sairo

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眼下に広がる淵を見下ろす。
夜空の群青よりも尚昏く、底知れぬ深さを湛えた水面は波一つなく凪ぎ。青白い月を、無数の星々を写している。
膝をつき、水面を覗き込む。
月が近い。それこそ、手を伸ばせば届きそうな程に。

「――ぁ」

吹き抜ける風が水面を揺らし、月が歪んだ。そのまま掻き消えてしまいそうに見え、月を捕らえようと咄嗟に手を伸ばし。
だがそれは、水面から突き出た細い腕に掴まれ、叶う事はなかった。

「っ、驚かすな。落ちるだろうが」

思わず詰めた息を吐き出す。

「あのまま手を伸ばしていれば、結局は落ちていた。それを止めてやったのだから、感謝してもらいたいくらいだ」

静かな声が返り、水面から女の頭が現れる。声と同じく感情の乏しい表情で、しかし目だけは咎めるようにこちらを見上げていた。

「酔狂な事だ。水面に写る紛いものの空に向かい、手を伸ばすなど。数日もすれば、本物の空を飛ぶのだろう?」
「仕方がないだろう。俺は今まで、月に行くために動いてきたんだ。例え偽物だとしても、目の前で消えられたら、手くらいは伸びる」

掴まれたままの腕を振り解き、視線から逃れるように空を見上げた。
浮かぶ月はどこまでも遠い。女の言うように数日後にはあの月へと向かうのだと、理解はしているというのに実感は未だ薄い。
まだ迷いがあるのだ。月へ向かう事は、人ならざるモノの否定に繋がるのだから。

「今更、恐れているのか」

女の言葉に頭を振る。恐れはない。前へと進む選択に後悔はない。

「ならば、このような所で立ち止まっている場合ではないだろう。進み続けろ。お前は我らに頼らずとも、一人で望みを叶える事が出来るのだから」
「あんたこそ、怖くないのか。否定され、人から認識されなくなった妖は、消えるのだろう?」

妖である女を知るのは、他にはいない。己が女を否定すれば、女の存在は消えるだろうに。
それを正しく理解して、何故この女は穏やかでいられるのか。

「何を怖がる事があるんだ。我らは人間のために在る。それが人間にとって助けとなるか害となるのかは、望んだ者の認識次第であるがな…道具と同じだ。必要とされないのならば、在っても意味はない。それだけの事さ」
「そうか…なら、最後くらいはしっかりするか」

消えるだろう女にそこまで言われてしまえば、それ以上何も言えはしない。
立ち上がり、女を見下ろす。未練がましい言葉は呑み込んで、女の目を見据え徐に口を開いた。

「俺は月へ行く。月には何もいないのだと、否定するために。兄は妖に連れていかれてなどいないと、断定するために」

女は何も言わない。薄く笑みを湛え、己の別れの言葉を待っている。

「だから、あんたともこれまでだ。俺はここに来ない。あんたとの記憶は、ただの夢だった…あんたは、現実には存在しない。忘れていくだけの、優しい夢だ」
「それでいい」

満たされたような声音。頷く女に背を向けて、歩き出す。
これから先、二度とここを訪れる事はないだろう。来た所で、妖である女に会う事は叶わないのだから。
一人きりで途方に暮れる己の手を引いて、道を指し示し寄り添い続けてくれた愛おしい女。その存在を消して、己はその罪すら忘れ生きていくのだ。
何度も立ち止まりかける足を、必死の思いで動かし続ける。
空に向かい、手を伸ばす。見上げる月は、未だ遠く。だがすぐに捕らえる事が出来るだろう。
月には何もいない。月にいる妖など存在しない。それを認識出来たのならば、月に囚われた兄の魂は安らかに眠る事が出来るはずだ。
それだけが、己にとって唯一の救いだった。





男が見えなくなり、妖はほぅ、と吐息を溢した。
憎む事でしか己を保てなかった少年の成長を見届けて、静かに水底に沈んでいく。

「お前の成長を、嬉しく思うよ」

心からそう思う。その結果が妖の存在をなくすのだとして、それは些事でしかない。
悔いはない。月に兄が連れて行かれたと、昏い瞳をして泣いていた幼い頃の男に道を示したのは妖であったのだから。

――己の眼で見据え、そして否定しろ。

それが果てしなく困難な道のりである事を、妖は知っていた。だが男は努力を重ね、己の力だけで月に行く事を叶えてしまったのだ。
水面越しに遠くなる空を見ながら、かつての少年を思う。
小さくか弱い少年だった。妖に、親に、己自身に、怒りや憎しみを抱いた哀しい子供であった。
消えるのをただ待っていただけの妖が、今一度だけ、と望みに応えようと思うほどに、愛おしい人間だった。

「進む先の幸いを。どうかお前の旅路の果てが、光に満ちている事を…月よ。お前の狂気を抱いた慈悲は、あの子によって否定される。終わる時が来たのだ」

歪む月を見て笑う。
手招く事で終を与える必要はなくなったのだ。永きに渡りその在り方を保ち続けた月に住まう妖も、ようやく終わる事が出来るのだろう。
月に向かい、手を伸ばす。水に溶けるように端から消えていくその様を見ながら、一つの名を唇が形作る。
微笑みを湛え、妖は静かに眼を閉じて。

男を愛し、男に愛された妖の存在は、欠片も残さず消えていく。



20250402 『空に向かって』

4/3/2025, 10:40:10 AM