ひらりと舞う薄紅色の花びらが、目の前を過ぎていく。
「桜…もう春かぁ」
視界を淡く遮る桜吹雪。遠ざかる花びらを見遣りながら、遠い日の思い出を手繰り寄せて目を伏せた。
忘れる事の出来ない幼い頃の、一時の出会い。梅雨の時期、雨に濡れながら昔住んでいた家の裏にある小さな淵に佇む一人の少女。
あの子は今も元気だろうか。戯れに交わした約束を、まだ覚えてくれているだろうか。
溜息を吐く。あれから季節は止まる事なく巡り続けて、もう少しすればまた梅雨がやってくる。
――また来年。今度は一緒にあじさいを見に行こう。
あの子は来ない。哀しげに雨に濡れていたあの子は、きっと約束の内容も、約束をした事さえも忘れているのかもしれない。
「もう泣いてないといいなぁ」
呟いて、降り注ぐいくつもの花びらから逃れるように足を進めていく。行く当てなどはなかったけれど、昔を思い出してしまったせいか、自然と足はあの懐かしい淵へと向かっていた。
「やっぱり、いる訳ないか」
苦笑して、辺りを見渡した。
あの時から随分と月日が流れてしまったせいだろう。淵は記憶のそれよりも、大分様変わりをしていた。
僅かに面影を残す、淵の近くに寄って水面を覗き込む。底まで見通せる澄んだ水は、昔から変わらない。それがどこか嬉しくて、そっと水の中に手を差し入れた。
「――どうして」
不意に声が聞こえた。手を引き顔を上げ辺りを見渡すが、誰の姿も認められない。
気のせいだっただろうか。首を傾げて、水面に視線を落とした。
「え?」
水の中。静かにこちらを見つめるなにかと目が合った。
うなぎ、だろうか。大きな姿に、思わず動きを止めて、無言で見つめ合う。
「どうして」
声が聞こえた。水の中から。困惑したような、泣くのを耐えているような、寂しい、哀しい声音だった。
動けないでいれば、大きなうなぎは静かに水面から顔を出す。頭を出し、体を出して、それは段々に人の姿を取っていく。
「え、まさか」
見覚えのある姿に、息を呑む。淵から上がった、記憶のままの姿の彼女が、呆然とする自分を見下ろしどうして、と繰り返した。
膝をつき、頬に触れられる。僅かに見開かれた彼女の眼から、一筋涙が零れ落ちた。
「約束。守ってくれていたのね」
後悔を乗せた呟き。何を返したらいいのか思いつかず、小さく頷いた。
手を伸ばし、彼女の頬を濡らす涙を拭う。びくり、と肩を震わせて、さらに涙を流す彼女に慌てて手を離せば、その手を取られ縋るように指を絡められた。
「ごめんなさい。あなたもきっと約束を破るのだと、勝手に決めつけていたの」
「約束だもん。破らないよ」
「そうね。ごめんなさい…ずっと気づいてあげられないくて、一人にさせてごめんなさい」
気にしないで、と答えても、彼女の涙は止まらない。出会ったあの日に、泣いていた彼女はどうしたら泣き止んでくれただろうか。思い返して、それが約束をしたからだと思い出し、目を伏せた。
もう約束は出来ない。
約束をしたその年の秋。嵐の夜に、氾濫した川に家ごと流されて、未来を約束する事が出来なくなってしまったから。
「私のせいね。約束をしたから、あなたは眠る事が出来なかった」
「違うよ。あたしが約束を守りたいって思ってただけだよ」
首を振る。彼女のせいではない。約束を守りたいのは自分のためだ。彼女とまた会いたいと願っていたからだ。
だから気にしないでと、彼女の手を握り、祈るように囁いた。
「会いたかったの。最後にもう一度だけ、会ってさよならが言いたかったの」
「私も…会いたかった。もう一度、約束を信じたいと思ったから」
「おんなじだ…おんなじだから、もうごめんなさいはやめにしようよ。あじさいはさ、まだ早くて見られないけど、代わりに」
彼女を見つめ微笑んで。そうして空を、風に舞う桜の花びらに視線を向ける。同じように視線を向けた彼女が花びらを見つめ、綺麗、と小さく呟いた。
