風に乗って届いた微かな声に、足を止めた。
耳を澄ます。周囲の雑音に掻き消されてしまいそうなほど小さな声は、大切な彼の声だ。
彼が困っている。助けを求めるその声音に、目を細め駆け出した。
「――えっと…何、してるの?」
目の前の光景に首を傾げ、問いかける。
どうなっているのだろう。何故彼は、元の雀の姿でリボンに絡まり、藻掻いているのだろうか。
「丁度良かった。助けて!プレゼントにリボンを巻こうとしたら絡まっちゃったの」
ばさばさと、翼を動かし、彼が懇願する。
無暗に動かしては余計に絡んでしまうだろうに。そうは思うが口にも、表情にも出さず、絡まる赤いリボンに手をかけた。
おとなしくなった彼の頭を指先で一撫でして、リボンを解いていく。然程複雑に絡んでいなかったようで、少しすれば簡単にリボンは解けていった。
「ありがと。偶然通りがかってくれなかったら、ぐるぐる巻きになる所だったよ」
人の姿をとって、安堵の息を滲ませる彼に、違う、と小さく呟いた。
「違う?もしかして、何か用事があったの?」
首を振る。
違う。偶然でも、用事があった訳でもない。
「声がしたから。君の…困っているようだったから」
大切で、大好きな彼の声がしたから。
祖先に猫がいた自分の耳は、確かに他の人よりも良く聞こえる。遠く離れた小さな声も、聞く事が出来る。
でも違うのだ。知らない遠くの声など、形の持たないただの雑音でしかない。他ならぬ彼の声だから、どんなに遠くの声でも、すぐに気づく事が出来るのだ。
そうは思っても、言葉として形にする事は出来ず。
怖がられたりしないだろうか。重いと嫌がられないだろうか。
いつもこうだ。考えて、怖くなって、言葉にするのを諦めてしまう。
今の彼との関係も、彼が何度も思いを告げてくれたからこそだ。彼が途中で諦めてしまったら、こんなに近くにいる事なんて出来なかっただろう。
臆病な自分に嫌気が差す。軽く唇を噛んで、俯いた。
「えっと、その」
戸惑う彼の声がする。気にしないで、と取り繕うとする言葉は、続く彼のどこか浮ついた声音に行き場を失い、解けて消えていく。
「それって。期待、してもいいのかな」
息を呑む。顔を上げて彼を見れば、頬や耳を赤くした彼が、煌めく目をしてこちらを見ていた。
「僕、だからだって。僕の声がしたから、来てもらえたんだって、期待してもいい?」
「――うん」
彼はいつも気づいてほしい時に、ちゃんと気づいてほしい言葉をくれる。考えすぎて、何も言えなくなってしまう自分を根気強く待って、手を差し伸べてくれるのだ。
小さく頷いて、一つ呼吸をする。彼の目を見て、口を開いた。
「遠くにいてもね、声ははっきり聞こえる。他の声は全然気にもならないけれど、君の声は違う。どんなに遠くたって、何をしていたって…君は特別、だから」
思っている事を、言葉として形にしていく。目の前の彼の頬が益々赤くなっているけれど、きっと自分も同じなのだろう。
顔が熱い。鼓動が早くて苦しくなる。
けれどその痛みが、何よりも愛おしい。
「だからね――」
「ちょっ、ちょっと待って!ごめんね。でも少し待ってね」
さらに続けようとした言葉は、彼の手によって塞がれる。言われた通りに待てば、それに気づいて彼は数歩離れた。
ごそごそと何かを探し。そして目的のものを見つけたらしい彼は、深呼吸を一つしてそれを差し出した。
「これ、あげる」
「ありがとう?」
反射的に受け取って、促されて中身を見る。
チケットが二枚。密かに気にしていた、デザートビュッフェのチケットだった。
「いつも助けてもらってるから、たまにはかっこいい所を見せたくて。今度一緒に行かない?」
「いいの?これ…本当に、いい、の?」
チケットを胸に抱き、何度も確かめる。
本当にもらってもいいのか。本当に一緒に行ってくれるのか。
繰り返す自分に、彼は笑っていいよ、と囁いた。
「プレゼントは建前。僕が可愛い彼女とデートがしたいだけだから、ね」
