sairo

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4/11/2025, 10:32:57 PM

静かな夜。
こっそりと家を抜け出し、暗い道を一人歩く。
辺りを見回す。夜の暗がりに母の物語に出てくるような、不思議な誰かがいないかと、耳を澄ませ目を凝らした。
静かだ。風が木を揺する事もなく、虫の鳴き声も聞こえない。少しばかり気落ちしながらも、諦めきれずに山の入口まで歩く。
きっといるはずなのだ。母が語る不思議な誰かは。
煙管をふかす、気怠げな緋色の妖も。背に大きな翼を持つ妖も。しゃべる狐や狸、猫も。どこかにいるはずだ。
出会えたならば、何を話そう。一緒に遊んでくれるだろうか。友達になってくれるだろうか。そんな、ふわふわした、浮ついた気持ちでいたからか。道の段差に気づくのが遅れてしまった。

「いっ…たぃ」

鈍い痛みに、込み上げてくる涙を必死に堪える。乱暴に目を擦って、体を起こした。
膝と、手と。ひりひりとする痛みが、擦りむき怪我をしてしまったと伝えている。痛みが夜の暗さをより怖ろしいものにしているようで、足が震えて立ち上がる事すら出来ない。
まるで別の世界に迷い込んでしまったみたいだ。一人ぼっちの心細さに、気を抜けばすぐにでも泣いてしまいそうだ。歯を食いしばり、俯かないように道の先を睨み付ける。一度俯いてしまえば、二度と立ち上がれないような気がして、それが何より怖かった。


「――あれ?」

睨み付ける道の先。ぼんやりと浮かび上がる丸い灯りが見えて、目を瞬く。火ではない。かといって、電気でもおなさそうな温かみのある灯りは、ゆっくりとこちらに近づいてきているみたいだった。

「何だろう、あれ」

近づいてはっきりと見えてきても、よく分からない灯り。どうやらランタンのようなものに似ているが、今まで見た事はなかった。
灯りを持つ誰かの姿も見えてくる。灯りを手に歩いてくる誰かは、自分よりは年上の子供のように見えた。
顔が赤い。まるで鬼灯の実のような赤さに、もしかして、と期待が膨らんでくる。

「何、してるんですかねぃ。こんな夜遅くにお子が一人でいるなんぞ、悪い誰かに攫われても文句は言えやせんよ」

呆れた声が、けれども優しく問いかける。

「かあさんの、おはなしのみんなに会いたかった」

それに小さく答えれば、やはり呆れたように溜息を吐かれた。

「そうですかい。けどももう夜も遅い。探索ごっこはおしまいにして、今日はおとなしくお家に帰りやしょうね…さあ、その前に、手足の傷の手当てをいたしやしょう」

仕方がない、と笑われて。膝をついて、手を差し伸べられた。



「それは、なに」

手を繋いだ帰り道。彼の手にある灯りに視線を向ける。

「これですかい?これは提灯、というんでさぁ」
「ちょうちん」

口の中で転がすように呟いて、自分よりも背の高いその顔を見上げ、期待を込めて口を開いた。

「じゃあ。にいさんは、あやかし?」

その問いに、けれど彼は何も答えず。小さく笑うだけだった。
むっとして、睨みつける。はい、とも、いいえ、とも取れるその反応に、繋いだ手を強く握る。

「そうなの?ちがうの?」
「どっちでしょうかねぃ。大きくなって覚えていたら、分かるかもしれやせん」
「いじわる」

ふい、と視線を逸らし、前を見る。一人で辿った時とは違う、ぼんやりと明るいいつもの道が、彼がどちらかなのかをさらに分からなくさせている気がした。



「さ。着きやしたよ」

気づけば家の前。繋いでいた手を離されて、そっと背を押される。
未練がましく見上げても、彼は笑って何も言わない。さらに背を押されて、おとなしく門扉を潜り抜けた。

「おやすみなさい。良い夢を」

優しく囁いて、元来た道を戻っていく。
その丸い灯りを見送りながら、はあ、と深く息を吐いた。
彼は言った。大人になっても覚えていたら、妖なのかそうでないのかが分かると。忘れるだろうと思っている口ぶりで。
ならば、覚えていようではないか。手を握り締めて、一人決意する。
このまま何もしなければ、彼の思うように少しずつ忘れて、大人になる前に欠片も覚えていないだろう。だけど覚えていられる方法を、一つ知っていた。
父のように、母の語る物語を文字で書き出してしまえばいい。