「うん。綺麗だ。約束した内容はちょっと違うけど、こうして一緒に桜を見られてよかった…もう一度会う事が出来て、本当によかった」
「そう、ね。私も一緒に桜が見れてよかったわ。もう一度、信じてよかった」
彼女の横顔を見る。その頬はもう涙で濡れてはいない。
よかったと、安堵の息を吐いて、繋いでいた彼女の手を解いて立ち上がる。
そろそろ行かなければ。約束が果たされた今、ここに留まる意味はなくなってしまったのだから。
「もう、行かないと」
風が吹き抜ける。花びらが舞い、その美しさに目を細めた。
「私も一緒に行くわ」
桜に魅入っていれば彼女も立ち上がり、離した手を再び繋がれる。困惑して彼女を見れば、優しく微笑んで大丈夫、と囁いた。
「私の物語は、もうとっくの昔に終わっているのよ。ここにいる私は、その記憶のひとひら。約束を破られた哀しさと、約束のために一人の人間を殺してしまった後悔で留まっていたの」
「約束?」
「そう。だからあなたが来てくれて、新しく約束をしてくれたのが嬉しくて、とっても怖かったのよ」
でももう大丈夫、と彼女は桜を見つめる。ようやく果たされた約束に、そうだねと返して、同じように桜を見つめた。
「どこまで一緒に行けるかは分からないけれど。噂では、人間と一緒に眠る事の出来た妖もいるみたいだしね」
くすり、と笑う彼女を見る。視線に気づいて彼女もまたこちらを見つめ、だからね、とどこか弾んだ声音で囁いた。
「あなたが望んでくれるのならば、私も一緒に眠らせて。それが叶わないならば、せめて新しい約束をちょうだい」
首を傾げて、少しだけ悩む振りをする。彼女の眼に僅かに不安が浮かんだのを見て、悪戯に笑って繋いだ手を大きく振って歩き出した。
「じゃあ、どっちも!どうなるか分からないけど、一緒に寝て起きたら、新しい約束をしようよ」
驚く彼女を横目に、手を引いて歩いて行く。地面を染める桜の花びらで出来た道を、二人辿っていく。
花びらが風に舞い。繋いだ手の隙間にひとひらが入り込む。
一時の終と、その先の始まりを祝福するように。
新しい約束が交わされるのを見届けるように。
20250413 『ひとひら』
美術室に飾られた一枚の絵。
夕暮れの草原を描いたその風景画には、ある噂があった。
――絵を描く誰かがいる。
何人もの生徒が見たと証言している。
絵を描く誰か。時にはスケッチブックを手に、ある時にはキャンバスに向かい、無心に絵を描いているのだという。
不思議と怖いという話は聞かない。この絵が飾られているのが美術室だというのもあるだろうか。無心で絵を描く姿を羨ましい、と口にする生徒ばかりだった。
絵に向かい、誰かが現れるのを待つ。
噂では、この絵のような鮮やかな夕暮れ時に現れるらしい。ちらりと横目で見た空は、鮮やかな朱に染まっている。ここからでは見えないが、夕陽もまた燃えるような朱や金を湛えて、沈んでいっているのだろう。
不意に、何か音がした。視線を絵に戻しても、誰かが現れた形跡はない。ただ朱に染まった草原を、風が駆け抜けているだけだ。
「――なん、だ?」
違和感に目を瞬く。食い入るように絵を見つめ、その違和感に気づいた。
草が揺れている。風が駆け抜ける度に草原が揺れ、ざああ、と音を立てていた。
よく見れば、夕陽も揺らめいて。少しずつ静かに沈んでいるようだ。
思わず手を伸ばす。草原を揺らす風が手をすり抜けて。
――気がつけば、夕暮れ時の草原に一人、立ち尽くしていた。
辺りを見渡す。どこまでも続く草原に、ただ一人を求めた。
「――いたっ!」
遠く、小さな影が、座り込んで絵を描いている。スケッチブックを手に無心に描くその姿に、酷く胸騒ぎがした。
「秋緋《あきひ》」
