静かな夜。
こっそりと家を抜け出し、暗い道を一人歩く。
辺りを見回す。夜の暗がりに母の物語に出てくるような、不思議な誰かがいないかと、耳を澄ませ目を凝らした。
静かだ。風が木を揺する事もなく、虫の鳴き声も聞こえない。少しばかり気落ちしながらも、諦めきれずに山の入口まで歩く。
きっといるはずなのだ。母が語る不思議な誰かは。
煙管をふかす、気怠げな緋色の妖も。背に大きな翼を持つ妖も。しゃべる狐や狸、猫も。どこかにいるはずだ。
出会えたならば、何を話そう。一緒に遊んでくれるだろうか。友達になってくれるだろうか。そんな、ふわふわした、浮ついた気持ちでいたからか。道の段差に気づくのが遅れてしまった。
「いっ…たぃ」
鈍い痛みに、込み上げてくる涙を必死に堪える。乱暴に目を擦って、体を起こした。
膝と、手と。ひりひりとする痛みが、擦りむき怪我をしてしまったと伝えている。痛みが夜の暗さをより怖ろしいものにしているようで、足が震えて立ち上がる事すら出来ない。
まるで別の世界に迷い込んでしまったみたいだ。一人ぼっちの心細さに、気を抜けばすぐにでも泣いてしまいそうだ。歯を食いしばり、俯かないように道の先を睨み付ける。一度俯いてしまえば、二度と立ち上がれないような気がして、それが何より怖かった。
「――あれ?」
睨み付ける道の先。ぼんやりと浮かび上がる丸い灯りが見えて、目を瞬く。火ではない。かといって、電気でもおなさそうな温かみのある灯りは、ゆっくりとこちらに近づいてきているみたいだった。
「何だろう、あれ」
近づいてはっきりと見えてきても、よく分からない灯り。どうやらランタンのようなものに似ているが、今まで見た事はなかった。
灯りを持つ誰かの姿も見えてくる。灯りを手に歩いてくる誰かは、自分よりは年上の子供のように見えた。
顔が赤い。まるで鬼灯の実のような赤さに、もしかして、と期待が膨らんでくる。
「何、してるんですかねぃ。こんな夜遅くにお子が一人でいるなんぞ、悪い誰かに攫われても文句は言えやせんよ」
呆れた声が、けれども優しく問いかける。
「かあさんの、おはなしのみんなに会いたかった」
それに小さく答えれば、やはり呆れたように溜息を吐かれた。
「そうですかい。けどももう夜も遅い。探索ごっこはおしまいにして、今日はおとなしくお家に帰りやしょうね…さあ、その前に、手足の傷の手当てをいたしやしょう」
仕方がない、と笑われて。膝をついて、手を差し伸べられた。
「それは、なに」
手を繋いだ帰り道。彼の手にある灯りに視線を向ける。
「これですかい?これは提灯、というんでさぁ」
「ちょうちん」
口の中で転がすように呟いて、自分よりも背の高いその顔を見上げ、期待を込めて口を開いた。
「じゃあ。にいさんは、あやかし?」
その問いに、けれど彼は何も答えず。小さく笑うだけだった。
むっとして、睨みつける。はい、とも、いいえ、とも取れるその反応に、繋いだ手を強く握る。
「そうなの?ちがうの?」
「どっちでしょうかねぃ。大きくなって覚えていたら、分かるかもしれやせん」
「いじわる」
ふい、と視線を逸らし、前を見る。一人で辿った時とは違う、ぼんやりと明るいいつもの道が、彼がどちらかなのかをさらに分からなくさせている気がした。
「さ。着きやしたよ」
気づけば家の前。繋いでいた手を離されて、そっと背を押される。
未練がましく見上げても、彼は笑って何も言わない。さらに背を押されて、おとなしく門扉を潜り抜けた。
「おやすみなさい。良い夢を」
優しく囁いて、元来た道を戻っていく。
その丸い灯りを見送りながら、はあ、と深く息を吐いた。
彼は言った。大人になっても覚えていたら、妖なのかそうでないのかが分かると。忘れるだろうと思っている口ぶりで。
ならば、覚えていようではないか。手を握り締めて、一人決意する。
このまま何もしなければ、彼の思うように少しずつ忘れて、大人になる前に欠片も覚えていないだろう。だけど覚えていられる方法を、一つ知っていた。
父のように、母の語る物語を文字で書き出してしまえばいい。
「ぜったい、おぼえててやる。ぜったいに」
大きく頷いて、静かに家に入る。
教えてもらえなかった怒りも込めて、この夜を書き留めてしまおう。
そう心に決めて、急いでベッドに潜り込んだ。
「先生。こことあといくつか、字が間違ってやす。それからこの台詞は、この流れでは不自然でさぁ」
「――そうか」
校正を終えた子供から手渡された原稿を確認しつつ、男は密かに息を吐いた。
いつの間にか担当よりも口うるさくなってしまった子供は、今度は部屋の整理をし始め忙しく動き回っている。出会った当初は想像もしなかったお互いの変化に、男は困惑するばかりだ。
「先生。手が止まっていやすよ。締切は待っちゃあくれないですからね」
「分かっている」
窘められて、男は肩を竦めて筆をとる。
この現状は己の認識の結果かもしれないと、僅かばかりの後悔を抱えながら、男は仕事に専念する事にした。
妖とは、人の認識で在り方を変える。
子供が男に教えた事だ。一つ目の妖が、いつしか豆腐を手に佇むようになり。そしてその豆腐を人に食わせ害を与えるようになって。一方で、事八日に帳面を手に家々を周って家の落ち度を記し、家々の運勢を決めるようにもなり。
すべて人の認識、想像の結果だ。怖れ、望むままに在る妖を、子供が語るその一部分を男は書き記してきた。かつて男の父が母の物語を記してきたように。
ほぅ、と息を吐き、筆を置く。気づけば子供の姿はない。おそらく茶の用意でもしに行ったのだろう。
引き出しを開け、男はその奥に仕舞い込んだ一冊のノートを取り出した。古ぼけ草臥れたそれは、男の始まりだった。
母の物語に憧れ、抜け出した夜の刹那の出会い。父に教えを請いながら書き留めた、一番初めの物語。ノートを開かずとも、その一番初めの頁に書かれた言葉は忘れる事はない。
――君と僕。出会えたこの奇跡を忘れないために、僕は君を物語に閉じ込める。
表紙を撫でながら、男は微笑む。あの夜に出会った彼がこうして共にいる子供なのか、男には分からない。男が書いた物語に応えた、まったく別の妖なのかもしれない。
それでも、今の男と子供の関係は、この先も続いていくのだろう。
「おや、お仕事は終わったんですかい。先生」
盆を手に戻ってきた子供が、男に声をかける。それにああ、と短く答え、男は再び引き出しの奥にノートを仕舞い込んだ。
「終わったのでしたら、休憩にいたしやしょう。どうぞ、先生。熱いので気をつけてくだせぇ」
「分かっている。子供ではない」
顔を顰めながら置かれた湯飲みを手に取り、心配する子供の言葉を一蹴する。そんな男に、子供は笑いながら首を振り、子供ですよ、と囁いた。
「手前にとっては、いくつになっても先生は子供でさぁ。危険を顧みず、興味のある事に向かって進んでいく。眼を輝かせてまだ知らない世界へと飛び込むような、そんな小さなお子ですよ」
楽しげに語る子供から、男はさりげなく目を逸らす。
湯飲みに口を付け、その熱さに眉を寄せた。
20250411 『君と僕』
4/11/2025, 10:32:57 PM