広げた地図にまた一つ印を付ける。
自宅の周囲を描き留めた手書きの地図は、これ以上書き込む事が出来ないくらいに色鮮やかになった。ふふ、と一人笑い、完成した地図を指で辿る。
「完成したのね。おめでとう」
彼女の声に、ありがとうと言葉を返す。首に下げた銀色の羅針盤にそっと触れた。
「自分の目で見て歩くって、大変なんだね」
「慣れてないからよ。すぐに慣れる…といいわね」
「ごめんね。見えてるのに、見えてない時とあんまり変わらなくて」
「まったくだわ」
溜息を吐く彼女に、笑いながら謝って。誤魔化すように、窓の外を見た。
少し前まではくすんだ色で見えていた空は、今は澄み切った青色がよく分かる。白の雲が色々な形をしている事に未だに慣れず、思わず魅入ってしまう。
「目の調子は良いみたいね」
「うん。ちゃんと見えてるよ。見えすぎてる気もするけれど」
雲に紛れるようにして駆け抜けていく黒い影を認めて、苦笑する。今日も自分の目は、人ではないモノもはっきりと見えてしまっていた。
妖。彼女のように人ではない、けれど人に寄り添ってくれる優しい存在。それらは見えても大丈夫なモノだ。
「今日も変わらないのね…仕方がないわ。いつも言っているように、外に出る時は地図の赤い印の所には近づかないで」
「分かってるよ。約束するから」
彼女に大丈夫だと返事をしながら、地図を見る。
色鮮やかに書き込まれた印の中で、いくつか点在する赤の丸印の数を声には出さずに数えていく。
彼女曰く、危険な場所。化生と呼ばれる、妖とは違う怖いモノが彷徨っているらしい場所。それは見えてはいけないモノらしい。
「今日はこのまま、どこにも行かないのだったかしら。お母さんも出かけているみたいだものね」
「そうだよ。今日はお留守番」
彼女の言葉に頷いた。留守番といっても、母は買い忘れた物を買いに行っているだけで、すぐに帰ってくるだろうけれど。
地図の上の赤い三つの丸を指で順に辿る。この丸のどれかが、少し前まで自分の目を奪おうと呪いをかけていたのだろうか。
「あなたの目を奪おうとしたモノは、もういないわ。だから目に関しては、もう大丈夫よ」
「本当に?」
「本当。目の呪いを解いてもらった時に、それが呪いをかけた化生に返って、消えてしまったのよ。だからもうそれは心配しなくてもいいわ」
自分の考えを見通す彼女の声は、とても優しい。不安はすぐに解けて消えて、ありがとうと呟いた。
羅針盤《彼女》に視線を落とす。彼女がいなかったもしもは、想像すらも出来ない。
羅針盤をくれた母は、すべて分かっていたのだろうか。自分の目の事も、彼女についても。ふと、疑問が込み上げた。
「お母さんは知らないわ。ただあなたの視力が弱い事は知っていたし、そのせいで迷子になりやすいだろう事は察していたけれど」
「そうなの?それなら、君に会えたのは、凄く幸運だったんだね」
「そうね…でもまさか、見えるようになっても、迷子は変わらないなんて、お母さんも私も分からなかったけれど」
くすくす、と笑う彼女の声に、羅針盤から目を逸らす。
「でも地図が、あるから。家の周りだけだけど、完成したし」
「それがあっても、家に帰れなかったのはどうして?地図に書いてあった場所だったわ」
「――いじわる、言わないでよ」
昨日の事を思い出し、溜息が出る。地図を描いたのは自分だというのに、自分がどこにいるのかすら分からなかった。
彼女に頼りすぎているのもあるのだろう。見えなくても見えても、彼女の声がないとまともに歩けもしないのだから。
「ごめんね、つい」
笑いながら謝る彼女に、別に、と小さく呟いた。彼女の言っている事は悲しいくらいに正しくて、文句の一つも言う事は出来なかった。
もう一度溜息を吐いて、広げた地図を折りたたむ。
「新しい地図は作らないの?」
「――作っても、使えないんじゃ意味ないよ」
「そんな事はないわ」
何を言っているのだろう。地図があっても帰れなかったと言ったのは、彼女なのに。
