ふと、何か違和感を感じて立ち止まる。
例えば、空の色。山の緑。木々の騒めき。川のせせらぎ。花の香り。
いつもと変わらない。変わらないはずだというのに、ふとした瞬間に違和感を感じる。
空はあんなに暗い青をしていただろうか。山の緑は本当にくすんでいただろうか。
聞こえる音は。匂いは、本当に正しいのだろうか。
首を振り、歩き出す。目を逸らすように。何も変わらないと、自分自身に言い聞かせながら。
ざわり、と木が揺れる音。かさり、と草を掻き分けて。
ぞくり、と。ふと感じた何かの視線に、背筋が寒くなった。
耐えきれず、駆け出した。視線から逃げるように、当てもなく。
頭の中の冷静な思考は、向かう先が逆だと警告している。この先は山の奥へと続いている。麓の家に帰るには、引き返さなければ。
だが思考とは裏腹に、足は止まらない。増え続ける背後の視線の中を潜り抜けて、元来た道を戻る事など到底出来そうにはなかった。
只管に駆ける。かさかさ、がさり、と何かを掻き分ける音を振り切るように。音もなく近づく何かの気配から逃げるように、夢中で足を動かした。
ふと、背後で音がした。ぱぁん、と何かの破裂音。
その音を知っている。家の向かいに住んでいる男が持つ、猟銃の音だ。
猪か、狸か。誰かまた麓へ下りてきてしまったのだろうか。
気になって、足は止めずに背後に視線を向ける。
ほんの一瞬。だがその一瞬が終わりの合図だった。
「――っ!?」
急な浮遊感。足が空を掻き、大地に引かれるまま落ちていく。藻掻けど既に体は宙に投げ出され、何も出来ぬままに遙か下へと向かう。
見上げた空が、不気味なほどに紅い。気づけば夕暮れ時。時期に夜が訪れる。
――あぁ、嫌だ。
ぼんやりと、そう思う。
暗い夜に一人きり。誰にも気づかれずに終わってしまうのは、あまりにも寂しい。
――だれか。
空に手を伸ばせど、掴めるものは何もない。あぁ、と呻くように声を漏らし、諦めて手を下ろす。
そのまま、目を閉じた。
誰かの視線を感じた。
複数の視線。鼻をつく獣の匂い。
囲まれているような気配。
恐る恐る、目を開ける。
狸や狐、鼬など。たくさんの生き物の静かな目と視線が合った。
「――ぅわっ!?」
思わず飛び起きる。その瞬間に全身を激痛が襲い、崩れ落ちる。
痛い。熱さにも似た感覚に、涙が滲む。痛みで上手く呼吸が出来ない。
浅い呼吸を繰り返す。複数の視線など気にする余裕はなく、痛みの熱とは異なる温かさが何であるか、考える事も出来なかった。
しかし波が引くように、次第に痛みは落ち着いて。浅い呼吸が深くなり、安堵の息を吐く。
視線を巡らせ、見つめる目を無言で見返した。何かを言いたげな、見守るような視線に大丈夫だと笑ってみせれば、一匹、また一匹と視線を外して離れていく。
残ったのは小さな狸と大きな狸の二匹だけだ。
ゆっくりと体を起こす。心配げに鳴きながら鼻を擦り寄せる子狸を撫で、抱き上げる。
「――あぁ。そっか」
思い出す。自分は庭の垣根に挟まっていた子狸を、山に返しにきたのだと。
苦笑する。少しだけ強めに子狸の頭を撫でて、親らしき狸の元へと下ろしてやる。
「本当にありがとうございました」
丁寧に頭を下げる親狸に、ふと思いついて忠告する。
「気をつけて見とけよ。俺んとこの庭だったからよかったものの、向かいのじぃさんのとこだったら、今頃狸汁にされてただろうからな」
「申し訳ありません。本当に何から何まで。この子には後できつく言い聞かせますので」
親狸の隣で、しゅんと耳を垂らす子狸に笑い、そうしてくれと念を押した。
まあ、大分反省しているようだ。この次は一匹で麓に下りる事はないだろう。
何度もこちらを振り返り頭を下げつつ去って行く狸の親子を見送って、一つ息を吐く。