駆け寄り、声をかける。だが僅かにも反応の得られない事に、さらに声を張り上げた。
「秋緋!いつまでもこんな所にいないで、帰るぞ。叔母さん達や、夏樹だって心配してるんだ」
やはり、反応はない。止まらない手に焦れて、怖れて、無理矢理にでも止めようと手を伸ばす。
だがその手は彼女に届く前に、横から伸びた誰かの手に掴まれ、絵を描く事を止められはしなかった。
「止めてくれる?邪魔をしないで」
静かな声に、ぞくり、と悪寒が背筋を駆け上がる。手を振りほどき、視線を向けて息を呑んだ。
「この子の幸せを、あんたは何度否定するつもりなの?」
咎める視線。強く怒りの滲む目をした彼は、数年前の自分だった。
「誰、なんだ…お前」
「誰って、俺はあんただよ。巡流《めぐる》。秋緋の幼なじみだ」
「どういう…?」
彼の言わんとしている事が理解できず、眉を潜める。睨み付ける視線の先で、肩を竦めて彼は嗤った。
嘲り、憐み。昏い感情を宿した眼が、緩やかに細められる。彼に守られるような立ち位置で、彼女はこちらを気にかける事もなく、絵を描き続けている。
異様な光景に、だがそれさえも美しいと感じ入ってしまえる構図に、くらり、と世界が歪んだ気がした。
「あんたはもういらない。この子に必要なのは、この子が今まで描いてきた俺達だけになった…もう、痛みでしかないあんたへの感情も、窓の下の倒れ伏す二人の姿も、この子の中に欠片も残ってない。あるのは初めて俺を描いた時の、あの純粋な輝きだけだ」
「間違っている。そんな事…それは秋緋の未来を否定するだけの、お前の自己満足だろう!」
「自己満足、ねぇ」
冷たい眼に見据えられる。彼女を解放しろと、続けるはずの言葉は、憎悪にも似たその眼差しに、形をなくして解けていく。
「あんたのそれこそ自己満足じゃないの?惚れた女に頼まれたからって、この子をこれ以上壊していい理由にはならないよ。あんたは最後まで気づこうとすらしなかったけど、この子は夏樹よりもよっぽど繊細で臆病なんだ」
そんな事はない。そうは思えど断言が出来ない自分がいる。
記憶の中の彼女は、いつでも笑っていた。昔彼女の告白を断った時でさえ、彼女は変わらず笑っていて。その後も変わらないように、少なくとも自分にはそう見えていた。
だがそれは彼女の一部分、それも取り繕った部分なのだとしたら。見えていない部分で、苦しみ悲しんで一人泣いていたのだとしたら。
彼女のいないアトリエに残された、あの紅く染められた夕焼け達が、その答えを示しているのだろうか。
かたん、と鉛筆を置く小さな音に、知らず俯いていた顔を上げる。彼女は変わらず振り返らない。描き終わっただろう絵をスケッチブックから切り離して、こちらを見ずに彼に手渡した。
絵を見た彼が、くすりと笑う。
「帰れってさ。これがこの子の答えだよ」
絵をこちらに向けて差し出される。本物と変わらない白黒の美術室に、ああ、と声が漏れた。
彼が絵を手放す。緩やかな軌跡を描いて地に落ちていく絵を反射的に受け止めて。
――気づけば、元の美術室で絵を見上げていた。
「秋緋、いた?」
か細い声に、振り返る。車椅子に乗った彼女の姉が、不安と期待に揺れる眼をして自分の答えを待っていた。
何も言わず、緩く首を振る。今見てきた事を、伝えられなど出来はしない。
「秋緋」
目を伏せて、両の手を握り締める。泣くのを耐えるかのような仕草に、杖をつき片足を引き摺りながら近づき寄り添った。
――秋緋が行方不明になった。
長い昏睡状態から目覚め、退院した自分を待っていたのは、密かに恋した女性から告げられた残酷な事実だった。
車椅子に乗り、只管に自身を責める彼女。ごめんなさいと、すべてに謝り続ける姿に、何一つ言葉をかける事が出来なかった。
夏の字を抱く彼女は、その実とても繊細だ。あの焼ける日差しよりも、柔らかく移ろっていく秋がよく似合う。
