sairo

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4/8/2025, 1:26:56 PM

虚ろに横たわり、幼い少女は一人、遠い波の音を聞いていた。骨が浮き出た小さな体は、最早自力で動かす事もままならず。微かな胸の動きと時折漏れる吐息だけが、少女が生きている事を示していた。
かたり、と音がした。立て付けの悪い戸を開き、少女よりは年上の、痩せさらばえた少年が、静かに少女の元へと歩み寄る。
虚ろな少女の目が少年へと向けられる。かさついた唇が僅かに動き、それに応えるように少年は優しく微笑んだ。
「遅くなってごめんね。もう、どこにも行かないから」

少女の側に寄り、膝をつく。否、崩れ落ちるといった方が正しい。焦点の覚束ぬ目は、少女以上に少年の終が近い事を示していた。
震える手で、懐にしまい込んでいた包みを取り出す。

「かみさまが、くれたんだ。一人分。おまえが食べて」

包みを解き、中の一欠片の肉を少女の口元へと持っていく。だが、少女はそれに反応を見せず。ただ少年に視線を向け続けていた。

「そう、だね。ずっと、食べてなかった、から…待って」

這いずりながら、さらに少女に近づいて。手にした肉片を口に含み咀嚼する。そうして少女に口付け、開いた隙間から、直接流し入れた。
少女の痩せた喉が動く。すべてを飲み込んだ事を確認して、少年は力尽きたように少女の隣に倒れ伏した。

「これで、大丈夫」

少女と目を合わせながら、穏やかに少年は微笑んだ。
細い手が徐に動き少年の頬に触れるのを、目を細めて受け入れる。

「にいちゃん。ちょっと、疲れちゃった。このまま、いっしょに、寝よっか」

眠れば二度と目覚めは来ないのだろう。それを理解して、頬に触れる手を包み込み、額を合わせて少女に囁いた。

「生きて。きっと、未来にはこんなのより、ずっとおいしいものが、たくさん、あるから。食べて、にいちゃんの分も、生きて」

少女の瞬く目の奥に、光が灯る。

「にいちゃん、先に、寝るけど。ちゃんと起きて、お前に会いに、いくよ。何度でも、約束する…だから、今だけ、おやすみ。ごめんな」

少女が何かを言う前に、少年の目は閉じられていく。
そして、静かに。穏やかに。

少年は、少女の目の前でその時を止めた。





「どうした?」

訝しげな声に、顔を上げる。

「何が?」

こちらを見る彼に逆に問いかければ、眉を寄せ首を振る。

「いや、なんだかぼんやりしているみたいだったから」

相変わらず彼は聡い。苦笑しながら立ち上がり、彼の元まで歩み寄る。

「ちょっとね。昔を思い出してたの」

さらに眉を寄せる彼に、今まで読んでいた雑誌を指差した。

「割れた硝子瓶の中のお菓子達と、あなたと食べてきたお菓子達と。どっちが多くなったかなって」

視線を逸らされる。気まずい顔をする彼に、思わずくすくすと笑ってしまう。
彼はいつも優しい。過去から動けない自分の手を引いて、未来を見せてくれる彼には感謝してもしきれないほどだ。

「どう思う?硝子瓶が割れちゃったから、実際に比較出来ないのが残念だけど」

たとえその手段が、強引なものであったとしても。
あの硝子瓶を彼がわざと壊した事など、初めから気づいていた。

「――今度は、何が気になった?」

机の上の雑誌へと近寄り、彼は記事を見る。色鮮やかな写真を見て、一つ息を吐いた。

「ご当地特集、ね。じゃあ、今度の休みに遠出をしようか」
「いいの?約束だからね?」
「分かってる。約束だ」

嬉しくなって、彼の側に寄り念を押す。彼が約束を破った事はないけれど、確認も込めて。
新しい出会いは、いつでも心を浮つかせる。それが何故なのか、今でははっきりと思い出せないけれど。

「本当に好きなんだな。何か理由があるの?」
「知らない。忘れちゃった」

彼から雑誌を取り上げて、写真を指でなぞりながら肩を竦める。
嘘ではない。ただ覚えているものも僅かにある。
例えば、手や額に触れる温もりとか。会いに来てくれる約束とか。
それが誰か、もう分からない。声も、姿も霞んで輪郭すらあやふやだ。
それでも、覚えている。すべて忘れる事は許さないとばかりに。