「嬉しい。ありがとう」
「どういたしまして」
嬉しくて、幸せで。笑ってお礼を言えば、彼も笑って答えてくれる。その微笑みに、胸の鼓動が大きく跳ねた。
彼が好きだ。優しくて暖かな彼のすべてが大好きだ。
顔だけでなく、全身が熱を持ちだした気がした。その甘い熱に浮かされて、何も考えずに思った事を口にする。
「大好き。君が好き。優しい所も、格好いい所も。それからちょっとドジで可愛い所も。全部大好き」
「――ぅ、え!?え、えっと、待って!僕も…いや、僕の方が好きだからねっ!」
真っ赤になって叫ぶ彼に、くすくす笑いが漏れる。
何だかふわふわして良い気分だ。このまま手を繋いでもいいだろうか。
笑いながら彼の手を見て。その視界の隅で、解いてそのままにしていた赤いリボンが風に揺らいでいるのが見えた。
視線を向ける。目を細め、動きを見定めて――。
「――ひゃぁ!」
気がつけば、側にいたはずの彼はおらず。手には赤いリボンが握られて。
「きょ、今日も。元気だ、ね」
「――ごめん」
空を見上げれば、雀の姿に戻った彼が、忙しなく辺りを旋回していた。
はぁ、と溜息を吐く。またやってしまった。
「気をつけてはいるんだけど。何だか最近、前よりも動くものを見ると落ち着かなくて」
「そ、それって…僕のせい?」
「違う。と、思いたいけど…どうだろう?」
遠い祖先の猫の血は、今日も変わらず彼との相性を最悪にしている。
好きの気持ちだけでは乗り越えられないものがあるなど、彼に出会う前は物語の中だけだと思っていたのに。
眉を下げ、手にしたリボンを風に流す。揺らぎながら遠くに流れて行くリボンに、疼く衝動を抑えながら彼を見た。
「とりあえず、手を繋ごっか。その方が落ち着くって、前に言ってたもんね」
「――ありがとう。ごめん」
人の姿をとった彼と手を繋ぐ。こんな形で手を繋ぎたかった訳ではないのに、と後悔しながら彼について歩き出す。
「どこか、カフェに寄ろう。甘い物食べたら、もっと落ち着くよ」
励ます彼の声は、変わらず優しい。
それに益々落ち込む自分に気づいて、彼は立ち止まった。
「大丈夫。大丈夫だからね」
いい子いい子、と頭を撫でられる。その手の温かさに、少しずつ沈んでいた気分が浮上していく。
目を細め、喉を鳴らして彼の手に擦り寄って。
「大好き」
「僕の方が好きだよ」
彼と目を合わせ、笑い合った。
20250416 『遠くの声』
「昔。桜に恋をした、愚かな男の子がおりました」
桜の木の下で、男は子供達に語る。
馬鹿な子だったと男は笑う。家族よりも、友人よりも。生まれた時から共にいた、半身のような幼馴染よりも桜を優先し、大切にしていたと。
ある日、彼は幼なじみと喧嘩をした。些細な口論は、しかし桜を貶めるような幼馴染の言葉一つで悲劇へと変わる。
紅く染まる大地。意識のない幼馴染。突き飛ばした時の感覚。
「男の子は怖くなりました。しかし幼馴染から流れ出る紅を見て、その怖さはすぐになくなります。――流れる紅を美しい、と。愚かにも思ってしまったのです」
語る言葉は穏やかでありながら、どこまでも冷たい。その眼に浮かぶのは、侮蔑や憤怒。柔らかな笑みで誤魔化して、男は話を続けていく。
「男の子は思いました。この美しい紅を桜の養分としたならば、来年の桜はもっと美しくなるのではないか、と」
そうして彼は、幼馴染を埋めた。迷いも後悔もなく、あるのは次の桜の季節への期待だけ。
そうして時が過ぎ。桜が見頃を迎える頃。
「男の子が恋した桜は、他のどの桜よりも美しく咲き誇っておりました。紅く色づいた花びらが、風に舞うその幻想的な光景は、男の子の益々魅了していきます」
桜の木の下で、彼は笑う。間違っていなかったのだと。
満ち足りた思いで桜の花に魅入り、そうして桜の花が散った後。
「葉桜を見上げ、男の子はふと、思いました。そう言えば、今年は幼馴染と桜を見ていなかった。随分と長い間あっていない気もする。何故だろうと考えて。――そこで、ようやく男の子は思い出したのです」