「作る事が大切なのよ。地図を作るために歩き回るのは、とても楽しいでしょう?」
むっとする気持ちは、それでも彼女の穏やかな声にすぐに萎んで消えていく。代わりに込み上げてくるのは、彼女と共に歩き回って見えた、たくさんの景色だった。
きらきらと輝いているような、作った地図よりも色鮮やかで綺麗な景色。季節によって変わるのだと聞いて、楽しみにしていたのを思い出した。
「私もあなたと一緒に、色々な景色を見られるのが嬉しいのよ。だから機嫌を直して、新しい地図を作りましょう?」
そこまで言われては仕方がない。そう自分に言い訳をして、新しい紙を手に取った。
折りたたんだ地図を広げ直す。指で辿って、どこの道の先から始めようかを考える。
いつの間にか、道に迷う心配など欠片も忘れてしまって。ただ新しい冒険への期待に、胸が高鳴った。
「お母さん、帰ってきたみたいね」
ちょうどタイミングよく、玄関が開く音が聞こえた。ただいま、と母の声が聞こえて、たまらず部屋を飛び出した。
「危ないわ。ちゃんと足下に気をつけて」
彼女の声に、分かってる、と返事をして。まだ玄関先にいた母に、出かけてくると告げて家を出た。
空を見上げる。どこまでも青色が広がっていて、雨の気配は見られない。
「行こう!」
「そっちは駄目な方だって。ちょっとは落ち着いてってば!」
慌てる彼女の声を笑いながら、駆け出した。行き先は気の向く方でいいだろう。
「話を聞いてっ!そこは右に行くの!」
返事はせず。けれど彼女の指示通りに右に曲がる。
最初の地図を作り始めた時のように、胸がどきどきして落ち着かない。高鳴る鼓動を抑えるように、羅針盤ごしに胸に手を当てた。
「まったくもう。転ばないでよね」
「大丈夫だって」
道には迷うけれど、転ぶ事はもうほとんどない。
それを彼女も分かっているからか、呆れた溜息を溢すだけで、それ以上は何も言わなかった。
何だか楽しくて仕方がない。手にしたままの白紙の地図が、輝いて見える。
「次はどっち?」
彼女に声をかける。呆れた声が道を示し、その通りに進んでいく。
不安はない。
彼女の指し示す道は、いつでも正しいのだから。
20250406 『新しい地図』
「好きだよ」
何十回目の告白は、いつものように彼女の無言の一瞥で終わる。
落ち込みたくなるが、彼女の前だ。必死で笑顔を作ってごめんね、と一言呟き、駆け出した。
いつもの事。何も変わりのない、日常の一場面。分かっていたはずだと自分に言い聞かせ、必死に嗚咽を噛み殺す。それでも気持ちを抑えきれず、元の小さな雀の姿に戻り、空へと羽ばたいた。
「僕が小さな雀だからかな」
適当な木の枝に止まり、溜息を吐く。
彼女の前では、いつも人間の姿になっている。けれども聡い彼女の事だ。自分の本当の姿を、すでに知っているのかもしれない。
「僕が人間だったらなぁ」
或いは、彼女が妖だったのなら。
そうすれば、希望はあったのかもしれない。考えれば考えるほど、気分が落ち込み俯いた。
もう、潮時なのだろう。
「明日…もし明日駄目だったら、諦めよう」
言い聞かせるように、言葉にする。諦めきれない事は明らかだけれども、このまま続ける訳にもいかない。相手を考えない告白は、ただの迷惑だ。彼女に嫌われてしまうのは嫌だった。
俯く顔を上げ、空を睨む。泣きたい気持ちを誤魔化すように、弓張月に向けて声高に鳴いた。
遠く彼女の背を見つけ、地に下りる。
人間の姿を取って、可笑しい所はないかを確認する。これで最後なのだからと、今日は念入りに。
「最後はせめて、かっこよくしないと」
気を抜けば泣きそうな目を強く閉じて、開く。遠い彼女の姿を焼き付けるようにして見つめた。
「好き、だなぁ」
彼女が好きだ。表情のあまり変わらない彼女が、ふとした瞬間に見せる微笑みが、大好きだ。
さりげのない優しさも。誰に対しても誠実な所も。自由気ままな所も。彼女を構成するすべてが好きでたまらない。
