姉妹の手を離さないように強く繋ぐ。
彼女の見る、光の玉は自分には見えない。代わりに聞こえるのは、どろりとした不快に粘ついた響きを持つ、誘う声だけだ。

――おいで。こっちだよ。
――あの子も待っているよ。

顔を顰めたくなるのを耐えて、前だけを見る。従姉妹が光を見る前に、否定の言葉を繰り返した。

「光の玉は見えない。そんなもの、どこにも存在しない」

嘘ではない。だが否定をする度に、従姉妹はいつも泣くのを我慢するような顔をするのが、苦しくて堪らない。
従姉妹が自分を好きになる事はない。

――ひみつだよ。きらきらした光は、ここだけのひみつね。
幼い従姉妹の無邪気な声を思い出す。それに重なるようにして、彼女に纏わり付く無数の声は、数は減れど今も変わらない。

――おいで。
――一緒に行こう。
――海の底は、とても温かいよ。
――怖くはないよ。楽しい所さ。
――さあ、行こう。

あの夜の砂浜で、従姉妹は秘密を打ち明けてくれた。誰にも内緒だと、絶対だと約束をして。
その信頼を裏切り、両親にすべてを打ち明けたのは自分だ。今まで自分に向けられていた、従姉妹の好意を失ってでも、助けたいと願ったのは、他でもないあの日の自分だった。

従姉妹はこの先も、自分を好きにはならないだろう。
しかし優しい彼女は、自分を嫌い憎む事も、おそらくは出来ない。
その優しさにつけ込むように、側で彼女を否定し続けるのは、互いに苦しいだけだと分かっている。分かってはいても、この手は離せない。何よりも大切で愛しい彼女を、連れていかせるつもりはないのだから。

――行こう?おねえちゃん。

毒を孕んだ甘い響き。海から逃げても着いてくる、少女の声音。

従姉妹に妹など、いない。


従姉妹は自分を好きにはならない。
だが少しだけでもいい。自分のこの気持ちの一欠片の重さ分だけでも、彼女の天秤が傾いでくれればと密かに願った。



20250429 『好きになれない、嫌いになれない』

4/28/2025, 10:27:44 PM

重苦しい扉を前にして、立ち竦む。
この先には、己の侵した罪がある。何よりも大切だった家族を奪った憎き敵の復讐のため、己に好意を寄せていた彼女を使って作り上げた、終わりのない夜の箱庭が広がっているはずだ。
ポケットから指輪を取り出し、目を閉じる。記憶の片隅に置き忘れていた彼女の姿は、酷く霞んで朧気だ。
彼女の紡ぐ物語は、現実となる。己が望み、彼女が紡ぎ上げた夜の森は、今も彼女ごと敵を閉じ込め壊し続けているのだろうか。
目を開ける。かつてはこの先から聞こえる声に満たされた。だがすぐに空しさを覚え、それを飽きたからだと誤魔化し、箱庭を忘れて生きてきた。手の中の指輪がなければ、思い出す事はなかったのだろう。
指輪を戻し、扉に手をかける。ここまで来て、今更逃げる訳にはいかない。これ以上、夜を続ける意味などないのだから。
微かに震える手に力を込めて、扉を押し開いた。



広がる森の先を一瞥して、足を踏み入れる。
声は聞こえない。耳が痛い程の静寂が、暗い夜の森に漂っている。
ゆっくりと歩き出す。彼女が己を見つけてくれる事を願って、音を立てながら。
ふと、獣のような唸り声が聞こえた。立ち止まり、視線を向ける。
がさがさと、草を掻き分ける音。近づく気配に、目を細め対峙する。
がさり、一際大きな音を立て、黒い影が現れる。
夜に似た黒髪を振り乱し、鋭い爪と裂けた口元から牙を剥き出しにして威嚇する、細身の女。
それは己が迎えにきたはずの、彼女の成れの果てだった。

「――馬鹿が」

顔を顰め、舌打ちをする。
遅すぎた故の結末を、受け入れる事が出来ない。まだ戻れるはずだと、思考を巡らせた。

「もういい」

足を踏み出す。途端に感じる肌を切り裂くような鋭い殺気に、息を呑む。
彼女はもう、誰の事も認識出来ないのだろう。こうして対峙していても、彼女の警戒は解かれない。己の声に反応を示す事もしない。おそらくは、自身の事すらも分からないのだ。

「終いにしよう。とっくの昔に夜は明けちまった。お前だけだ。いつまでも夜に取り残されているのは」

やはり答えはない。低い唸り声と瞳孔の開いた瞳は、獣と何も変わらない。
かつての彼女の面影一つ見出せないそれは、確かな己の罪であった。
土を踏み締める。この先一歩でも近づけば、彼女は己を敵として認識するのだろう。
本能的な恐怖に、呼吸が荒くなる。だが口元は弧を描き、迷いなく足を踏み出した。