体の痛みはほとんどなくなったようだ。理由の分からない痛みは気になるが、今はとても疲れていた。
何気なしに空を見上げる。雲一つなく晴れ渡る空は、どこまでも青い。目を細めて高く昇った太陽を見遣り。
ふと、違和感を感じた。
例えば、空の色。風の音。山の匂い。
ふとした瞬間に、違和感を感じる。ここは本当に自分の知っている山なのだろうか。
あぁ、そういえば。今し方の記憶を思い返す。
自分は、狸と会話をしていなかっただろうか。何も疑問に思わずに。
「あー!こんなとこにいた」
背後から聞こえた無邪気な声に、思わず体を震わせる。
聞き覚えのない声だ。少なくとも、自分の記憶にはない。
「何してるの?早く帰ろうよ」
動けない自分の前に、声の主が現れる。
やはり知らない子だ。自分よりも年下の、まだ幼さが抜けきらない子。
「どうしたの?大丈夫?」
何も答えられないでいる自分を心配そうに見つめ。少年、或いは少女は、手を伸ばしぺたぺたと確かめるように体に触れてくる。
小さな手が背中に触れる。ずくり、とした重苦しい痛みに、眉を顰めた。
「痛いの?傷はないみたいだけど、打ち付けたりしたのかな?」
泣きそうに顔を歪める子。
自分がいたい訳でないだろうに。相変わらずの優しさに馬鹿だなぁ、と苦笑する。
ふと、違和感を感じた。それが何かは分からない。
そう言えば、何故こんなにも背中が痛むのだろうか。
「立てる?帰ったら、ちゃんと見てもらおうね」
「――大丈夫だって。ちょっと痛かっただけだから、すぐに収まるさ」
違和感を拭い去るように首を振る。これ以上心配をかけまいと、笑って立ち上がった。
「それより腹が減ったな。今日の夕飯は何だったっけか」
「今日はね、お魚だよ。僕が釣ったんだよ」
すごいでしょ、と胸を張る子の頭を撫でて、手を繋ぐ。
ふと、感じる違和感は、気にするほどでもない。
夕暮れを二人、歩いて帰る。
沈む太陽を追いかけながら、山の奥にある家へと向かう。
違和感など、もう何も感じない。
20250427 『ふとした瞬間』
「主人《マスター》、手を」
青年に促され、首を傾げながらも少年は素直に手を差し出した。
恭しくその手を取り、青年は薬指に銀製の指輪を嵌める。
「――蛇?」
指輪の嵌まる指を目の前に翳し、目を細める。一匹の蛇が己の尾を喰んでいる。蛇の煌めく紅い目に呪術《まじない》の気配を感じ取り、少年は微かに苦笑する。
「蛇。故郷の永遠、不死の象徴。主人を、守る」
「過保護だね」
片言で語る青年の、彫りの深い顔立ちを指輪越しに眺めながら、それだけではない微かな呪術の痕跡に肩を竦める。
遠い異国の、呪術師《シャーマン》の血を濃く継ぐ青年が施した呪術。目を凝らしても、それが何であるのか理解出来ず、少年は諦めて手を下ろした。
「主人」
目の前の青年より、僅かに低い声に視線を向ける。部屋に入って来たのは青年と同じ顔をしたもう一人の青年。唯一異なるのは、目の前の青年は右の耳に銀のリングピアスを嵌めているのに対し、入ってきた彼は左の耳にピアスをしている事だけだ。
ピアス以外は見分けがつかない二人を見ながら、双子というのは本当に不思議だと、少年はぼんやりと思う。元々が一つの存在が二つに分かたれたような、誰よりも近しい存在。だからこそ彼らは怖れられ忌避されて、この国に辿りついた。彼らとの出会いを思い返し、少年は密かに嘆息する。
「トキ。出来たか」
左にピアスをつけた双子の兄が弟の言葉に頷きつつ、少年の前に歩み寄る。差し出されたそれを見て、少年はあぁ、と苦笑とも嘆きとも取れる声を漏らした。
「主人。受け取ってくれ。守護のまじないをかけてある」
「――それだけじゃないだろう」
少年の小さな呟きに、双子は僅かに表情を綻ばせた。
「主人、守る、見つける。どんなに離れても。必ず」
