sairo

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重苦しい扉を前にして、立ち竦む。
この先には、己の侵した罪がある。何よりも大切だった家族を奪った憎き敵の復讐のため、己に好意を寄せていた彼女を使って作り上げた、終わりのない夜の箱庭が広がっているはずだ。
ポケットから指輪を取り出し、目を閉じる。記憶の片隅に置き忘れていた彼女の姿は、酷く霞んで朧気だ。
彼女の紡ぐ物語は、現実となる。己が望み、彼女が紡ぎ上げた夜の森は、今も彼女ごと敵を閉じ込め壊し続けているのだろうか。
目を開ける。かつてはこの先から聞こえる声に満たされた。だがすぐに空しさを覚え、それを飽きたからだと誤魔化し、箱庭を忘れて生きてきた。手の中の指輪がなければ、思い出す事はなかったのだろう。
指輪を戻し、扉に手をかける。ここまで来て、今更逃げる訳にはいかない。これ以上、夜を続ける意味などないのだから。
微かに震える手に力を込めて、扉を押し開いた。



広がる森の先を一瞥して、足を踏み入れる。
声は聞こえない。耳が痛い程の静寂が、暗い夜の森に漂っている。
ゆっくりと歩き出す。彼女が己を見つけてくれる事を願って、音を立てながら。
ふと、獣のような唸り声が聞こえた。立ち止まり、視線を向ける。
がさがさと、草を掻き分ける音。近づく気配に、目を細め対峙する。
がさり、一際大きな音を立て、黒い影が現れる。
夜に似た黒髪を振り乱し、鋭い爪と裂けた口元から牙を剥き出しにして威嚇する、細身の女。
それは己が迎えにきたはずの、彼女の成れの果てだった。

「――馬鹿が」

顔を顰め、舌打ちをする。
遅すぎた故の結末を、受け入れる事が出来ない。まだ戻れるはずだと、思考を巡らせた。

「もういい」

足を踏み出す。途端に感じる肌を切り裂くような鋭い殺気に、息を呑む。
彼女はもう、誰の事も認識出来ないのだろう。こうして対峙していても、彼女の警戒は解かれない。己の声に反応を示す事もしない。おそらくは、自身の事すらも分からないのだ。

「終いにしよう。とっくの昔に夜は明けちまった。お前だけだ。いつまでも夜に取り残されているのは」

やはり答えはない。低い唸り声と瞳孔の開いた瞳は、獣と何も変わらない。
かつての彼女の面影一つ見出せないそれは、確かな己の罪であった。
土を踏み締める。この先一歩でも近づけば、彼女は己を敵として認識するのだろう。
本能的な恐怖に、呼吸が荒くなる。だが口元は弧を描き、迷いなく足を踏み出した。

「――っ!」

彼女の鋭い爪が喉を切り裂くよりも早く、その華奢な体を抱きしめる。逃がさぬように、二度と置き去りになどしないように。

「かえろうか。夜は明けたんだ――今度は一緒に」

逃れようと踠く彼女の手が、腕や頬を切り裂いた。鋭い牙が肩に食い込む。痛みに顔を歪ませながら、それでも力は緩めずに、願うように言葉を紡ぐ。

「もういいんだ。この夜を、物語を終わらせてくれ。夜は明け、家へと帰る…それだけでいいんだ。ごめんな。後一度だけ、言葉を紡いでくれ」

どうか、と。繰り返す言葉に、次第に彼女の体から力が抜けていく。それに僅かな可能性を見出して、その身を掻き抱いた。
不意に、声がした。唸る声ではない、微かな言葉。
彼女の口元に耳を寄せる。
囁く声は、ただ一言を繰り返していた。

――ごめんなさい。

期待した言葉ではないその囁き。その意味を遅れて理解して、呆然と顔を上げた。
微笑みを浮かべる彼女と目が合った。その眼の美しさは、かつての彼女を思い起こさせ、思わず言葉を忘れて見入ってしまう。

「ごめんなさい」

囁きではない、はっきりとした言葉。
眉を下げ微笑むのは、彼女の悪い癖だ。何度言っても直らなかったそれは、己がさせていたのだとようやく気づく。
徐に上げる彼女の手が頬に触れようとして、止まる。今更だ、とこれ以上傷つけぬように離れていくその手を取り、己の頬に触れされた。
暖かい。その温もりが愛おしい。

「帰ろうか」

一緒に。そう続けるはずの言葉は、しかし声にはならなかった。
ごめんなさい、と彼女の唇が動く。微笑んだまま緩やかに目が閉じられていく。
無音。何も聞こえない。
彼女の声も。呼吸も、鼓動すらも、何一つ。
彼女の腕が力なく落ちる。時を止めたその体を、静かに横たえた。
消えていく温もり。遠くで彼女の作り上げた夜が、壊れていく音がする。
意味もなく、乾いた笑いが漏れた。

「馬鹿やろう。夜が明けたっつっただろうが。なのになんで寝ちまうんだよ。普通は起きるもんだろ」

彼女の頬に触れる。温もりを失った冷たい皮膚を撫でていれば、彼女の姿がじわりと歪んでいく。

「一人でいる間に、すっかり自堕落になりやがって。夜更かしばかりするから、今になって眠くなんだよ…っ、なぁ」

彼女の頬に雨が降る。生暖かい滴を払い、耐えかねて空を仰いだ。
滲む視界でも鮮明に見える、白む空。
夜の終わりだ。繰り返していた夜が、ようやく明けたのだ。
何度も彼女に望んだ夜明け。だというのに、今はそれが憎くて仕方がない。
この夜明けは、彼女を連れていってしまうのだから。

「ごめんなさいってなんだよ。謝るのは俺の方だろうが。俺が、お前を」

嗚咽が漏れる。泣く資格などないはずなのに、止める事はもう出来ない。
夜が明けていく。閉ざされていた箱庭が壊れていく。
その先に見える無機質なコンクリートの壁が、彼女の紡いだ物語の崩壊を告げていた。

「馬鹿やろう」

気がつけば、暗い地下室で一人きり。己の他には誰もいない。
震える指で、ポケットから指輪を取り出した。彼女がいたという最後の縁。
冷たい金属に手の熱が移っていく。仄かな温もりに、彼女の熱を重ね。
一人きり、声が枯れるまで泣き崩れた。



20250429 『夜が明けた。』

4/28/2025, 10:27:44 PM