sairo

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桜は貪欲だ。
だから気をつけるように、一人では近づかないようにと誰かが言っていた。不意に過る記憶に、眉を寄せる。
忠告など、大概は手遅れだ。今のこの現状が、雄弁にそれを語っている。
はぁ、と溜息を一つ。もし戻れたら貪欲の意味を辞書で調べ直そうと、目の前の彼、或いは彼女から目を逸らした。

「可愛いわ。でもこちらもきっと似合うわね」

薄桃色の振り袖を着た少女、らしき妖は、手にした反物をあてがいながら微笑む。
らしき、なのは、声が見た目に反してとても低いからだ。声だけで判断するならば、大人の男性。けれど見た目は可憐な少女。その違いに、混乱する。

「ねえ、あなたはどちらが…いえ、どちらもという選択肢があったのを忘れていたわ。折角の機会なのだから、似合うと思うものすべてを選びましょう」

貪欲とは何だっただろうか。確かに欲深くはありそうであるけれど。
痛み出した頭を抑えたくなるが、体は背後の桜の枝に絡めとられて満足に動かす事は出来ない。どこからか取り出した反物を次々とあてがわれているこの現状に、溜息を吐くしか出来ない。

「もう、溜息ばかり吐いていたら、幸せが逃げていってしまうわよ。こんなに可愛いのだから、しゃんと笑っていなさい」

気分を害したように頬を膨らませる。その姿はとても愛らしいけれど、やはり声は低い。
曖昧に笑って誤魔化して、散歩をしたくなって一人庭に出た自分の選択を密かに後悔した。


「何をやっているんだ」

呆れた声に、顔を上げる。ようやくやってきた救世主の登場に、視線だけで助けを求めれば、彼はやはり呆れた顔をしながらもこちらに近づいた。絡みつく枝を払い、抱き上げられる。

「一人で桜に近づくなと言っただろうに」
「覚えてなかったんだから、仕方ないでしょ」

文句を言いながらも彼にしがみつく。宥めるように頭を撫でられて、その心地良さに目を細めた。

「ちょっと。可愛い子を独り占めなんて酷いわ」
「十分だろう。お前の背後にある反物の山は何だ」

彼の言葉に、内心で深く同意する。
だが妖は、まだ満たされてはいなかったようだ。

「可愛い子には、可愛い格好をさせたいものでしょう。それの何かいけないのかしら」
「限度を考えろと言っている」
「嫌よ。あたし、今まで遠くから見ているだけだったのだもの。満足するまで付き合ってもらいたいわ」

腰に手を当てて怒る妖に、彼は嘆息する。気持ちはとても分かるけれども珍しい彼の態度に、思わず彼の横顔を凝視してしまった。
手を伸ばし、さっき彼がしてくれたように頭を撫でる。僅かに目を見開いてこちらを見る彼に、笑ってみせた。
幾分か疲れが滲んでしまった事には、目を瞑ってもらいたい。

「琥珀《こはく》」
「帰ろ、槐《えんじゅ》」
「そうだな」
「ちょっと!待ちなさいよ」

妖の引き止める声がしたとほぼ同時。風に舞った桜の花びらが壁のように周りを覆い引き止められる。

「帰さないわよ。ここで帰したら、もう逢わせてもらえないんでしょ!あたしだけ、いつも屋敷に入れてもらえないもの」

激しく怒る妖に視線を向けて、彼を見る。屋敷に入れてもらえないのは何だか仲間はずれのようで、少しだけ可哀想に思ってしまった。
けれど彼は冷めた目をして妖を一瞥して、当然だろう、と呟いた。

「お前に付き合って、面倒事に巻き込まれるつもりはない。それにこの子をお前が咲き誇るための糧にさせるわけにはいかないからな」

糧。つまりはこの桜の肥料になるという事だろうか。
彼にしがみつく腕の力が、少しだけ強くなる。

「それ、いつの話よ!あたしは可愛い子を着飾りたいだけなのにっ」
「人間だった頃のこの子を、幾度となく拐かそうとしたのは誰だろうな」
「だって可愛かったもの。それにあんただって、結局隠してしまったじゃない」

彼の眉間に皺が寄る。
話を変えなければ、と内心で焦る。記憶にはないが、私が人間から妖になった時の話は、彼だけでなく屋敷の皆の、してはいけない話だ。

「あ、あの、えっと…その反物、どうするの?」

あからさまな話題の逸らし方に、彼と妖の視線が突き刺さる。けれどその意図を汲んでくれたのだろう。妖は山となった反物を一瞥して、当然のように微笑んだ。

「もちろん、すべて仕立てるわよ。採寸は終わっているから、楽しみにしていてね」
「え。それって、誰が作るの?」
「あたしに決まってるでしょ」

思わず妖の顔を見つめる。

「なによ、その顔。桜が和裁をしてはいけないなんて、思わないでほしいわ」
「桜は貪欲だと言っただろう。興味のある事に対して、怖ろしい程にどこまでも拘るんだ」
「可愛い子を着飾るための努力を、惜しまないだけの事よ」

それは確かに貪欲ではあるのだろう。
想像していた意味と異なる、自信に満ちあふれた妖を見る。自分にはないものを持つ妖が眩しく見えて、目を細めた。
妖の事。桜の事。もっと知りたくて、下ろして欲しいと彼を見た。

「止めておけ。桜は貪欲で、雑食だ。着飾って満足したら、喰われるぞ」
「だからっ!いつの時代の話をしているのよ!」

憤慨する妖は、それでも否定はしない。それはつまり、そういう事なのだろう。

「帰ろう、槐」
「そうだな。戻るとするか」
「ちょっと!」

桜に背を向けて、彼は歩き出す。いつの間にか桜の壁は消えて、彼を邪魔するものはない。
抱き上げられたままの格好で妖を見れば、未だ不機嫌そうではあるものの、こちらに手を振ってくれた。
それに手を振り返し。

「何か、疲れた」

思い出したように疲れを感じて、彼にもたれ掛かる。

「屋敷に戻ったら少し休め。このまま寝てしまっても構わない」

優しい彼の言葉に、それならば、と目を閉じる。
優しく背を撫でる手に、笑みが浮かび。心の中だけで、大好き、と囁いた。



20250404 『桜』

4/5/2025, 10:06:33 AM