「――っ!」

彼女の鋭い爪が喉を切り裂くよりも早く、その華奢な体を抱きしめる。逃がさぬように、二度と置き去りになどしないように。

「かえろうか。夜は明けたんだ――今度は一緒に」

逃れようと踠く彼女の手が、腕や頬を切り裂いた。鋭い牙が肩に食い込む。痛みに顔を歪ませながら、それでも力は緩めずに、願うように言葉を紡ぐ。

「もういいんだ。この夜を、物語を終わらせてくれ。夜は明け、家へと帰る…それだけでいいんだ。ごめんな。後一度だけ、言葉を紡いでくれ」

どうか、と。繰り返す言葉に、次第に彼女の体から力が抜けていく。それに僅かな可能性を見出して、その身を掻き抱いた。
不意に、声がした。唸る声ではない、微かな言葉。
彼女の口元に耳を寄せる。
囁く声は、ただ一言を繰り返していた。

――ごめんなさい。

期待した言葉ではないその囁き。その意味を遅れて理解して、呆然と顔を上げた。
微笑みを浮かべる彼女と目が合った。その眼の美しさは、かつての彼女を思い起こさせ、思わず言葉を忘れて見入ってしまう。

「ごめんなさい」

囁きではない、はっきりとした言葉。
眉を下げ微笑むのは、彼女の悪い癖だ。何度言っても直らなかったそれは、己がさせていたのだとようやく気づく。
徐に上げる彼女の手が頬に触れようとして、止まる。今更だ、とこれ以上傷つけぬように離れていくその手を取り、己の頬に触れされた。
暖かい。その温もりが愛おしい。

「帰ろうか」

一緒に。そう続けるはずの言葉は、しかし声にはならなかった。
ごめんなさい、と彼女の唇が動く。微笑んだまま緩やかに目が閉じられていく。
無音。何も聞こえない。
彼女の声も。呼吸も、鼓動すらも、何一つ。
彼女の腕が力なく落ちる。時を止めたその体を、静かに横たえた。
消えていく温もり。遠くで彼女の作り上げた夜が、壊れていく音がする。
意味もなく、乾いた笑いが漏れた。

「馬鹿やろう。夜が明けたっつっただろうが。なのになんで寝ちまうんだよ。普通は起きるもんだろ」

彼女の頬に触れる。温もりを失った冷たい皮膚を撫でていれば、彼女の姿がじわりと歪んでいく。

「一人でいる間に、すっかり自堕落になりやがって。夜更かしばかりするから、今になって眠くなんだよ…っ、なぁ」

彼女の頬に雨が降る。生暖かい滴を払い、耐えかねて空を仰いだ。
滲む視界でも鮮明に見える、白む空。
夜の終わりだ。繰り返していた夜が、ようやく明けたのだ。
何度も彼女に望んだ夜明け。だというのに、今はそれが憎くて仕方がない。
この夜明けは、彼女を連れていってしまうのだから。

「ごめんなさいってなんだよ。謝るのは俺の方だろうが。俺が、お前を」

嗚咽が漏れる。泣く資格などないはずなのに、止める事はもう出来ない。
夜が明けていく。閉ざされていた箱庭が壊れていく。
その先に見える無機質なコンクリートの壁が、彼女の紡いだ物語の崩壊を告げていた。

「馬鹿やろう」

気がつけば、暗い地下室で一人きり。己の他には誰もいない。
震える指で、ポケットから指輪を取り出した。彼女がいたという最後の縁。
冷たい金属に手の熱が移っていく。仄かな温もりに、彼女の熱を重ね。
一人きり、声が枯れるまで泣き崩れた。



20250429 『夜が明けた。』

4/27/2025, 1:52:16 PM

ふと、何か違和感を感じて立ち止まる。
例えば、空の色。山の緑。木々の騒めき。川のせせらぎ。花の香り。
いつもと変わらない。変わらないはずだというのに、ふとした瞬間に違和感を感じる。
空はあんなに暗い青をしていただろうか。山の緑は本当にくすんでいただろうか。
聞こえる音は。匂いは、本当に正しいのだろうか。
首を振り、歩き出す。目を逸らすように。何も変わらないと、自分自身に言い聞かせながら。
ざわり、と木が揺れる音。かさり、と草を掻き分けて。
ぞくり、と。ふと感じた何かの視線に、背筋が寒くなった。

耐えきれず、駆け出した。視線から逃げるように、当てもなく。
頭の中の冷静な思考は、向かう先が逆だと警告している。この先は山の奥へと続いている。麓の家に帰るには、引き返さなければ。
だが思考とは裏腹に、足は止まらない。増え続ける背後の視線の中を潜り抜けて、元来た道を戻る事など到底出来そうにはなかった。
只管に駆ける。かさかさ、がさり、と何かを掻き分ける音を振り切るように。音もなく近づく何かの気配から逃げるように、夢中で足を動かした。

ふと、背後で音がした。ぱぁん、と何かの破裂音。
その音を知っている。家の向かいに住んでいる男が持つ、猟銃の音だ。
猪か、狸か。誰かまた麓へ下りてきてしまったのだろうか。
気になって、足は止めずに背後に視線を向ける。
ほんの一瞬。だがその一瞬が終わりの合図だった。