「どこへいても、主人が分かるように。身につけてくれさえすれば、一度だけリングをつけた主人の下へ、リングを通じて行けるように。そういうまじないだ」
差し出されたそれを受け取り、少年は双子の説明を聞きながら手の中で弄ぶ。双子の弟にもらった指輪と同じ蛇を模った、けれども少年の指には不釣り合いなほど小さな指輪。それが意味する事は、一つだけだ。
少年の人形を依代としている、本当の双子の主人。今は隠れ逃げるために封じてある、本来の体に身につけろと言っている。それはつまり、この長い鬼事の終わりが近い事を示していた。
「結局、おにいちゃんが諦めてくれる前に、見つかっちゃうのか」
誰にでもなく呟いて、手の中の指輪を放る。光を反射し煌めくそれは、小さな放物線を描いて、少年の影の中に吸い込まれそのまま消えていった。
少年の瞳の奥。白髪の小さな少女の姿が揺らいで見えて、双子はそれぞれ少年の手を取った。
「ここにいる主人か、それとも隠されている主人かは見えない」
「でも結果、一緒。その先、部屋の中。出られない」
「二人の占いは外れないもんな」
呪術師の占い予言は外れない。どんなに足掻いた所で、最後の結末は同じだという事を、少年は知っている。
小さく息を吐いて、双子を見る。眉を下げ、微笑んで。少年は無駄だと知りながらも、問いかけた。
「いつまでも、私に囚われる必要なんてないよ。もう二人だけで生きていけるだろう?」
どうか、と少年の密かな願いを、けれども双子は首を振り否定する。
「主人に掬われた命だ。ならば主人と共に在るのが望ましい」
「一緒、いたい。わがまま、分かっている。でも…逢いたい」
「その先が、二度と出られない檻の中でも?」
双子は笑う。その笑みに、少年はそれ以上何も言えずに俯いた。
「――あの時、約束なんてしないで、さっさと出て行ってくれればよかったのに。十にも満たない子供が、一人残されていく意味を分かってたくせに。憐みや義務感だけで約束するなんて、最低だ」
低く呟く少年の言葉に、双子は何も言わない。
少年は双子に語る事はなかったが、少年が何から逃げている事も約束の内容も、双子はすべて知っていた。
――十年後、迎えに来る。どんなに離れても、時が過ぎても忘れたりしない。必ず迎えに行くから、そうしたら一緒に暮らそう。
一方的な約束。それは生き残れるはずがないと理解した上での、情けだった。
少年が――少年の依代を得る前の、かつての少女が八歳を迎える時に、少女は家族に捨てられた。
術師の家系に生まれた少女は、優秀な兄と比べ明らかに劣っていた。式の一つも打てず、術の一つも覚えられず。
少女を恥と思った家族は修行と称し山奥の小屋に少女を一人残し、体よく葬ろうと考えたのだ。
「ちゃんと、生き残れなかったって見立ててみたんだけどなぁ。出来損ないの見立ては、すぐに分かるものなのかなぁ」
呟く少年の背を双子の兄は撫で、弟は目を覆う。されるがままの少年が、しばらくして力を失ったように崩れ落ちるのを抱き留める。
「主人のせい、違う」
「十年とは、人を変えるのに十分な時間だ」
寝入った体を抱き上げて、双子の兄は寝室へと向かう。
起こさぬよう、そっとベッドに寝かせ。遅れて入ってきた弟が、手にした煙の立ち上る香炉をサイドテーブルに置くのを見ながら、兄はカーテンを静かに閉めた。
双子は知っている。主人のためと大義名分を掲げ、過去を未来を視てきた。その過程で、約束をした主人の兄の変化にも気づいていた。
いくつもの出会いの中で、利用価値や道具としてでない、普通の兄妹を知る切っ掛けが幾度もあったのだ。その差を羨み、妹という存在を手放す事が惜しくなったのだろう。
人とは傲慢な生き物だ。双子を売り、奴隷の如く扱った末に狩りの標的にしたのは、まぎれもなく人だった。だが同時に、双子の命を掬い上げ生きる術を与えたのもまた人であった。