だからだろうか。彼女が自分以外の男と恋仲になり、事故で恋人を喪って壊れてしまったのは必然なのかもしれない。
あの日の事は今も鮮明に覚えている。窓辺に立ち、空を見上げる彼女。風に揺れるカーテン。飛ぶ鳥を追いかけるように、彼女は手を伸ばし。そしてそのまま――。
咄嗟に体が動いていた。落ちて行く彼女を抱き留めて、そこで意識は暗転した。
一年の空白の後、目を覚ました。二人とも命が助かったのは奇跡だと、周りから言われていた。
処置が速かったのだと。すぐに救急に連絡し、治療を行えたから命を救えた。彼女と違い、自分が目覚める可能性は低かったが、奇跡は続いたと喜ぶ周りとは異なり、彼女だけは俯いていた。
秋緋が消えた。自分の目覚めの代償のように、数日前にいなくなってしまった。
それがきっと、答えだった。
「秋緋の絵は、他にもある」
彼女の両手を包み、伝える。それが最早意味のない事だと知りながら、今の彼女に希望を失わせる訳にはいかなかった。
丁度準備室から出てきた、美術部の顧問に礼を言い外に出る。
夕焼けの朱に染められた廊下を車椅子を押し、杖をつき歩きながら思う。
彼女はいつ真実に気づくのか。その時に、自分は今度こそ支える事が出来るのだろうか。
窓の外を見る。朱い夕陽が、静かに辺りを染めている。
秋緋の愛した夕陽。そこに取り残されて、現実をすべて忘れて秋緋は絵を描き続けるのだろう。
それこそ永遠に。
秋緋を愛する絵に囲われて。
20250412 『風景』
静かな夜。
こっそりと家を抜け出し、暗い道を一人歩く。
辺りを見回す。夜の暗がりに母の物語に出てくるような、不思議な誰かがいないかと、耳を澄ませ目を凝らした。
静かだ。風が木を揺する事もなく、虫の鳴き声も聞こえない。少しばかり気落ちしながらも、諦めきれずに山の入口まで歩く。
きっといるはずなのだ。母が語る不思議な誰かは。
煙管をふかす、気怠げな緋色の妖も。背に大きな翼を持つ妖も。しゃべる狐や狸、猫も。どこかにいるはずだ。
出会えたならば、何を話そう。一緒に遊んでくれるだろうか。友達になってくれるだろうか。そんな、ふわふわした、浮ついた気持ちでいたからか。道の段差に気づくのが遅れてしまった。
「いっ…たぃ」
鈍い痛みに、込み上げてくる涙を必死に堪える。乱暴に目を擦って、体を起こした。
膝と、手と。ひりひりとする痛みが、擦りむき怪我をしてしまったと伝えている。痛みが夜の暗さをより怖ろしいものにしているようで、足が震えて立ち上がる事すら出来ない。
まるで別の世界に迷い込んでしまったみたいだ。一人ぼっちの心細さに、気を抜けばすぐにでも泣いてしまいそうだ。歯を食いしばり、俯かないように道の先を睨み付ける。一度俯いてしまえば、二度と立ち上がれないような気がして、それが何より怖かった。
「――あれ?」
睨み付ける道の先。ぼんやりと浮かび上がる丸い灯りが見えて、目を瞬く。火ではない。かといって、電気でもおなさそうな温かみのある灯りは、ゆっくりとこちらに近づいてきているみたいだった。
「何だろう、あれ」
近づいてはっきりと見えてきても、よく分からない灯り。どうやらランタンのようなものに似ているが、今まで見た事はなかった。
灯りを持つ誰かの姿も見えてくる。灯りを手に歩いてくる誰かは、自分よりは年上の子供のように見えた。
顔が赤い。まるで鬼灯の実のような赤さに、もしかして、と期待が膨らんでくる。
「何、してるんですかねぃ。こんな夜遅くにお子が一人でいるなんぞ、悪い誰かに攫われても文句は言えやせんよ」
呆れた声が、けれども優しく問いかける。
「かあさんの、おはなしのみんなに会いたかった」
それに小さく答えれば、やはり呆れたように溜息を吐かれた。
