激しい風の吹き荒ぶ、切り立った岩壁の上。妖が一人、坐禅を組んでいる。
風が妖の髪や結袈裟《ゆいげさ》を煽るが、妖がそれを気にかける素振りは見せない。
岩壁を登る幼子が一人。小さな体で必死に風に抗い、妖の元へと辿り着くために手を伸ばす。
幼子の白い片翼が、首から提げた長鼻の赤い翁面が、風に遊ばれ激しくなびく。空へと誘うように、引き込むように、風はより一層激しく強く、幼子の片翼に纏わり付き。
刹那、幼子の体が宙へと投げ出された。
高く空を舞い上がる。抵抗も出来ぬままに風に弄ばれ、幼子の表情に焦りが浮かぶ。藻掻いても自由にならぬ体。さらに高く押し上げられ、一瞬の凪の後に、無抵抗な体は地へと墜ちていく。
興味を失ったのか、風が再び幼子を飛ばす様子はない。近づく大地に、幼子は強く目を瞑った。
しゃん、と澄んだ音。
風が勢いをなくしていく。幼子の周りで渦を巻き、墜ちる体を引き止める。
息も出来ぬほどの激しさを湛えていた風の変化に、幼子は恐る恐る目を開けた。
「――ごめん、なさい」
静かにこちらを見下ろす妖に、幼子は眉を下げながら謝罪する。それに答える代わりに、妖は幼子の体を抱き上げ、音もなく地に降り立った。
「風を読まず無暗に進めば、自ずと風は貴殿の障害となる」
幼子を下ろし、妖は告げる。
その言葉に幼子は項垂れ、ゆるゆると頭を振った。
「よく分からない。くり返しても、風がわからない」
気まぐれに吹き抜ける風が、幼子の片翼を揺する。下から上へと吹き上げ、俯く幼子の顔を無理矢理に上向かせた。
目を逸らすな、と言いたげに。
妖の凪いだ眼と視線を合わせ、幼子はくしゃりと顔を歪ませる。道に迷い、途方に暮れたその表情を妖は暫し無言で見つめ、不意に視線を逸らし歩き出した。
「貴殿が分からぬというなれば、それは風を知らぬ故にだ」
僅かに遅れて、幼子は妖の後について歩き出す。
それを風が阻む事はない。
「風は流れ、揺らぎ、どこまでも伸びていくものだ。それは木に通ずる。東を司り、春の象徴でもある木。風のはじまりはここにある」
「木…」
「北を司り、冬の象徴である水は、凍てつき湿った風を生む。南、夏の象徴である火。熱を纏い、揺らぐ風。西、秋の象徴の金は鋭い風を生み、時に反響して風を知覚させる事だろう。そして、季節の移ろいである土。風は遮られ、返り、潜る」
足を止めぬまま、幼子は周囲を見渡した。自由に吹き抜けていく風。木々の合間から差し込む陽の熱を纏った風は暖かい。鬱蒼と生い茂る草木を揺らす風は、湿った冷たさを感じた。
木々が騒めく。どこかで唸るような低い声に似た音が聞こえた。岩間に遮られ、跳ね返り、時に潜り抜ける風の声が、反響してここまで届いたのだろう。
「陰陽五行。万物を構成するそれは、風と共に在る我らと切り離せぬものだ」
「五行…切りはなせないもの」
「山を自らの足で歩き、触れ、その身すべてで五行を感じると良い。貴殿に足りぬのは、知る事だ」
妖は振り返る事なく歩き続ける。どこか遠く、夢見心地のようにふわふわとした気持ちで、幼子はその後に続いた。
――神域。
妖について辿り着いた場所を目にし、幼子は思わず感嘆の吐息を溢す。
山の奥。誰も訪れぬだろうそこに、密かに広がる清水。
静寂が場を満たしている。澄んだ空気と水の匂いを受け入れるように、深く呼吸をする。
風が凪いでいる。不用意に音を立てる事を、誰もが怖れているようだ。