ふふ、と思わず笑みが零れ落ちる。こんなにも大好きな気持ちを全部伝えられたら、それで十分な気がしてきた。
彼女に受け取ってもらえなくても。好きの気持ちは捨てずに、大切に鍵をかけてしまっておこう。
昨日までの苦しい気持ちはどこかに消えて、軽い足取りで彼女の元まで歩いて行く。
「おはよう」
声をかける。振り返る彼女に笑いかけ。
「あのね、」
「ずっと思っていたのだけれど」
好きだよ、と続くはずの言葉は、けれど彼女の言葉に掻き消される。
いつもとは違う事。初めて返された言葉に、何も言えずに立ち尽くす。
「君の目に、私はどんなふうに映っているの?」
「――え?」
僅かに顰められた眉に、肩が跳ねる。
どんな、と問われて、色々な言葉が頭を過ぎていく。
可愛い。優しい。綺麗。
けれど混乱している思考では、思いつく事は一つも言葉にはならず。
「普通の、人間の女の子」
彼女にとっては、意味の分からないであろう言葉が口から零れ落ちた。
あ、と後悔するよりも早く。彼女の深い溜息にびくり、と体を縮こまらせる。
「そうだろうとは思った」
怒らせてしまった。その後悔は、彼女の呆れを乗せた声音に疑問に変わる。初めから理解しているような口ぶりに、恐る恐る視線を向ければ、彼女の深い緑の目と交わった。
随分と瞳孔が細い。さらに疑問が膨れ上がる。
それは、まるで猫のような――。
「気づいた?ご先祖様に、猫がいたらしいよ」
目を細めて笑う彼女に、文字通り飛び上がって驚いた。
「え…え、それって」
「考えていたのだけれどね」
情報が多すぎて理解が追いつかない自分をよそに、彼女は淡々と言葉を紡ぐ。
「君の好き、の言葉に同じ言葉を返したいとして。それってちゃんと君と同じ気持ちで届くのかな。捕食対象に対する気持ちと誤解されない?」
例えば、美味しいケーキを前にした時の、好きの気持ちに聞こえないか。
眉を寄せて真剣に悩む彼女に、淡い期待と恐れが混み上がる。喜べばいいのか、怖がればいいのか分からずに、それでも確かめたい事が一つあった。
「それって、つまり…僕の事、好き、って事?」
「そういう事…君が、好きだよ」
目を細めて彼女は笑う。
嬉しい。夢みたいだ。そんな幸せな気持ちとは裏腹に、その笑みが猫のように見えて、思わず元の姿になって空を舞い上がってしまう。
「――あ。ごめん」
見下ろす彼女が哀しげに眉を下げるのを見て、慌てて地に下り人間の姿を取る。改めて謝れば、気にするなとばかりに頭を優しく撫でられた。
彼女を見る。細まる彼女の目を見ただけで、ぞわりと本能的な恐怖が襲い体が震えるのを見て、彼女の手が離れていく。
「あ、あのさっ!」
咄嗟にその手を取り。彼女の目から視線を逸らしながら、一つの提案をする。
「手を。手を、さ。繋ぐ事から、始めない?」
「――そう、だね。君が許してくれるなら」
彼女の言葉に、改めて手を繋ぐ。
これからどうすればいいのだろう。両思いだとは露にも考えた事はなかったため、何をしたら良いのか分からない。
取りあえず。失礼な事だけれども、大事な事を確認しなければ。
「えっと。雀とか鳥を取って食べたり…しない。よね?」
「当たり前。食べるなら、ケーキの方が良い」
僅かにむくれて視線を逸らす彼女に、気づかれないように安堵の息を吐いて。
「でも、逃げる鳥とか小動物を見ると、どうしても追いかけたくなるの」
続いた言葉に、ひっ、と思わず声が出た。
どうやら叶ってしまった恋は、とてつもなく怖ろしく、可愛らしいもののようだ。
20250405 『好きだよ』
桜は貪欲だ。
だから気をつけるように、一人では近づかないようにと誰かが言っていた。不意に過る記憶に、眉を寄せる。
忠告など、大概は手遅れだ。今のこの現状が、雄弁にそれを語っている。
はぁ、と溜息を一つ。もし戻れたら貪欲の意味を辞書で調べ直そうと、目の前の彼、或いは彼女から目を逸らした。
「可愛いわ。でもこちらもきっと似合うわね」
薄桃色の振り袖を着た少女、らしき妖は、手にした反物をあてがいながら微笑む。
