いたずらに遊ぶ風が、花弁を舞い上げる。それを追いかけ空を舞い、辺り一面に咲き誇る種々の花を見下ろして、微笑んだ。
この地で眠る彼らのための花。かつての焼けた建物の残骸と屍が積み上がる荒れ地の面影は、欠片も見えはしない。
不意に、幼子の笑う声を聞いた。掠れた記憶を揺するその声に惹かれ、ゆるりと視線を巡らせた。
「――あれは」
目を瞬く。幼子が一人と、妖が二匹。花を愛で、遊んでいた。
何故このような場所に、と首を傾げて困惑する。
ここは谷底にある、忘れ去られた場所だ。この地に辿り着くための道は永く閉ざされて、迷い込む事など出来るはずがない。
ここを知ってあえて訪れたのだろうか。警戒しながらも、幼子らの前に降り立った。
「あ。こんにちは」
「人間。何故、ここにいる?」
腕を伸ばしたとして、届く事のない距離。それ以上は近づく事は許されない。今は静観する妖らが、この距離を侵した途端に襲いかかる事だろう。
張り詰めた空気の中、唯一何も知らぬ幼子が、己の問いかけに眉を下げつつ微笑んだ。
「えとね。逃げてきたの」
「逃げてきた?」
意味を理解しかね、妖らに視線を向ける。
「そのままの意味さ」
「憑き物筋は人間から厭われやすい。そういう事だ」
憑き物筋。それはこの妖らの事なのだろう。
目を細め、幼子と妖らを繋ぐ糸を見る。人間にとって不可視のそれは澄んだ緋色を纏い、幼子と妖を離れぬように強く繋ぎ留めていた。
細身ながらも随分としなやかな糸だ。余程深く関わりなのだろう。
その緋色をかつて見た事があった。両親を求めて弱々しく伸ばした小さな手に絡みついた。或いは、互いをかばい合いながら事切れていた、同胞らの腕に括りつけられた。
家族や仲間を繋ぐそれを、己に花を植える事を教えた男は絆だと呼んでいた。
「わたしたちね、生まれる前からいっしょだったんだって。六方《ろっぽう》が教えてくれたの。すてきでしょ…でもね、それはわるいことなんだって、みんな言うから」
赤を纏う妖が肩を竦めた。呆れているような、哀しむような複雑な感情を湛えた目が幼子を見つめ、静かに伏せられた。
「僕達と切り離される事が、余程お気に召さなかったらしいよ。本当に、物好きな子だよね…ま、切り離そうとした所で、切り離す事など不可能なんだけどね」
白を纏う妖は、笑いながら幼子の元へと近づいて、その頭を撫でる。物好きだと言いながらも、その目には慈しみと喜びが浮かんでいる。
不思議な関係だ。人間にとって幼子の存在は異端でしかないのだろうが、それが正しい在り方にも見える。
ここにいた彼らと同じだ。彼らも異端とされ、迫害を受けて都から逃れてここに辿り着いた。生きるために互いに協力し合い、一つの集落を作り上げた。
懐かしさに、目を細める。幼子らには、彼らのような出会いはあるのだろうか。
その行く末が気になった。
「行く当てはあるのか」
己の問いかけに、白の妖は首を振る。
「ないよ。ないから、ここまできた」
「ここは、この子と同じ者がいたと聞いていたからな」
ああ、と思わず声が漏れた。
何も知らないでここまで来たのか。今はいない彼らを思いながら、その事実を告げるべく口を開く。
「残念だが、ここにはもう何もない。彼らは遠い過去に絶やされた。今あるのは、ワタシと花だけだ」
花を見遣り、呟いた。
人間である幼子が必要とするものを求めて、同じように逃れた者らで作られた集落まできたのか。かつての彼らであれば快く受け入れ、必要なものを与えたのだろう。だが今ここに残るのは、妖である己だけだ。必要なものを何一つ与えられはしない。
すまない、と小さく謝罪をする。だが返る小さな笑い声に、不思議に思って視線を向けた。
「ああ、気にしなくていいよ。ここが遠い昔に絶えたのは知っているからね」
「では何故?」
「お花をね、見たかったの」
幼子は笑う。屈んで白の花を一本手折り、手を伸ばして白の妖の髪に挿す。そしてもう一度屈み、今度は赤の花を一本手折る。赤の妖の元まで駆けて、同じように髪に花を挿した。
「この子と同じく厭われ、絶やされた者らの死を悼む妖がいると聞いたのだ」
幼子の頭を撫でながら、赤の妖は苦笑する。いつの間にか和らいだ視線に、何故、と呟いた。
「しばらくここにいさせてはくれないだろうか。この子もお前の植えた花を気に入っているようだ。だがこの地を踏み荒らしているようなものだからな。お前が厭うのであれば立ち去ろう」
「いや荒らしてはないだろうよ。ここには花しかないのだから」
穏やかな赤の妖の言葉に、笑って否を唱える。
ここにはもう誰もいないのだ。土の下で眠る彼らは、すでに新しい生を歩んでいる。彼らの体も魂も、記憶でさえも、残るものはここにはない。
故にこの地はただの花畑だ。踏み荒らす事など気にする必要はない。
「好きなだけここにいるといい。だがワタシにはその子に必要なものを与えられはしない。それでも良いと言うのであれば」
「十分だ」
頷いて、赤の妖は幼子に何かを囁き白の妖を指差した。
幼子の目が輝いて、白の妖の元へと駆けていく。
「燈明《とうみょう》!お花のかんむり作って!」
「え。ちょっと無理言わないでよ。僕、一度も作った事ないのに」
慌てて逃げていく白の妖の背を、幼子はきゃらきゃら笑いながら追いかけていく。その姿がいつかの誰かと重なって、僅かに胸の痛みを覚えた。
「花冠か。前に作ってもらったものが、残っていたはずだ…ああ、そうだ」
思い出す。時折ここに訪れる、変わり者の男の存在を。
「ワタシに花を植える事を教えた男が、前に家を作っていた。簡素なものではあるが、雨風くらいはしのげるだろう」
赤の妖に、指し示す。家というには小さく見た目は粗末な物ではあるが、作りはしっかりしているはずだ。
「ありがたく、使わせてもらおうか」
微笑んで家へと向かう赤の妖の背を見送って、気づけば鬼事をしている幼子と白の妖に視線を向ける。
人間に厭われても、絆で結ばれた妖と共に生きる幼子。その生き方は、やはり彼らにとてもよく似ている。
おそらく幼子の辿る先は、険しいものなのだろう。
どうか、と誰にでもなく呟いた。
どうか、幼子の行く先が、僅かでも安らげるもので在る事を。
どうか、彼らの辿った道だけは、同じように辿る事がないようにと。
吹き抜ける風が、花弁を散らす。それを視線で追いかけて。
願うように、目を閉じた。
20250407 『フラワー』
4/7/2025, 2:25:57 PM