前に立つ妖が、音もなく座り禅を組む。少し悩み、幼子は妖の隣で、同じように禅を組んだ。
目を閉じる。妖の言葉に習うべく、五行を感じ取ろうと意識を外へと向けた。
感じるのは陽の暖かさ。清水の清らかで冷えた気配。
微かに水の音がする。静かでゆったりとした、水の湧き出る音。この清水が今も生きている証である鼓動。
或いはそれは己の鼓動か、妖のものか。幼子には分からない。
「きれい」
思わず声が漏れた。
静寂を乱す行為に、はっとして目を開ける。不安に彷徨う目が清水を見、空を見て、そして最後に妖を見上げた。
妖は何も言わない。感情の読めぬ凪いだ眼が、ただ幼子を見下ろし。
不意にその視線が清水へと移る。
ただ一点を見る妖の視線を追って、幼子も清水に視線を向ける。水面は鏡のように静謐さを纏い、まるで時を止めているかのようだ。
訪れた時と何も変わらない光景に、幼子は首を傾げ妖を見る。妖の視線はまだ清水に注がれたまま。
何かいるのだろうか。幼子は不安と期待からそろりと立ち上がると、恐る恐る水面に近づいた。
音を立てぬよう、殊更ゆっくりと水面を覗き込む。底まで見える澄んだ水の中には、何もない。見えるのは水底と、水面に映る己の姿のみ。
不安そうな顔。その背の片翼も力なく折りたたまれている。
同じ顔。同じ片翼。しかしどこか違和感を感じ、幼子はじっと水面を見つめ続けた。
同じ姿。反射して対となった白の片翼。
何かが、足りない。
「――っ」
息を呑む。同じように息を呑む水面に映る幼子の表情が、泣きそうに歪んだ。
手を伸ばす。水面越しの幼子も、同じように手を伸ばし。
その手が触れ合う刹那。
強く、風が吹き抜けた。水面を揺らし、幼子の姿を掻き消していく。
――飛べ。
声が聞こえた気がした。
――飛んで。高く。
無意識に片翼を広げる。空を見上げ、一度大きく羽ばたいて。
風を読み。風と共に。
導かれるまま、空へと飛んだ。
「……いた。見つけた」
遠く燃えるような緑の稜線を見つめ、幼子は呆然と呟いた。
自身の半身。失った片翼。確かに、見えた。
かたかたと、首から提げた面が音を立てる。面を抱きしめ、一筋涙を流した。
「風は読めたか」
静かな声。顔を上げて、妖を見つめた。
頷きを返そうとして、暫し思い留まり幼子は首を振る。風を読んだのではない。風に導かれたのだ。
「声が、した」
風と、風ではない声。声に促されるままに飛んだのだと、幼子は首を振る。それに一つ頷きを返して、妖は幼子の体を抱き上げた。
風が幼子の片翼から離れていく。地に引かれる感覚を僅かに感じながら、ほぅと小さく吐息を溢した。
「あちらだ」
妖が指を差す。その先にば、木々に紛れるように、黒い翼を持つ誰かがいた。
「風に愛され、声を聞くモノ。話を聞くと良い。貴殿の求めるものへの導を教えてくれるだろう」
妖を見て、黒の翼を持つ誰かを見る。妖はそれ以上何も告げる事はない。
小さく頷いて、幼子は妖の腕から飛び降りた。片翼を広げる。飛ぶ必要はない。黒の翼の元まで降りる事が出来ればよい。
ばさり、と黒の翼が羽ばたく。落ちてくる幼子を受け止めるため、慌てたように年若い妖が飛び出した。
「吃驚した。危ない事するなよ」
幼子を抱き留め、深く息を吐く。
どこか幼さの残る、その仕草を幼子は無言で見つめ。
「それで?何か、聞きたい事があるのか」
問いかける黒の翼を持つ妖と視線を合わせ、幼子は丁寧に頭を下げた。
20250501 『風と』
5/2/2025, 8:53:22 AM