「ぜったい、おぼえててやる。ぜったいに」

大きく頷いて、静かに家に入る。
教えてもらえなかった怒りも込めて、この夜を書き留めてしまおう。
そう心に決めて、急いでベッドに潜り込んだ。





「先生。こことあといくつか、字が間違ってやす。それからこの台詞は、この流れでは不自然でさぁ」
「――そうか」

校正を終えた子供から手渡された原稿を確認しつつ、男は密かに息を吐いた。
いつの間にか担当よりも口うるさくなってしまった子供は、今度は部屋の整理をし始め忙しく動き回っている。出会った当初は想像もしなかったお互いの変化に、男は困惑するばかりだ。

「先生。手が止まっていやすよ。締切は待っちゃあくれないですからね」
「分かっている」

窘められて、男は肩を竦めて筆をとる。
この現状は己の認識の結果かもしれないと、僅かばかりの後悔を抱えながら、男は仕事に専念する事にした。

妖とは、人の認識で在り方を変える。
子供が男に教えた事だ。一つ目の妖が、いつしか豆腐を手に佇むようになり。そしてその豆腐を人に食わせ害を与えるようになって。一方で、事八日に帳面を手に家々を周って家の落ち度を記し、家々の運勢を決めるようにもなり。
すべて人の認識、想像の結果だ。怖れ、望むままに在る妖を、子供が語るその一部分を男は書き記してきた。かつて男の父が母の物語を記してきたように。

ほぅ、と息を吐き、筆を置く。気づけば子供の姿はない。おそらく茶の用意でもしに行ったのだろう。
引き出しを開け、男はその奥に仕舞い込んだ一冊のノートを取り出した。古ぼけ草臥れたそれは、男の始まりだった。
母の物語に憧れ、抜け出した夜の刹那の出会い。父に教えを請いながら書き留めた、一番初めの物語。ノートを開かずとも、その一番初めの頁に書かれた言葉は忘れる事はない。

――君と僕。出会えたこの奇跡を忘れないために、僕は君を物語に閉じ込める。

表紙を撫でながら、男は微笑む。あの夜に出会った彼がこうして共にいる子供なのか、男には分からない。男が書いた物語に応えた、まったく別の妖なのかもしれない。
それでも、今の男と子供の関係は、この先も続いていくのだろう。


「おや、お仕事は終わったんですかい。先生」

盆を手に戻ってきた子供が、男に声をかける。それにああ、と短く答え、男は再び引き出しの奥にノートを仕舞い込んだ。

「終わったのでしたら、休憩にいたしやしょう。どうぞ、先生。熱いので気をつけてくだせぇ」
「分かっている。子供ではない」

顔を顰めながら置かれた湯飲みを手に取り、心配する子供の言葉を一蹴する。そんな男に、子供は笑いながら首を振り、子供ですよ、と囁いた。

「手前にとっては、いくつになっても先生は子供でさぁ。危険を顧みず、興味のある事に向かって進んでいく。眼を輝かせてまだ知らない世界へと飛び込むような、そんな小さなお子ですよ」