幼馴染はもうどこにもいないのだと。
その事実を、彼は咄嗟に否定する。夢を見ていたのだろう。きっと仲直りが出来ていないから、会い来づらいだけだ。
ならば今回はこちらから、謝ってしまおう。謝って仲直りをすれば、すべては元通りだ。
自分達は一緒にいなければ。どちらかが欠けてしまう事などあり得ない。
だから、だからと、過ぎる紅い記憶から目を逸らし。少年は桜の木の根元に座り込む。冷たい土の感触にあの日を思い出しかけて、ついには叫びを上げて少年の心は壊れてしまった。
「こうして桜に恋をした憐れな男の子は、桜の化け物となり。今も桜の咲く時期になると、幼馴染の代わりと桜の養分になりそうな子供を求めて、現れるのです。――おしまい」
男が語り終えると同時。きゃあ、とあちらこちらから悲鳴があがる。本気で怖がっている子、面白半分で怖がった振りをしている子。反応は様々だ。
男は苦笑を漏らし、だからね、と言葉を続ける。
「桜が咲く時期は、早くお家に帰りなさい。桜の化け物が攫いにくるからね」
「攫われたら、どうなるの?」
一人が手を上げ、男に尋ねる。期待に溢れたいくつもの目を見返して、男は笑ってみせた。
「きっと桜の木の下に埋められてしまうのだろうね。もしかしたら、この木の下にも。この木は他の桜よりも立派で美しい花を咲かせるから。埋まっていても可笑しくはないかな……ここに、埋まっているのかな」
眉を下げ、憂いた表情をつくる。
誰が、あるいは何が、とはあえて言わない。それだけで効果は十分だった。
悲鳴を上げて各々去っていく子供達。その姿を見送って、男は頭上の桜を見上げた。
薄紅の桜が満開に咲き誇っている。風に遊ぶいくつもの花びらが、男の前でくるり、と円を描き。くるり、くるりと渦を巻いて、合間に誰かの姿を形作っていく。
幼さを残す、あどけない笑顔。伸ばされた手を男は掴み、引き寄せる。
「おかえり…いや、ただいまかな」
小さな体を抱きしめる。あの日、永遠に失ったはずの幼馴染を、閉じ込めるようにして掻き抱く。
「逢いたかった。一年は長すぎる」
白く華奢な手が男の頭を撫でる。目を細め、それを受け入れながら、離れていた空白を埋めるように、男は彼女に語りかけた。
彼女は何も言わない。ただ微笑んで男の話を聞いている。
その笑みがふいに歪んだ。吹く風に煽られ、彼女の姿が端から解け花びらへと戻っていく。
「っ、待って。まだ」
手を伸ばす男の指をすり抜けて。駆け抜けていく風と共に、桜の花びらは空高く舞ってもう見えない。
「――あぁ」
花びらを追って見上げた桜は、すでに花が散っている。葉桜となった木が、風に葉を揺らしながら静かに男を見下ろしていた。
男の腕が力なく落ちる。そのまま崩れ、木の幹に額を付けて凭れ掛かる。
「行かないで。どうか…どうか、返してくれ。頼む。俺のすべてを捧げるから」
呻くように、桜に願う。
何度繰り返しただろうか。男の懇願に、だが桜は沈黙を保ったまま。
大切な幼馴染。生まれた時から共にいた、半身のような何よりも近い存在。近いからこそ、失うまで気づく事がなかった。
彼女の存在は、男にとってのすべてだ。
愛していた。否、今も愛している。桜の花に幻想を見るほどに、今なお彼女を求め続けている。
不意に、鳥の囀る声が聞こえた。春の訪れを告げる、高い声。嘆く男の鼓膜を揺すり、誘われるようにして顔を上げた。
桜の木の枝に止まった一羽の白い鳥が、男を見下ろしていた。どこか懐かしいその眼差しに、男は徐に立ち上がる。
手を伸ばす。捕らえる事も、触れる事すらも出来ぬ男の腕を、鳥は暫し見つめ。軽やかな声音で囀り、飛び立った。
白の羽が舞う。男の手に一枚残して、鳥は桜吹雪の向こう側へと消えていく。
「――っ」
羽に唇を寄せて、男は静かに目を伏せた。開く唇が一つの名を形作ろうとして、吐息だけを溢して閉じられる。
