sairo

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5/3/2025, 10:23:59 AM

風が吹いていた。

「――灰?」

手を伸ばし、風に舞う細かな白を掬う。手のひらに乗せた僅かな灰は、どうやら異国から来たようだ。脳裏に浮かぶ風景に、目を細めた。
風に灰を流し、その行く末を追う。鬱蒼と茂る木々の向こう。暗がりに蠢く、白の影を見た。

「珍しい。死霊の塊か。それも、異国のものとは」

興味を引かれて影に近づく。影に触れれば、響き渡るのは聞き慣れぬ異国の言葉。記憶を探り、この国の言葉へと移し替えていく。

「我らは、忘れられた、ね」

繰り返される言葉の意味を理解して、はぁ、と息を吐いた。人間から忘れられた。忘れられたからこそ、この影はここにいるのだという。
人間から認識される事で初めて存在を保つ妖。人間から忘れられた事で存在するという目の前の影。
首を傾げつつ、記憶を探る。その真逆の在り方を、どこか知識として記憶に留めてあったはずだ。

「――あぁ、そうだ。異国の鎮まらぬ死者か。不完全な埋葬。正しく祀られず、祈られず。忘却されていく者達の悲しみだね」

影が呻く。その声は怨嗟のようであり、悲嘆のようでもあった。
人間が聞けば気が触れるであろうその響き。腕に纏わり付く影が、皮膚を突き破り内へと浸食し始める。じわり戸広がる穢れの灼けつく感覚を受け入れながら、ふと思いつき、口を開く。

「誰に、忘れられたくなかったのかな」

声が、動きが止まる、腕を引き抜き、答えを待った。
答える声はない。首を傾げ、繰り返した。

「忘れられたくなかった者がいたはずだ。君らを知らぬ他者の祈りなど、慰めにはならないのだから。親か兄弟か、或いは恋人か…誰に忘れられたくなかったんだい?」

ざわり、と影が蠢いた。ざわりざわり、と形を変えながら、幼い少女の声色で一つの答えを高らかに告げた。

――弟よ!

蠢く影が二つに分かたれ、小さな影を形作る。その影と視線を合わせるように身を屈め、さらに問いかける。

「では何故、弟に忘れられたくないのかな」
――だって私は姉だもの。弟を守ったのよ。そりゃあ褒められた方法ではなかったけれど。それでも忘れられるのはあんまりだわ。

小さな影は輪郭を成し、小さな少女を形作る。影だった少女は目に涙を湛えながらも、気丈にこちらを見上げていた。
――私は、子供達に忘れられたくはなかった。

別の声がした。影が分かたれ、それは凜と佇む女性の姿を成していく。

――どんな形であれ、覚えてくれているのであればよかった。あの子達にだけは忘れられたくはなかったわ。

目を伏せ、女性は微笑む。悲しみを滲ませながらも、そこに涙はない。

――私は妻に。他の誰もが、私を悪だと罵るとしても、妻には信じ続けてもらいたかった。

別の声。壮年の男性が、空を仰ぎ呟いた。

――俺は親友に、俺がいた事を覚えていてもらいたかった。俺の覚悟を、知っていてほしかった。
――俺も仲間にだけは、忘れてほしくなかった。俺達の誇りを、生き様を。ただ一人でいい。記憶していてほしかった。

最後に影は二つに分かたれ、それは二人の青年の姿を形作る。
それぞれ強い目をして、二人の青年はそれでも笑っていた。


「強い者達だね。信念を持って、生きた者の目をしている。ではどうしようか。君らのいた地へ戻るかい?あちらには、赦しを与える神、とやらがいるのだろう」

灰に乗ってこの地まで辿り着いた者らが、果たして復活の時に赦しを与えられるのかは疑問ではあるが。
だが予想に反して彼らは皆、赦しの言葉にそれぞれ顔を顰め否定する。

「嫌よ。私の罪を何も知らない誰かに赦されたくなんてないわ」
「そうね。私を赦すのは、私か子供達だけ。他者の赦しは必要ない」
「あぁ。赦されぬ事すら覚悟の上だった。妻以外の誰かになど、私の罪を量ってもらいたくはない」
「俺の罪は誇りだ。赦しはいらないからこそ、俺はこの身を燃やして弔うように願った」
「部外者の赦しは傲慢だ。それならいっそすべてを忘れて、永遠の影として漂う方がいい」

強い者らだ。余程の覚悟がそこにはあったのだろう。
苦笑して、それならどうするか、と思考する。一つの選択肢を思いながら、そう言えばと疑問を口にする。

「君らの国の風は、どうして君らを遠く離れたこの地に届けたのだろうね」

故郷を離れてしまえば、さらに彼らを知る者はなくなる。忘れられる事を厭う彼らは、何故ここにいるのだろうか。
吹く風に意識を向ける。何も語らず自由に舞う風は、楽しげにくるりと円を描きながら、高く舞い上がっていく。
風を追って見上げた空に、風に乗った花弁が舞い踊る。極彩色に彩られた空を見ていれば、誰かが小さく声を漏らした。