楽しげに語る子供から、男はさりげなく目を逸らす。
湯飲みに口を付け、その熱さに眉を寄せた。



20250411 『君と僕』

4/10/2025, 1:38:21 PM

降り注ぐ日差しを浴びながら、一人きり。
誰かを待っている。そんな気がする。だからこの場を離れる訳にはいかない。
暑い。容赦ない太陽を睨み付け、ぐるりと辺りを見渡した。
すぐ近く。大きな木が立っている事に気づいて、早足で向かう。暑さい事には変わりがないが、ただ日に焼かれているよりは、木陰にいる方がよっぽどいい。
日差しが遮られ、幾分か和らいだ暑さにほっとする。このまま座ってしまおうか迷っていると、視線の先、体育館の裏手から、二人誰かが出てくるのが見えた。
ああ、ようやく来たのか。ぼんやりと二人を見ながら考える。幸せそうな笑顔。腕を組み歩く、その距離の近さ。
どうやら告白は成功したらしい。
こちらに気づいて、彼女が手を振る。腕を組んだまま近づく二人を見て、密かに眉を寄せた。
駄目だ。この先は続かない。
可哀想だが仕方がない。それに傷は浅い方がいいだろう。
彼の腕に絡みつくたくさんの細い腕を。背に覆い被さる虚ろな女性の姿を。
いくつもの女性の影を彼に見て。顔を顰めて舌打ちをした。





「――は?」

思わず間抜けな声が出る。
最悪な夢を見た。気の滅入る目覚めに、思わず目を閉じて二度寝を決め込む。
けれどもすっかり目覚めてしまった頭は、眠る事を拒絶している。布団を頭まで被っても、一向に訪れそうにない睡魔に、諦めて起きる事にした。
もぞもぞと、布団から這い出て机に座る。カードを手に取り、何度か切って一枚捲った。

「まじか」

深く溜息を吐く。
結果を否定するように、別のカードを手に取って。同じように切って一枚捲る。

「――まじかぁ」

呟いて、項垂れた。
波打ち際で寝転がる、猫の蠱惑的な表情がやけに憎らしく感じた。

夢見の後の占いは、当たる。
何度も経験してきた事。だからきっと、この浮気性な男の占い結果も当たるだろう。
早く伝えろ、と占いは急かしている。夢でも傷は浅い内にと言っていた。

「でもなぁ。今まで応援してきたのになぁ」

机に伏して、愚痴を溢す。夢で見た友達が、今度告白するのだと意気込んでいたのを知っていた。
好きな人のために、可愛くなろうと努力している事も。彼の言葉や態度に、一喜一憂していた事も。

「言えない。絶対、泣くじゃん。そんなん、可哀想だよぉ」

そもそも、この結果を告げても告げなくても、結果は変わらないのだ。それに伝えた所で、信じてもらえないかも知れない。ならば束の間の夢くらい見てもいいのではないだろうか。
言い訳をいくつも考えて。行かない理由を積み上げる。
遅れてようやく訪れた睡魔に、安堵しながら身を任せた。





彼女が一人、泣いていた。
どうしたのだろう、と近づいて。いつも側にいたはずの彼がいない事に気づく。
辺りを見渡す。遠い先に、何人もの女を侍らせて笑う彼が見えて、眉が寄った。
酷い男だ。もう彼女に飽きて、次に手を伸ばしたのか。
可哀想に。彼女の背を撫でながら、遠い彼を睨む。夏祭りに一緒に行こうと約束をしたくせに、夏が来る前に捨てるだなんて酷すぎる。

「どうして」

泣きながら、呟く彼女に視線を向ける。泣き腫らして真っ赤になった目に、恨みがましげに睨まれた。

「なんで、止めてくれなかったの。あの時、知ってれば」

両手を伸ばし。細い指が首に絡みつく。
強い力で絞められて、息苦しさに彼女の手に爪を立てた。
「大嫌い」

離れない。じわじわと狭まる視界に、遠くなる意識に、必死で抗い踠いた。
力が抜けていく。滲む視界で見る、憤怒に歪む彼女の額に。
一本の角が見えた、気がした。





はっとして、顔を上げる。
また嫌な夢。今度はさっきよりも最悪だ。

「まじなのか」

悪あがきのようにカードを切る。途端に飛び出した三枚のカードに、うわっと顔を引き攣らせた。

「悪い事ばかりを想像して、泣いて苦しんで。それで最後に破局するって?冗談じゃない」

三枚目の、真正面からこちらを見据える猫を睨み付けた。
彼は決断しろと言っている。犠牲のない結末はないのだと、その犠牲を受け入れる覚悟を問うている。
その覚悟から目を逸らせば、きっと結末は最悪に向かうのだろう。