愛しい幼馴染の名を、男はもう覚えてはいない。己の名すら覚えていないだろう。
「そう、だね。また桜の時期に」
諦念を湛えた目で男は微笑み、手を離す。風に踊る羽を見つめ、後を追うように歩き出す。
葉桜が眩しい、桜の木々を抜けていく。その奥、開けた場所で立ち止まり、落ちた羽を拾い上げた。
どこかで、鳥の囀る声が聞こえる。あの懐かしい、愛しい人と同じ目をした白い鳥。
目を閉じる。愛しい姿、その声を手繰り寄せて。
桜に恋焦がれ、愛した半身を失った男は、一本の桜の木へと姿を変えた。
近くの桜の枝に止まり、男が桜に戻ったのを見届けた鳥は、一声鳴いて飛び立った。
まだ若い、男だった桜の枝に止まる。他の桜よりも遅れて花を付ける桜の、まだ少ない花開いた一枚を啄んだ。
鳥は鳴く。呆れたように、哀しむように、甲高く。
そうして鳥は木の根元に降り立ち、姿が揺らめいて。
男の木と絡み合う、一本の桜の木へを形を変えていく。
――比翼連理。
絡み合う二本の桜の木を、人はそう呼んだ。
山の奥。ひっそりと寄り添い立つ二本の木。連理木という、二本の木の枝が連なって木目が通じ合っている様を、人は好み、桜の時期に集った。
人々は知らない。この桜が元は人であった事を。二人が何故桜と成ってまで共に在る事を。
桜に成った事に気づかず、春が来ると幼馴染を探し彷徨う男。そしてそんな男の元で、寄り添い続ける幼馴染。
二人は生まれた時から共にいた。互いにどこか欠落を抱えていた二人は、それを埋めるように共にいるのが当たり前だった。
二人を知る者はどこにもいない。他の桜よりも遅れて花開く二本の木の、その理由は誰にも分からない。
それでも、二人は確かにここにいる。
20250415 『春恋』
屋敷の奥。滅多に人の立ち入る事のないそこには、隠されるようにして小さな部屋がある。
中には少女が一人。四方から無数に伸びる縄に繋がれて、ただそこに在った。
少女はこの屋敷の記録のすべてだった。家系図や日々の記憶から、屋敷にある様々な書物まで。彼女は記録し、伝えるためだけに作られ、この部屋に留められていた。
ほぅ、と吐息を溢す。手にした古ぼけた書物を一撫でし、孤独の慰めにかつて共に過ごした幼い少年との過去に、思いを巡らせた。
表紙を捲る。辿々しい字で、成すべき事、と書かれた頁を見つめ、目を細めた。
立派な僧になるのだと言っていた少年が書いた、その道筋を記した書物。日々の務めから修行まで、事細かく書かれている。読まずとも記録している少女は、それでも何度も読み直し、書物はすっかり草臥れていた。
――あの少年は、この未来を辿れたのだろうか。
真面目で、優しい少年だった。繋がれた少女を憐み、己の無力さに嘆く、そんな繊細な心の持ち主であった。
少女が過去に思いを馳せていれば、ふと外が騒がしい事に気づいた。
書物を閉じ、扉に視線を向ける。少女には開けられぬ扉の向こう側。
悲鳴が聞こえた。誰かが争い、怯え、叫んでいる。何かが壊れる音、ばきり、と木の割れる音が、次第に大きくなっていく。
近づいているのだ。周囲を破壊する何かが、少女のいるこの部屋へと訪れようとしている。
懐に書物をしまい込む。怯えなど欠片も見せず、少女は真っ直ぐに扉を見つめ、来訪者を待った。
めき、と。扉が軋み、割れていく。めきり、ばき、と大きな音を立てて、少女と外界を隔てていた重厚な扉は、いとも簡単に開かれた。
「邪魔するぜ」
扉の向こう。袈裟と法衣を纏った大柄な男が、身を屈めながら部屋へと入り込む。
知らない男だ。だがどこか懐かしい雰囲気を感じ、少女は僅かに眉を寄せた。
「何をお求めでしょうか」
己の記録を求めて来たのではない事は承知した上で、少女はあえて言葉をかける。不快に眉を顰めた男は、だがすぐに表情を取り繕い嗤ってみせた。
「冷てぇな。記録のくせに、忘れちまったってか?」
一緒に過ごした仲だろう?