あの苦痛と恐怖に彩られた夜の事を、双子は今でも忘れる事はない。
戯れに追い回され、互いに庇い合い、這いずりながら逃げた夜。
虚ろに光を失っていく瞳。細く途切れていく呼吸。下卑た男らの嗤う声。
それが悲鳴に成り代わるのを。月を反射し煌めく白銀の髪がなびくのを。半身に寄り添って、ただぼんやりと見ていた。
いつの間にか体の痛みは消え。怪我など何一つなく。
倒れ伏す男らを背後に手を差し伸べる少女は、双子よりも余程小さく、その手は枯れ枝の如く細かった。
「トキ」
「ロウ」
互いに目配せし、頷き合う。
今はどこか遠く、隠れ眠り続けている双子の主人を思い、依代である少年の手をそれぞれ取った。
目を閉じ、祈る。どんなに遠く離れていても想い描ける故郷の、見えざるモノの声を聴き、願う。
予知した結末の、その先を変えるために。
結末は変わらない。双子の主人は主人の兄の手によって部屋の中に閉ざされる。
だがそれは、本物の少女か依代の少年か、はっきりとは見えていない事もまた事実だった。
「「――――」」
歌うように、一つの言葉を口にする。
双子の故郷で『希望』という意味を持つその言葉。
それは捨て置かれた際に名を失った双子の主人のための、双子が定めた新しい名だった。
この国では、言葉は強い呪いであり、名は縛るものだという。在り方を定め、何よりも深い鎖《つながり》になる。双子の故郷と縁のない主人に故郷の言葉で名付ければ、それは確かな導となるだろう。
ざわり、と空気が振動する。風もないのに、香炉から立ち上る煙が大きく揺らぎ。
中身を失った少年の依代だけを残し、双子の姿は掻き消えた。
20250426 『どんなに離れていても』
古ぼけた姿見の前。姿を見せない彼女を一人待つ。
少し前までの彼女なら、一番にこの姿見まで来たはずだった。学校での出来事。友達の事。家族の事。何でもない些細な事まで、時間を忘れて話してくれていた。
だが時が経ち。彼女の世界が広がるにつれて、ここに来る事は少なくなったように思う。
それは良い事だ。内にこもるよりも、外へと飛び出して行く方が彼女には似合う。日々を楽しみ、元気に駆け回っているのならば、こうして待つのを止められるというのに。
はぁ、と重苦しい溜息を吐く。顰めた顔はそのままに、彼女の元へと移動した。
「またか。止めとけって言っただろうに。物好きな奴」
「――うるさい」
洗面台の鏡の前。泣き腫らした目をした彼女を、真正面から見据えた。
視界の隅に転がる、彼女には派手すぎるチークやリップに眉が寄る。何度目かの忠告も意味を成さなかった事に歯痒さを感じ、彼女にかける言葉もきつくなる。
「いいかげんにしておけ。いつまでも縋って泣くなんて、馬鹿らしいと思わないのかよ」
「うるさいってば!あんたには関係ないでしょ!」
睨み付ける彼女の目尻から、また一筋涙が零れ。思わずその滴を拭おうと伸ばした手は、鏡に阻まれ届く事はなかった。
「これ以上口出ししないで!鏡の中から出ても来られないくせに」
散らばる化粧品を掻き集め、彼女はこちらを見ようともせずに離れていく。無機質な鏡に触れながら、その姿をただ見ていた。
あれから、何度か彼女に声をかけるも、彼女は答える事も視線すらも合わせようとはしなかった。
存在を否定するような行為に、だが自身の姿しか見えない鏡を縋るように見つめる彼女に、どうしたものかと眉を寄せる。
忘れるのは、思っているよりも簡単だろう。時が経てば思い出すら曖昧になり、消え去る事が出来るはずだ。その方がお互いのためにもよほどいい。
分かっている。しかし理解はしても、彼女を前にしては手放せるはずなど出来そうにはなかった。