「告げるタイミングを間違えば、その瞬間にアウトなんだけど。タイミングがシビアすぎて、やんなっちゃう」

溜息を吐く。どうしようかと悩んでいれば、見据えるカードの中の彼の目が僅かに和らいだように見えた。
仕方のないやつだ。そう言われているような錯覚に、目を瞬き。
不意に脳裏に一つの映像が流れ込んでくる。

街中の往来。
開けた場所で言い合う女達に囲まれる誰か。
女達が喚くのを困ったように、楽しむように見ている。

目を瞬く。
手元に視線を落とせば、飛び出した三枚のカードとは異なるカードが二枚。
それは、結果を否定しようと引いたカード。
RUNNING。走れ、今すぐにという意味のカード。
そしてDREAMING。夢見たものを意識して、直感を信じろという意味のカード。
立ち上がる。スマホを片手に、出かける準備を整えていく。


「――もしもし。あのさ、今日ヒマ?遊びに行こうよ。新作の春コスメを見に行かない?」

彼女と約束を取り付けて。準備を済ませて家を出る。

「さぁて。夢と占いの結果を外しに行きますか!彼女に告白なんてさせてやるもんか」

寝てみる夢など、所詮は夢だ。現実になど遠く及ばない。気合いを入れて、駆け出した。
最悪から、最良の結果へと覆すために。
現実の、掴み取れる夢へと向かって。



20250410 『夢へ』

4/9/2025, 1:43:56 PM

春の陽気が、窓から差し込む午後。
その日差しから逃れるように、窓から離れたソファで丸くなる少女が一人。起こさぬように、静かに少女の元へと近づいた。
顔を覗き込む。汗ばむ肌は赤く、眉を寄せて少女は寝入っていた。
小さく息を吐く。暑さに極端に弱い少女は、この春の穏やかな陽気ですら苦手らしい。
さてどうしようか。心の内で呟いた。
少女の――妹のために、冷房をつける事は簡単だ。だがそうする事で、益々外へは出られなくなってしまう事は、想像に難くない。

「困ったな」

思わず独り言つ。
このままでは、普通の人と同じような生活が出来なくなってしまう。それだけは避けたいが、このまま苦しむ妹を見ているのは忍びない。
眉間に皺を寄せながら考え込み。それを笑うように風が過ぎていった。

「――桜?」

目の前を踊るように過ぎていく白。目で追いかければ、それはふわりと少女の手のひらへと落ちた。
その刹那。少女の表情が穏やかになる。ふふ、と笑みを溢して、唇が何かを囁いた。
耳を寄せても聞こえぬほどの、微かな声。けれど何故だろうか。少女が何を言ったのか、はっきりと理解できた。
――おかあさん。おとうさん。

はっとして、少女の手のひらに落ちたものに視線を向ける。よく見れば、それは桜の花びらではなかった。白の花びらによく似たそれは、小さな雪の結晶だった。

「っ、ねぇ、起きて!」

少女を揺すり、起こす。むぅ、と小さく声を上げて薄く開いた少女の目を覗き込んだ。
夢見心地な目が、次第に焦点を合わせ。はっきりと視線が交わると不思議そうに目を瞬いて、少女はふわりと微笑んだ。