らしき、なのは、声が見た目に反してとても低いからだ。声だけで判断するならば、大人の男性。けれど見た目は可憐な少女。その違いに、混乱する。
「ねえ、あなたはどちらが…いえ、どちらもという選択肢があったのを忘れていたわ。折角の機会なのだから、似合うと思うものすべてを選びましょう」
貪欲とは何だっただろうか。確かに欲深くはありそうであるけれど。
痛み出した頭を抑えたくなるが、体は背後の桜の枝に絡めとられて満足に動かす事は出来ない。どこからか取り出した反物を次々とあてがわれているこの現状に、溜息を吐くしか出来ない。
「もう、溜息ばかり吐いていたら、幸せが逃げていってしまうわよ。こんなに可愛いのだから、しゃんと笑っていなさい」
気分を害したように頬を膨らませる。その姿はとても愛らしいけれど、やはり声は低い。
曖昧に笑って誤魔化して、散歩をしたくなって一人庭に出た自分の選択を密かに後悔した。
「何をやっているんだ」
呆れた声に、顔を上げる。ようやくやってきた救世主の登場に、視線だけで助けを求めれば、彼はやはり呆れた顔をしながらもこちらに近づいた。絡みつく枝を払い、抱き上げられる。
「一人で桜に近づくなと言っただろうに」
「覚えてなかったんだから、仕方ないでしょ」
文句を言いながらも彼にしがみつく。宥めるように頭を撫でられて、その心地良さに目を細めた。
「ちょっと。可愛い子を独り占めなんて酷いわ」
「十分だろう。お前の背後にある反物の山は何だ」
彼の言葉に、内心で深く同意する。
だが妖は、まだ満たされてはいなかったようだ。
「可愛い子には、可愛い格好をさせたいものでしょう。それの何かいけないのかしら」
「限度を考えろと言っている」
「嫌よ。あたし、今まで遠くから見ているだけだったのだもの。満足するまで付き合ってもらいたいわ」
腰に手を当てて怒る妖に、彼は嘆息する。気持ちはとても分かるけれども珍しい彼の態度に、思わず彼の横顔を凝視してしまった。
手を伸ばし、さっき彼がしてくれたように頭を撫でる。僅かに目を見開いてこちらを見る彼に、笑ってみせた。
幾分か疲れが滲んでしまった事には、目を瞑ってもらいたい。
「琥珀《こはく》」
「帰ろ、槐《えんじゅ》」
「そうだな」
「ちょっと!待ちなさいよ」
妖の引き止める声がしたとほぼ同時。風に舞った桜の花びらが壁のように周りを覆い引き止められる。
「帰さないわよ。ここで帰したら、もう逢わせてもらえないんでしょ!あたしだけ、いつも屋敷に入れてもらえないもの」
激しく怒る妖に視線を向けて、彼を見る。屋敷に入れてもらえないのは何だか仲間はずれのようで、少しだけ可哀想に思ってしまった。
けれど彼は冷めた目をして妖を一瞥して、当然だろう、と呟いた。
「お前に付き合って、面倒事に巻き込まれるつもりはない。それにこの子をお前が咲き誇るための糧にさせるわけにはいかないからな」
糧。つまりはこの桜の肥料になるという事だろうか。
彼にしがみつく腕の力が、少しだけ強くなる。
「それ、いつの話よ!あたしは可愛い子を着飾りたいだけなのにっ」
「人間だった頃のこの子を、幾度となく拐かそうとしたのは誰だろうな」
「だって可愛かったもの。それにあんただって、結局隠してしまったじゃない」
彼の眉間に皺が寄る。
話を変えなければ、と内心で焦る。記憶にはないが、私が人間から妖になった時の話は、彼だけでなく屋敷の皆の、してはいけない話だ。
「あ、あの、えっと…その反物、どうするの?」
あからさまな話題の逸らし方に、彼と妖の視線が突き刺さる。けれどその意図を汲んでくれたのだろう。妖は山となった反物を一瞥して、当然のように微笑んだ。
「もちろん、すべて仕立てるわよ。採寸は終わっているから、楽しみにしていてね」
「え。それって、誰が作るの?」
「あたしに決まってるでしょ」
思わず妖の顔を見つめる。
「なによ、その顔。桜が和裁をしてはいけないなんて、思わないでほしいわ」
