sairo

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地に落ちて砕けた硝子の一欠片を摘まみ上げ、これで良かったのだと笑ってみせた。
硝子越しに、歪んだ顔が見える。泣きそうに、哀しそうに顔を顰めている。

「これで良かったんだ。こうして砕けなければ、いつまでも動けないでいたから」

だから大丈夫だと。相手にも自分自身にも言い聞かせるように、繰り返した。
欠片を手放す。かしゃん、と軽い音を立て、欠片がさらに数を増やし細かくなったのを見遣って立ち上がる。後片付けをしなければ、と場違いな事を考えながら、道具を探して辺りを見渡した。

「ごめん」

微かな声を、聞こえない振りをする。謝罪を受け入れて許す事は、きっとまだ出来ない。大丈夫だと自身を言い聞かせる事は出来ても、砕け散った一欠片ほども納得はしていない。
これが正しいのだとは理解をしているのだ。いつまでも未練がましくしがみつく事の無意味さも、痛いほどに分かっている。
一度砕けたものが、元に戻る事など二度とない。過ぎてしまった昨日は遠くなるばかりで、帰ってくる事はないのだから。

「どうしたら、許してもらえる?」
「許す、許さないじゃないよ。これで良かったって言ったんだから。それで十分でしょ」

視線は向けずに、無感情に言葉を返す。掃除道具を求めて部屋を出ようと踏み出した足は、聞こえた深い溜息に止まった。
視線を向ける。真正面から見たその表情は、泣く訳でもなく、悲しんでいるようにも見えない。
静かな目に見据えられ、息を呑む。形の良い唇が徐に開き言葉が紡がれるのを、止めてしまいたい衝動を抑えながらただ待った。

「今度の休日。スイーツバイキングに一緒に行こう。だからいい加減に機嫌を直してほしい」



ぱちり、と少女の目が瞬いた。
震えるか細い声が、スイーツバイキング、と何度も繰り返す。次第に頬が染まり、唇が笑みに形取られて行くのを見ながら、青年は密かに息を吐いた。

「本当に?嘘じゃない?やっぱなし、とかもない?」
「約束する。だからそんなにはしゃがないで。硝子を踏んだら危ないだろう」

感情が抑えきれずにその場で飛び跳ねながら、何度も確かめる少女の側に寄り、青年は手を引いて近くのソファに座らせる。それでもまだ興奮冷めやらない少女に、落ち着くよう言い聞かせた。
少女が次第に落ち着きを取り戻してきた事を確認してから、備え付けの棚から箒とちり取りを取り出す。砕けた硝子と元は菓子だった残骸を片付けながら、ごめん、と何度目かの謝罪を密かに繰り返した。

「いくら美味しかったからといって、何年も前の菓子を大事に取っておくのは、これで終わりにしてほしい」
「――うん。そう、だね」

少女の笑みが、僅かに陰る。
砕けた硝子瓶や、その中に入っていた過去に食べた菓子が砕けた事を、少女は悲しんでいるのではない。それに付随する記憶を、拠り所を失った事による虚無感に苛まれているのだ。その心の内を理解しながらも、青年は敢えて少女にとって残酷な事を口にした。

「この菓子より美味しくないものはいくらでもあるが、美味しいものもたくさんあるんだ。それを探すのも、悪くないんじゃないか?」

少女は何も言わない。どこか遠くを見る少女の視線は、青年の知り得ない過去を想っているようであった。
青年もまた、それ以上何も言わず。集め終えた残骸を捨て、道具を片付ける。


「――一緒に行く約束、忘れないでよね」

微かな呟きに、青年は少女に視線を向ける。その目に浮かぶ感情は諦めにも似た色を宿し、青年は僅かに眉を寄せた。

「自分から言っておいて、忘れる訳がない」
「約束、だもんね」

少女は、微笑う。泣いているようにも見える笑顔に、青年は眉間に皺を刻んだ。
青年よりも永くを生きる少女は、おそらくすべてに諦念を抱いているのだ。諦めているから、期待を抱かない。
未来に何も望まず、ただ束の間の安らぎだったいくつかの過去を、硝子瓶に閉じ込め慰めにする。
過去だけを見続ける少女が、青年はどうしても許す事が出来なかった。

「そう、約束だ。もしもスイーツバイキングが気に入ったら、また一緒に行こう。他にも色々な所へ行って、好きなものを増やしていけばいい。あの硝子瓶に収まりきれないほどの思い出を、俺と一緒に積み重ねていこう」

少女の側に寄り、跪いてその手を取る。青年よりも小さく華奢な手には、もうあの硝子瓶はない。少女の過去を閉じた瓶は、偶然を装って青年が落として粉々に砕いてしまった。

「俺は、君と共にこれからを生きていきたい。過去を忘れろとは言わないが、過去に縋るのはもう止めて欲しい。今を生きる俺を、どうか見てくれ」

かつては青年と同じくただの人であったという少女が、何故悠久を抱いているのかを青年は知らない。知る必要もないと思っている。
だがもしも。もしも少女がこの先、一人に戻る事に怯えて青年に共に悠久を抱く事を望んだとしたら。
その手を取った後、取り留めのない話の一つとして尋ねればいいと、そう青年は思っている。

「ちゃんと見ているけど…本当に、馬鹿みたい」

青年から視線を逸らし、少女は小さく呟いた。不機嫌な表情をしながらも、その頬は朱に染まっている。
思わず笑みを溢す青年を、横目できつく睨み付け、少女は青年の手を強く握り返した。

「約束したからね!スイーツバイキングも、美味しいお菓子を求めて旅に出るのも。約束したんだから、必ず叶えてよ」
「分かってる。約束だ」

青年は頷き、手を握ったまま少女の小指に自らの小指をを絡める。
僅かでも今を見始めた少女に、青年は微笑みながらも、ごめん、と心の内で繰り返した。



20250403 『君と』

4/4/2025, 10:05:19 AM