「おにいちゃん。おはよう」
「おはよう。大丈夫?」
「ん。平気。もう大丈夫だよって、お守りをもらったから」

少女の言葉に、眉を寄せる。意味が分からずにいれば、あのね、と体を起こしながら少女は囁いた。

「夢をね、見たの」
「夢?どんな?」
「なんだったかな。優しい夢だったよ」

ほぅ、と息を吐き、少女は目を細める。愛しい何かを探すように視線を巡らせて、淡く微笑んだ。

「お話をしたんだよ。覚えてないけれど、たくさん話をしたの。それで頭を撫でてもらって。お膝に乗せてもらったり、肩車してもらったり…それでね、お守りをもらったの」

手のひらに視線を落とす。そこには既に雪の結晶はなく、けれど大切な何かがあるかのように、少女は手を握り抱きしめた。

「もう大丈夫だよって。暑いのは平気になるから、お外にも出て行けるよって…夢だったけど、本当になったみたい」
「――そうだね。もう平気そうだ」

すっかり汗が引いた少女を見つめ、微笑んだ。
手を差し伸べる。
きっと、春の日差しは少女を苦しめる事はない。そんな確信に、手を取る少女を促して、窓辺へと向かう。

「暖かくて、気持ちがいいね」

春の日差しを受けて、少女は穏やかに囁いた。

「春だからね」

少女の隣で空を見上げつつ、言葉を返す。
くすくす笑う少女につられ、同じように声を上げて笑った。
不意に風が吹き抜けた。目の前を小さな白が過ぎていく。

「……雪だ」

見上げている空はどこまでも青い。晴れの空から、桜が舞うように静かに雪が降っていた。
手を伸ばす。触れる雪は、僅かな冷たさを残して溶けていく。

「――元気かな」

微かな呟きに、少女へと視線を向けた。遠く空を見上げる横顔は、どこか困惑してようだった。
記憶にないのだから当然だろう。幼い頃の事を、少女は覚えていない。
本当の両親の事を。父の思いも、雪と共に逢いにきた母に手を振り別れた、あの夜の事さえも。
少女の肩に手を置き、視線を合わせる。無意識の呟きに、返せる言葉は一つだけだ。

「元気だよ、きっと。だってこうして近くで見守っているんだから」

冬に在る母の血を引いて暑さに弱い少女を心配して、こうして訪れるくらいには。

「そっか…元気なら、それでいいや」
「心配はかけているみたいだけど」
「そんな事ないよ。心配をかけるような変な事はしてないもん」
「どうかな。春先からソファで溶けそうになっていたのは誰だっけ」
「ちょっと!いじわる言わないでよ」

頬を膨らませて怒る少女に、怖い怖いと嘯いて。横目で見る雪の舞う空に、声には出さずに呟いた。

――大丈夫。妹は、あなた達の大切な子は、人として生きる事が出来ています。



「そういえば、溶けそうな誰かさんのために、アイスを買ったんだった。でももう大丈夫なら、アイスはいらないかな」
「いる!それとこれとは別!」
「そう?じゃあ、食べに行こっか」

笑って手を差し出せば、むくれながらもその手を取られ。手を繋いで歩き出す。
忘れてしまった幼い頃から変わらない。

「おにいちゃんは悪い子だから、罰としてわたしがおにいちゃんの分もアイス食べるからね」
「太るぞ」
「聞こえないっ!」

軽口を言い合いながら、扉に手をかける。

「あ。ちょっと待って」

何かに気づいて少女は繋いだ手を離し、窓へと振り返る。
満面の笑みを浮かべて、大きく息を吸い込んで。

「バイバイ!」

窓の外。降り続く雪に向かい、手を振った。



20250409 『元気かな』

4/8/2025, 1:26:56 PM

虚ろに横たわり、幼い少女は一人、遠い波の音を聞いていた。骨が浮き出た小さな体は、最早自力で動かす事もままならず。微かな胸の動きと時折漏れる吐息だけが、少女が生きている事を示していた。
かたり、と音がした。立て付けの悪い戸を開き、少女よりは年上の、痩せさらばえた少年が、静かに少女の元へと歩み寄る。
虚ろな少女の目が少年へと向けられる。かさついた唇が僅かに動き、それに応えるように少年は優しく微笑んだ。
「遅くなってごめんね。もう、どこにも行かないから」

少女の側に寄り、膝をつく。否、崩れ落ちるといった方が正しい。焦点の覚束ぬ目は、少女以上に少年の終が近い事を示していた。
震える手で、懐にしまい込んでいた包みを取り出す。