「生きなきゃ、駄目だからね」
「何か、言った?」

小さな呟きは、彼には届かなかったらしい。それでいいと笑って首を振る。
忘れてしまった誰か。忘れられない約束。それを抱えて一人きりで生きてきた。
手を差し伸べるのは、いつだって彼だ。欠片も覚えていないのに、何度もこうして初めましてを繰り返す。
彼と出会い、共に過ごして。そして最期を見届ける。
彼と共に行く事の出来ないこの体を、憎んだ事は何度もある。それでも終を自ら求めなかったのは、約束があったからだ。
もはや呪いに近い、それ。何を思ってかつての自分は約束をしたのだろうか。

「あ、そうだ。この前行った、ケーキバイキングにまた行きたい。連れてって」
「遠出する話はどこに行ったんだ」
「近場なんだから、すぐに行けるじゃない。連れてってよ」
「あれは予約しないと駄目なやつだ。また今度な」

けち、と呟いて、雑誌で彼の背を叩く。

「こら。人を叩くな」

頭を強めに撫でられる。やはり優しい彼に、笑いながらその手から抜け出した。
この先、彼の終を見届ける事になるのだろう。何度繰り返しても、置いて行かれる苦しみには慣れない。
そして彼の終を見届けた後、きっとまた硝子瓶の中に、彼との記憶を詰め込むのだ。

「じゃあ、連れて行ってよ。約束でしょ」
「分かってる。約束だ。なんだったら、君とずっと一緒にいてもいいよ」
「馬鹿」

彼の言葉を笑って誤魔化した。
彼には悠久は似合わない。それに置いて行かれる苦しみを、忘れずずっと覚えているのだ。精々、置いていく悲しみを、忘れてしまう空しさを味わえばいい。
そんな酷い事を考えながら、もう一度彼に向かって馬鹿、と繰り返した。



20250408 『遠い約束』

4/7/2025, 2:25:57 PM

いたずらに遊ぶ風が、花弁を舞い上げる。それを追いかけ空を舞い、辺り一面に咲き誇る種々の花を見下ろして、微笑んだ。
この地で眠る彼らのための花。かつての焼けた建物の残骸と屍が積み上がる荒れ地の面影は、欠片も見えはしない。
不意に、幼子の笑う声を聞いた。掠れた記憶を揺するその声に惹かれ、ゆるりと視線を巡らせた。

「――あれは」

目を瞬く。幼子が一人と、妖が二匹。花を愛で、遊んでいた。
何故このような場所に、と首を傾げて困惑する。
ここは谷底にある、忘れ去られた場所だ。この地に辿り着くための道は永く閉ざされて、迷い込む事など出来るはずがない。
ここを知ってあえて訪れたのだろうか。警戒しながらも、幼子らの前に降り立った。

「あ。こんにちは」
「人間。何故、ここにいる?」

腕を伸ばしたとして、届く事のない距離。それ以上は近づく事は許されない。今は静観する妖らが、この距離を侵した途端に襲いかかる事だろう。
張り詰めた空気の中、唯一何も知らぬ幼子が、己の問いかけに眉を下げつつ微笑んだ。

「えとね。逃げてきたの」
「逃げてきた?」

意味を理解しかね、妖らに視線を向ける。

「そのままの意味さ」
「憑き物筋は人間から厭われやすい。そういう事だ」

憑き物筋。それはこの妖らの事なのだろう。
目を細め、幼子と妖らを繋ぐ糸を見る。人間にとって不可視のそれは澄んだ緋色を纏い、幼子と妖を離れぬように強く繋ぎ留めていた。
細身ながらも随分としなやかな糸だ。余程深く関わりなのだろう。
その緋色をかつて見た事があった。両親を求めて弱々しく伸ばした小さな手に絡みついた。或いは、互いをかばい合いながら事切れていた、同胞らの腕に括りつけられた。
家族や仲間を繋ぐそれを、己に花を植える事を教えた男は絆だと呼んでいた。