「懐かしいわ。家族で花畑に行ったのよ。花びらが舞ってとても綺麗だった」
「最後の日の朝に見たのが、こんな空だった。風に花が舞って、それに勇気づけられた」
「妻に花を送ったのです。別れと覚悟を託して…妻は笑ってくれました」
「弟はね、花が好きなのよ。だからいつも遊ぶ時は、秘密の花畑に行ったの」
「この身を燃やす時に、一輪で良いから花を手向けて欲しいと願った。それだけは叶えてくれたな」

目を細め、それぞれ思い出に浸る彼らはとても穏やかだ。
ここに来たのは偶然ではない。そういう事かと苦笑する。

「君らの大切な者は、どうやら君らを最後まで覚えていたようだね。だがその者がいなくなり、君らを正しく知る者はなくなった。故に、君らは祀られず、忘れられ。鎮まらぬ死者となったのだろう。そして、君らの大切な者の想いが、君らをここまで運ばせた」

風に舞う花弁が、彼らに降り頻る。手を伸ばし受け入れる彼らは、泣くように皆笑った。
今の彼らならば、停滞するのではなく先に進む事も出来るだろう。

「君らは、赦しを必要ないと言った。だが同時にすべてを忘却しても構わないとも言ったね。ならば、この地で新しく目覚めるために眠るかい?」

彼らの視線を受けながら、笑う。

「常世。新しい目覚めを待つ間の、揺り籠のような所さ。赦しも裁きもない。すべてを忘れて眠る場所」

例外はあるが。心の内だけで付け足した。
妖に成ったもの。妖と深く関わった者。堕ちたモノ。
彼らにも残るものはあるだろうが、彼らは大丈夫だろう。根拠のない確信に小さく笑い、手を差し伸べる。戸惑う彼らを見つめ、どうする、と囁いた。
最初に動いたのは誰だったか。互いを見て頷き、受け入れる。
差し出した手を握る少女の小さな手を握り返し、歩き出した。



「あなたはだあれ?ここの神なの?」

問いかける少女に視線を向けて、肩を竦め首を振る。
この身は神などと、人間に奉られた存在ではない。

「ただの木さ。生えている場所が他と少しばかり違う位の、ただの長くを見てきた老木だよ」

首を傾げる少女に笑いかける。訝しげな顔をする彼らに、良くある事だろう、と呟いた。
そこまで珍しいものではないだろうに。眠る人間の置いていった記憶では、彼らの故郷でも、木が人間になる事はよくあるはずだ。


「常世に在る橘。君らの揺り籠役を任されている、一本の何の変哲もない木だよ」

そう語れば彼らは皆、驚いたようにそれぞれに声を上げた。



20250502 『sweet memories』

5/2/2025, 8:53:22 AM

激しい風の吹き荒ぶ、切り立った岩壁の上。妖が一人、坐禅を組んでいる。
風が妖の髪や結袈裟《ゆいげさ》を煽るが、妖がそれを気にかける素振りは見せない。
岩壁を登る幼子が一人。小さな体で必死に風に抗い、妖の元へと辿り着くために手を伸ばす。
幼子の白い片翼が、首から提げた長鼻の赤い翁面が、風に遊ばれ激しくなびく。空へと誘うように、引き込むように、風はより一層激しく強く、幼子の片翼に纏わり付き。

刹那、幼子の体が宙へと投げ出された。

高く空を舞い上がる。抵抗も出来ぬままに風に弄ばれ、幼子の表情に焦りが浮かぶ。藻掻いても自由にならぬ体。さらに高く押し上げられ、一瞬の凪の後に、無抵抗な体は地へと墜ちていく。
興味を失ったのか、風が再び幼子を飛ばす様子はない。近づく大地に、幼子は強く目を瞑った。

しゃん、と澄んだ音。
風が勢いをなくしていく。幼子の周りで渦を巻き、墜ちる体を引き止める。
息も出来ぬほどの激しさを湛えていた風の変化に、幼子は恐る恐る目を開けた。

「――ごめん、なさい」

静かにこちらを見下ろす妖に、幼子は眉を下げながら謝罪する。それに答える代わりに、妖は幼子の体を抱き上げ、音もなく地に降り立った。

「風を読まず無暗に進めば、自ずと風は貴殿の障害となる」

幼子を下ろし、妖は告げる。
その言葉に幼子は項垂れ、ゆるゆると頭を振った。

「よく分からない。くり返しても、風がわからない」

気まぐれに吹き抜ける風が、幼子の片翼を揺する。下から上へと吹き上げ、俯く幼子の顔を無理矢理に上向かせた。
目を逸らすな、と言いたげに。
妖の凪いだ眼と視線を合わせ、幼子はくしゃりと顔を歪ませる。道に迷い、途方に暮れたその表情を妖は暫し無言で見つめ、不意に視線を逸らし歩き出した。