自嘲し、目を伏せる。鏡越しの奇妙な関係が、何よりも愛おしいものになっていくのを、あえて止めなかったのはお互い様だ。仕方がない、と笑い、覚悟を決めて足を踏み出した。
明かりも付けない暗い部屋。雨に濡れたままの格好で、彼女は力なく座り込んでいた。
凭れた壁側の窓の外は、土砂降りの雨。時折走る稲妻と、遅れて響く轟音が、雨の終わりがまだ来ない事を告げていた。
「本当に、馬鹿な奴」
徐に彼女は顔を上げる。虚ろな視線が、宙を彷徨い揺れ動く。
稲光。それに合わせて、部屋の電気がついた。
「――え?」
呆然と呟く彼女の視線が窓ガラスを、それに映り込む姿を捉え、僅かに見開かれる。
轟音。低く、重く雷の音が鳴り響く。
「もういいだろ。終わりにしろ」
静かに彼女に告げる。それに彼女は何かを言いかけて、力なく首を振り、唇を噛みしめ俯いた。
頑なな彼女に溜息を吐く。馬鹿な奴、と繰り返して、手を伸ばした。
「強情だな。なら、俺も好きにさせてもらう」
稲光。そして先ほどよりも早く轟音が響く。
窓ガラスに阻まれると思った手は、ガラスをすり抜け、彼方側へと伸びていく。
「誤魔化すのは、もう止めた。だからお前も逃げるな」
声もなく、ただこちらを見つめる彼女の腕を掴んだ。
稲光と、ほぼ同時に重い音が室内を震わせ。
「こっちに恋《こい》」
目を合わせて、そう告げた。
「――やだ」
掴まれた腕から手を離し、距離を取る。
それだけで簡単に諦めて手を引いてしまう彼を、強く睨み付けた。
「何でも知ってるって顔をして、勝手な事を言わないで」
雷光が彼の姿を揺らめかせる。続く雷の音に眉を顰めつつ、カーテンを勢いに任せて引いた。
そのままの勢いで、部屋の片隅に布をかけて仕舞い込んだ姿見を引っ張り出した。
布を取る。窓ガラスよりもはっきりとした彼を叩くように、鏡に強く手をついた。
「本当は、私の気持ちなんて、少しも分かってないくせに」
鏡についた手を握り締める。込み上げる感情が、また新しい涙になって流れ落ちていく。
「そうやって、いつも分かった振りして諦める所が大嫌い!」
彼はいつもそうだ。いつでも自分よりも年上の振る舞いをする。昔はそれに憧れもしたし、反発もした。けれど今は、只管にそれが憎らしい。
彼が好きだ。それがいつからかは、もう覚えていない。いつでも側にいた彼は、家族のようで、悪友のようで、ライバルのような。そんな近しい存在だったから。
彼に恋をして、そしてそれは叶わないものだと理解してしまった。鏡の向こう側。どんなに手を伸ばしても、鏡が邪魔で彼には届く事はなかった。
「馬鹿なのはどっちよ。一言も何も言わなかったくせに」
彼の気持ちに蓋をして、諦めるために色々な方法を試した。
もしも彼が同じ気持ちだと、一言でも言ってくれたのなら。そうしたらまだ、こんなに惨めな思いをしなくて済んだというのに。
縋れるものだったら、何でもよかった。一番苦しかったのは、彼にその諦めるための行為を咎められた事だ。他に縋る事も許さない、その残酷さが痛くて、息が出来ないほど苦しかった。
「――どうすれば許してもらえる」
鏡の向こうの彼が、静かに問いかける。
気づけば雷の音は消えている。音に掻き消される事のない彼の声に、鏡から手を離して涙を拭った。
一歩下がり、彼を見る。困ったような、戸惑うような目を見つめながら、手を差し出す。
「来てよ。あなたの気持ちが嘘でないっていうなら、ここまで来て」
息を呑む彼に、それ以外は許さないと睨みながら。
「私の所に愛《あい》にきて」
彼の目を見据えて、そう告げた。
20250425 『「こっちに恋」「愛にきて」』
眩しい朝の光に、はっとして顔を上げる。
「またやっちゃった」