「わたしたちね、生まれる前からいっしょだったんだって。六方《ろっぽう》が教えてくれたの。すてきでしょ…でもね、それはわるいことなんだって、みんな言うから」

赤を纏う妖が肩を竦めた。呆れているような、哀しむような複雑な感情を湛えた目が幼子を見つめ、静かに伏せられた。

「僕達と切り離される事が、余程お気に召さなかったらしいよ。本当に、物好きな子だよね…ま、切り離そうとした所で、切り離す事など不可能なんだけどね」

白を纏う妖は、笑いながら幼子の元へと近づいて、その頭を撫でる。物好きだと言いながらも、その目には慈しみと喜びが浮かんでいる。
不思議な関係だ。人間にとって幼子の存在は異端でしかないのだろうが、それが正しい在り方にも見える。
ここにいた彼らと同じだ。彼らも異端とされ、迫害を受けて都から逃れてここに辿り着いた。生きるために互いに協力し合い、一つの集落を作り上げた。
懐かしさに、目を細める。幼子らには、彼らのような出会いはあるのだろうか。
その行く末が気になった。

「行く当てはあるのか」

己の問いかけに、白の妖は首を振る。

「ないよ。ないから、ここまできた」
「ここは、この子と同じ者がいたと聞いていたからな」

ああ、と思わず声が漏れた。
何も知らないでここまで来たのか。今はいない彼らを思いながら、その事実を告げるべく口を開く。

「残念だが、ここにはもう何もない。彼らは遠い過去に絶やされた。今あるのは、ワタシと花だけだ」

花を見遣り、呟いた。
人間である幼子が必要とするものを求めて、同じように逃れた者らで作られた集落まできたのか。かつての彼らであれば快く受け入れ、必要なものを与えたのだろう。だが今ここに残るのは、妖である己だけだ。必要なものを何一つ与えられはしない。
すまない、と小さく謝罪をする。だが返る小さな笑い声に、不思議に思って視線を向けた。

「ああ、気にしなくていいよ。ここが遠い昔に絶えたのは知っているからね」
「では何故?」
「お花をね、見たかったの」

幼子は笑う。屈んで白の花を一本手折り、手を伸ばして白の妖の髪に挿す。そしてもう一度屈み、今度は赤の花を一本手折る。赤の妖の元まで駆けて、同じように髪に花を挿した。

「この子と同じく厭われ、絶やされた者らの死を悼む妖がいると聞いたのだ」

幼子の頭を撫でながら、赤の妖は苦笑する。いつの間にか和らいだ視線に、何故、と呟いた。

「しばらくここにいさせてはくれないだろうか。この子もお前の植えた花を気に入っているようだ。だがこの地を踏み荒らしているようなものだからな。お前が厭うのであれば立ち去ろう」
「いや荒らしてはないだろうよ。ここには花しかないのだから」

穏やかな赤の妖の言葉に、笑って否を唱える。
ここにはもう誰もいないのだ。土の下で眠る彼らは、すでに新しい生を歩んでいる。彼らの体も魂も、記憶でさえも、残るものはここにはない。
故にこの地はただの花畑だ。踏み荒らす事など気にする必要はない。

「好きなだけここにいるといい。だがワタシにはその子に必要なものを与えられはしない。それでも良いと言うのであれば」
「十分だ」

頷いて、赤の妖は幼子に何かを囁き白の妖を指差した。
幼子の目が輝いて、白の妖の元へと駆けていく。

「燈明《とうみょう》!お花のかんむり作って!」
「え。ちょっと無理言わないでよ。僕、一度も作った事ないのに」

慌てて逃げていく白の妖の背を、幼子はきゃらきゃら笑いながら追いかけていく。その姿がいつかの誰かと重なって、僅かに胸の痛みを覚えた。

「花冠か。前に作ってもらったものが、残っていたはずだ…ああ、そうだ」

思い出す。時折ここに訪れる、変わり者の男の存在を。

「ワタシに花を植える事を教えた男が、前に家を作っていた。簡素なものではあるが、雨風くらいはしのげるだろう」

赤の妖に、指し示す。家というには小さく見た目は粗末な物ではあるが、作りはしっかりしているはずだ。

「ありがたく、使わせてもらおうか」

微笑んで家へと向かう赤の妖の背を見送って、気づけば鬼事をしている幼子と白の妖に視線を向ける。
人間に厭われても、絆で結ばれた妖と共に生きる幼子。その生き方は、やはり彼らにとてもよく似ている。
おそらく幼子の辿る先は、険しいものなのだろう。