「そうですかい。けどももう夜も遅い。探索ごっこはおしまいにして、今日はおとなしくお家に帰りやしょうね…さあ、その前に、手足の傷の手当てをいたしやしょう」
仕方がない、と笑われて。膝をついて、手を差し伸べられた。
「それは、なに」
手を繋いだ帰り道。彼の手にある灯りに視線を向ける。
「これですかい?これは提灯、というんでさぁ」
「ちょうちん」
口の中で転がすように呟いて、自分よりも背の高いその顔を見上げ、期待を込めて口を開いた。
「じゃあ。にいさんは、あやかし?」
その問いに、けれど彼は何も答えず。小さく笑うだけだった。
むっとして、睨みつける。はい、とも、いいえ、とも取れるその反応に、繋いだ手を強く握る。
「そうなの?ちがうの?」
「どっちでしょうかねぃ。大きくなって覚えていたら、分かるかもしれやせん」
「いじわる」
ふい、と視線を逸らし、前を見る。一人で辿った時とは違う、ぼんやりと明るいいつもの道が、彼がどちらかなのかをさらに分からなくさせている気がした。
「さ。着きやしたよ」
気づけば家の前。繋いでいた手を離されて、そっと背を押される。
未練がましく見上げても、彼は笑って何も言わない。さらに背を押されて、おとなしく門扉を潜り抜けた。
「おやすみなさい。良い夢を」
優しく囁いて、元来た道を戻っていく。
その丸い灯りを見送りながら、はあ、と深く息を吐いた。
彼は言った。大人になっても覚えていたら、妖なのかそうでないのかが分かると。忘れるだろうと思っている口ぶりで。
ならば、覚えていようではないか。手を握り締めて、一人決意する。
このまま何もしなければ、彼の思うように少しずつ忘れて、大人になる前に欠片も覚えていないだろう。だけど覚えていられる方法を、一つ知っていた。
父のように、母の語る物語を文字で書き出してしまえばいい。
「ぜったい、おぼえててやる。ぜったいに」
大きく頷いて、静かに家に入る。
教えてもらえなかった怒りも込めて、この夜を書き留めてしまおう。
そう心に決めて、急いでベッドに潜り込んだ。
「先生。こことあといくつか、字が間違ってやす。それからこの台詞は、この流れでは不自然でさぁ」
「――そうか」
校正を終えた子供から手渡された原稿を確認しつつ、男は密かに息を吐いた。
いつの間にか担当よりも口うるさくなってしまった子供は、今度は部屋の整理をし始め忙しく動き回っている。出会った当初は想像もしなかったお互いの変化に、男は困惑するばかりだ。
「先生。手が止まっていやすよ。締切は待っちゃあくれないですからね」
「分かっている」
窘められて、男は肩を竦めて筆をとる。
この現状は己の認識の結果かもしれないと、僅かばかりの後悔を抱えながら、男は仕事に専念する事にした。
妖とは、人の認識で在り方を変える。
子供が男に教えた事だ。一つ目の妖が、いつしか豆腐を手に佇むようになり。そしてその豆腐を人に食わせ害を与えるようになって。一方で、事八日に帳面を手に家々を周って家の落ち度を記し、家々の運勢を決めるようにもなり。
すべて人の認識、想像の結果だ。怖れ、望むままに在る妖を、子供が語るその一部分を男は書き記してきた。かつて男の父が母の物語を記してきたように。
ほぅ、と息を吐き、筆を置く。気づけば子供の姿はない。おそらく茶の用意でもしに行ったのだろう。
引き出しを開け、男はその奥に仕舞い込んだ一冊のノートを取り出した。古ぼけ草臥れたそれは、男の始まりだった。
母の物語に憧れ、抜け出した夜の刹那の出会い。父に教えを請いながら書き留めた、一番初めの物語。ノートを開かずとも、その一番初めの頁に書かれた言葉は忘れる事はない。
――君と僕。出会えたこの奇跡を忘れないために、僕は君を物語に閉じ込める。
表紙を撫でながら、男は微笑む。あの夜に出会った彼がこうして共にいる子供なのか、男には分からない。男が書いた物語に応えた、まったく別の妖なのかもしれない。