「貴殿が分からぬというなれば、それは風を知らぬ故にだ」

僅かに遅れて、幼子は妖の後について歩き出す。
それを風が阻む事はない。

「風は流れ、揺らぎ、どこまでも伸びていくものだ。それは木に通ずる。東を司り、春の象徴でもある木。風のはじまりはここにある」
「木…」
「北を司り、冬の象徴である水は、凍てつき湿った風を生む。南、夏の象徴である火。熱を纏い、揺らぐ風。西、秋の象徴の金は鋭い風を生み、時に反響して風を知覚させる事だろう。そして、季節の移ろいである土。風は遮られ、返り、潜る」

足を止めぬまま、幼子は周囲を見渡した。自由に吹き抜けていく風。木々の合間から差し込む陽の熱を纏った風は暖かい。鬱蒼と生い茂る草木を揺らす風は、湿った冷たさを感じた。
木々が騒めく。どこかで唸るような低い声に似た音が聞こえた。岩間に遮られ、跳ね返り、時に潜り抜ける風の声が、反響してここまで届いたのだろう。

「陰陽五行。万物を構成するそれは、風と共に在る我らと切り離せぬものだ」
「五行…切りはなせないもの」
「山を自らの足で歩き、触れ、その身すべてで五行を感じると良い。貴殿に足りぬのは、知る事だ」

妖は振り返る事なく歩き続ける。どこか遠く、夢見心地のようにふわふわとした気持ちで、幼子はその後に続いた。



――神域。

妖について辿り着いた場所を目にし、幼子は思わず感嘆の吐息を溢す。
山の奥。誰も訪れぬだろうそこに、密かに広がる清水。
静寂が場を満たしている。澄んだ空気と水の匂いを受け入れるように、深く呼吸をする。
風が凪いでいる。不用意に音を立てる事を、誰もが怖れているようだ。
前に立つ妖が、音もなく座り禅を組む。少し悩み、幼子は妖の隣で、同じように禅を組んだ。
目を閉じる。妖の言葉に習うべく、五行を感じ取ろうと意識を外へと向けた。
感じるのは陽の暖かさ。清水の清らかで冷えた気配。
微かに水の音がする。静かでゆったりとした、水の湧き出る音。この清水が今も生きている証である鼓動。
或いはそれは己の鼓動か、妖のものか。幼子には分からない。


「きれい」

思わず声が漏れた。
静寂を乱す行為に、はっとして目を開ける。不安に彷徨う目が清水を見、空を見て、そして最後に妖を見上げた。
妖は何も言わない。感情の読めぬ凪いだ眼が、ただ幼子を見下ろし。
不意にその視線が清水へと移る。
ただ一点を見る妖の視線を追って、幼子も清水に視線を向ける。水面は鏡のように静謐さを纏い、まるで時を止めているかのようだ。
訪れた時と何も変わらない光景に、幼子は首を傾げ妖を見る。妖の視線はまだ清水に注がれたまま。
何かいるのだろうか。幼子は不安と期待からそろりと立ち上がると、恐る恐る水面に近づいた。
音を立てぬよう、殊更ゆっくりと水面を覗き込む。底まで見える澄んだ水の中には、何もない。見えるのは水底と、水面に映る己の姿のみ。
不安そうな顔。その背の片翼も力なく折りたたまれている。
同じ顔。同じ片翼。しかしどこか違和感を感じ、幼子はじっと水面を見つめ続けた。
同じ姿。反射して対となった白の片翼。
何かが、足りない。

「――っ」

息を呑む。同じように息を呑む水面に映る幼子の表情が、泣きそうに歪んだ。
手を伸ばす。水面越しの幼子も、同じように手を伸ばし。
その手が触れ合う刹那。
強く、風が吹き抜けた。水面を揺らし、幼子の姿を掻き消していく。

――飛べ。

声が聞こえた気がした。

――飛んで。高く。

無意識に片翼を広げる。空を見上げ、一度大きく羽ばたいて。
風を読み。風と共に。


導かれるまま、空へと飛んだ。


「……いた。見つけた」

遠く燃えるような緑の稜線を見つめ、幼子は呆然と呟いた。
自身の半身。失った片翼。確かに、見えた。
かたかたと、首から提げた面が音を立てる。面を抱きしめ、一筋涙を流した。

「風は読めたか」

静かな声。顔を上げて、妖を見つめた。
頷きを返そうとして、暫し思い留まり幼子は首を振る。風を読んだのではない。風に導かれたのだ。

「声が、した」

風と、風ではない声。声に促されるままに飛んだのだと、幼子は首を振る。それに一つ頷きを返して、妖は幼子の体を抱き上げた。
風が幼子の片翼から離れていく。地に引かれる感覚を僅かに感じながら、ほぅと小さく吐息を溢した。