机の上の資料をまとめ、溜息を吐く。いつの間にか眠ってしまっていたらしい。寝入る直前まで読み込んでいた資料に出来た皺を伸ばしながら、漏れ出る欠伸を噛み殺した。
――『山岳地帯の奇習について』
表紙を指でなぞり、数年前の記憶を辿る。既に欠片も思い出せず、諦めるように苦笑した。
数年前。まだ学生の頃に、原因不明の昏睡状態に陥った事があった。
このまま二度と目覚めないかもしれないとまで言われたらしい。その時の事は記憶にはない。ただとても怖い夢を見ていた感覚だけは残っていた。
「先生」
魘される自分が幾度となく口にしたらしい言葉。そして奇跡的に目覚める事が出来た自分が、一番に求めたはずの人物。
今となっては誰なのか分からない。学校には、該当する教師はいなかった。
そのまま時が経ち、夢の内容も求めた誰かの事も零れ落ちていくように忘れていった。けれども何かは残っているのだろう。こうして地方の廃れた伝統や、風習を記事にするような仕事を選んだほどには。
ほぅ、と息を吐く。頭を振って意識を切り替え、身支度を調えようと立ち上がる。
「――あ」
はらり、と肩から落ちたブランケットに視線を向ける。拾い上げて顔を埋めると、鼻腔を擽る淡い香りに思わず頬が緩んだ。
例えるのならばそれは、冬のしんとした朝のような。雪の白に色を添える黄色い蝋梅の花のような。爽やかで甘い、愛おしい香りだった。
相変わらず、彼は心配性だ。
夜の寒さも、大分和らいでいるというのに。それでいて起こす訳でも、ベッドへと運んでくれる訳でもない。優しさと厳しさの線引きがしっかりしているのだ。
彼は――私の婚約者とは、そういう人だ。
ブランケットを丁寧に折りたたみ、椅子の背にかける。ふわふわとした、どこか浮ついた気持ちで、身支度を調えるため部屋を出た。
「あぁ、起きたのか。丁度出来上がった所だ」
甘い匂いに誘われて、台所を覗き込む。
焼き上がったばかりのパンケーキを皿にのせ、彼は優しく微笑んだ。手際よくパンケーキの上に、フルーツやシロップをかけていく。その姿に見とれながらも、体は正直にくぅと控えめに空腹を主張した。
「おはよう。あまり根を詰めすぎるな。体を壊すぞ」
「分かってるって。ありがとう。今度からは気をつけるって」
呆れたように笑う彼に、笑みを返す。渡されたパンケーキがのった皿を手に、居間へと移動する。
彼を待ちきれず、フルーツを摘まんで口に放れば、甘酸っぱさに口元が弧を描いた。
「こら。つまみ食いをするんじゃない」
軽く窘められて、ごめんなさいと舌を出す。手渡されたナイフとフォークにふふ、と小さく笑えば、訝しげな彼の目と視線があった。
何でもないと首を振る。いただきます、と誤魔化して、ナイフとフォークを手にパンケーキを食べ始めた。
「随分とご機嫌だな。何かいい事でもあったか?」
「別に。いつも通りだよ」
何かが変わっている訳ではない。いつも通りの一日が何よりも幸せだと、彼は知る由もないのだろう。
変化が怖い訳でも嫌な訳でもないけれど。どうしてもいつも通りである事を求めてしまうのは、もしかしたら忘れてしまったあの怖い夢が関係しているのだろうか。
思い出せない、怖い夢。けれど怖いだけでなく、悲しい夢でもあったと、ふと思う。忘れる正しさが、何より悲しくて、寂しかった。
「ごちそうさま。また腕を上げたね」
「まあな。身近に食いしん坊がいると、自然と料理の腕も上達するって訳だ」
「誰だろうね。私の知っている人?」
嘯きながら、彼と共に洗い物を済ませていく。横目で確認した時計は、そろそろ出かける準備をしなければいけないと告げていた。
「ごめん。もう行かなきゃ」
「あぁ、後片付けはやっておくから、さっさと準備をしてこい」
笑いながら彼に促されて、台所を出る。しかし呼び止める彼の声に足を止め、振り返った。
「何?」
「忘れ物だ。ちゃんと持っていけ」