「桜は貪欲だと言っただろう。興味のある事に対して、怖ろしい程にどこまでも拘るんだ」
「可愛い子を着飾るための努力を、惜しまないだけの事よ」
それは確かに貪欲ではあるのだろう。
想像していた意味と異なる、自信に満ちあふれた妖を見る。自分にはないものを持つ妖が眩しく見えて、目を細めた。
妖の事。桜の事。もっと知りたくて、下ろして欲しいと彼を見た。
「止めておけ。桜は貪欲で、雑食だ。着飾って満足したら、喰われるぞ」
「だからっ!いつの時代の話をしているのよ!」
憤慨する妖は、それでも否定はしない。それはつまり、そういう事なのだろう。
「帰ろう、槐」
「そうだな。戻るとするか」
「ちょっと!」
桜に背を向けて、彼は歩き出す。いつの間にか桜の壁は消えて、彼を邪魔するものはない。
抱き上げられたままの格好で妖を見れば、未だ不機嫌そうではあるものの、こちらに手を振ってくれた。
それに手を振り返し。
「何か、疲れた」
思い出したように疲れを感じて、彼にもたれ掛かる。
「屋敷に戻ったら少し休め。このまま寝てしまっても構わない」
優しい彼の言葉に、それならば、と目を閉じる。
優しく背を撫でる手に、笑みが浮かび。心の中だけで、大好き、と囁いた。
20250404 『桜』
地に落ちて砕けた硝子の一欠片を摘まみ上げ、これで良かったのだと笑ってみせた。
硝子越しに、歪んだ顔が見える。泣きそうに、哀しそうに顔を顰めている。
「これで良かったんだ。こうして砕けなければ、いつまでも動けないでいたから」
だから大丈夫だと。相手にも自分自身にも言い聞かせるように、繰り返した。
欠片を手放す。かしゃん、と軽い音を立て、欠片がさらに数を増やし細かくなったのを見遣って立ち上がる。後片付けをしなければ、と場違いな事を考えながら、道具を探して辺りを見渡した。
「ごめん」
微かな声を、聞こえない振りをする。謝罪を受け入れて許す事は、きっとまだ出来ない。大丈夫だと自身を言い聞かせる事は出来ても、砕け散った一欠片ほども納得はしていない。
これが正しいのだとは理解をしているのだ。いつまでも未練がましくしがみつく事の無意味さも、痛いほどに分かっている。
一度砕けたものが、元に戻る事など二度とない。過ぎてしまった昨日は遠くなるばかりで、帰ってくる事はないのだから。
「どうしたら、許してもらえる?」
「許す、許さないじゃないよ。これで良かったって言ったんだから。それで十分でしょ」
視線は向けずに、無感情に言葉を返す。掃除道具を求めて部屋を出ようと踏み出した足は、聞こえた深い溜息に止まった。
視線を向ける。真正面から見たその表情は、泣く訳でもなく、悲しんでいるようにも見えない。
静かな目に見据えられ、息を呑む。形の良い唇が徐に開き言葉が紡がれるのを、止めてしまいたい衝動を抑えながらただ待った。
「今度の休日。スイーツバイキングに一緒に行こう。だからいい加減に機嫌を直してほしい」
ぱちり、と少女の目が瞬いた。
震えるか細い声が、スイーツバイキング、と何度も繰り返す。次第に頬が染まり、唇が笑みに形取られて行くのを見ながら、青年は密かに息を吐いた。
「本当に?嘘じゃない?やっぱなし、とかもない?」
「約束する。だからそんなにはしゃがないで。硝子を踏んだら危ないだろう」
感情が抑えきれずにその場で飛び跳ねながら、何度も確かめる少女の側に寄り、青年は手を引いて近くのソファに座らせる。それでもまだ興奮冷めやらない少女に、落ち着くよう言い聞かせた。
少女が次第に落ち着きを取り戻してきた事を確認してから、備え付けの棚から箒とちり取りを取り出す。砕けた硝子と元は菓子だった残骸を片付けながら、ごめん、と何度目かの謝罪を密かに繰り返した。
「いくら美味しかったからといって、何年も前の菓子を大事に取っておくのは、これで終わりにしてほしい」
「――うん。そう、だね」
少女の笑みが、僅かに陰る。