どうか、と誰にでもなく呟いた。
どうか、幼子の行く先が、僅かでも安らげるもので在る事を。
どうか、彼らの辿った道だけは、同じように辿る事がないようにと。

吹き抜ける風が、花弁を散らす。それを視線で追いかけて。
願うように、目を閉じた。



20250407 『フラワー』

4/6/2025, 1:54:00 PM

広げた地図にまた一つ印を付ける。
自宅の周囲を描き留めた手書きの地図は、これ以上書き込む事が出来ないくらいに色鮮やかになった。ふふ、と一人笑い、完成した地図を指で辿る。

「完成したのね。おめでとう」

彼女の声に、ありがとうと言葉を返す。首に下げた銀色の羅針盤にそっと触れた。

「自分の目で見て歩くって、大変なんだね」
「慣れてないからよ。すぐに慣れる…といいわね」
「ごめんね。見えてるのに、見えてない時とあんまり変わらなくて」
「まったくだわ」

溜息を吐く彼女に、笑いながら謝って。誤魔化すように、窓の外を見た。
少し前まではくすんだ色で見えていた空は、今は澄み切った青色がよく分かる。白の雲が色々な形をしている事に未だに慣れず、思わず魅入ってしまう。

「目の調子は良いみたいね」
「うん。ちゃんと見えてるよ。見えすぎてる気もするけれど」

雲に紛れるようにして駆け抜けていく黒い影を認めて、苦笑する。今日も自分の目は、人ではないモノもはっきりと見えてしまっていた。
妖。彼女のように人ではない、けれど人に寄り添ってくれる優しい存在。それらは見えても大丈夫なモノだ。

「今日も変わらないのね…仕方がないわ。いつも言っているように、外に出る時は地図の赤い印の所には近づかないで」
「分かってるよ。約束するから」

彼女に大丈夫だと返事をしながら、地図を見る。
色鮮やかに書き込まれた印の中で、いくつか点在する赤の丸印の数を声には出さずに数えていく。
彼女曰く、危険な場所。化生と呼ばれる、妖とは違う怖いモノが彷徨っているらしい場所。それは見えてはいけないモノらしい。

「今日はこのまま、どこにも行かないのだったかしら。お母さんも出かけているみたいだものね」
「そうだよ。今日はお留守番」

彼女の言葉に頷いた。留守番といっても、母は買い忘れた物を買いに行っているだけで、すぐに帰ってくるだろうけれど。
地図の上の赤い三つの丸を指で順に辿る。この丸のどれかが、少し前まで自分の目を奪おうと呪いをかけていたのだろうか。

「あなたの目を奪おうとしたモノは、もういないわ。だから目に関しては、もう大丈夫よ」
「本当に?」
「本当。目の呪いを解いてもらった時に、それが呪いをかけた化生に返って、消えてしまったのよ。だからもうそれは心配しなくてもいいわ」

自分の考えを見通す彼女の声は、とても優しい。不安はすぐに解けて消えて、ありがとうと呟いた。
羅針盤《彼女》に視線を落とす。彼女がいなかったもしもは、想像すらも出来ない。
羅針盤をくれた母は、すべて分かっていたのだろうか。自分の目の事も、彼女についても。ふと、疑問が込み上げた。

「お母さんは知らないわ。ただあなたの視力が弱い事は知っていたし、そのせいで迷子になりやすいだろう事は察していたけれど」
「そうなの?それなら、君に会えたのは、凄く幸運だったんだね」
「そうね…でもまさか、見えるようになっても、迷子は変わらないなんて、お母さんも私も分からなかったけれど」

くすくす、と笑う彼女の声に、羅針盤から目を逸らす。

「でも地図が、あるから。家の周りだけだけど、完成したし」
「それがあっても、家に帰れなかったのはどうして?地図に書いてあった場所だったわ」
「――いじわる、言わないでよ」

昨日の事を思い出し、溜息が出る。地図を描いたのは自分だというのに、自分がどこにいるのかすら分からなかった。
彼女に頼りすぎているのもあるのだろう。見えなくても見えても、彼女の声がないとまともに歩けもしないのだから。

「ごめんね、つい」

笑いながら謝る彼女に、別に、と小さく呟いた。彼女の言っている事は悲しいくらいに正しくて、文句の一つも言う事は出来なかった。
もう一度溜息を吐いて、広げた地図を折りたたむ。