「かみさまが、くれたんだ。一人分。おまえが食べて」

包みを解き、中の一欠片の肉を少女の口元へと持っていく。だが、少女はそれに反応を見せず。ただ少年に視線を向け続けていた。

「そう、だね。ずっと、食べてなかった、から…待って」

這いずりながら、さらに少女に近づいて。手にした肉片を口に含み咀嚼する。そうして少女に口付け、開いた隙間から、直接流し入れた。
少女の痩せた喉が動く。すべてを飲み込んだ事を確認して、少年は力尽きたように少女の隣に倒れ伏した。

「これで、大丈夫」

少女と目を合わせながら、穏やかに少年は微笑んだ。
細い手が徐に動き少年の頬に触れるのを、目を細めて受け入れる。

「にいちゃん。ちょっと、疲れちゃった。このまま、いっしょに、寝よっか」

眠れば二度と目覚めは来ないのだろう。それを理解して、頬に触れる手を包み込み、額を合わせて少女に囁いた。

「生きて。きっと、未来にはこんなのより、ずっとおいしいものが、たくさん、あるから。食べて、にいちゃんの分も、生きて」

少女の瞬く目の奥に、光が灯る。

「にいちゃん、先に、寝るけど。ちゃんと起きて、お前に会いに、いくよ。何度でも、約束する…だから、今だけ、おやすみ。ごめんな」

少女が何かを言う前に、少年の目は閉じられていく。
そして、静かに。穏やかに。

少年は、少女の目の前でその時を止めた。





「どうした?」

訝しげな声に、顔を上げる。

「何が?」

こちらを見る彼に逆に問いかければ、眉を寄せ首を振る。

「いや、なんだかぼんやりしているみたいだったから」

相変わらず彼は聡い。苦笑しながら立ち上がり、彼の元まで歩み寄る。

「ちょっとね。昔を思い出してたの」

さらに眉を寄せる彼に、今まで読んでいた雑誌を指差した。

「割れた硝子瓶の中のお菓子達と、あなたと食べてきたお菓子達と。どっちが多くなったかなって」

視線を逸らされる。気まずい顔をする彼に、思わずくすくすと笑ってしまう。
彼はいつも優しい。過去から動けない自分の手を引いて、未来を見せてくれる彼には感謝してもしきれないほどだ。

「どう思う?硝子瓶が割れちゃったから、実際に比較出来ないのが残念だけど」

たとえその手段が、強引なものであったとしても。
あの硝子瓶を彼がわざと壊した事など、初めから気づいていた。

「――今度は、何が気になった?」

机の上の雑誌へと近寄り、彼は記事を見る。色鮮やかな写真を見て、一つ息を吐いた。

「ご当地特集、ね。じゃあ、今度の休みに遠出をしようか」
「いいの?約束だからね?」
「分かってる。約束だ」

嬉しくなって、彼の側に寄り念を押す。彼が約束を破った事はないけれど、確認も込めて。
新しい出会いは、いつでも心を浮つかせる。それが何故なのか、今でははっきりと思い出せないけれど。

「本当に好きなんだな。何か理由があるの?」
「知らない。忘れちゃった」

彼から雑誌を取り上げて、写真を指でなぞりながら肩を竦める。
嘘ではない。ただ覚えているものも僅かにある。
例えば、手や額に触れる温もりとか。会いに来てくれる約束とか。
それが誰か、もう分からない。声も、姿も霞んで輪郭すらあやふやだ。
それでも、覚えている。すべて忘れる事は許さないとばかりに。

「生きなきゃ、駄目だからね」
「何か、言った?」

小さな呟きは、彼には届かなかったらしい。それでいいと笑って首を振る。
忘れてしまった誰か。忘れられない約束。それを抱えて一人きりで生きてきた。
手を差し伸べるのは、いつだって彼だ。欠片も覚えていないのに、何度もこうして初めましてを繰り返す。
彼と出会い、共に過ごして。そして最期を見届ける。
彼と共に行く事の出来ないこの体を、憎んだ事は何度もある。それでも終を自ら求めなかったのは、約束があったからだ。
もはや呪いに近い、それ。何を思ってかつての自分は約束をしたのだろうか。

