sairo

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眩しい朝の光に、はっとして顔を上げる。

「またやっちゃった」

机の上の資料をまとめ、溜息を吐く。いつの間にか眠ってしまっていたらしい。寝入る直前まで読み込んでいた資料に出来た皺を伸ばしながら、漏れ出る欠伸を噛み殺した。

――『山岳地帯の奇習について』

表紙を指でなぞり、数年前の記憶を辿る。既に欠片も思い出せず、諦めるように苦笑した。
数年前。まだ学生の頃に、原因不明の昏睡状態に陥った事があった。
このまま二度と目覚めないかもしれないとまで言われたらしい。その時の事は記憶にはない。ただとても怖い夢を見ていた感覚だけは残っていた。

「先生」

魘される自分が幾度となく口にしたらしい言葉。そして奇跡的に目覚める事が出来た自分が、一番に求めたはずの人物。
今となっては誰なのか分からない。学校には、該当する教師はいなかった。
そのまま時が経ち、夢の内容も求めた誰かの事も零れ落ちていくように忘れていった。けれども何かは残っているのだろう。こうして地方の廃れた伝統や、風習を記事にするような仕事を選んだほどには。
ほぅ、と息を吐く。頭を振って意識を切り替え、身支度を調えようと立ち上がる。

「――あ」

はらり、と肩から落ちたブランケットに視線を向ける。拾い上げて顔を埋めると、鼻腔を擽る淡い香りに思わず頬が緩んだ。
例えるのならばそれは、冬のしんとした朝のような。雪の白に色を添える黄色い蝋梅の花のような。爽やかで甘い、愛おしい香りだった。
相変わらず、彼は心配性だ。
夜の寒さも、大分和らいでいるというのに。それでいて起こす訳でも、ベッドへと運んでくれる訳でもない。優しさと厳しさの線引きがしっかりしているのだ。
彼は――私の婚約者とは、そういう人だ。
ブランケットを丁寧に折りたたみ、椅子の背にかける。ふわふわとした、どこか浮ついた気持ちで、身支度を調えるため部屋を出た。





「あぁ、起きたのか。丁度出来上がった所だ」

甘い匂いに誘われて、台所を覗き込む。
焼き上がったばかりのパンケーキを皿にのせ、彼は優しく微笑んだ。手際よくパンケーキの上に、フルーツやシロップをかけていく。その姿に見とれながらも、体は正直にくぅと控えめに空腹を主張した。

「おはよう。あまり根を詰めすぎるな。体を壊すぞ」
「分かってるって。ありがとう。今度からは気をつけるって」

呆れたように笑う彼に、笑みを返す。渡されたパンケーキがのった皿を手に、居間へと移動する。
彼を待ちきれず、フルーツを摘まんで口に放れば、甘酸っぱさに口元が弧を描いた。

「こら。つまみ食いをするんじゃない」

軽く窘められて、ごめんなさいと舌を出す。手渡されたナイフとフォークにふふ、と小さく笑えば、訝しげな彼の目と視線があった。
何でもないと首を振る。いただきます、と誤魔化して、ナイフとフォークを手にパンケーキを食べ始めた。



「随分とご機嫌だな。何かいい事でもあったか?」
「別に。いつも通りだよ」

何かが変わっている訳ではない。いつも通りの一日が何よりも幸せだと、彼は知る由もないのだろう。
変化が怖い訳でも嫌な訳でもないけれど。どうしてもいつも通りである事を求めてしまうのは、もしかしたら忘れてしまったあの怖い夢が関係しているのだろうか。
思い出せない、怖い夢。けれど怖いだけでなく、悲しい夢でもあったと、ふと思う。忘れる正しさが、何より悲しくて、寂しかった。



「ごちそうさま。また腕を上げたね」
「まあな。身近に食いしん坊がいると、自然と料理の腕も上達するって訳だ」
「誰だろうね。私の知っている人?」

嘯きながら、彼と共に洗い物を済ませていく。横目で確認した時計は、そろそろ出かける準備をしなければいけないと告げていた。

「ごめん。もう行かなきゃ」
「あぁ、後片付けはやっておくから、さっさと準備をしてこい」

笑いながら彼に促されて、台所を出る。しかし呼び止める彼の声に足を止め、振り返った。

「何?」
「忘れ物だ。ちゃんと持っていけ」

そう言って、首に提げたのは古ぼけた守り袋。記憶にはない、けれど大切な何かを思い起こさせるような、不思議なお守り。
ありがとう、と彼に笑って礼を言って、出かける準備をするため部屋へ戻る。何故だか泣いてしまいたいような気持ちを、必死で気づかない振りをした。



手早く準備を整える。
忘れていた机の上の資料を鞄に詰めながら、過ぎていくのは覚えていない誰かの事。

――先生。

誰なのだろう。何度も口にした、求めた人。
今度の取材先で、逢えるだろうか。


「っと、もうこんな時間」

時計が急げと忠告する。彼の呼ぶ声に返事をして、飛び出すように部屋を出た。



「気をつけていけよ、燈里《あかり》」
「分かってる。――行ってきます、冬玄《かずとら》!」

彼に手を振り、家を出る。眩しいほどの太陽の光に目を細めながら、駆け出した。

いつか巡り逢う。その日を望みながら。
今日を生き抜いていく。


どこか遠く。笛の音が聞こえた気がした。



20250424 『巡り逢い』

4/24/2025, 2:18:01 PM