sairo

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「おはよう。ご飯出来てるわよ」
「おはようございます」

いつもの日常。いつもと変わらない会話。
笑顔の叔母に笑みを返して、いつもの席へと座った。
テーブルの斜め向かいの席には、従兄弟の姿。叔父はすでに仕事に出たのか、その姿はなかった。

「いただきます」

テーブルの上に用意されている、叔母の作った朝食に手をつける。いつもと同じ味。変わらない。
笑みを繕いながらも、機械的に手を動かす。穏やかな叔母との会話の裏で、冷めた目をした自分が下らない、と吐き捨てるのを感じた。ちらりと横目で見る従兄弟は、こちらを気にする事なく無言で朝食を食べている。これもいつもと同じ、変わらない朝の光景だ。

いつまでこの生活が続くのか。
朝食を終え、食器をシンクで洗いながら考える。家族と離れこの家に来てから、もう何年も過ぎてしまっている。
帰りたいと、泣く声は枯れた。反発する事も止め、受け入れたように取り繕うのも、もう慣れた。けれども、この家で暮らし続ける事を、未だに納得は出来てはいない。
思わず溜息を吐きそうになるのを、すんでのところで堪える。叔母も従兄弟も、家事や準備でこの場にはいないと分かってはいる。それでも気持ちを表に出せないのは、もう誤魔化す事に慣れすぎているからなのだろう。



「――行くぞ」

玄関を開けた先。いつものように待っている従兄弟に、心の中だけで顔を顰める。
無言で頷く。歩き出す従兄弟の少し後ろをついて歩くのも、いつもの事だ。
会話はない。けれど学校へ行く時も帰る時も、必ず従兄弟は側にいる。同じ学校、同じ家。まるで四六時中監視されているみたいに。
さりげなく俯いて、密かに息を吐く。憂鬱でしかないこの時間が、何よりも嫌だった。

幼い頃は憧れて大好きだったはずの従兄弟を、もう好きにはなれない。
家族と引き離された原因。裏切った従兄弟を、この先もきっと許す事はないだろう。


――みんなには、ひみつだよ。

毎年恒例のお泊まり会で、夜の浜辺に妹と一緒に従兄弟を連れ出した。
誰にも、特に大人には内緒の秘密を、従兄弟と共有するために。
波の音。静かで優しいその音に、揺れ動くいくつもの光の玉。両親には見えなかった、蛍みたいに淡く光る幻想的な光景。大好きな従兄弟ならば見えるだろうと、妹と相談して打ち明けた、特別な秘密。
あの夜。絶対だという約束に、従兄弟は頷いたのに。それなのに彼は裏切った。
あれから、一度も家に帰れてはいない。大好きな妹とも、一度も会う事は許されなかった。

不意に従兄弟が立ち止まる。一呼吸遅れて、同じように立ち止まった。
顔を上げる。視界の端で光の玉が揺れ動くのを感じたのと、従兄弟が声をかけたのはほぼ同時だった。

「何もない。光の玉なんて、幻想だろう」

振り返りもせずに、告げられた言葉。無感情な響きに、唇を噛んで強く手を握り締めた。
視界の隅。確かにいたはずの光の玉が、消えている。自分のすべてを否定されているようで、苦しくて何も言えずに立ち尽くす。
静かに、従兄弟が振り返る。その眼に批判や責めるような冷たい色は浮かんでいない。ただ真っ直ぐに、決して逸らさずこちらを見つめている。

「行くぞ。遅刻する」

動けない自分の手を取り、握り締める拳を開いてそのまま繋がれる。そうして手を繋いだまま歩き出すのを、振り解く事も出来ずについて歩く。
従兄弟を好きにはなれない。
けれど彼だけは、いつでも側にいてくれる。
寂しくて眠れない夜も、悲しくて泣いた朝も。いつでも隣にいる。
嫌いになれたなら、きっと楽になるだろう。お前のせいだと、思いの全てを吐き出す事が出来たなら、この胸の中の、どろどろとした昏い思いはなくなるはずだ。
それでも。そうだとしても、従兄弟を前にすると、罵りの言葉一つ出てはこない。
差し出されるその手を離せる強さを、手を振り解いて一人で立てる勇気を、臆病で弱い自分は持っていないのだから。
繋いだ手に視線を向ける。気づかれないよう伺い見る従兄弟の横顔に、大好きだった頃の面影を重ねて、急いで目を逸らした。
もしも今、何もかもを忘れて、昔のように彼を好きになれたのなら。そんな奇跡が起きたなら、幸せにだってなれるのに。
従兄弟を好きにはなれない。けれど嫌いにもなれない。
どちらかに傾く事を許さない天秤。その揺らぎを抱いたままを生きるのは、とても痛くて苦しかった。





何も言わず隣を歩く、従姉妹の手を離さないように強く繋ぐ。
彼女の見る、光の玉は自分には見えない。代わりに聞こえるのは、どろりとした不快に粘ついた響きを持つ、誘う声だけだ。

――おいで。こっちだよ。
――あの子も待っているよ。

顔を顰めたくなるのを耐えて、前だけを見る。従姉妹が光を見る前に、否定の言葉を繰り返した。

「光の玉は見えない。そんなもの、どこにも存在しない」

嘘ではない。だが否定をする度に、従姉妹はいつも泣くのを我慢するような顔をするのが、苦しくて堪らない。
従姉妹が自分を好きになる事はない。

――ひみつだよ。きらきらした光は、ここだけのひみつね。
幼い従姉妹の無邪気な声を思い出す。それに重なるようにして、彼女に纏わり付く無数の声は、数は減れど今も変わらない。

――おいで。
――一緒に行こう。
――海の底は、とても温かいよ。
――怖くはないよ。楽しい所さ。
――さあ、行こう。

あの夜の砂浜で、従姉妹は秘密を打ち明けてくれた。誰にも内緒だと、絶対だと約束をして。
その信頼を裏切り、両親にすべてを打ち明けたのは自分だ。今まで自分に向けられていた、従姉妹の好意を失ってでも、助けたいと願ったのは、他でもないあの日の自分だった。

従姉妹はこの先も、自分を好きにはならないだろう。
しかし優しい彼女は、自分を嫌い憎む事も、おそらくは出来ない。
その優しさにつけ込むように、側で彼女を否定し続けるのは、互いに苦しいだけだと分かっている。分かってはいても、この手は離せない。何よりも大切で愛しい彼女を、連れていかせるつもりはないのだから。

――行こう?おねえちゃん。

毒を孕んだ甘い響き。海から逃げても着いてくる、少女の声音。

従姉妹に妹など、いない。


従姉妹は自分を好きにはならない。
だが少しだけでもいい。自分のこの気持ちの一欠片の重さ分だけでも、彼女の天秤が傾いでくれればと密かに願った。



20250429 『好きになれない、嫌いになれない』

4/30/2025, 5:41:53 AM