sairo

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屋敷の奥。滅多に人の立ち入る事のないそこには、隠されるようにして小さな部屋がある。
中には少女が一人。四方から無数に伸びる縄に繋がれて、ただそこに在った。
少女はこの屋敷の記録のすべてだった。家系図や日々の記憶から、屋敷にある様々な書物まで。彼女は記録し、伝えるためだけに作られ、この部屋に留められていた。
ほぅ、と吐息を溢す。手にした古ぼけた書物を一撫でし、孤独の慰めにかつて共に過ごした幼い少年との過去に、思いを巡らせた。
表紙を捲る。辿々しい字で、成すべき事、と書かれた頁を見つめ、目を細めた。
立派な僧になるのだと言っていた少年が書いた、その道筋を記した書物。日々の務めから修行まで、事細かく書かれている。読まずとも記録している少女は、それでも何度も読み直し、書物はすっかり草臥れていた。

――あの少年は、この未来を辿れたのだろうか。

真面目で、優しい少年だった。繋がれた少女を憐み、己の無力さに嘆く、そんな繊細な心の持ち主であった。


少女が過去に思いを馳せていれば、ふと外が騒がしい事に気づいた。
書物を閉じ、扉に視線を向ける。少女には開けられぬ扉の向こう側。
悲鳴が聞こえた。誰かが争い、怯え、叫んでいる。何かが壊れる音、ばきり、と木の割れる音が、次第に大きくなっていく。
近づいているのだ。周囲を破壊する何かが、少女のいるこの部屋へと訪れようとしている。
懐に書物をしまい込む。怯えなど欠片も見せず、少女は真っ直ぐに扉を見つめ、来訪者を待った。
めき、と。扉が軋み、割れていく。めきり、ばき、と大きな音を立てて、少女と外界を隔てていた重厚な扉は、いとも簡単に開かれた。

「邪魔するぜ」

扉の向こう。袈裟と法衣を纏った大柄な男が、身を屈めながら部屋へと入り込む。
知らない男だ。だがどこか懐かしい雰囲気を感じ、少女は僅かに眉を寄せた。

「何をお求めでしょうか」

己の記録を求めて来たのではない事は承知した上で、少女はあえて言葉をかける。不快に眉を顰めた男は、だがすぐに表情を取り繕い嗤ってみせた。

「冷てぇな。記録のくせに、忘れちまったってか?」

一緒に過ごした仲だろう?
にたり、と唇の端を歪めて男は嗤う。その怖ろしい笑みに見覚えなど、やはり少女にはない。
男の細まる眼を、少女は逸らす事なく見据えた。見覚えはなくとも、懐かしむ感情を見定めるように。それを知ってか、男は大股で少女の元へと近づき、その頬に触れた。

「あぁ。妖に成っちまったから、見分けがつかんのか。でも分かるだろう?」

近くなった男の憎悪に濡れた目の奥。懐かしい光に気づき、少女は微かに肩を震わせた。
知っている。その光は忘れる事の出来ない、優しい少年の――。
その些細な反応で、男には分かったらしい。さらに唇を歪め、眼には激しい怒りを湛えて囁いた。

「ここにはもう何もない。あんたで最後だ」

頬に触れていた手が下がり、少女の細い首を掴む。
屋敷には、生きている人間はいないという意味なのだろう。男に何があったのか、少女は何一つ分からない。理解できるのは、かつての優しさを憎悪と憤怒に変えてしまうほどの何かが男にあったという事だけだ。その強い感情で妖に成ってしまうほどの何かが。

「何をお求めでしょうか」

問いを繰り返す。同じ言葉でありながら、今度は男の真意を探るような声音に、男の手に僅かに力が込められて。
だが男はすぐに手を離すと、側に垂れる少女を繋ぐ縄を掴み引き千切った。

「俺を裏切った奴らを、俺は決して許さない。復讐のため、この屋敷のすべてを壊しに来た…だがあんたは壊さない。代わりに連れて行こう」

男の影が揺らめく。影はいくつもの鼠に似た獣の姿をとって、少女を繋ぎ止める縄に齧り付いた。
簡単に千切れていく縄に、少女は目を瞬く。
強固な封だったはずだ。屋敷の代々の当主が少女を屋敷に留め置くために繰り返し施してきた、誰にも解く事の叶わぬ枷であるはずだった。
それが喰い漁られ、千切れていく。影の鼠によって、形も残らずに壊されていく。


「さて、そろそろ終いだ。かつて夢見た未来は、裏切りの言葉一つで潰えた訳だが…まぁ、いいか。最終的に未来のその先の願いは、叶ったのだから」

縄がすべて残らず千切られ、少女の体が傾いでいく。それを受け止め抱き上げると、男は外へと歩き出した。

静かだ。誰かの声も、何かの音も聞こえない。
何もかもを壊し、男の怒りは、憎悪は収まったのだろうか。

「――満たされましたか」

ふと気になり、少女は尋ねた。
それに男は声を上げて嗤い、少女を強く抱きしめた。

「さぁな。怒りは幾分和らいだが、その分酷く飢えている。空腹で死にそうなほどだ」

男は嗤う。嗤いながら泣き、憎悪と悲嘆と、ほんの僅かな希望を混ぜた眼をして、男は告げる。

「あんたは、俺の最後の未来だ……ようやく、連れ出せた」

その言葉に、少女は初めて淡く微笑んだ。





少女のいなくなった部屋。
繋がれていたその場所に、一冊の古びた書物が落ちていた。
おそらく少女が落としてしまったのだろう。開いた扉から吹き込む風に、ぱらぱらと頁が捲られていく。
その最後。大僧正になる、と殊更丁寧に書かれた頁の裏に、小さく書かれた一言。

――彼女を外へと連れ出す。


風が吹き抜ける。
書物が閉じられ、残っていた影の鼠が群がり。
かつての少年の未来を書いた書物は、形を残さず喰い荒らされていく。



20250414 『未来図』

4/14/2025, 1:47:13 PM