砕けた硝子瓶や、その中に入っていた過去に食べた菓子が砕けた事を、少女は悲しんでいるのではない。それに付随する記憶を、拠り所を失った事による虚無感に苛まれているのだ。その心の内を理解しながらも、青年は敢えて少女にとって残酷な事を口にした。
「この菓子より美味しくないものはいくらでもあるが、美味しいものもたくさんあるんだ。それを探すのも、悪くないんじゃないか?」
少女は何も言わない。どこか遠くを見る少女の視線は、青年の知り得ない過去を想っているようであった。
青年もまた、それ以上何も言わず。集め終えた残骸を捨て、道具を片付ける。
「――一緒に行く約束、忘れないでよね」
微かな呟きに、青年は少女に視線を向ける。その目に浮かぶ感情は諦めにも似た色を宿し、青年は僅かに眉を寄せた。
「自分から言っておいて、忘れる訳がない」
「約束、だもんね」
少女は、微笑う。泣いているようにも見える笑顔に、青年は眉間に皺を刻んだ。
青年よりも永くを生きる少女は、おそらくすべてに諦念を抱いているのだ。諦めているから、期待を抱かない。
未来に何も望まず、ただ束の間の安らぎだったいくつかの過去を、硝子瓶に閉じ込め慰めにする。
過去だけを見続ける少女が、青年はどうしても許す事が出来なかった。
「そう、約束だ。もしもスイーツバイキングが気に入ったら、また一緒に行こう。他にも色々な所へ行って、好きなものを増やしていけばいい。あの硝子瓶に収まりきれないほどの思い出を、俺と一緒に積み重ねていこう」
少女の側に寄り、跪いてその手を取る。青年よりも小さく華奢な手には、もうあの硝子瓶はない。少女の過去を閉じた瓶は、偶然を装って青年が落として粉々に砕いてしまった。
「俺は、君と共にこれからを生きていきたい。過去を忘れろとは言わないが、過去に縋るのはもう止めて欲しい。今を生きる俺を、どうか見てくれ」
かつては青年と同じくただの人であったという少女が、何故悠久を抱いているのかを青年は知らない。知る必要もないと思っている。
だがもしも。もしも少女がこの先、一人に戻る事に怯えて青年に共に悠久を抱く事を望んだとしたら。
その手を取った後、取り留めのない話の一つとして尋ねればいいと、そう青年は思っている。
「ちゃんと見ているけど…本当に、馬鹿みたい」
青年から視線を逸らし、少女は小さく呟いた。不機嫌な表情をしながらも、その頬は朱に染まっている。
思わず笑みを溢す青年を、横目できつく睨み付け、少女は青年の手を強く握り返した。
「約束したからね!スイーツバイキングも、美味しいお菓子を求めて旅に出るのも。約束したんだから、必ず叶えてよ」
「分かってる。約束だ」
青年は頷き、手を握ったまま少女の小指に自らの小指をを絡める。
僅かでも今を見始めた少女に、青年は微笑みながらも、ごめん、と心の内で繰り返した。
20250403 『君と』
眼下に広がる淵を見下ろす。
夜空の群青よりも尚昏く、底知れぬ深さを湛えた水面は波一つなく凪ぎ。青白い月を、無数の星々を写している。
膝をつき、水面を覗き込む。
月が近い。それこそ、手を伸ばせば届きそうな程に。
「――ぁ」
吹き抜ける風が水面を揺らし、月が歪んだ。そのまま掻き消えてしまいそうに見え、月を捕らえようと咄嗟に手を伸ばし。
だがそれは、水面から突き出た細い腕に掴まれ、叶う事はなかった。
「っ、驚かすな。落ちるだろうが」
思わず詰めた息を吐き出す。
「あのまま手を伸ばしていれば、結局は落ちていた。それを止めてやったのだから、感謝してもらいたいくらいだ」
静かな声が返り、水面から女の頭が現れる。声と同じく感情の乏しい表情で、しかし目だけは咎めるようにこちらを見上げていた。
「酔狂な事だ。水面に写る紛いものの空に向かい、手を伸ばすなど。数日もすれば、本物の空を飛ぶのだろう?」
「仕方がないだろう。俺は今まで、月に行くために動いてきたんだ。例え偽物だとしても、目の前で消えられたら、手くらいは伸びる」