「あちらだ」

妖が指を差す。その先にば、木々に紛れるように、黒い翼を持つ誰かがいた。

「風に愛され、声を聞くモノ。話を聞くと良い。貴殿の求めるものへの導を教えてくれるだろう」

妖を見て、黒の翼を持つ誰かを見る。妖はそれ以上何も告げる事はない。
小さく頷いて、幼子は妖の腕から飛び降りた。片翼を広げる。飛ぶ必要はない。黒の翼の元まで降りる事が出来ればよい。
ばさり、と黒の翼が羽ばたく。落ちてくる幼子を受け止めるため、慌てたように年若い妖が飛び出した。

「吃驚した。危ない事するなよ」

幼子を抱き留め、深く息を吐く。
どこか幼さの残る、その仕草を幼子は無言で見つめ。

「それで?何か、聞きたい事があるのか」

問いかける黒の翼を持つ妖と視線を合わせ、幼子は丁寧に頭を下げた。



20250501 『風と』

5/1/2025, 3:53:00 AM

苔むした畳を踏み締め、奥へと向かう。
誰もいなくなってしまった屋敷は、傷みが激しい。まるで死んだようにあちらこちらで朽ちてしまっている。
ぐるり、と辺りを見渡した。何かないかと鼻をひくつかせる。
母の生まれた場所。生まれたというだけで、さほど縁は深くない屋敷。期待はしていなかったけれど、やはり何も興味を引くものを見つけられずに鼻白む。

――何か、秘密の一つや二つあってもいいのに。

つまらない、と尾を揺らす。軋む梁の音に嘆息して、仕方がないと外へと駆け出した。



「――宝探しは終わったのか?」
「ととさま」

屋敷の外。腕を組みながらこちらを見下ろす父の姿に目を瞬く。珍しい事もあるものだ。父が屋敷を出るなんて。
狸から人間の姿へと形を変えて、父の元へと駆け寄った。頭に被った埃を、髪をかき混ぜるようにしながら払い、父は呆れたように笑う。

「ととさま。髪の毛ぼさぼさするの、止めてよ」
「埃まみれなんだから仕方ないだろ――で?満足する宝は見つかったのか?」

子供扱いに、むっと頬を膨らませる。何にも、と首を振り、父の手から逃れて髪を整えた。

「別に宝を探してた訳じゃないもん。わたし、絶対に守れるような凄い秘密を探してるんだもん。ととさまやかかさまのような、凄い祓い屋になれるような秘密を探してたのっ!」
「秘密、ねぇ」

目を細める父の視線から逃げるように、服の埃を払いながら歩き出す。遅れてついてくる父の気配に顔を顰めながら、努めて気にしないように、辺りを見回した。
何かないだろうか。誰にも、特に親友にも知られていない、とっておきの秘密になりそうなものは。

「ついてこないでよ」
「秘密探しに、この父様も付き合ってやるってんだ。嬉しいだろ」
「嬉しくなんてない…事もないけど。でも」
「耳としっぽ。出てんぞ」

揶揄うように言われて、慌てて頭に手を当て耳を隠す。ゆらりと揺れる尾と熱くなる頬や耳を感じながら、振り返り父を睨み付けた。

「いじわる」
「何のことだか」

肩を竦める父はとても上機嫌だ。何を言っても敵いそうにない。
おいで、と身を屈めて手を伸ばされる。頬を膨らませながらもその腕の中に飛び込んで。そのまま抱き上げて笑う父の頬を、悔し紛れに引っ張った。

「こら。痛いだろ」
「痛くないって顔してる」

そっぽを向きながら、手を離す。

「そう拗ねるな。いい事を教えてやるから」
「いい事?」
「そうだ。とっておきの秘密だ」

少しだけ声を潜めた父に視線を向ける。暖かな色を浮かべた父の目を見ながら、興味を抑えきれずに続きを促した。

「オマエの母様の事だ。元は人間だった母様が、どうして父様と結ばれたのか。その軌跡を特別に話してやろう」

ちらり、と後ろの廃墟を見てから、父はゆっくりと歩き出す。

「昔々の話だ。まだ母様が生まれる前に、あの家の人間は父様と契約をしたがっていた。だがな、父様は人間に従うつもりはまったくなかったんだ」

その時の事を思い出しているのか、父の表情は穏やかだ。長い物語を語るようば、静かな声が心地良い。父の肩に凭れて、その光景を思い描く。

「そこで諦めればいいものを、人間はある対価を提示した。未来の約束という形で成された契約を持ちかけたんだ。『この先、娘が産む子供が男女の双子であるのなら、女の方を対価として捧げる』…生まれる可能性など殆どない。そんな豪胆な契約に、興味を持った」
「それで、契約したの?」
「あぁ。退屈しのぎの、飽きるまでの契約だ。いつでも破棄できるだろうと思っていたんだがな。娘が本当に双子を産んじまった」

