古ぼけた姿見の前。姿を見せない彼女を一人待つ。
少し前までの彼女なら、一番にこの姿見まで来たはずだった。学校での出来事。友達の事。家族の事。何でもない些細な事まで、時間を忘れて話してくれていた。
だが時が経ち。彼女の世界が広がるにつれて、ここに来る事は少なくなったように思う。
それは良い事だ。内にこもるよりも、外へと飛び出して行く方が彼女には似合う。日々を楽しみ、元気に駆け回っているのならば、こうして待つのを止められるというのに。
はぁ、と重苦しい溜息を吐く。顰めた顔はそのままに、彼女の元へと移動した。
「またか。止めとけって言っただろうに。物好きな奴」
「――うるさい」
洗面台の鏡の前。泣き腫らした目をした彼女を、真正面から見据えた。
視界の隅に転がる、彼女には派手すぎるチークやリップに眉が寄る。何度目かの忠告も意味を成さなかった事に歯痒さを感じ、彼女にかける言葉もきつくなる。
「いいかげんにしておけ。いつまでも縋って泣くなんて、馬鹿らしいと思わないのかよ」
「うるさいってば!あんたには関係ないでしょ!」
睨み付ける彼女の目尻から、また一筋涙が零れ。思わずその滴を拭おうと伸ばした手は、鏡に阻まれ届く事はなかった。
「これ以上口出ししないで!鏡の中から出ても来られないくせに」
散らばる化粧品を掻き集め、彼女はこちらを見ようともせずに離れていく。無機質な鏡に触れながら、その姿をただ見ていた。
あれから、何度か彼女に声をかけるも、彼女は答える事も視線すらも合わせようとはしなかった。
存在を否定するような行為に、だが自身の姿しか見えない鏡を縋るように見つめる彼女に、どうしたものかと眉を寄せる。
忘れるのは、思っているよりも簡単だろう。時が経てば思い出すら曖昧になり、消え去る事が出来るはずだ。その方がお互いのためにもよほどいい。
分かっている。しかし理解はしても、彼女を前にしては手放せるはずなど出来そうにはなかった。
自嘲し、目を伏せる。鏡越しの奇妙な関係が、何よりも愛おしいものになっていくのを、あえて止めなかったのはお互い様だ。仕方がない、と笑い、覚悟を決めて足を踏み出した。
明かりも付けない暗い部屋。雨に濡れたままの格好で、彼女は力なく座り込んでいた。
凭れた壁側の窓の外は、土砂降りの雨。時折走る稲妻と、遅れて響く轟音が、雨の終わりがまだ来ない事を告げていた。
「本当に、馬鹿な奴」
徐に彼女は顔を上げる。虚ろな視線が、宙を彷徨い揺れ動く。
稲光。それに合わせて、部屋の電気がついた。
「――え?」
呆然と呟く彼女の視線が窓ガラスを、それに映り込む姿を捉え、僅かに見開かれる。
轟音。低く、重く雷の音が鳴り響く。
「もういいだろ。終わりにしろ」
静かに彼女に告げる。それに彼女は何かを言いかけて、力なく首を振り、唇を噛みしめ俯いた。
頑なな彼女に溜息を吐く。馬鹿な奴、と繰り返して、手を伸ばした。
「強情だな。なら、俺も好きにさせてもらう」
稲光。そして先ほどよりも早く轟音が響く。
窓ガラスに阻まれると思った手は、ガラスをすり抜け、彼方側へと伸びていく。
「誤魔化すのは、もう止めた。だからお前も逃げるな」
声もなく、ただこちらを見つめる彼女の腕を掴んだ。
稲光と、ほぼ同時に重い音が室内を震わせ。
「こっちに恋《こい》」
目を合わせて、そう告げた。
「――やだ」
掴まれた腕から手を離し、距離を取る。
それだけで簡単に諦めて手を引いてしまう彼を、強く睨み付けた。
「何でも知ってるって顔をして、勝手な事を言わないで」
雷光が彼の姿を揺らめかせる。続く雷の音に眉を顰めつつ、カーテンを勢いに任せて引いた。
そのままの勢いで、部屋の片隅に布をかけて仕舞い込んだ姿見を引っ張り出した。
布を取る。窓ガラスよりもはっきりとした彼を叩くように、鏡に強く手をついた。
「本当は、私の気持ちなんて、少しも分かってないくせに」
鏡についた手を握り締める。込み上げる感情が、また新しい涙になって流れ落ちていく。
「そうやって、いつも分かった振りして諦める所が大嫌い!」
彼はいつもそうだ。いつでも自分よりも年上の振る舞いをする。昔はそれに憧れもしたし、反発もした。けれど今は、只管にそれが憎らしい。
彼が好きだ。それがいつからかは、もう覚えていない。いつでも側にいた彼は、家族のようで、悪友のようで、ライバルのような。そんな近しい存在だったから。
彼に恋をして、そしてそれは叶わないものだと理解してしまった。鏡の向こう側。どんなに手を伸ばしても、鏡が邪魔で彼には届く事はなかった。
「馬鹿なのはどっちよ。一言も何も言わなかったくせに」
彼の気持ちに蓋をして、諦めるために色々な方法を試した。
もしも彼が同じ気持ちだと、一言でも言ってくれたのなら。そうしたらまだ、こんなに惨めな思いをしなくて済んだというのに。
縋れるものだったら、何でもよかった。一番苦しかったのは、彼にその諦めるための行為を咎められた事だ。他に縋る事も許さない、その残酷さが痛くて、息が出来ないほど苦しかった。
「――どうすれば許してもらえる」
鏡の向こうの彼が、静かに問いかける。
気づけば雷の音は消えている。音に掻き消される事のない彼の声に、鏡から手を離して涙を拭った。
一歩下がり、彼を見る。困ったような、戸惑うような目を見つめながら、手を差し出す。
「来てよ。あなたの気持ちが嘘でないっていうなら、ここまで来て」
息を呑む彼に、それ以外は許さないと睨みながら。
「私の所に愛《あい》にきて」
彼の目を見据えて、そう告げた。
20250425 『「こっちに恋」「愛にきて」』
4/25/2025, 2:01:48 PM