sairo

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「昔。桜に恋をした、愚かな男の子がおりました」

桜の木の下で、男は子供達に語る。

馬鹿な子だったと男は笑う。家族よりも、友人よりも。生まれた時から共にいた、半身のような幼馴染よりも桜を優先し、大切にしていたと。
ある日、彼は幼なじみと喧嘩をした。些細な口論は、しかし桜を貶めるような幼馴染の言葉一つで悲劇へと変わる。
紅く染まる大地。意識のない幼馴染。突き飛ばした時の感覚。

「男の子は怖くなりました。しかし幼馴染から流れ出る紅を見て、その怖さはすぐになくなります。――流れる紅を美しい、と。愚かにも思ってしまったのです」

語る言葉は穏やかでありながら、どこまでも冷たい。その眼に浮かぶのは、侮蔑や憤怒。柔らかな笑みで誤魔化して、男は話を続けていく。

「男の子は思いました。この美しい紅を桜の養分としたならば、来年の桜はもっと美しくなるのではないか、と」

そうして彼は、幼馴染を埋めた。迷いも後悔もなく、あるのは次の桜の季節への期待だけ。
そうして時が過ぎ。桜が見頃を迎える頃。

「男の子が恋した桜は、他のどの桜よりも美しく咲き誇っておりました。紅く色づいた花びらが、風に舞うその幻想的な光景は、男の子の益々魅了していきます」

桜の木の下で、彼は笑う。間違っていなかったのだと。
満ち足りた思いで桜の花に魅入り、そうして桜の花が散った後。

「葉桜を見上げ、男の子はふと、思いました。そう言えば、今年は幼馴染と桜を見ていなかった。随分と長い間あっていない気もする。何故だろうと考えて。――そこで、ようやく男の子は思い出したのです」

幼馴染はもうどこにもいないのだと。
その事実を、彼は咄嗟に否定する。夢を見ていたのだろう。きっと仲直りが出来ていないから、会い来づらいだけだ。
ならば今回はこちらから、謝ってしまおう。謝って仲直りをすれば、すべては元通りだ。
自分達は一緒にいなければ。どちらかが欠けてしまう事などあり得ない。
だから、だからと、過ぎる紅い記憶から目を逸らし。少年は桜の木の根元に座り込む。冷たい土の感触にあの日を思い出しかけて、ついには叫びを上げて少年の心は壊れてしまった。

「こうして桜に恋をした憐れな男の子は、桜の化け物となり。今も桜の咲く時期になると、幼馴染の代わりと桜の養分になりそうな子供を求めて、現れるのです。――おしまい」

男が語り終えると同時。きゃあ、とあちらこちらから悲鳴があがる。本気で怖がっている子、面白半分で怖がった振りをしている子。反応は様々だ。
男は苦笑を漏らし、だからね、と言葉を続ける。

「桜が咲く時期は、早くお家に帰りなさい。桜の化け物が攫いにくるからね」
「攫われたら、どうなるの?」

一人が手を上げ、男に尋ねる。期待に溢れたいくつもの目を見返して、男は笑ってみせた。

「きっと桜の木の下に埋められてしまうのだろうね。もしかしたら、この木の下にも。この木は他の桜よりも立派で美しい花を咲かせるから。埋まっていても可笑しくはないかな……ここに、埋まっているのかな」

眉を下げ、憂いた表情をつくる。
誰が、あるいは何が、とはあえて言わない。それだけで効果は十分だった。
悲鳴を上げて各々去っていく子供達。その姿を見送って、男は頭上の桜を見上げた。
薄紅の桜が満開に咲き誇っている。風に遊ぶいくつもの花びらが、男の前でくるり、と円を描き。くるり、くるりと渦を巻いて、合間に誰かの姿を形作っていく。
幼さを残す、あどけない笑顔。伸ばされた手を男は掴み、引き寄せる。