呆れを滲ませて、父は笑う。誰も――捧げる側も、捧げられる側も、予想をしていなかったのだろう。生まれるはずがないと思っていた子供。でも生まれてしまった。
生まれた子の片方を捧げるのは、どんな気持ちだったのか。

「小さな子だった。オマエよりもよっぽど小さく、弱い生き物だったな。まだ仔を持ってなかった父様は、そりゃあ焦ったもんだ。自分の仔すら育てた事はないってのに、相手は人間だ。どうすればいいのか、誰も分かりゃしない…それでも、その時は誰一人、子供を返そうとか喰おうとか言う奴はいなかった。皆手探りで、必死に子供を育てようとした」
「それが…かかさま」

ぐしゃぐしゃと、頭を撫でられた。

「大変だったぞ。泣くわ、動き回るわ…そんなお転婆な所は、そっくりだな。もっとおしとやかに育ってくれたらよかったのに」
「ととさまみたいな、いじわるしない良い子に育ってくれたって、かかさまは喜んでいるからいいんだもん」

ふい、と視線を逸らして、頭を撫で回す手をはたき落とす。
髪を直す振りをして、こっそり見た父の表情は、やはり穏やかだ。優しい色の目に、意味もなく落ち着かなくなる。

「いじわるなととさまと番になったかかさまが、ちょっとだけ可哀想」
「そうだな。父様もそう思う時がある。特に最初の頃は、ただの暇つぶしの玩具だと思っていたからな」
「そうなの?」
「あぁ。最初は暇つぶし。人間っていう命に惹かれたってのもあるが、それだけだった…でもな、いつからだったか。情が出て、そして欲が出始めた」

父の目が僅かに陰る。温かさにほんの少しの寂しい色を湛えて、父は空を仰ぎ見た。

「母様にはな、全部伝えてあった。人間だという事。父様に捧げられた事。何もかも、全部。だからアイツは何もかもを諦めて、ただ受け入れるようになった」

形だけは反抗して、相手の反応を見て行動を切り替えている。捧げられた者の役目として、出来るだけ長く興味を引けるように振る舞う行為に、自身の意思はどこにもない。
それが寂しかったのだと、父は言う。もっと我が儘になって欲しかったと、力なく笑った。
手を伸ばし、父の頭に触れる。いつもされているように、両手で力任せに髪をかき混ぜた。

「こら。髪が乱れるだろう」
「かかさまは、ととさまが大好きだと思うよ」

掻き回す手を止めず呟けば、父は驚いたように目を見開いた。
今まで全く気づいてなかったのだろうか。間の抜けた表情が可笑しくて、笑い声が漏れる。

「かかさまはね、素直になれないだけで、ととさまをいつも思っているよ。ととさまと一緒で、素直でないだけ」

大切な事は二回言うべきだと聞いた事がある。素直でないと強調すれば、父の目が柔らかく綻んだ。

「素直でないのは、オマエもだろ」
「だってかかさまと、ととさまの娘だもん」

素直でない二人から生まれたのだから、素直でないのは当然だ。

「それより、肝心な部分がまだだよ。そこからどうしてととさまとかかさまは番になったの?ととさまが無理矢理そうしたの?」

本気ではなかったが、黙り込む父の姿に溜息が出た。
可哀想、と思わず呟けば、慌てたように父は否定する。

「そりゃあ、騙したようなもんだったけどよ。契約した人間が死んで契約自体がなくなった後も、母様は父様の側にいるんだ。終わりよければ全てよしだろうが」

そう言って、父は眉を下げる。
話題を変えるように、一つ咳払いをして地面に下ろされた。
気づけば屋敷の前。誰もいない、朽ちた廃墟ではない、大好きな皆のいる家の前。

「ま。そういった軌跡を辿って、父様と母様が番になって、オマエが生まれたって訳だ。んでもって、可愛いオマエに特別な秘密《キセキ》を教えてやろう」

にやり、と意地悪な笑みを浮かべて、父は顔を寄せて囁いた。

「母様に会えなくて寂しいのはもうすぐ終わる。藤の花が咲き乱れる頃に、オマエには弟や妹が出来るんだ」

ひゅっと、息を呑んだ。父の言葉を何度も頭の中で繰り返し、目を瞬いて。

「つまりオマエは――って、どうした!?」

慌てる父の声が、どこか遠くに聞こえる。笑顔だったはずの父の表情が、滲んで見えなくなっていく。
徐に頬に触れた。濡れる感覚に困惑して、滲む父を見上げた。

「ととさま。わたし、泣いているの?」
「――あぁ、そうだな」

父の大きな手が目元を拭い、少しだけ輪郭を取り戻した父が、悲しげに笑う。

「そんなに嫌か?姉になるのは」

問われて首を振る。
嫌な訳ではない。嫌ではないのに、何故か涙が止まらない。

「嬉しいの。わたし、とっても嬉しいのに……どうして、止まってくれないの」

乱暴に目を擦る。それでも止まらない涙に、焦りが募る。
どうして、どうして、と繰り返していれば、温かい手が涙を拭う手を止めた。
くすり、と笑う声。優しく頭を撫でられて、焦る気持ちが段々と落ち着いていく。

