苔むした畳を踏み締め、奥へと向かう。
誰もいなくなってしまった屋敷は、傷みが激しい。まるで死んだようにあちらこちらで朽ちてしまっている。
ぐるり、と辺りを見渡した。何かないかと鼻をひくつかせる。
母の生まれた場所。生まれたというだけで、さほど縁は深くない屋敷。期待はしていなかったけれど、やはり何も興味を引くものを見つけられずに鼻白む。
――何か、秘密の一つや二つあってもいいのに。
つまらない、と尾を揺らす。軋む梁の音に嘆息して、仕方がないと外へと駆け出した。
「――宝探しは終わったのか?」
「ととさま」
屋敷の外。腕を組みながらこちらを見下ろす父の姿に目を瞬く。珍しい事もあるものだ。父が屋敷を出るなんて。
狸から人間の姿へと形を変えて、父の元へと駆け寄った。頭に被った埃を、髪をかき混ぜるようにしながら払い、父は呆れたように笑う。
「ととさま。髪の毛ぼさぼさするの、止めてよ」
「埃まみれなんだから仕方ないだろ――で?満足する宝は見つかったのか?」
子供扱いに、むっと頬を膨らませる。何にも、と首を振り、父の手から逃れて髪を整えた。
「別に宝を探してた訳じゃないもん。わたし、絶対に守れるような凄い秘密を探してるんだもん。ととさまやかかさまのような、凄い祓い屋になれるような秘密を探してたのっ!」
「秘密、ねぇ」
目を細める父の視線から逃げるように、服の埃を払いながら歩き出す。遅れてついてくる父の気配に顔を顰めながら、努めて気にしないように、辺りを見回した。
何かないだろうか。誰にも、特に親友にも知られていない、とっておきの秘密になりそうなものは。
「ついてこないでよ」
「秘密探しに、この父様も付き合ってやるってんだ。嬉しいだろ」
「嬉しくなんてない…事もないけど。でも」
「耳としっぽ。出てんぞ」
揶揄うように言われて、慌てて頭に手を当て耳を隠す。ゆらりと揺れる尾と熱くなる頬や耳を感じながら、振り返り父を睨み付けた。
「いじわる」
「何のことだか」
肩を竦める父はとても上機嫌だ。何を言っても敵いそうにない。
おいで、と身を屈めて手を伸ばされる。頬を膨らませながらもその腕の中に飛び込んで。そのまま抱き上げて笑う父の頬を、悔し紛れに引っ張った。
「こら。痛いだろ」
「痛くないって顔してる」
そっぽを向きながら、手を離す。
「そう拗ねるな。いい事を教えてやるから」
「いい事?」
「そうだ。とっておきの秘密だ」
少しだけ声を潜めた父に視線を向ける。暖かな色を浮かべた父の目を見ながら、興味を抑えきれずに続きを促した。
「オマエの母様の事だ。元は人間だった母様が、どうして父様と結ばれたのか。その軌跡を特別に話してやろう」
ちらり、と後ろの廃墟を見てから、父はゆっくりと歩き出す。
「昔々の話だ。まだ母様が生まれる前に、あの家の人間は父様と契約をしたがっていた。だがな、父様は人間に従うつもりはまったくなかったんだ」
その時の事を思い出しているのか、父の表情は穏やかだ。長い物語を語るようば、静かな声が心地良い。父の肩に凭れて、その光景を思い描く。
「そこで諦めればいいものを、人間はある対価を提示した。未来の約束という形で成された契約を持ちかけたんだ。『この先、娘が産む子供が男女の双子であるのなら、女の方を対価として捧げる』…生まれる可能性など殆どない。そんな豪胆な契約に、興味を持った」
「それで、契約したの?」
「あぁ。退屈しのぎの、飽きるまでの契約だ。いつでも破棄できるだろうと思っていたんだがな。娘が本当に双子を産んじまった」
呆れを滲ませて、父は笑う。誰も――捧げる側も、捧げられる側も、予想をしていなかったのだろう。生まれるはずがないと思っていた子供。でも生まれてしまった。
生まれた子の片方を捧げるのは、どんな気持ちだったのか。
「小さな子だった。オマエよりもよっぽど小さく、弱い生き物だったな。まだ仔を持ってなかった父様は、そりゃあ焦ったもんだ。自分の仔すら育てた事はないってのに、相手は人間だ。どうすればいいのか、誰も分かりゃしない…それでも、その時は誰一人、子供を返そうとか喰おうとか言う奴はいなかった。皆手探りで、必死に子供を育てようとした」
「それが…かかさま」
ぐしゃぐしゃと、頭を撫でられた。
「大変だったぞ。泣くわ、動き回るわ…そんなお転婆な所は、そっくりだな。もっとおしとやかに育ってくれたらよかったのに」
「ととさまみたいな、いじわるしない良い子に育ってくれたって、かかさまは喜んでいるからいいんだもん」
