ひらりと舞う薄紅色の花びらが、目の前を過ぎていく。
「桜…もう春かぁ」
視界を淡く遮る桜吹雪。遠ざかる花びらを見遣りながら、遠い日の思い出を手繰り寄せて目を伏せた。
忘れる事の出来ない幼い頃の、一時の出会い。梅雨の時期、雨に濡れながら昔住んでいた家の裏にある小さな淵に佇む一人の少女。
あの子は今も元気だろうか。戯れに交わした約束を、まだ覚えてくれているだろうか。
溜息を吐く。あれから季節は止まる事なく巡り続けて、もう少しすればまた梅雨がやってくる。
――また来年。今度は一緒にあじさいを見に行こう。
あの子は来ない。哀しげに雨に濡れていたあの子は、きっと約束の内容も、約束をした事さえも忘れているのかもしれない。
「もう泣いてないといいなぁ」
呟いて、降り注ぐいくつもの花びらから逃れるように足を進めていく。行く当てなどはなかったけれど、昔を思い出してしまったせいか、自然と足はあの懐かしい淵へと向かっていた。
「やっぱり、いる訳ないか」
苦笑して、辺りを見渡した。
あの時から随分と月日が流れてしまったせいだろう。淵は記憶のそれよりも、大分様変わりをしていた。
僅かに面影を残す、淵の近くに寄って水面を覗き込む。底まで見通せる澄んだ水は、昔から変わらない。それがどこか嬉しくて、そっと水の中に手を差し入れた。
「――どうして」
不意に声が聞こえた。手を引き顔を上げ辺りを見渡すが、誰の姿も認められない。
気のせいだっただろうか。首を傾げて、水面に視線を落とした。
「え?」
水の中。静かにこちらを見つめるなにかと目が合った。
うなぎ、だろうか。大きな姿に、思わず動きを止めて、無言で見つめ合う。
「どうして」
声が聞こえた。水の中から。困惑したような、泣くのを耐えているような、寂しい、哀しい声音だった。
動けないでいれば、大きなうなぎは静かに水面から顔を出す。頭を出し、体を出して、それは段々に人の姿を取っていく。
「え、まさか」
見覚えのある姿に、息を呑む。淵から上がった、記憶のままの姿の彼女が、呆然とする自分を見下ろしどうして、と繰り返した。
膝をつき、頬に触れられる。僅かに見開かれた彼女の眼から、一筋涙が零れ落ちた。
「約束。守ってくれていたのね」
後悔を乗せた呟き。何を返したらいいのか思いつかず、小さく頷いた。
手を伸ばし、彼女の頬を濡らす涙を拭う。びくり、と肩を震わせて、さらに涙を流す彼女に慌てて手を離せば、その手を取られ縋るように指を絡められた。
「ごめんなさい。あなたもきっと約束を破るのだと、勝手に決めつけていたの」
「約束だもん。破らないよ」
「そうね。ごめんなさい…ずっと気づいてあげられないくて、一人にさせてごめんなさい」
気にしないで、と答えても、彼女の涙は止まらない。出会ったあの日に、泣いていた彼女はどうしたら泣き止んでくれただろうか。思い返して、それが約束をしたからだと思い出し、目を伏せた。
もう約束は出来ない。
約束をしたその年の秋。嵐の夜に、氾濫した川に家ごと流されて、未来を約束する事が出来なくなってしまったから。
「私のせいね。約束をしたから、あなたは眠る事が出来なかった」
「違うよ。あたしが約束を守りたいって思ってただけだよ」
首を振る。彼女のせいではない。約束を守りたいのは自分のためだ。彼女とまた会いたいと願っていたからだ。
だから気にしないでと、彼女の手を握り、祈るように囁いた。
「会いたかったの。最後にもう一度だけ、会ってさよならが言いたかったの」
「私も…会いたかった。もう一度、約束を信じたいと思ったから」
「おんなじだ…おんなじだから、もうごめんなさいはやめにしようよ。あじさいはさ、まだ早くて見られないけど、代わりに」
彼女を見つめ微笑んで。そうして空を、風に舞う桜の花びらに視線を向ける。同じように視線を向けた彼女が花びらを見つめ、綺麗、と小さく呟いた。
「うん。綺麗だ。約束した内容はちょっと違うけど、こうして一緒に桜を見られてよかった…もう一度会う事が出来て、本当によかった」
「そう、ね。私も一緒に桜が見れてよかったわ。もう一度、信じてよかった」
彼女の横顔を見る。その頬はもう涙で濡れてはいない。
よかったと、安堵の息を吐いて、繋いでいた彼女の手を解いて立ち上がる。
そろそろ行かなければ。約束が果たされた今、ここに留まる意味はなくなってしまったのだから。
「もう、行かないと」
風が吹き抜ける。花びらが舞い、その美しさに目を細めた。
「私も一緒に行くわ」
桜に魅入っていれば彼女も立ち上がり、離した手を再び繋がれる。困惑して彼女を見れば、優しく微笑んで大丈夫、と囁いた。
「私の物語は、もうとっくの昔に終わっているのよ。ここにいる私は、その記憶のひとひら。約束を破られた哀しさと、約束のために一人の人間を殺してしまった後悔で留まっていたの」
「約束?」
「そう。だからあなたが来てくれて、新しく約束をしてくれたのが嬉しくて、とっても怖かったのよ」
でももう大丈夫、と彼女は桜を見つめる。ようやく果たされた約束に、そうだねと返して、同じように桜を見つめた。
「どこまで一緒に行けるかは分からないけれど。噂では、人間と一緒に眠る事の出来た妖もいるみたいだしね」
くすり、と笑う彼女を見る。視線に気づいて彼女もまたこちらを見つめ、だからね、とどこか弾んだ声音で囁いた。
「あなたが望んでくれるのならば、私も一緒に眠らせて。それが叶わないならば、せめて新しい約束をちょうだい」
首を傾げて、少しだけ悩む振りをする。彼女の眼に僅かに不安が浮かんだのを見て、悪戯に笑って繋いだ手を大きく振って歩き出した。
「じゃあ、どっちも!どうなるか分からないけど、一緒に寝て起きたら、新しい約束をしようよ」
驚く彼女を横目に、手を引いて歩いて行く。地面を染める桜の花びらで出来た道を、二人辿っていく。
花びらが風に舞い。繋いだ手の隙間にひとひらが入り込む。
一時の終と、その先の始まりを祝福するように。
新しい約束が交わされるのを見届けるように。
20250413 『ひとひら』
4/13/2025, 1:20:03 PM