「それは流して良い涙だ。嬉しい時にも涙は流れるもんだからな」

そっと抱き上げられる。背を撫でられて、思わず父にしがみついた。

「思う存分泣いて甘えておけ。今だけだ。姉になったからには、いつまでも泣き虫ではいられないだろう?」
「っ、うん。うんっ!」

涙で滲む父に笑いかける。何度も頷いて、強く抱きついた。

「今日は久しぶりに父様と寝るか。一緒に飯を食って、風呂に入って。今の間に、父様を一人占めさせてやるよ」

優しい声が降り注ぐ。いつもなら嫌だと逃げていくだろう事も、姉になった後ではきっと軽々しく出来ない事だ。
今日くらいはいいかと、父に擦り寄り頷いた。



20250430 『軌跡』

4/30/2025, 5:41:53 AM

「おはよう。ご飯出来てるわよ」
「おはようございます」

いつもの日常。いつもと変わらない会話。
笑顔の叔母に笑みを返して、いつもの席へと座った。
テーブルの斜め向かいの席には、従兄弟の姿。叔父はすでに仕事に出たのか、その姿はなかった。

「いただきます」

テーブルの上に用意されている、叔母の作った朝食に手をつける。いつもと同じ味。変わらない。
笑みを繕いながらも、機械的に手を動かす。穏やかな叔母との会話の裏で、冷めた目をした自分が下らない、と吐き捨てるのを感じた。ちらりと横目で見る従兄弟は、こちらを気にする事なく無言で朝食を食べている。これもいつもと同じ、変わらない朝の光景だ。

いつまでこの生活が続くのか。
朝食を終え、食器をシンクで洗いながら考える。家族と離れこの家に来てから、もう何年も過ぎてしまっている。
帰りたいと、泣く声は枯れた。反発する事も止め、受け入れたように取り繕うのも、もう慣れた。けれども、この家で暮らし続ける事を、未だに納得は出来てはいない。
思わず溜息を吐きそうになるのを、すんでのところで堪える。叔母も従兄弟も、家事や準備でこの場にはいないと分かってはいる。それでも気持ちを表に出せないのは、もう誤魔化す事に慣れすぎているからなのだろう。



「――行くぞ」

玄関を開けた先。いつものように待っている従兄弟に、心の中だけで顔を顰める。
無言で頷く。歩き出す従兄弟の少し後ろをついて歩くのも、いつもの事だ。
会話はない。けれど学校へ行く時も帰る時も、必ず従兄弟は側にいる。同じ学校、同じ家。まるで四六時中監視されているみたいに。
さりげなく俯いて、密かに息を吐く。憂鬱でしかないこの時間が、何よりも嫌だった。

幼い頃は憧れて大好きだったはずの従兄弟を、もう好きにはなれない。
家族と引き離された原因。裏切った従兄弟を、この先もきっと許す事はないだろう。


――みんなには、ひみつだよ。

毎年恒例のお泊まり会で、夜の浜辺に妹と一緒に従兄弟を連れ出した。
誰にも、特に大人には内緒の秘密を、従兄弟と共有するために。
波の音。静かで優しいその音に、揺れ動くいくつもの光の玉。両親には見えなかった、蛍みたいに淡く光る幻想的な光景。大好きな従兄弟ならば見えるだろうと、妹と相談して打ち明けた、特別な秘密。
あの夜。絶対だという約束に、従兄弟は頷いたのに。それなのに彼は裏切った。
あれから、一度も家に帰れてはいない。大好きな妹とも、一度も会う事は許されなかった。

不意に従兄弟が立ち止まる。一呼吸遅れて、同じように立ち止まった。
顔を上げる。視界の端で光の玉が揺れ動くのを感じたのと、従兄弟が声をかけたのはほぼ同時だった。

「何もない。光の玉なんて、幻想だろう」

振り返りもせずに、告げられた言葉。無感情な響きに、唇を噛んで強く手を握り締めた。
視界の隅。確かにいたはずの光の玉が、消えている。自分のすべてを否定されているようで、苦しくて何も言えずに立ち尽くす。
静かに、従兄弟が振り返る。その眼に批判や責めるような冷たい色は浮かんでいない。ただ真っ直ぐに、決して逸らさずこちらを見つめている。