ふい、と視線を逸らして、頭を撫で回す手をはたき落とす。
髪を直す振りをして、こっそり見た父の表情は、やはり穏やかだ。優しい色の目に、意味もなく落ち着かなくなる。
「いじわるなととさまと番になったかかさまが、ちょっとだけ可哀想」
「そうだな。父様もそう思う時がある。特に最初の頃は、ただの暇つぶしの玩具だと思っていたからな」
「そうなの?」
「あぁ。最初は暇つぶし。人間っていう命に惹かれたってのもあるが、それだけだった…でもな、いつからだったか。情が出て、そして欲が出始めた」
父の目が僅かに陰る。温かさにほんの少しの寂しい色を湛えて、父は空を仰ぎ見た。
「母様にはな、全部伝えてあった。人間だという事。父様に捧げられた事。何もかも、全部。だからアイツは何もかもを諦めて、ただ受け入れるようになった」
形だけは反抗して、相手の反応を見て行動を切り替えている。捧げられた者の役目として、出来るだけ長く興味を引けるように振る舞う行為に、自身の意思はどこにもない。
それが寂しかったのだと、父は言う。もっと我が儘になって欲しかったと、力なく笑った。
手を伸ばし、父の頭に触れる。いつもされているように、両手で力任せに髪をかき混ぜた。
「こら。髪が乱れるだろう」
「かかさまは、ととさまが大好きだと思うよ」
掻き回す手を止めず呟けば、父は驚いたように目を見開いた。
今まで全く気づいてなかったのだろうか。間の抜けた表情が可笑しくて、笑い声が漏れる。
「かかさまはね、素直になれないだけで、ととさまをいつも思っているよ。ととさまと一緒で、素直でないだけ」
大切な事は二回言うべきだと聞いた事がある。素直でないと強調すれば、父の目が柔らかく綻んだ。
「素直でないのは、オマエもだろ」
「だってかかさまと、ととさまの娘だもん」
素直でない二人から生まれたのだから、素直でないのは当然だ。
「それより、肝心な部分がまだだよ。そこからどうしてととさまとかかさまは番になったの?ととさまが無理矢理そうしたの?」
本気ではなかったが、黙り込む父の姿に溜息が出た。
可哀想、と思わず呟けば、慌てたように父は否定する。
「そりゃあ、騙したようなもんだったけどよ。契約した人間が死んで契約自体がなくなった後も、母様は父様の側にいるんだ。終わりよければ全てよしだろうが」
そう言って、父は眉を下げる。
話題を変えるように、一つ咳払いをして地面に下ろされた。
気づけば屋敷の前。誰もいない、朽ちた廃墟ではない、大好きな皆のいる家の前。
「ま。そういった軌跡を辿って、父様と母様が番になって、オマエが生まれたって訳だ。んでもって、可愛いオマエに特別な秘密《キセキ》を教えてやろう」
にやり、と意地悪な笑みを浮かべて、父は顔を寄せて囁いた。
「母様に会えなくて寂しいのはもうすぐ終わる。藤の花が咲き乱れる頃に、オマエには弟や妹が出来るんだ」
ひゅっと、息を呑んだ。父の言葉を何度も頭の中で繰り返し、目を瞬いて。
「つまりオマエは――って、どうした!?」
慌てる父の声が、どこか遠くに聞こえる。笑顔だったはずの父の表情が、滲んで見えなくなっていく。
徐に頬に触れた。濡れる感覚に困惑して、滲む父を見上げた。
「ととさま。わたし、泣いているの?」
「――あぁ、そうだな」
父の大きな手が目元を拭い、少しだけ輪郭を取り戻した父が、悲しげに笑う。
「そんなに嫌か?姉になるのは」
問われて首を振る。
嫌な訳ではない。嫌ではないのに、何故か涙が止まらない。
「嬉しいの。わたし、とっても嬉しいのに……どうして、止まってくれないの」
乱暴に目を擦る。それでも止まらない涙に、焦りが募る。
どうして、どうして、と繰り返していれば、温かい手が涙を拭う手を止めた。
くすり、と笑う声。優しく頭を撫でられて、焦る気持ちが段々と落ち着いていく。
「それは流して良い涙だ。嬉しい時にも涙は流れるもんだからな」
そっと抱き上げられる。背を撫でられて、思わず父にしがみついた。
「思う存分泣いて甘えておけ。今だけだ。姉になったからには、いつまでも泣き虫ではいられないだろう?」
「っ、うん。うんっ!」
涙で滲む父に笑いかける。何度も頷いて、強く抱きついた。
「今日は久しぶりに父様と寝るか。一緒に飯を食って、風呂に入って。今の間に、父様を一人占めさせてやるよ」
優しい声が降り注ぐ。いつもなら嫌だと逃げていくだろう事も、姉になった後ではきっと軽々しく出来ない事だ。
今日くらいはいいかと、父に擦り寄り頷いた。
20250430 『軌跡』
5/1/2025, 3:53:00 AM