にたり、と唇の端を歪めて男は嗤う。その怖ろしい笑みに見覚えなど、やはり少女にはない。
男の細まる眼を、少女は逸らす事なく見据えた。見覚えはなくとも、懐かしむ感情を見定めるように。それを知ってか、男は大股で少女の元へと近づき、その頬に触れた。
「あぁ。妖に成っちまったから、見分けがつかんのか。でも分かるだろう?」
近くなった男の憎悪に濡れた目の奥。懐かしい光に気づき、少女は微かに肩を震わせた。
知っている。その光は忘れる事の出来ない、優しい少年の――。
その些細な反応で、男には分かったらしい。さらに唇を歪め、眼には激しい怒りを湛えて囁いた。
「ここにはもう何もない。あんたで最後だ」
頬に触れていた手が下がり、少女の細い首を掴む。
屋敷には、生きている人間はいないという意味なのだろう。男に何があったのか、少女は何一つ分からない。理解できるのは、かつての優しさを憎悪と憤怒に変えてしまうほどの何かが男にあったという事だけだ。その強い感情で妖に成ってしまうほどの何かが。
「何をお求めでしょうか」
問いを繰り返す。同じ言葉でありながら、今度は男の真意を探るような声音に、男の手に僅かに力が込められて。
だが男はすぐに手を離すと、側に垂れる少女を繋ぐ縄を掴み引き千切った。
「俺を裏切った奴らを、俺は決して許さない。復讐のため、この屋敷のすべてを壊しに来た…だがあんたは壊さない。代わりに連れて行こう」
男の影が揺らめく。影はいくつもの鼠に似た獣の姿をとって、少女を繋ぎ止める縄に齧り付いた。
簡単に千切れていく縄に、少女は目を瞬く。
強固な封だったはずだ。屋敷の代々の当主が少女を屋敷に留め置くために繰り返し施してきた、誰にも解く事の叶わぬ枷であるはずだった。
それが喰い漁られ、千切れていく。影の鼠によって、形も残らずに壊されていく。
「さて、そろそろ終いだ。かつて夢見た未来は、裏切りの言葉一つで潰えた訳だが…まぁ、いいか。最終的に未来のその先の願いは、叶ったのだから」
縄がすべて残らず千切られ、少女の体が傾いでいく。それを受け止め抱き上げると、男は外へと歩き出した。
静かだ。誰かの声も、何かの音も聞こえない。
何もかもを壊し、男の怒りは、憎悪は収まったのだろうか。
「――満たされましたか」
ふと気になり、少女は尋ねた。
それに男は声を上げて嗤い、少女を強く抱きしめた。
「さぁな。怒りは幾分和らいだが、その分酷く飢えている。空腹で死にそうなほどだ」
男は嗤う。嗤いながら泣き、憎悪と悲嘆と、ほんの僅かな希望を混ぜた眼をして、男は告げる。
「あんたは、俺の最後の未来だ……ようやく、連れ出せた」
その言葉に、少女は初めて淡く微笑んだ。
少女のいなくなった部屋。
繋がれていたその場所に、一冊の古びた書物が落ちていた。
おそらく少女が落としてしまったのだろう。開いた扉から吹き込む風に、ぱらぱらと頁が捲られていく。
その最後。大僧正になる、と殊更丁寧に書かれた頁の裏に、小さく書かれた一言。
――彼女を外へと連れ出す。
風が吹き抜ける。
書物が閉じられ、残っていた影の鼠が群がり。
かつての少年の未来を書いた書物は、形を残さず喰い荒らされていく。
20250414 『未来図』
ひらりと舞う薄紅色の花びらが、目の前を過ぎていく。
「桜…もう春かぁ」
視界を淡く遮る桜吹雪。遠ざかる花びらを見遣りながら、遠い日の思い出を手繰り寄せて目を伏せた。
忘れる事の出来ない幼い頃の、一時の出会い。梅雨の時期、雨に濡れながら昔住んでいた家の裏にある小さな淵に佇む一人の少女。
あの子は今も元気だろうか。戯れに交わした約束を、まだ覚えてくれているだろうか。
溜息を吐く。あれから季節は止まる事なく巡り続けて、もう少しすればまた梅雨がやってくる。
――また来年。今度は一緒にあじさいを見に行こう。
あの子は来ない。哀しげに雨に濡れていたあの子は、きっと約束の内容も、約束をした事さえも忘れているのかもしれない。
「もう泣いてないといいなぁ」