「新しい地図は作らないの?」
「――作っても、使えないんじゃ意味ないよ」
「そんな事はないわ」

何を言っているのだろう。地図があっても帰れなかったと言ったのは、彼女なのに。

「作る事が大切なのよ。地図を作るために歩き回るのは、とても楽しいでしょう?」

むっとする気持ちは、それでも彼女の穏やかな声にすぐに萎んで消えていく。代わりに込み上げてくるのは、彼女と共に歩き回って見えた、たくさんの景色だった。
きらきらと輝いているような、作った地図よりも色鮮やかで綺麗な景色。季節によって変わるのだと聞いて、楽しみにしていたのを思い出した。

「私もあなたと一緒に、色々な景色を見られるのが嬉しいのよ。だから機嫌を直して、新しい地図を作りましょう?」

そこまで言われては仕方がない。そう自分に言い訳をして、新しい紙を手に取った。
折りたたんだ地図を広げ直す。指で辿って、どこの道の先から始めようかを考える。
いつの間にか、道に迷う心配など欠片も忘れてしまって。ただ新しい冒険への期待に、胸が高鳴った。

「お母さん、帰ってきたみたいね」

ちょうどタイミングよく、玄関が開く音が聞こえた。ただいま、と母の声が聞こえて、たまらず部屋を飛び出した。

「危ないわ。ちゃんと足下に気をつけて」

彼女の声に、分かってる、と返事をして。まだ玄関先にいた母に、出かけてくると告げて家を出た。
空を見上げる。どこまでも青色が広がっていて、雨の気配は見られない。

「行こう!」
「そっちは駄目な方だって。ちょっとは落ち着いてってば!」

慌てる彼女の声を笑いながら、駆け出した。行き先は気の向く方でいいだろう。

「話を聞いてっ!そこは右に行くの!」

返事はせず。けれど彼女の指示通りに右に曲がる。
最初の地図を作り始めた時のように、胸がどきどきして落ち着かない。高鳴る鼓動を抑えるように、羅針盤ごしに胸に手を当てた。

「まったくもう。転ばないでよね」
「大丈夫だって」

道には迷うけれど、転ぶ事はもうほとんどない。
それを彼女も分かっているからか、呆れた溜息を溢すだけで、それ以上は何も言わなかった。
何だか楽しくて仕方がない。手にしたままの白紙の地図が、輝いて見える。

「次はどっち?」

彼女に声をかける。呆れた声が道を示し、その通りに進んでいく。
不安はない。
彼女の指し示す道は、いつでも正しいのだから。



20250406 『新しい地図』

4/5/2025, 1:54:47 PM

「好きだよ」

何十回目の告白は、いつものように彼女の無言の一瞥で終わる。
落ち込みたくなるが、彼女の前だ。必死で笑顔を作ってごめんね、と一言呟き、駆け出した。
いつもの事。何も変わりのない、日常の一場面。分かっていたはずだと自分に言い聞かせ、必死に嗚咽を噛み殺す。それでも気持ちを抑えきれず、元の小さな雀の姿に戻り、空へと羽ばたいた。



「僕が小さな雀だからかな」

適当な木の枝に止まり、溜息を吐く。
彼女の前では、いつも人間の姿になっている。けれども聡い彼女の事だ。自分の本当の姿を、すでに知っているのかもしれない。

「僕が人間だったらなぁ」

或いは、彼女が妖だったのなら。
そうすれば、希望はあったのかもしれない。考えれば考えるほど、気分が落ち込み俯いた。
もう、潮時なのだろう。

「明日…もし明日駄目だったら、諦めよう」

言い聞かせるように、言葉にする。諦めきれない事は明らかだけれども、このまま続ける訳にもいかない。相手を考えない告白は、ただの迷惑だ。彼女に嫌われてしまうのは嫌だった。
俯く顔を上げ、空を睨む。泣きたい気持ちを誤魔化すように、弓張月に向けて声高に鳴いた。





