sairo

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ふと、何か違和感を感じて立ち止まる。
例えば、空の色。山の緑。木々の騒めき。川のせせらぎ。花の香り。
いつもと変わらない。変わらないはずだというのに、ふとした瞬間に違和感を感じる。
空はあんなに暗い青をしていただろうか。山の緑は本当にくすんでいただろうか。
聞こえる音は。匂いは、本当に正しいのだろうか。
首を振り、歩き出す。目を逸らすように。何も変わらないと、自分自身に言い聞かせながら。
ざわり、と木が揺れる音。かさり、と草を掻き分けて。
ぞくり、と。ふと感じた何かの視線に、背筋が寒くなった。

耐えきれず、駆け出した。視線から逃げるように、当てもなく。
頭の中の冷静な思考は、向かう先が逆だと警告している。この先は山の奥へと続いている。麓の家に帰るには、引き返さなければ。
だが思考とは裏腹に、足は止まらない。増え続ける背後の視線の中を潜り抜けて、元来た道を戻る事など到底出来そうにはなかった。
只管に駆ける。かさかさ、がさり、と何かを掻き分ける音を振り切るように。音もなく近づく何かの気配から逃げるように、夢中で足を動かした。

ふと、背後で音がした。ぱぁん、と何かの破裂音。
その音を知っている。家の向かいに住んでいる男が持つ、猟銃の音だ。
猪か、狸か。誰かまた麓へ下りてきてしまったのだろうか。
気になって、足は止めずに背後に視線を向ける。
ほんの一瞬。だがその一瞬が終わりの合図だった。

「――っ!?」

急な浮遊感。足が空を掻き、大地に引かれるまま落ちていく。藻掻けど既に体は宙に投げ出され、何も出来ぬままに遙か下へと向かう。
見上げた空が、不気味なほどに紅い。気づけば夕暮れ時。時期に夜が訪れる。

――あぁ、嫌だ。

ぼんやりと、そう思う。
暗い夜に一人きり。誰にも気づかれずに終わってしまうのは、あまりにも寂しい。

――だれか。

空に手を伸ばせど、掴めるものは何もない。あぁ、と呻くように声を漏らし、諦めて手を下ろす。
そのまま、目を閉じた。





誰かの視線を感じた。
複数の視線。鼻をつく獣の匂い。
囲まれているような気配。
恐る恐る、目を開ける。
狸や狐、鼬など。たくさんの生き物の静かな目と視線が合った。

「――ぅわっ!?」

思わず飛び起きる。その瞬間に全身を激痛が襲い、崩れ落ちる。
痛い。熱さにも似た感覚に、涙が滲む。痛みで上手く呼吸が出来ない。
浅い呼吸を繰り返す。複数の視線など気にする余裕はなく、痛みの熱とは異なる温かさが何であるか、考える事も出来なかった。
しかし波が引くように、次第に痛みは落ち着いて。浅い呼吸が深くなり、安堵の息を吐く。
視線を巡らせ、見つめる目を無言で見返した。何かを言いたげな、見守るような視線に大丈夫だと笑ってみせれば、一匹、また一匹と視線を外して離れていく。
残ったのは小さな狸と大きな狸の二匹だけだ。
ゆっくりと体を起こす。心配げに鳴きながら鼻を擦り寄せる子狸を撫で、抱き上げる。

「――あぁ。そっか」

思い出す。自分は庭の垣根に挟まっていた子狸を、山に返しにきたのだと。
苦笑する。少しだけ強めに子狸の頭を撫でて、親らしき狸の元へと下ろしてやる。

「本当にありがとうございました」

丁寧に頭を下げる親狸に、ふと思いついて忠告する。

「気をつけて見とけよ。俺んとこの庭だったからよかったものの、向かいのじぃさんのとこだったら、今頃狸汁にされてただろうからな」
「申し訳ありません。本当に何から何まで。この子には後できつく言い聞かせますので」

親狸の隣で、しゅんと耳を垂らす子狸に笑い、そうしてくれと念を押した。
まあ、大分反省しているようだ。この次は一匹で麓に下りる事はないだろう。

何度もこちらを振り返り頭を下げつつ去って行く狸の親子を見送って、一つ息を吐く。
体の痛みはほとんどなくなったようだ。理由の分からない痛みは気になるが、今はとても疲れていた。
何気なしに空を見上げる。雲一つなく晴れ渡る空は、どこまでも青い。目を細めて高く昇った太陽を見遣り。

ふと、違和感を感じた。


例えば、空の色。風の音。山の匂い。
ふとした瞬間に、違和感を感じる。ここは本当に自分の知っている山なのだろうか。
あぁ、そういえば。今し方の記憶を思い返す。
自分は、狸と会話をしていなかっただろうか。何も疑問に思わずに。


「あー!こんなとこにいた」

背後から聞こえた無邪気な声に、思わず体を震わせる。
聞き覚えのない声だ。少なくとも、自分の記憶にはない。

「何してるの?早く帰ろうよ」

動けない自分の前に、声の主が現れる。
やはり知らない子だ。自分よりも年下の、まだ幼さが抜けきらない子。

「どうしたの?大丈夫?」

何も答えられないでいる自分を心配そうに見つめ。少年、或いは少女は、手を伸ばしぺたぺたと確かめるように体に触れてくる。
小さな手が背中に触れる。ずくり、とした重苦しい痛みに、眉を顰めた。

「痛いの?傷はないみたいだけど、打ち付けたりしたのかな?」

泣きそうに顔を歪める子。
自分がいたい訳でないだろうに。相変わらずの優しさに馬鹿だなぁ、と苦笑する。
ふと、違和感を感じた。それが何かは分からない。
そう言えば、何故こんなにも背中が痛むのだろうか。

「立てる?帰ったら、ちゃんと見てもらおうね」
「――大丈夫だって。ちょっと痛かっただけだから、すぐに収まるさ」

違和感を拭い去るように首を振る。これ以上心配をかけまいと、笑って立ち上がった。

「それより腹が減ったな。今日の夕飯は何だったっけか」
「今日はね、お魚だよ。僕が釣ったんだよ」

すごいでしょ、と胸を張る子の頭を撫でて、手を繋ぐ。
ふと、感じる違和感は、気にするほどでもない。

夕暮れを二人、歩いて帰る。
沈む太陽を追いかけながら、山の奥にある家へと向かう。

違和感など、もう何も感じない。



20250427 『ふとした瞬間』

4/27/2025, 1:52:16 PM