そう言って、首に提げたのは古ぼけた守り袋。記憶にはない、けれど大切な何かを思い起こさせるような、不思議なお守り。
ありがとう、と彼に笑って礼を言って、出かける準備をするため部屋へ戻る。何故だか泣いてしまいたいような気持ちを、必死で気づかない振りをした。
手早く準備を整える。
忘れていた机の上の資料を鞄に詰めながら、過ぎていくのは覚えていない誰かの事。
――先生。
誰なのだろう。何度も口にした、求めた人。
今度の取材先で、逢えるだろうか。
「っと、もうこんな時間」
時計が急げと忠告する。彼の呼ぶ声に返事をして、飛び出すように部屋を出た。
「気をつけていけよ、燈里《あかり》」
「分かってる。――行ってきます、冬玄《かずとら》!」
彼に手を振り、家を出る。眩しいほどの太陽の光に目を細めながら、駆け出した。
いつか巡り逢う。その日を望みながら。
今日を生き抜いていく。
どこか遠く。笛の音が聞こえた気がした。
20250424 『巡り逢い』
軽やかな笛や太鼓の音。しなやかに舞う演者達。
手にした守り袋を握り締め、舞台だけを見据えて少女は歩いて行く。
和やかな談笑が聞こえる。いくつもの楽しげな子供の声が少女の横を過ぎていく。
――始まった。
――始まったね。
――次はどこへ行こう。
――待ちくたびれちゃった。
少女の足が止まる。舞台から視線を逸らし、改めて辺りを見渡して、気づく。
舞台へと続く道が開かれている。神楽を見ていたはずの人々が、皆少女に視線を向けていた。
溢れそうになる悲鳴を押し殺す。足が震え、前へと進む事が出来ない。
――選ばれたようだ。
――シキ様も喜ぶ。
――じゃあ、次はどうしよっか。
笑う声。皆少女を見て、囁いている。
耐えきれず、視線から逃れるように俯いた。
――ああ、ほら。舞台にあがるようだ。
俯く視界の端で、誰かの足が見えた。
幼い子供の足。少女に背を向けて歩いて行く。
はっとして顔を上げた。夢で見た子供が、手に何かを掲げ持ち舞台へ続く階段へと足をかけている。
「っ、待って!」
子供の手にするそれが、深紅の桜の花びらだと気づいた瞬間、少女は思わず駆け出していた。
ゆっくりと舞台へ上る子供を追って、階段を上がる。
引き止めようと伸ばした手が、子供の肩を捕まえる、その瞬間。
手は宙を切り、子供の姿が掻き消える。
「――え?」
立ち竦む少女の目の前で、舞台はその姿を歪ませて。
そこは暗く狭い、社の中へと形を変えた。
少女は強く守り袋を抱きながら、視線を巡らせた。
暗い室内には夢とは異なり、誰の姿も見えない。それが心細く、けれども安堵して、少女は詰めていた息を吐いた。
かたん、と音がした。暗闇が蠢いて、翁面が浮かび上がる。
視線を巡らせる。四方の壁に、取り付けられた翁面。虚ろに開いた目が、それぞれ少女を見つめていた。
「牲《いけにえ》はお前か」
どこかから聞こえる声。身を強張らせながらも、少女は強い違和感に眉を寄せた。
理由は分からない。社、翁面、声。すべて夢で見たものと同じであった。だが付き纏う違和感が、これはすべて紛い物だと少女に告げている。
かたり、と音を立てて、翁面が浮かぶ。静かにゆっくりと、少女を囲うように四枚の翁面が近づいた。
「祭の再開に相応しい、良い牲だ」
無機質な、それでいて下卑た響きを宿した声音。
違和感でしかない、酷く不快な声だった。
「これはただの夢。祭は終わったの。誰かの暇つぶしの話に、これ以上付き合うつもりはないわ」
目の前の翁面を睨み付け、少女は声を上げる。
ぱき、とどこかで小さく音がした。
「祭を否定し、牲の役割を放棄して、お前はどこへ向かう」
「家に帰るの。ここではない、私の家よ。村は私とは関係がないもの」
「お前一人が否定した所で、語る人間がいる限り、祭は終わる事はない」