「――っ!?」

急な浮遊感。足が空を掻き、大地に引かれるまま落ちていく。藻掻けど既に体は宙に投げ出され、何も出来ぬままに遙か下へと向かう。
見上げた空が、不気味なほどに紅い。気づけば夕暮れ時。時期に夜が訪れる。

――あぁ、嫌だ。

ぼんやりと、そう思う。
暗い夜に一人きり。誰にも気づかれずに終わってしまうのは、あまりにも寂しい。

――だれか。

空に手を伸ばせど、掴めるものは何もない。あぁ、と呻くように声を漏らし、諦めて手を下ろす。
そのまま、目を閉じた。





誰かの視線を感じた。
複数の視線。鼻をつく獣の匂い。
囲まれているような気配。
恐る恐る、目を開ける。
狸や狐、鼬など。たくさんの生き物の静かな目と視線が合った。

「――ぅわっ!?」

思わず飛び起きる。その瞬間に全身を激痛が襲い、崩れ落ちる。
痛い。熱さにも似た感覚に、涙が滲む。痛みで上手く呼吸が出来ない。
浅い呼吸を繰り返す。複数の視線など気にする余裕はなく、痛みの熱とは異なる温かさが何であるか、考える事も出来なかった。
しかし波が引くように、次第に痛みは落ち着いて。浅い呼吸が深くなり、安堵の息を吐く。
視線を巡らせ、見つめる目を無言で見返した。何かを言いたげな、見守るような視線に大丈夫だと笑ってみせれば、一匹、また一匹と視線を外して離れていく。
残ったのは小さな狸と大きな狸の二匹だけだ。
ゆっくりと体を起こす。心配げに鳴きながら鼻を擦り寄せる子狸を撫で、抱き上げる。

「――あぁ。そっか」

思い出す。自分は庭の垣根に挟まっていた子狸を、山に返しにきたのだと。
苦笑する。少しだけ強めに子狸の頭を撫でて、親らしき狸の元へと下ろしてやる。

「本当にありがとうございました」

丁寧に頭を下げる親狸に、ふと思いついて忠告する。

「気をつけて見とけよ。俺んとこの庭だったからよかったものの、向かいのじぃさんのとこだったら、今頃狸汁にされてただろうからな」
「申し訳ありません。本当に何から何まで。この子には後できつく言い聞かせますので」

親狸の隣で、しゅんと耳を垂らす子狸に笑い、そうしてくれと念を押した。
まあ、大分反省しているようだ。この次は一匹で麓に下りる事はないだろう。

何度もこちらを振り返り頭を下げつつ去って行く狸の親子を見送って、一つ息を吐く。
体の痛みはほとんどなくなったようだ。理由の分からない痛みは気になるが、今はとても疲れていた。
何気なしに空を見上げる。雲一つなく晴れ渡る空は、どこまでも青い。目を細めて高く昇った太陽を見遣り。

ふと、違和感を感じた。


例えば、空の色。風の音。山の匂い。
ふとした瞬間に、違和感を感じる。ここは本当に自分の知っている山なのだろうか。
あぁ、そういえば。今し方の記憶を思い返す。
自分は、狸と会話をしていなかっただろうか。何も疑問に思わずに。


「あー!こんなとこにいた」

背後から聞こえた無邪気な声に、思わず体を震わせる。
聞き覚えのない声だ。少なくとも、自分の記憶にはない。

「何してるの?早く帰ろうよ」

動けない自分の前に、声の主が現れる。
やはり知らない子だ。自分よりも年下の、まだ幼さが抜けきらない子。

「どうしたの?大丈夫?」

何も答えられないでいる自分を心配そうに見つめ。少年、或いは少女は、手を伸ばしぺたぺたと確かめるように体に触れてくる。
小さな手が背中に触れる。ずくり、とした重苦しい痛みに、眉を顰めた。

「痛いの?傷はないみたいだけど、打ち付けたりしたのかな?」

泣きそうに顔を歪める子。
自分がいたい訳でないだろうに。相変わらずの優しさに馬鹿だなぁ、と苦笑する。
ふと、違和感を感じた。それが何かは分からない。
そう言えば、何故こんなにも背中が痛むのだろうか。

「立てる?帰ったら、ちゃんと見てもらおうね」
「――大丈夫だって。ちょっと痛かっただけだから、すぐに収まるさ」

違和感を拭い去るように首を振る。これ以上心配をかけまいと、笑って立ち上がった。

「それより腹が減ったな。今日の夕飯は何だったっけか」
「今日はね、お魚だよ。僕が釣ったんだよ」

すごいでしょ、と胸を張る子の頭を撫でて、手を繋ぐ。
ふと、感じる違和感は、気にするほどでもない。

夕暮れを二人、歩いて帰る。
沈む太陽を追いかけながら、山の奥にある家へと向かう。

違和感など、もう何も感じない。



20250427 『ふとした瞬間』

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