それでも、今の男と子供の関係は、この先も続いていくのだろう。
「おや、お仕事は終わったんですかい。先生」
盆を手に戻ってきた子供が、男に声をかける。それにああ、と短く答え、男は再び引き出しの奥にノートを仕舞い込んだ。
「終わったのでしたら、休憩にいたしやしょう。どうぞ、先生。熱いので気をつけてくだせぇ」
「分かっている。子供ではない」
顔を顰めながら置かれた湯飲みを手に取り、心配する子供の言葉を一蹴する。そんな男に、子供は笑いながら首を振り、子供ですよ、と囁いた。
「手前にとっては、いくつになっても先生は子供でさぁ。危険を顧みず、興味のある事に向かって進んでいく。眼を輝かせてまだ知らない世界へと飛び込むような、そんな小さなお子ですよ」
楽しげに語る子供から、男はさりげなく目を逸らす。
湯飲みに口を付け、その熱さに眉を寄せた。
20250411 『君と僕』
降り注ぐ日差しを浴びながら、一人きり。
誰かを待っている。そんな気がする。だからこの場を離れる訳にはいかない。
暑い。容赦ない太陽を睨み付け、ぐるりと辺りを見渡した。
すぐ近く。大きな木が立っている事に気づいて、早足で向かう。暑さい事には変わりがないが、ただ日に焼かれているよりは、木陰にいる方がよっぽどいい。
日差しが遮られ、幾分か和らいだ暑さにほっとする。このまま座ってしまおうか迷っていると、視線の先、体育館の裏手から、二人誰かが出てくるのが見えた。
ああ、ようやく来たのか。ぼんやりと二人を見ながら考える。幸せそうな笑顔。腕を組み歩く、その距離の近さ。
どうやら告白は成功したらしい。
こちらに気づいて、彼女が手を振る。腕を組んだまま近づく二人を見て、密かに眉を寄せた。
駄目だ。この先は続かない。
可哀想だが仕方がない。それに傷は浅い方がいいだろう。
彼の腕に絡みつくたくさんの細い腕を。背に覆い被さる虚ろな女性の姿を。
いくつもの女性の影を彼に見て。顔を顰めて舌打ちをした。
「――は?」
思わず間抜けな声が出る。
最悪な夢を見た。気の滅入る目覚めに、思わず目を閉じて二度寝を決め込む。
けれどもすっかり目覚めてしまった頭は、眠る事を拒絶している。布団を頭まで被っても、一向に訪れそうにない睡魔に、諦めて起きる事にした。
もぞもぞと、布団から這い出て机に座る。カードを手に取り、何度か切って一枚捲った。
「まじか」
深く溜息を吐く。
結果を否定するように、別のカードを手に取って。同じように切って一枚捲る。
「――まじかぁ」
呟いて、項垂れた。
波打ち際で寝転がる、猫の蠱惑的な表情がやけに憎らしく感じた。
夢見の後の占いは、当たる。
何度も経験してきた事。だからきっと、この浮気性な男の占い結果も当たるだろう。
早く伝えろ、と占いは急かしている。夢でも傷は浅い内にと言っていた。
「でもなぁ。今まで応援してきたのになぁ」
机に伏して、愚痴を溢す。夢で見た友達が、今度告白するのだと意気込んでいたのを知っていた。
好きな人のために、可愛くなろうと努力している事も。彼の言葉や態度に、一喜一憂していた事も。
「言えない。絶対、泣くじゃん。そんなん、可哀想だよぉ」
そもそも、この結果を告げても告げなくても、結果は変わらないのだ。それに伝えた所で、信じてもらえないかも知れない。ならば束の間の夢くらい見てもいいのではないだろうか。
言い訳をいくつも考えて。行かない理由を積み上げる。
遅れてようやく訪れた睡魔に、安堵しながら身を任せた。
彼女が一人、泣いていた。
どうしたのだろう、と近づいて。いつも側にいたはずの彼がいない事に気づく。
辺りを見渡す。遠い先に、何人もの女を侍らせて笑う彼が見えて、眉が寄った。
酷い男だ。もう彼女に飽きて、次に手を伸ばしたのか。