「行くぞ。遅刻する」

動けない自分の手を取り、握り締める拳を開いてそのまま繋がれる。そうして手を繋いだまま歩き出すのを、振り解く事も出来ずについて歩く。
従兄弟を好きにはなれない。
けれど彼だけは、いつでも側にいてくれる。
寂しくて眠れない夜も、悲しくて泣いた朝も。いつでも隣にいる。
嫌いになれたなら、きっと楽になるだろう。お前のせいだと、思いの全てを吐き出す事が出来たなら、この胸の中の、どろどろとした昏い思いはなくなるはずだ。
それでも。そうだとしても、従兄弟を前にすると、罵りの言葉一つ出てはこない。
差し出されるその手を離せる強さを、手を振り解いて一人で立てる勇気を、臆病で弱い自分は持っていないのだから。
繋いだ手に視線を向ける。気づかれないよう伺い見る従兄弟の横顔に、大好きだった頃の面影を重ねて、急いで目を逸らした。
もしも今、何もかもを忘れて、昔のように彼を好きになれたのなら。そんな奇跡が起きたなら、幸せにだってなれるのに。
従兄弟を好きにはなれない。けれど嫌いにもなれない。
どちらかに傾く事を許さない天秤。その揺らぎを抱いたままを生きるのは、とても痛くて苦しかった。





何も言わず隣を歩く、従姉妹の手を離さないように強く繋ぐ。
彼女の見る、光の玉は自分には見えない。代わりに聞こえるのは、どろりとした不快に粘ついた響きを持つ、誘う声だけだ。

――おいで。こっちだよ。
――あの子も待っているよ。

顔を顰めたくなるのを耐えて、前だけを見る。従姉妹が光を見る前に、否定の言葉を繰り返した。

「光の玉は見えない。そんなもの、どこにも存在しない」

嘘ではない。だが否定をする度に、従姉妹はいつも泣くのを我慢するような顔をするのが、苦しくて堪らない。
従姉妹が自分を好きになる事はない。

――ひみつだよ。きらきらした光は、ここだけのひみつね。
幼い従姉妹の無邪気な声を思い出す。それに重なるようにして、彼女に纏わり付く無数の声は、数は減れど今も変わらない。

――おいで。
――一緒に行こう。
――海の底は、とても温かいよ。
――怖くはないよ。楽しい所さ。
――さあ、行こう。

あの夜の砂浜で、従姉妹は秘密を打ち明けてくれた。誰にも内緒だと、絶対だと約束をして。
その信頼を裏切り、両親にすべてを打ち明けたのは自分だ。今まで自分に向けられていた、従姉妹の好意を失ってでも、助けたいと願ったのは、他でもないあの日の自分だった。

従姉妹はこの先も、自分を好きにはならないだろう。
しかし優しい彼女は、自分を嫌い憎む事も、おそらくは出来ない。
その優しさにつけ込むように、側で彼女を否定し続けるのは、互いに苦しいだけだと分かっている。分かってはいても、この手は離せない。何よりも大切で愛しい彼女を、連れていかせるつもりはないのだから。

――行こう?おねえちゃん。

毒を孕んだ甘い響き。海から逃げても着いてくる、少女の声音。

従姉妹に妹など、いない。


従姉妹は自分を好きにはならない。
だが少しだけでもいい。自分のこの気持ちの一欠片の重さ分だけでも、彼女の天秤が傾いでくれればと密かに願った。



20250429 『好きになれない、嫌いになれない』

4/28/2025, 10:27:44 PM

重苦しい扉を前にして、立ち竦む。
この先には、己の侵した罪がある。何よりも大切だった家族を奪った憎き敵の復讐のため、己に好意を寄せていた彼女を使って作り上げた、終わりのない夜の箱庭が広がっているはずだ。
ポケットから指輪を取り出し、目を閉じる。記憶の片隅に置き忘れていた彼女の姿は、酷く霞んで朧気だ。
彼女の紡ぐ物語は、現実となる。己が望み、彼女が紡ぎ上げた夜の森は、今も彼女ごと敵を閉じ込め壊し続けているのだろうか。
目を開ける。かつてはこの先から聞こえる声に満たされた。だがすぐに空しさを覚え、それを飽きたからだと誤魔化し、箱庭を忘れて生きてきた。手の中の指輪がなければ、思い出す事はなかったのだろう。
指輪を戻し、扉に手をかける。ここまで来て、今更逃げる訳にはいかない。これ以上、夜を続ける意味などないのだから。
微かに震える手に力を込めて、扉を押し開いた。



広がる森の先を一瞥して、足を踏み入れる。
声は聞こえない。耳が痛い程の静寂が、暗い夜の森に漂っている。
ゆっくりと歩き出す。彼女が己を見つけてくれる事を願って、音を立てながら。
ふと、獣のような唸り声が聞こえた。立ち止まり、視線を向ける。
がさがさと、草を掻き分ける音。近づく気配に、目を細め対峙する。
がさり、一際大きな音を立て、黒い影が現れる。
夜に似た黒髪を振り乱し、鋭い爪と裂けた口元から牙を剥き出しにして威嚇する、細身の女。
それは己が迎えにきたはずの、彼女の成れの果てだった。