掴まれたままの腕を振り解き、視線から逃れるように空を見上げた。
浮かぶ月はどこまでも遠い。女の言うように数日後にはあの月へと向かうのだと、理解はしているというのに実感は未だ薄い。
まだ迷いがあるのだ。月へ向かう事は、人ならざるモノの否定に繋がるのだから。
「今更、恐れているのか」
女の言葉に頭を振る。恐れはない。前へと進む選択に後悔はない。
「ならば、このような所で立ち止まっている場合ではないだろう。進み続けろ。お前は我らに頼らずとも、一人で望みを叶える事が出来るのだから」
「あんたこそ、怖くないのか。否定され、人から認識されなくなった妖は、消えるのだろう?」
妖である女を知るのは、他にはいない。己が女を否定すれば、女の存在は消えるだろうに。
それを正しく理解して、何故この女は穏やかでいられるのか。
「何を怖がる事があるんだ。我らは人間のために在る。それが人間にとって助けとなるか害となるのかは、望んだ者の認識次第であるがな…道具と同じだ。必要とされないのならば、在っても意味はない。それだけの事さ」
「そうか…なら、最後くらいはしっかりするか」
消えるだろう女にそこまで言われてしまえば、それ以上何も言えはしない。
立ち上がり、女を見下ろす。未練がましい言葉は呑み込んで、女の目を見据え徐に口を開いた。
「俺は月へ行く。月には何もいないのだと、否定するために。兄は妖に連れていかれてなどいないと、断定するために」
女は何も言わない。薄く笑みを湛え、己の別れの言葉を待っている。
「だから、あんたともこれまでだ。俺はここに来ない。あんたとの記憶は、ただの夢だった…あんたは、現実には存在しない。忘れていくだけの、優しい夢だ」
「それでいい」
満たされたような声音。頷く女に背を向けて、歩き出す。
これから先、二度とここを訪れる事はないだろう。来た所で、妖である女に会う事は叶わないのだから。
一人きりで途方に暮れる己の手を引いて、道を指し示し寄り添い続けてくれた愛おしい女。その存在を消して、己はその罪すら忘れ生きていくのだ。
何度も立ち止まりかける足を、必死の思いで動かし続ける。
空に向かい、手を伸ばす。見上げる月は、未だ遠く。だがすぐに捕らえる事が出来るだろう。
月には何もいない。月にいる妖など存在しない。それを認識出来たのならば、月に囚われた兄の魂は安らかに眠る事が出来るはずだ。
それだけが、己にとって唯一の救いだった。
男が見えなくなり、妖はほぅ、と吐息を溢した。
憎む事でしか己を保てなかった少年の成長を見届けて、静かに水底に沈んでいく。
「お前の成長を、嬉しく思うよ」
心からそう思う。その結果が妖の存在をなくすのだとして、それは些事でしかない。
悔いはない。月に兄が連れて行かれたと、昏い瞳をして泣いていた幼い頃の男に道を示したのは妖であったのだから。
――己の眼で見据え、そして否定しろ。
それが果てしなく困難な道のりである事を、妖は知っていた。だが男は努力を重ね、己の力だけで月に行く事を叶えてしまったのだ。
水面越しに遠くなる空を見ながら、かつての少年を思う。
小さくか弱い少年だった。妖に、親に、己自身に、怒りや憎しみを抱いた哀しい子供であった。
消えるのをただ待っていただけの妖が、今一度だけ、と望みに応えようと思うほどに、愛おしい人間だった。
「進む先の幸いを。どうかお前の旅路の果てが、光に満ちている事を…月よ。お前の狂気を抱いた慈悲は、あの子によって否定される。終わる時が来たのだ」
歪む月を見て笑う。
手招く事で終を与える必要はなくなったのだ。永きに渡りその在り方を保ち続けた月に住まう妖も、ようやく終わる事が出来るのだろう。
月に向かい、手を伸ばす。水に溶けるように端から消えていくその様を見ながら、一つの名を唇が形作る。
微笑みを湛え、妖は静かに眼を閉じて。
男を愛し、男に愛された妖の存在は、欠片も残さず消えていく。
20250402 『空に向かって』