美術室に飾られた一枚の絵。
夕暮れの草原を描いたその風景画には、ある噂があった。
――絵を描く誰かがいる。
何人もの生徒が見たと証言している。
絵を描く誰か。時にはスケッチブックを手に、ある時にはキャンバスに向かい、無心に絵を描いているのだという。
不思議と怖いという話は聞かない。この絵が飾られているのが美術室だというのもあるだろうか。無心で絵を描く姿を羨ましい、と口にする生徒ばかりだった。
絵に向かい、誰かが現れるのを待つ。
噂では、この絵のような鮮やかな夕暮れ時に現れるらしい。ちらりと横目で見た空は、鮮やかな朱に染まっている。ここからでは見えないが、夕陽もまた燃えるような朱や金を湛えて、沈んでいっているのだろう。
不意に、何か音がした。視線を絵に戻しても、誰かが現れた形跡はない。ただ朱に染まった草原を、風が駆け抜けているだけだ。
「――なん、だ?」
違和感に目を瞬く。食い入るように絵を見つめ、その違和感に気づいた。
草が揺れている。風が駆け抜ける度に草原が揺れ、ざああ、と音を立てていた。
よく見れば、夕陽も揺らめいて。少しずつ静かに沈んでいるようだ。
思わず手を伸ばす。草原を揺らす風が手をすり抜けて。
――気がつけば、夕暮れ時の草原に一人、立ち尽くしていた。
辺りを見渡す。どこまでも続く草原に、ただ一人を求めた。
「――いたっ!」
遠く、小さな影が、座り込んで絵を描いている。スケッチブックを手に無心に描くその姿に、酷く胸騒ぎがした。
「秋緋《あきひ》」
駆け寄り、声をかける。だが僅かにも反応の得られない事に、さらに声を張り上げた。
「秋緋!いつまでもこんな所にいないで、帰るぞ。叔母さん達や、夏樹だって心配してるんだ」
やはり、反応はない。止まらない手に焦れて、怖れて、無理矢理にでも止めようと手を伸ばす。
だがその手は彼女に届く前に、横から伸びた誰かの手に掴まれ、絵を描く事を止められはしなかった。
「止めてくれる?邪魔をしないで」
静かな声に、ぞくり、と悪寒が背筋を駆け上がる。手を振りほどき、視線を向けて息を呑んだ。
「この子の幸せを、あんたは何度否定するつもりなの?」
咎める視線。強く怒りの滲む目をした彼は、数年前の自分だった。
「誰、なんだ…お前」
「誰って、俺はあんただよ。巡流《めぐる》。秋緋の幼なじみだ」
「どういう…?」
彼の言わんとしている事が理解できず、眉を潜める。睨み付ける視線の先で、肩を竦めて彼は嗤った。
嘲り、憐み。昏い感情を宿した眼が、緩やかに細められる。彼に守られるような立ち位置で、彼女はこちらを気にかける事もなく、絵を描き続けている。
異様な光景に、だがそれさえも美しいと感じ入ってしまえる構図に、くらり、と世界が歪んだ気がした。
「あんたはもういらない。この子に必要なのは、この子が今まで描いてきた俺達だけになった…もう、痛みでしかないあんたへの感情も、窓の下の倒れ伏す二人の姿も、この子の中に欠片も残ってない。あるのは初めて俺を描いた時の、あの純粋な輝きだけだ」
「間違っている。そんな事…それは秋緋の未来を否定するだけの、お前の自己満足だろう!」
「自己満足、ねぇ」
冷たい眼に見据えられる。彼女を解放しろと、続けるはずの言葉は、憎悪にも似たその眼差しに、形をなくして解けていく。
「あんたのそれこそ自己満足じゃないの?惚れた女に頼まれたからって、この子をこれ以上壊していい理由にはならないよ。あんたは最後まで気づこうとすらしなかったけど、この子は夏樹よりもよっぽど繊細で臆病なんだ」
そんな事はない。そうは思えど断言が出来ない自分がいる。
記憶の中の彼女は、いつでも笑っていた。昔彼女の告白を断った時でさえ、彼女は変わらず笑っていて。その後も変わらないように、少なくとも自分にはそう見えていた。
だがそれは彼女の一部分、それも取り繕った部分なのだとしたら。見えていない部分で、苦しみ悲しんで一人泣いていたのだとしたら。
彼女のいないアトリエに残された、あの紅く染められた夕焼け達が、その答えを示しているのだろうか。
かたん、と鉛筆を置く小さな音に、知らず俯いていた顔を上げる。彼女は変わらず振り返らない。描き終わっただろう絵をスケッチブックから切り離して、こちらを見ずに彼に手渡した。
絵を見た彼が、くすりと笑う。
「帰れってさ。これがこの子の答えだよ」
絵をこちらに向けて差し出される。本物と変わらない白黒の美術室に、ああ、と声が漏れた。
彼が絵を手放す。緩やかな軌跡を描いて地に落ちていく絵を反射的に受け止めて。
――気づけば、元の美術室で絵を見上げていた。
「秋緋、いた?」
か細い声に、振り返る。車椅子に乗った彼女の姉が、不安と期待に揺れる眼をして自分の答えを待っていた。
何も言わず、緩く首を振る。今見てきた事を、伝えられなど出来はしない。
「秋緋」
目を伏せて、両の手を握り締める。泣くのを耐えるかのような仕草に、杖をつき片足を引き摺りながら近づき寄り添った。
――秋緋が行方不明になった。
長い昏睡状態から目覚め、退院した自分を待っていたのは、密かに恋した女性から告げられた残酷な事実だった。
車椅子に乗り、只管に自身を責める彼女。ごめんなさいと、すべてに謝り続ける姿に、何一つ言葉をかける事が出来なかった。
夏の字を抱く彼女は、その実とても繊細だ。あの焼ける日差しよりも、柔らかく移ろっていく秋がよく似合う。
だからだろうか。彼女が自分以外の男と恋仲になり、事故で恋人を喪って壊れてしまったのは必然なのかもしれない。
あの日の事は今も鮮明に覚えている。窓辺に立ち、空を見上げる彼女。風に揺れるカーテン。飛ぶ鳥を追いかけるように、彼女は手を伸ばし。そしてそのまま――。
咄嗟に体が動いていた。落ちて行く彼女を抱き留めて、そこで意識は暗転した。
一年の空白の後、目を覚ました。二人とも命が助かったのは奇跡だと、周りから言われていた。
処置が速かったのだと。すぐに救急に連絡し、治療を行えたから命を救えた。彼女と違い、自分が目覚める可能性は低かったが、奇跡は続いたと喜ぶ周りとは異なり、彼女だけは俯いていた。
秋緋が消えた。自分の目覚めの代償のように、数日前にいなくなってしまった。
それがきっと、答えだった。
「秋緋の絵は、他にもある」
彼女の両手を包み、伝える。それが最早意味のない事だと知りながら、今の彼女に希望を失わせる訳にはいかなかった。
丁度準備室から出てきた、美術部の顧問に礼を言い外に出る。
夕焼けの朱に染められた廊下を車椅子を押し、杖をつき歩きながら思う。
彼女はいつ真実に気づくのか。その時に、自分は今度こそ支える事が出来るのだろうか。
窓の外を見る。朱い夕陽が、静かに辺りを染めている。
秋緋の愛した夕陽。そこに取り残されて、現実をすべて忘れて秋緋は絵を描き続けるのだろう。
それこそ永遠に。
秋緋を愛する絵に囲われて。
20250412 『風景』
4/13/2025, 8:49:05 AM