「――馬鹿が」

顔を顰め、舌打ちをする。
遅すぎた故の結末を、受け入れる事が出来ない。まだ戻れるはずだと、思考を巡らせた。

「もういい」

足を踏み出す。途端に感じる肌を切り裂くような鋭い殺気に、息を呑む。
彼女はもう、誰の事も認識出来ないのだろう。こうして対峙していても、彼女の警戒は解かれない。己の声に反応を示す事もしない。おそらくは、自身の事すらも分からないのだ。

「終いにしよう。とっくの昔に夜は明けちまった。お前だけだ。いつまでも夜に取り残されているのは」

やはり答えはない。低い唸り声と瞳孔の開いた瞳は、獣と何も変わらない。
かつての彼女の面影一つ見出せないそれは、確かな己の罪であった。
土を踏み締める。この先一歩でも近づけば、彼女は己を敵として認識するのだろう。
本能的な恐怖に、呼吸が荒くなる。だが口元は弧を描き、迷いなく足を踏み出した。

「――っ!」

彼女の鋭い爪が喉を切り裂くよりも早く、その華奢な体を抱きしめる。逃がさぬように、二度と置き去りになどしないように。

「かえろうか。夜は明けたんだ――今度は一緒に」

逃れようと踠く彼女の手が、腕や頬を切り裂いた。鋭い牙が肩に食い込む。痛みに顔を歪ませながら、それでも力は緩めずに、願うように言葉を紡ぐ。

「もういいんだ。この夜を、物語を終わらせてくれ。夜は明け、家へと帰る…それだけでいいんだ。ごめんな。後一度だけ、言葉を紡いでくれ」

どうか、と。繰り返す言葉に、次第に彼女の体から力が抜けていく。それに僅かな可能性を見出して、その身を掻き抱いた。
不意に、声がした。唸る声ではない、微かな言葉。
彼女の口元に耳を寄せる。
囁く声は、ただ一言を繰り返していた。

――ごめんなさい。

期待した言葉ではないその囁き。その意味を遅れて理解して、呆然と顔を上げた。
微笑みを浮かべる彼女と目が合った。その眼の美しさは、かつての彼女を思い起こさせ、思わず言葉を忘れて見入ってしまう。

「ごめんなさい」

囁きではない、はっきりとした言葉。
眉を下げ微笑むのは、彼女の悪い癖だ。何度言っても直らなかったそれは、己がさせていたのだとようやく気づく。
徐に上げる彼女の手が頬に触れようとして、止まる。今更だ、とこれ以上傷つけぬように離れていくその手を取り、己の頬に触れされた。
暖かい。その温もりが愛おしい。

「帰ろうか」

一緒に。そう続けるはずの言葉は、しかし声にはならなかった。
ごめんなさい、と彼女の唇が動く。微笑んだまま緩やかに目が閉じられていく。
無音。何も聞こえない。
彼女の声も。呼吸も、鼓動すらも、何一つ。
彼女の腕が力なく落ちる。時を止めたその体を、静かに横たえた。
消えていく温もり。遠くで彼女の作り上げた夜が、壊れていく音がする。
意味もなく、乾いた笑いが漏れた。

「馬鹿やろう。夜が明けたっつっただろうが。なのになんで寝ちまうんだよ。普通は起きるもんだろ」

彼女の頬に触れる。温もりを失った冷たい皮膚を撫でていれば、彼女の姿がじわりと歪んでいく。

「一人でいる間に、すっかり自堕落になりやがって。夜更かしばかりするから、今になって眠くなんだよ…っ、なぁ」

彼女の頬に雨が降る。生暖かい滴を払い、耐えかねて空を仰いだ。
滲む視界でも鮮明に見える、白む空。
夜の終わりだ。繰り返していた夜が、ようやく明けたのだ。
何度も彼女に望んだ夜明け。だというのに、今はそれが憎くて仕方がない。
この夜明けは、彼女を連れていってしまうのだから。

「ごめんなさいってなんだよ。謝るのは俺の方だろうが。俺が、お前を」

嗚咽が漏れる。泣く資格などないはずなのに、止める事はもう出来ない。
夜が明けていく。閉ざされていた箱庭が壊れていく。
その先に見える無機質なコンクリートの壁が、彼女の紡いだ物語の崩壊を告げていた。

「馬鹿やろう」

気がつけば、暗い地下室で一人きり。己の他には誰もいない。
震える指で、ポケットから指輪を取り出した。彼女がいたという最後の縁。
冷たい金属に手の熱が移っていく。仄かな温もりに、彼女の熱を重ね。
一人きり、声が枯れるまで泣き崩れた。



20250429 『夜が明けた。』

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