sairo

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広げた地図にまた一つ印を付ける。
自宅の周囲を描き留めた手書きの地図は、これ以上書き込む事が出来ないくらいに色鮮やかになった。ふふ、と一人笑い、完成した地図を指で辿る。

「完成したのね。おめでとう」

彼女の声に、ありがとうと言葉を返す。首に下げた銀色の羅針盤にそっと触れた。

「自分の目で見て歩くって、大変なんだね」
「慣れてないからよ。すぐに慣れる…といいわね」
「ごめんね。見えてるのに、見えてない時とあんまり変わらなくて」
「まったくだわ」

溜息を吐く彼女に、笑いながら謝って。誤魔化すように、窓の外を見た。
少し前まではくすんだ色で見えていた空は、今は澄み切った青色がよく分かる。白の雲が色々な形をしている事に未だに慣れず、思わず魅入ってしまう。

「目の調子は良いみたいね」
「うん。ちゃんと見えてるよ。見えすぎてる気もするけれど」

雲に紛れるようにして駆け抜けていく黒い影を認めて、苦笑する。今日も自分の目は、人ではないモノもはっきりと見えてしまっていた。
妖。彼女のように人ではない、けれど人に寄り添ってくれる優しい存在。それらは見えても大丈夫なモノだ。

「今日も変わらないのね…仕方がないわ。いつも言っているように、外に出る時は地図の赤い印の所には近づかないで」
「分かってるよ。約束するから」

彼女に大丈夫だと返事をしながら、地図を見る。
色鮮やかに書き込まれた印の中で、いくつか点在する赤の丸印の数を声には出さずに数えていく。
彼女曰く、危険な場所。化生と呼ばれる、妖とは違う怖いモノが彷徨っているらしい場所。それは見えてはいけないモノらしい。

「今日はこのまま、どこにも行かないのだったかしら。お母さんも出かけているみたいだものね」
「そうだよ。今日はお留守番」

彼女の言葉に頷いた。留守番といっても、母は買い忘れた物を買いに行っているだけで、すぐに帰ってくるだろうけれど。
地図の上の赤い三つの丸を指で順に辿る。この丸のどれかが、少し前まで自分の目を奪おうと呪いをかけていたのだろうか。

「あなたの目を奪おうとしたモノは、もういないわ。だから目に関しては、もう大丈夫よ」
「本当に?」
「本当。目の呪いを解いてもらった時に、それが呪いをかけた化生に返って、消えてしまったのよ。だからもうそれは心配しなくてもいいわ」

自分の考えを見通す彼女の声は、とても優しい。不安はすぐに解けて消えて、ありがとうと呟いた。
羅針盤《彼女》に視線を落とす。彼女がいなかったもしもは、想像すらも出来ない。
羅針盤をくれた母は、すべて分かっていたのだろうか。自分の目の事も、彼女についても。ふと、疑問が込み上げた。

「お母さんは知らないわ。ただあなたの視力が弱い事は知っていたし、そのせいで迷子になりやすいだろう事は察していたけれど」
「そうなの?それなら、君に会えたのは、凄く幸運だったんだね」
「そうね…でもまさか、見えるようになっても、迷子は変わらないなんて、お母さんも私も分からなかったけれど」

くすくす、と笑う彼女の声に、羅針盤から目を逸らす。

「でも地図が、あるから。家の周りだけだけど、完成したし」
「それがあっても、家に帰れなかったのはどうして?地図に書いてあった場所だったわ」
「――いじわる、言わないでよ」

昨日の事を思い出し、溜息が出る。地図を描いたのは自分だというのに、自分がどこにいるのかすら分からなかった。
彼女に頼りすぎているのもあるのだろう。見えなくても見えても、彼女の声がないとまともに歩けもしないのだから。

「ごめんね、つい」

笑いながら謝る彼女に、別に、と小さく呟いた。彼女の言っている事は悲しいくらいに正しくて、文句の一つも言う事は出来なかった。
もう一度溜息を吐いて、広げた地図を折りたたむ。

「新しい地図は作らないの?」
「――作っても、使えないんじゃ意味ないよ」
「そんな事はないわ」

何を言っているのだろう。地図があっても帰れなかったと言ったのは、彼女なのに。

「作る事が大切なのよ。地図を作るために歩き回るのは、とても楽しいでしょう?」

むっとする気持ちは、それでも彼女の穏やかな声にすぐに萎んで消えていく。代わりに込み上げてくるのは、彼女と共に歩き回って見えた、たくさんの景色だった。
きらきらと輝いているような、作った地図よりも色鮮やかで綺麗な景色。季節によって変わるのだと聞いて、楽しみにしていたのを思い出した。

「私もあなたと一緒に、色々な景色を見られるのが嬉しいのよ。だから機嫌を直して、新しい地図を作りましょう?」

そこまで言われては仕方がない。そう自分に言い訳をして、新しい紙を手に取った。
折りたたんだ地図を広げ直す。指で辿って、どこの道の先から始めようかを考える。
いつの間にか、道に迷う心配など欠片も忘れてしまって。ただ新しい冒険への期待に、胸が高鳴った。

「お母さん、帰ってきたみたいね」

ちょうどタイミングよく、玄関が開く音が聞こえた。ただいま、と母の声が聞こえて、たまらず部屋を飛び出した。

「危ないわ。ちゃんと足下に気をつけて」

彼女の声に、分かってる、と返事をして。まだ玄関先にいた母に、出かけてくると告げて家を出た。
空を見上げる。どこまでも青色が広がっていて、雨の気配は見られない。

「行こう!」
「そっちは駄目な方だって。ちょっとは落ち着いてってば!」

慌てる彼女の声を笑いながら、駆け出した。行き先は気の向く方でいいだろう。

「話を聞いてっ!そこは右に行くの!」

返事はせず。けれど彼女の指示通りに右に曲がる。
最初の地図を作り始めた時のように、胸がどきどきして落ち着かない。高鳴る鼓動を抑えるように、羅針盤ごしに胸に手を当てた。

「まったくもう。転ばないでよね」
「大丈夫だって」

道には迷うけれど、転ぶ事はもうほとんどない。
それを彼女も分かっているからか、呆れた溜息を溢すだけで、それ以上は何も言わなかった。
何だか楽しくて仕方がない。手にしたままの白紙の地図が、輝いて見える。

「次はどっち?」

彼女に声をかける。呆れた声が道を示し、その通りに進んでいく。
不安はない。
彼女の指し示す道は、いつでも正しいのだから。



20250406 『新しい地図』

4/6/2025, 1:54:00 PM