「おかえり…いや、ただいまかな」

小さな体を抱きしめる。あの日、永遠に失ったはずの幼馴染を、閉じ込めるようにして掻き抱く。

「逢いたかった。一年は長すぎる」

白く華奢な手が男の頭を撫でる。目を細め、それを受け入れながら、離れていた空白を埋めるように、男は彼女に語りかけた。
彼女は何も言わない。ただ微笑んで男の話を聞いている。
その笑みがふいに歪んだ。吹く風に煽られ、彼女の姿が端から解け花びらへと戻っていく。

「っ、待って。まだ」

手を伸ばす男の指をすり抜けて。駆け抜けていく風と共に、桜の花びらは空高く舞ってもう見えない。

「――あぁ」

花びらを追って見上げた桜は、すでに花が散っている。葉桜となった木が、風に葉を揺らしながら静かに男を見下ろしていた。
男の腕が力なく落ちる。そのまま崩れ、木の幹に額を付けて凭れ掛かる。

「行かないで。どうか…どうか、返してくれ。頼む。俺のすべてを捧げるから」

呻くように、桜に願う。
何度繰り返しただろうか。男の懇願に、だが桜は沈黙を保ったまま。
大切な幼馴染。生まれた時から共にいた、半身のような何よりも近い存在。近いからこそ、失うまで気づく事がなかった。
彼女の存在は、男にとってのすべてだ。
愛していた。否、今も愛している。桜の花に幻想を見るほどに、今なお彼女を求め続けている。
不意に、鳥の囀る声が聞こえた。春の訪れを告げる、高い声。嘆く男の鼓膜を揺すり、誘われるようにして顔を上げた。
桜の木の枝に止まった一羽の白い鳥が、男を見下ろしていた。どこか懐かしいその眼差しに、男は徐に立ち上がる。
手を伸ばす。捕らえる事も、触れる事すらも出来ぬ男の腕を、鳥は暫し見つめ。軽やかな声音で囀り、飛び立った。
白の羽が舞う。男の手に一枚残して、鳥は桜吹雪の向こう側へと消えていく。

「――っ」

羽に唇を寄せて、男は静かに目を伏せた。開く唇が一つの名を形作ろうとして、吐息だけを溢して閉じられる。
愛しい幼馴染の名を、男はもう覚えてはいない。己の名すら覚えていないだろう。

「そう、だね。また桜の時期に」

諦念を湛えた目で男は微笑み、手を離す。風に踊る羽を見つめ、後を追うように歩き出す。
葉桜が眩しい、桜の木々を抜けていく。その奥、開けた場所で立ち止まり、落ちた羽を拾い上げた。
どこかで、鳥の囀る声が聞こえる。あの懐かしい、愛しい人と同じ目をした白い鳥。
目を閉じる。愛しい姿、その声を手繰り寄せて。

桜に恋焦がれ、愛した半身を失った男は、一本の桜の木へと姿を変えた。





近くの桜の枝に止まり、男が桜に戻ったのを見届けた鳥は、一声鳴いて飛び立った。
まだ若い、男だった桜の枝に止まる。他の桜よりも遅れて花を付ける桜の、まだ少ない花開いた一枚を啄んだ。
鳥は鳴く。呆れたように、哀しむように、甲高く。
そうして鳥は木の根元に降り立ち、姿が揺らめいて。
男の木と絡み合う、一本の桜の木へを形を変えていく。



――比翼連理。

絡み合う二本の桜の木を、人はそう呼んだ。
山の奥。ひっそりと寄り添い立つ二本の木。連理木という、二本の木の枝が連なって木目が通じ合っている様を、人は好み、桜の時期に集った。
人々は知らない。この桜が元は人であった事を。二人が何故桜と成ってまで共に在る事を。
桜に成った事に気づかず、春が来ると幼馴染を探し彷徨う男。そしてそんな男の元で、寄り添い続ける幼馴染。
二人は生まれた時から共にいた。互いにどこか欠落を抱えていた二人は、それを埋めるように共にいるのが当たり前だった。
二人を知る者はどこにもいない。他の桜よりも遅れて花開く二本の木の、その理由は誰にも分からない。


それでも、二人は確かにここにいる。



20250415 『春恋』

4/15/2025, 10:31:50 PM