呟いて、降り注ぐいくつもの花びらから逃れるように足を進めていく。行く当てなどはなかったけれど、昔を思い出してしまったせいか、自然と足はあの懐かしい淵へと向かっていた。
「やっぱり、いる訳ないか」
苦笑して、辺りを見渡した。
あの時から随分と月日が流れてしまったせいだろう。淵は記憶のそれよりも、大分様変わりをしていた。
僅かに面影を残す、淵の近くに寄って水面を覗き込む。底まで見通せる澄んだ水は、昔から変わらない。それがどこか嬉しくて、そっと水の中に手を差し入れた。
「――どうして」
不意に声が聞こえた。手を引き顔を上げ辺りを見渡すが、誰の姿も認められない。
気のせいだっただろうか。首を傾げて、水面に視線を落とした。
「え?」
水の中。静かにこちらを見つめるなにかと目が合った。
うなぎ、だろうか。大きな姿に、思わず動きを止めて、無言で見つめ合う。
「どうして」
声が聞こえた。水の中から。困惑したような、泣くのを耐えているような、寂しい、哀しい声音だった。
動けないでいれば、大きなうなぎは静かに水面から顔を出す。頭を出し、体を出して、それは段々に人の姿を取っていく。
「え、まさか」
見覚えのある姿に、息を呑む。淵から上がった、記憶のままの姿の彼女が、呆然とする自分を見下ろしどうして、と繰り返した。
膝をつき、頬に触れられる。僅かに見開かれた彼女の眼から、一筋涙が零れ落ちた。
「約束。守ってくれていたのね」
後悔を乗せた呟き。何を返したらいいのか思いつかず、小さく頷いた。
手を伸ばし、彼女の頬を濡らす涙を拭う。びくり、と肩を震わせて、さらに涙を流す彼女に慌てて手を離せば、その手を取られ縋るように指を絡められた。
「ごめんなさい。あなたもきっと約束を破るのだと、勝手に決めつけていたの」
「約束だもん。破らないよ」
「そうね。ごめんなさい…ずっと気づいてあげられないくて、一人にさせてごめんなさい」
気にしないで、と答えても、彼女の涙は止まらない。出会ったあの日に、泣いていた彼女はどうしたら泣き止んでくれただろうか。思い返して、それが約束をしたからだと思い出し、目を伏せた。
もう約束は出来ない。
約束をしたその年の秋。嵐の夜に、氾濫した川に家ごと流されて、未来を約束する事が出来なくなってしまったから。
「私のせいね。約束をしたから、あなたは眠る事が出来なかった」
「違うよ。あたしが約束を守りたいって思ってただけだよ」
首を振る。彼女のせいではない。約束を守りたいのは自分のためだ。彼女とまた会いたいと願っていたからだ。
だから気にしないでと、彼女の手を握り、祈るように囁いた。
「会いたかったの。最後にもう一度だけ、会ってさよならが言いたかったの」
「私も…会いたかった。もう一度、約束を信じたいと思ったから」
「おんなじだ…おんなじだから、もうごめんなさいはやめにしようよ。あじさいはさ、まだ早くて見られないけど、代わりに」
彼女を見つめ微笑んで。そうして空を、風に舞う桜の花びらに視線を向ける。同じように視線を向けた彼女が花びらを見つめ、綺麗、と小さく呟いた。
「うん。綺麗だ。約束した内容はちょっと違うけど、こうして一緒に桜を見られてよかった…もう一度会う事が出来て、本当によかった」
「そう、ね。私も一緒に桜が見れてよかったわ。もう一度、信じてよかった」
彼女の横顔を見る。その頬はもう涙で濡れてはいない。
よかったと、安堵の息を吐いて、繋いでいた彼女の手を解いて立ち上がる。
そろそろ行かなければ。約束が果たされた今、ここに留まる意味はなくなってしまったのだから。
「もう、行かないと」
風が吹き抜ける。花びらが舞い、その美しさに目を細めた。
「私も一緒に行くわ」
桜に魅入っていれば彼女も立ち上がり、離した手を再び繋がれる。困惑して彼女を見れば、優しく微笑んで大丈夫、と囁いた。
「私の物語は、もうとっくの昔に終わっているのよ。ここにいる私は、その記憶のひとひら。約束を破られた哀しさと、約束のために一人の人間を殺してしまった後悔で留まっていたの」
「約束?」