可哀想に。彼女の背を撫でながら、遠い彼を睨む。夏祭りに一緒に行こうと約束をしたくせに、夏が来る前に捨てるだなんて酷すぎる。
「どうして」
泣きながら、呟く彼女に視線を向ける。泣き腫らして真っ赤になった目に、恨みがましげに睨まれた。
「なんで、止めてくれなかったの。あの時、知ってれば」
両手を伸ばし。細い指が首に絡みつく。
強い力で絞められて、息苦しさに彼女の手に爪を立てた。
「大嫌い」
離れない。じわじわと狭まる視界に、遠くなる意識に、必死で抗い踠いた。
力が抜けていく。滲む視界で見る、憤怒に歪む彼女の額に。
一本の角が見えた、気がした。
はっとして、顔を上げる。
また嫌な夢。今度はさっきよりも最悪だ。
「まじなのか」
悪あがきのようにカードを切る。途端に飛び出した三枚のカードに、うわっと顔を引き攣らせた。
「悪い事ばかりを想像して、泣いて苦しんで。それで最後に破局するって?冗談じゃない」
三枚目の、真正面からこちらを見据える猫を睨み付けた。
彼は決断しろと言っている。犠牲のない結末はないのだと、その犠牲を受け入れる覚悟を問うている。
その覚悟から目を逸らせば、きっと結末は最悪に向かうのだろう。
「告げるタイミングを間違えば、その瞬間にアウトなんだけど。タイミングがシビアすぎて、やんなっちゃう」
溜息を吐く。どうしようかと悩んでいれば、見据えるカードの中の彼の目が僅かに和らいだように見えた。
仕方のないやつだ。そう言われているような錯覚に、目を瞬き。
不意に脳裏に一つの映像が流れ込んでくる。
街中の往来。
開けた場所で言い合う女達に囲まれる誰か。
女達が喚くのを困ったように、楽しむように見ている。
目を瞬く。
手元に視線を落とせば、飛び出した三枚のカードとは異なるカードが二枚。
それは、結果を否定しようと引いたカード。
RUNNING。走れ、今すぐにという意味のカード。
そしてDREAMING。夢見たものを意識して、直感を信じろという意味のカード。
立ち上がる。スマホを片手に、出かける準備を整えていく。
「――もしもし。あのさ、今日ヒマ?遊びに行こうよ。新作の春コスメを見に行かない?」
彼女と約束を取り付けて。準備を済ませて家を出る。
「さぁて。夢と占いの結果を外しに行きますか!彼女に告白なんてさせてやるもんか」
寝てみる夢など、所詮は夢だ。現実になど遠く及ばない。気合いを入れて、駆け出した。
最悪から、最良の結果へと覆すために。
現実の、掴み取れる夢へと向かって。
20250410 『夢へ』
春の陽気が、窓から差し込む午後。
その日差しから逃れるように、窓から離れたソファで丸くなる少女が一人。起こさぬように、静かに少女の元へと近づいた。
顔を覗き込む。汗ばむ肌は赤く、眉を寄せて少女は寝入っていた。
小さく息を吐く。暑さに極端に弱い少女は、この春の穏やかな陽気ですら苦手らしい。
さてどうしようか。心の内で呟いた。
少女の――妹のために、冷房をつける事は簡単だ。だがそうする事で、益々外へは出られなくなってしまう事は、想像に難くない。
「困ったな」
思わず独り言つ。
このままでは、普通の人と同じような生活が出来なくなってしまう。それだけは避けたいが、このまま苦しむ妹を見ているのは忍びない。
眉間に皺を寄せながら考え込み。それを笑うように風が過ぎていった。
「――桜?」
目の前を踊るように過ぎていく白。目で追いかければ、それはふわりと少女の手のひらへと落ちた。
その刹那。少女の表情が穏やかになる。ふふ、と笑みを溢して、唇が何かを囁いた。
耳を寄せても聞こえぬほどの、微かな声。けれど何故だろうか。少女が何を言ったのか、はっきりと理解できた。
――おかあさん。おとうさん。