「あ、そうだ。この前行った、ケーキバイキングにまた行きたい。連れてって」
「遠出する話はどこに行ったんだ」
「近場なんだから、すぐに行けるじゃない。連れてってよ」
「あれは予約しないと駄目なやつだ。また今度な」

けち、と呟いて、雑誌で彼の背を叩く。

「こら。人を叩くな」

頭を強めに撫でられる。やはり優しい彼に、笑いながらその手から抜け出した。
この先、彼の終を見届ける事になるのだろう。何度繰り返しても、置いて行かれる苦しみには慣れない。
そして彼の終を見届けた後、きっとまた硝子瓶の中に、彼との記憶を詰め込むのだ。

「じゃあ、連れて行ってよ。約束でしょ」
「分かってる。約束だ。なんだったら、君とずっと一緒にいてもいいよ」
「馬鹿」

彼の言葉を笑って誤魔化した。
彼には悠久は似合わない。それに置いて行かれる苦しみを、忘れずずっと覚えているのだ。精々、置いていく悲しみを、忘れてしまう空しさを味わえばいい。
そんな酷い事を考えながら、もう一度彼に向かって馬鹿、と繰り返した。



20250408 『遠い約束』

4/7/2025, 2:25:57 PM

いたずらに遊ぶ風が、花弁を舞い上げる。それを追いかけ空を舞い、辺り一面に咲き誇る種々の花を見下ろして、微笑んだ。
この地で眠る彼らのための花。かつての焼けた建物の残骸と屍が積み上がる荒れ地の面影は、欠片も見えはしない。
不意に、幼子の笑う声を聞いた。掠れた記憶を揺するその声に惹かれ、ゆるりと視線を巡らせた。

「――あれは」

目を瞬く。幼子が一人と、妖が二匹。花を愛で、遊んでいた。
何故このような場所に、と首を傾げて困惑する。
ここは谷底にある、忘れ去られた場所だ。この地に辿り着くための道は永く閉ざされて、迷い込む事など出来るはずがない。
ここを知ってあえて訪れたのだろうか。警戒しながらも、幼子らの前に降り立った。

「あ。こんにちは」
「人間。何故、ここにいる?」

腕を伸ばしたとして、届く事のない距離。それ以上は近づく事は許されない。今は静観する妖らが、この距離を侵した途端に襲いかかる事だろう。
張り詰めた空気の中、唯一何も知らぬ幼子が、己の問いかけに眉を下げつつ微笑んだ。

「えとね。逃げてきたの」
「逃げてきた?」

意味を理解しかね、妖らに視線を向ける。

「そのままの意味さ」
「憑き物筋は人間から厭われやすい。そういう事だ」

憑き物筋。それはこの妖らの事なのだろう。
目を細め、幼子と妖らを繋ぐ糸を見る。人間にとって不可視のそれは澄んだ緋色を纏い、幼子と妖を離れぬように強く繋ぎ留めていた。
細身ながらも随分としなやかな糸だ。余程深く関わりなのだろう。
その緋色をかつて見た事があった。両親を求めて弱々しく伸ばした小さな手に絡みついた。或いは、互いをかばい合いながら事切れていた、同胞らの腕に括りつけられた。
家族や仲間を繋ぐそれを、己に花を植える事を教えた男は絆だと呼んでいた。

「わたしたちね、生まれる前からいっしょだったんだって。六方《ろっぽう》が教えてくれたの。すてきでしょ…でもね、それはわるいことなんだって、みんな言うから」

赤を纏う妖が肩を竦めた。呆れているような、哀しむような複雑な感情を湛えた目が幼子を見つめ、静かに伏せられた。

「僕達と切り離される事が、余程お気に召さなかったらしいよ。本当に、物好きな子だよね…ま、切り離そうとした所で、切り離す事など不可能なんだけどね」

白を纏う妖は、笑いながら幼子の元へと近づいて、その頭を撫でる。物好きだと言いながらも、その目には慈しみと喜びが浮かんでいる。
不思議な関係だ。人間にとって幼子の存在は異端でしかないのだろうが、それが正しい在り方にも見える。
ここにいた彼らと同じだ。彼らも異端とされ、迫害を受けて都から逃れてここに辿り着いた。生きるために互いに協力し合い、一つの集落を作り上げた。
懐かしさに、目を細める。幼子らには、彼らのような出会いはあるのだろうか。
その行く末が気になった。