「そう。だからあなたが来てくれて、新しく約束をしてくれたのが嬉しくて、とっても怖かったのよ」
でももう大丈夫、と彼女は桜を見つめる。ようやく果たされた約束に、そうだねと返して、同じように桜を見つめた。
「どこまで一緒に行けるかは分からないけれど。噂では、人間と一緒に眠る事の出来た妖もいるみたいだしね」
くすり、と笑う彼女を見る。視線に気づいて彼女もまたこちらを見つめ、だからね、とどこか弾んだ声音で囁いた。
「あなたが望んでくれるのならば、私も一緒に眠らせて。それが叶わないならば、せめて新しい約束をちょうだい」
首を傾げて、少しだけ悩む振りをする。彼女の眼に僅かに不安が浮かんだのを見て、悪戯に笑って繋いだ手を大きく振って歩き出した。
「じゃあ、どっちも!どうなるか分からないけど、一緒に寝て起きたら、新しい約束をしようよ」
驚く彼女を横目に、手を引いて歩いて行く。地面を染める桜の花びらで出来た道を、二人辿っていく。
花びらが風に舞い。繋いだ手の隙間にひとひらが入り込む。
一時の終と、その先の始まりを祝福するように。
新しい約束が交わされるのを見届けるように。
20250413 『ひとひら』
美術室に飾られた一枚の絵。
夕暮れの草原を描いたその風景画には、ある噂があった。
――絵を描く誰かがいる。
何人もの生徒が見たと証言している。
絵を描く誰か。時にはスケッチブックを手に、ある時にはキャンバスに向かい、無心に絵を描いているのだという。
不思議と怖いという話は聞かない。この絵が飾られているのが美術室だというのもあるだろうか。無心で絵を描く姿を羨ましい、と口にする生徒ばかりだった。
絵に向かい、誰かが現れるのを待つ。
噂では、この絵のような鮮やかな夕暮れ時に現れるらしい。ちらりと横目で見た空は、鮮やかな朱に染まっている。ここからでは見えないが、夕陽もまた燃えるような朱や金を湛えて、沈んでいっているのだろう。
不意に、何か音がした。視線を絵に戻しても、誰かが現れた形跡はない。ただ朱に染まった草原を、風が駆け抜けているだけだ。
「――なん、だ?」
違和感に目を瞬く。食い入るように絵を見つめ、その違和感に気づいた。
草が揺れている。風が駆け抜ける度に草原が揺れ、ざああ、と音を立てていた。
よく見れば、夕陽も揺らめいて。少しずつ静かに沈んでいるようだ。
思わず手を伸ばす。草原を揺らす風が手をすり抜けて。
――気がつけば、夕暮れ時の草原に一人、立ち尽くしていた。
辺りを見渡す。どこまでも続く草原に、ただ一人を求めた。
「――いたっ!」
遠く、小さな影が、座り込んで絵を描いている。スケッチブックを手に無心に描くその姿に、酷く胸騒ぎがした。
「秋緋《あきひ》」
駆け寄り、声をかける。だが僅かにも反応の得られない事に、さらに声を張り上げた。
「秋緋!いつまでもこんな所にいないで、帰るぞ。叔母さん達や、夏樹だって心配してるんだ」
やはり、反応はない。止まらない手に焦れて、怖れて、無理矢理にでも止めようと手を伸ばす。
だがその手は彼女に届く前に、横から伸びた誰かの手に掴まれ、絵を描く事を止められはしなかった。
「止めてくれる?邪魔をしないで」
静かな声に、ぞくり、と悪寒が背筋を駆け上がる。手を振りほどき、視線を向けて息を呑んだ。
「この子の幸せを、あんたは何度否定するつもりなの?」
咎める視線。強く怒りの滲む目をした彼は、数年前の自分だった。
「誰、なんだ…お前」
「誰って、俺はあんただよ。巡流《めぐる》。秋緋の幼なじみだ」
「どういう…?」
彼の言わんとしている事が理解できず、眉を潜める。睨み付ける視線の先で、肩を竦めて彼は嗤った。
嘲り、憐み。昏い感情を宿した眼が、緩やかに細められる。彼に守られるような立ち位置で、彼女はこちらを気にかける事もなく、絵を描き続けている。
異様な光景に、だがそれさえも美しいと感じ入ってしまえる構図に、くらり、と世界が歪んだ気がした。