はっとして、少女の手のひらに落ちたものに視線を向ける。よく見れば、それは桜の花びらではなかった。白の花びらによく似たそれは、小さな雪の結晶だった。
「っ、ねぇ、起きて!」
少女を揺すり、起こす。むぅ、と小さく声を上げて薄く開いた少女の目を覗き込んだ。
夢見心地な目が、次第に焦点を合わせ。はっきりと視線が交わると不思議そうに目を瞬いて、少女はふわりと微笑んだ。
「おにいちゃん。おはよう」
「おはよう。大丈夫?」
「ん。平気。もう大丈夫だよって、お守りをもらったから」
少女の言葉に、眉を寄せる。意味が分からずにいれば、あのね、と体を起こしながら少女は囁いた。
「夢をね、見たの」
「夢?どんな?」
「なんだったかな。優しい夢だったよ」
ほぅ、と息を吐き、少女は目を細める。愛しい何かを探すように視線を巡らせて、淡く微笑んだ。
「お話をしたんだよ。覚えてないけれど、たくさん話をしたの。それで頭を撫でてもらって。お膝に乗せてもらったり、肩車してもらったり…それでね、お守りをもらったの」
手のひらに視線を落とす。そこには既に雪の結晶はなく、けれど大切な何かがあるかのように、少女は手を握り抱きしめた。
「もう大丈夫だよって。暑いのは平気になるから、お外にも出て行けるよって…夢だったけど、本当になったみたい」
「――そうだね。もう平気そうだ」
すっかり汗が引いた少女を見つめ、微笑んだ。
手を差し伸べる。
きっと、春の日差しは少女を苦しめる事はない。そんな確信に、手を取る少女を促して、窓辺へと向かう。
「暖かくて、気持ちがいいね」
春の日差しを受けて、少女は穏やかに囁いた。
「春だからね」
少女の隣で空を見上げつつ、言葉を返す。
くすくす笑う少女につられ、同じように声を上げて笑った。
不意に風が吹き抜けた。目の前を小さな白が過ぎていく。
「……雪だ」
見上げている空はどこまでも青い。晴れの空から、桜が舞うように静かに雪が降っていた。
手を伸ばす。触れる雪は、僅かな冷たさを残して溶けていく。
「――元気かな」
微かな呟きに、少女へと視線を向けた。遠く空を見上げる横顔は、どこか困惑してようだった。
記憶にないのだから当然だろう。幼い頃の事を、少女は覚えていない。
本当の両親の事を。父の思いも、雪と共に逢いにきた母に手を振り別れた、あの夜の事さえも。
少女の肩に手を置き、視線を合わせる。無意識の呟きに、返せる言葉は一つだけだ。
「元気だよ、きっと。だってこうして近くで見守っているんだから」
冬に在る母の血を引いて暑さに弱い少女を心配して、こうして訪れるくらいには。
「そっか…元気なら、それでいいや」
「心配はかけているみたいだけど」
「そんな事ないよ。心配をかけるような変な事はしてないもん」
「どうかな。春先からソファで溶けそうになっていたのは誰だっけ」
「ちょっと!いじわる言わないでよ」
頬を膨らませて怒る少女に、怖い怖いと嘯いて。横目で見る雪の舞う空に、声には出さずに呟いた。
――大丈夫。妹は、あなた達の大切な子は、人として生きる事が出来ています。
「そういえば、溶けそうな誰かさんのために、アイスを買ったんだった。でももう大丈夫なら、アイスはいらないかな」
「いる!それとこれとは別!」
「そう?じゃあ、食べに行こっか」
笑って手を差し出せば、むくれながらもその手を取られ。手を繋いで歩き出す。
忘れてしまった幼い頃から変わらない。
「おにいちゃんは悪い子だから、罰としてわたしがおにいちゃんの分もアイス食べるからね」
「太るぞ」
「聞こえないっ!」
軽口を言い合いながら、扉に手をかける。
「あ。ちょっと待って」
何かに気づいて少女は繋いだ手を離し、窓へと振り返る。
満面の笑みを浮かべて、大きく息を吸い込んで。
「バイバイ!」
窓の外。降り続く雪に向かい、手を振った。
20250409 『元気かな』