「行く当てはあるのか」

己の問いかけに、白の妖は首を振る。

「ないよ。ないから、ここまできた」
「ここは、この子と同じ者がいたと聞いていたからな」

ああ、と思わず声が漏れた。
何も知らないでここまで来たのか。今はいない彼らを思いながら、その事実を告げるべく口を開く。

「残念だが、ここにはもう何もない。彼らは遠い過去に絶やされた。今あるのは、ワタシと花だけだ」

花を見遣り、呟いた。
人間である幼子が必要とするものを求めて、同じように逃れた者らで作られた集落まできたのか。かつての彼らであれば快く受け入れ、必要なものを与えたのだろう。だが今ここに残るのは、妖である己だけだ。必要なものを何一つ与えられはしない。
すまない、と小さく謝罪をする。だが返る小さな笑い声に、不思議に思って視線を向けた。

「ああ、気にしなくていいよ。ここが遠い昔に絶えたのは知っているからね」
「では何故?」
「お花をね、見たかったの」

幼子は笑う。屈んで白の花を一本手折り、手を伸ばして白の妖の髪に挿す。そしてもう一度屈み、今度は赤の花を一本手折る。赤の妖の元まで駆けて、同じように髪に花を挿した。

「この子と同じく厭われ、絶やされた者らの死を悼む妖がいると聞いたのだ」

幼子の頭を撫でながら、赤の妖は苦笑する。いつの間にか和らいだ視線に、何故、と呟いた。

「しばらくここにいさせてはくれないだろうか。この子もお前の植えた花を気に入っているようだ。だがこの地を踏み荒らしているようなものだからな。お前が厭うのであれば立ち去ろう」
「いや荒らしてはないだろうよ。ここには花しかないのだから」

穏やかな赤の妖の言葉に、笑って否を唱える。
ここにはもう誰もいないのだ。土の下で眠る彼らは、すでに新しい生を歩んでいる。彼らの体も魂も、記憶でさえも、残るものはここにはない。
故にこの地はただの花畑だ。踏み荒らす事など気にする必要はない。

「好きなだけここにいるといい。だがワタシにはその子に必要なものを与えられはしない。それでも良いと言うのであれば」
「十分だ」

頷いて、赤の妖は幼子に何かを囁き白の妖を指差した。
幼子の目が輝いて、白の妖の元へと駆けていく。

「燈明《とうみょう》!お花のかんむり作って!」
「え。ちょっと無理言わないでよ。僕、一度も作った事ないのに」

慌てて逃げていく白の妖の背を、幼子はきゃらきゃら笑いながら追いかけていく。その姿がいつかの誰かと重なって、僅かに胸の痛みを覚えた。

「花冠か。前に作ってもらったものが、残っていたはずだ…ああ、そうだ」

思い出す。時折ここに訪れる、変わり者の男の存在を。

「ワタシに花を植える事を教えた男が、前に家を作っていた。簡素なものではあるが、雨風くらいはしのげるだろう」

赤の妖に、指し示す。家というには小さく見た目は粗末な物ではあるが、作りはしっかりしているはずだ。

「ありがたく、使わせてもらおうか」

微笑んで家へと向かう赤の妖の背を見送って、気づけば鬼事をしている幼子と白の妖に視線を向ける。
人間に厭われても、絆で結ばれた妖と共に生きる幼子。その生き方は、やはり彼らにとてもよく似ている。
おそらく幼子の辿る先は、険しいものなのだろう。

どうか、と誰にでもなく呟いた。
どうか、幼子の行く先が、僅かでも安らげるもので在る事を。
どうか、彼らの辿った道だけは、同じように辿る事がないようにと。

吹き抜ける風が、花弁を散らす。それを視線で追いかけて。
願うように、目を閉じた。



20250407 『フラワー』

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