「あんたはもういらない。この子に必要なのは、この子が今まで描いてきた俺達だけになった…もう、痛みでしかないあんたへの感情も、窓の下の倒れ伏す二人の姿も、この子の中に欠片も残ってない。あるのは初めて俺を描いた時の、あの純粋な輝きだけだ」
「間違っている。そんな事…それは秋緋の未来を否定するだけの、お前の自己満足だろう!」
「自己満足、ねぇ」
冷たい眼に見据えられる。彼女を解放しろと、続けるはずの言葉は、憎悪にも似たその眼差しに、形をなくして解けていく。
「あんたのそれこそ自己満足じゃないの?惚れた女に頼まれたからって、この子をこれ以上壊していい理由にはならないよ。あんたは最後まで気づこうとすらしなかったけど、この子は夏樹よりもよっぽど繊細で臆病なんだ」
そんな事はない。そうは思えど断言が出来ない自分がいる。
記憶の中の彼女は、いつでも笑っていた。昔彼女の告白を断った時でさえ、彼女は変わらず笑っていて。その後も変わらないように、少なくとも自分にはそう見えていた。
だがそれは彼女の一部分、それも取り繕った部分なのだとしたら。見えていない部分で、苦しみ悲しんで一人泣いていたのだとしたら。
彼女のいないアトリエに残された、あの紅く染められた夕焼け達が、その答えを示しているのだろうか。
かたん、と鉛筆を置く小さな音に、知らず俯いていた顔を上げる。彼女は変わらず振り返らない。描き終わっただろう絵をスケッチブックから切り離して、こちらを見ずに彼に手渡した。
絵を見た彼が、くすりと笑う。
「帰れってさ。これがこの子の答えだよ」
絵をこちらに向けて差し出される。本物と変わらない白黒の美術室に、ああ、と声が漏れた。
彼が絵を手放す。緩やかな軌跡を描いて地に落ちていく絵を反射的に受け止めて。
――気づけば、元の美術室で絵を見上げていた。
「秋緋、いた?」
か細い声に、振り返る。車椅子に乗った彼女の姉が、不安と期待に揺れる眼をして自分の答えを待っていた。
何も言わず、緩く首を振る。今見てきた事を、伝えられなど出来はしない。
「秋緋」
目を伏せて、両の手を握り締める。泣くのを耐えるかのような仕草に、杖をつき片足を引き摺りながら近づき寄り添った。
――秋緋が行方不明になった。
長い昏睡状態から目覚め、退院した自分を待っていたのは、密かに恋した女性から告げられた残酷な事実だった。
車椅子に乗り、只管に自身を責める彼女。ごめんなさいと、すべてに謝り続ける姿に、何一つ言葉をかける事が出来なかった。
夏の字を抱く彼女は、その実とても繊細だ。あの焼ける日差しよりも、柔らかく移ろっていく秋がよく似合う。
だからだろうか。彼女が自分以外の男と恋仲になり、事故で恋人を喪って壊れてしまったのは必然なのかもしれない。
あの日の事は今も鮮明に覚えている。窓辺に立ち、空を見上げる彼女。風に揺れるカーテン。飛ぶ鳥を追いかけるように、彼女は手を伸ばし。そしてそのまま――。
咄嗟に体が動いていた。落ちて行く彼女を抱き留めて、そこで意識は暗転した。
一年の空白の後、目を覚ました。二人とも命が助かったのは奇跡だと、周りから言われていた。
処置が速かったのだと。すぐに救急に連絡し、治療を行えたから命を救えた。彼女と違い、自分が目覚める可能性は低かったが、奇跡は続いたと喜ぶ周りとは異なり、彼女だけは俯いていた。
秋緋が消えた。自分の目覚めの代償のように、数日前にいなくなってしまった。
それがきっと、答えだった。
「秋緋の絵は、他にもある」
彼女の両手を包み、伝える。それが最早意味のない事だと知りながら、今の彼女に希望を失わせる訳にはいかなかった。
丁度準備室から出てきた、美術部の顧問に礼を言い外に出る。
夕焼けの朱に染められた廊下を車椅子を押し、杖をつき歩きながら思う。
彼女はいつ真実に気づくのか。その時に、自分は今度こそ支える事が出来るのだろうか。
窓の外を見る。朱い夕陽が、静かに辺りを染めている。
秋緋の愛した夕陽。そこに取り残されて、現実をすべて忘れて秋緋は絵を描き続けるのだろう。
それこそ永遠に。
秋緋を愛する絵に囲われて。
20250412 『風景』