「それはこの村の祭ではないでしょう。村の人は皆いなくなった。そして社の妖も消えた。祭は終わったの!」
叫びにも似た少女の言葉に、翁面が揺れ動く。少女を取り囲む四枚の翁面が寄り集まり、少女の目の前で一つに溶け合っていく。
ぴし、ぱきり、と小さな音が、次第に大きく聞こえ始める。
「これはただの偽物。誰かが面白半分で作り上げた、最低のお話…生き伸びるための祭で、犠牲《いけにえ》だなんて、軽々しく口にしないで!」
ばきり。四方の壁に亀裂が入る。亀裂は大きく広がっていき、その隙間から光が差し込んだ。
崩れていく。作り上げられた舞台装置が、少女の否定の言葉で跡形もなく。差し込む光が日の光である事に、崩れた天井から見える空の色を見て少女は気づいた。
「お見事。これほどまでに鋭い否定は、聞いていて気分がいいね」
楽しげな声音。翁面とは異なる、子供のような高い声。
空から声の方へと視線を移し、少女は目を見張り、息を呑んだ。
少女の目の前。翁面をつけた幼い子供が立っている。見覚えのあるその姿は、夢の中の子供によく似ていた。
「あなたは…?」
「祭は今も密かに続いている。牲を求めているっていう、人間の望みに応えた妖だよ。元とは違うし、望みで変質していたから、すぐに否定されちゃったけどね」
残念、と呟きながらも言葉とは裏腹に、楽しそうにきゃらきゃらと妖は笑う。くるりと少女に背を向けて、跳ねるように歩き出した。
「っ、待って!どこに行くの?」
「後片付けをしに。その後は、消えるのを待つだけだよ。今は人間の間で広まっているけれど、どうせしばらくしたら忘れるだろうしね」
「そんな。そんなのって」
淡々とした妖の言葉に、少女は眉を寄せる。思わず追いかけようと手を伸ばし、足を踏み出した。
「駄目だよ」
立ち止まる妖が、それを咎める。くるりと振り返り、駄目だと繰り返す。
「一つ、忠告してあげる。妖に情をかけないでね」
「――どうして?」
「情を持って、離れたくなくなって。それで最後には堕ちてしまうから…消える事よりも、よっぽど残酷だ。特に人間の望みに応えたからとはいえ、人間に手をかけた妖は、他よりも簡単に堕ちてしまうからね」
「でも、それでも…だってあなたは、誰かのために応えようとしただけなのに」
面越しの鋭い視線が、少女を射貫く。その強さびくりと肩を震わせて、少女は守り袋を胸元に抱きしめた。
納得はいかないのだろう。唇を噛み締めながら妖を見る目は、泣きそうに揺らいでる。
「優しい子。その優しさは、妖には毒だ…でもどうしてもというなら、彼に望んでみるといい。君か彼か、どちらかに成り代わらせてくれるかもよ」
「それは…でも、だって…妖は人の認識で…だから」
「君は否定しただろう?それとも、祭を認めるのかい?」
「――っ」
冷たく、残酷に妖は少女に告げる。自身を害そうとした妖のために対価を払う事は出来るのかと、少女に覚悟を問うている。
それに、少女は何も言葉を返す事は出来なかった。
「それでいい。君はこちら側に踏み出さないで、そのまま忘れるんだ。最低な夢は忘れてしまえ」
「……ごめんなさい」
俯き、けれど泣かないよう耐える少女を、妖は静かに見つめ。馬鹿だなぁ、と呟いた。
「本当に優しい子。純粋で真っ直ぐで…彼が心配になる。この先苦労しそうだし、君に何かあれば彼も堕ちてしまうのだろうね」
「それって、どういう…?」
少女の疑問を掻き消すように、強い風が吹き抜けた。
「じゃあね。彼はそのままお家で奉ってあげるといいよ。近すぎない距離がいい…さあ、そろそろ起きないと、学校に遅刻するんじゃない?」
くすくす笑って、妖は指を差す。示された方向に少女は視線を向けて。
目が、覚めた。
20250423 『どこへ行こう』