遠く彼女の背を見つけ、地に下りる。
人間の姿を取って、可笑しい所はないかを確認する。これで最後なのだからと、今日は念入りに。

「最後はせめて、かっこよくしないと」

気を抜けば泣きそうな目を強く閉じて、開く。遠い彼女の姿を焼き付けるようにして見つめた。

「好き、だなぁ」

彼女が好きだ。表情のあまり変わらない彼女が、ふとした瞬間に見せる微笑みが、大好きだ。
さりげのない優しさも。誰に対しても誠実な所も。自由気ままな所も。彼女を構成するすべてが好きでたまらない。
ふふ、と思わず笑みが零れ落ちる。こんなにも大好きな気持ちを全部伝えられたら、それで十分な気がしてきた。
彼女に受け取ってもらえなくても。好きの気持ちは捨てずに、大切に鍵をかけてしまっておこう。
昨日までの苦しい気持ちはどこかに消えて、軽い足取りで彼女の元まで歩いて行く。

「おはよう」

声をかける。振り返る彼女に笑いかけ。

「あのね、」
「ずっと思っていたのだけれど」

好きだよ、と続くはずの言葉は、けれど彼女の言葉に掻き消される。
いつもとは違う事。初めて返された言葉に、何も言えずに立ち尽くす。

「君の目に、私はどんなふうに映っているの?」
「――え?」

僅かに顰められた眉に、肩が跳ねる。
どんな、と問われて、色々な言葉が頭を過ぎていく。
可愛い。優しい。綺麗。
けれど混乱している思考では、思いつく事は一つも言葉にはならず。

「普通の、人間の女の子」

彼女にとっては、意味の分からないであろう言葉が口から零れ落ちた。
あ、と後悔するよりも早く。彼女の深い溜息にびくり、と体を縮こまらせる。

「そうだろうとは思った」

怒らせてしまった。その後悔は、彼女の呆れを乗せた声音に疑問に変わる。初めから理解しているような口ぶりに、恐る恐る視線を向ければ、彼女の深い緑の目と交わった。
随分と瞳孔が細い。さらに疑問が膨れ上がる。
それは、まるで猫のような――。


「気づいた?ご先祖様に、猫がいたらしいよ」

目を細めて笑う彼女に、文字通り飛び上がって驚いた。

「え…え、それって」
「考えていたのだけれどね」

情報が多すぎて理解が追いつかない自分をよそに、彼女は淡々と言葉を紡ぐ。

「君の好き、の言葉に同じ言葉を返したいとして。それってちゃんと君と同じ気持ちで届くのかな。捕食対象に対する気持ちと誤解されない?」

例えば、美味しいケーキを前にした時の、好きの気持ちに聞こえないか。
眉を寄せて真剣に悩む彼女に、淡い期待と恐れが混み上がる。喜べばいいのか、怖がればいいのか分からずに、それでも確かめたい事が一つあった。

「それって、つまり…僕の事、好き、って事?」
「そういう事…君が、好きだよ」

目を細めて彼女は笑う。
嬉しい。夢みたいだ。そんな幸せな気持ちとは裏腹に、その笑みが猫のように見えて、思わず元の姿になって空を舞い上がってしまう。

「――あ。ごめん」

見下ろす彼女が哀しげに眉を下げるのを見て、慌てて地に下り人間の姿を取る。改めて謝れば、気にするなとばかりに頭を優しく撫でられた。
彼女を見る。細まる彼女の目を見ただけで、ぞわりと本能的な恐怖が襲い体が震えるのを見て、彼女の手が離れていく。

「あ、あのさっ!」

咄嗟にその手を取り。彼女の目から視線を逸らしながら、一つの提案をする。

「手を。手を、さ。繋ぐ事から、始めない?」
「――そう、だね。君が許してくれるなら」

彼女の言葉に、改めて手を繋ぐ。
これからどうすればいいのだろう。両思いだとは露にも考えた事はなかったため、何をしたら良いのか分からない。
取りあえず。失礼な事だけれども、大事な事を確認しなければ。

「えっと。雀とか鳥を取って食べたり…しない。よね?」
「当たり前。食べるなら、ケーキの方が良い」

僅かにむくれて視線を逸らす彼女に、気づかれないように安堵の息を吐いて。

「でも、逃げる鳥とか小動物を見ると、どうしても追いかけたくなるの」

続いた言葉に、ひっ、と思わず声が出た。

どうやら叶ってしまった恋は、とてつもなく怖ろしく、可愛らしいもののようだ。



20250405 『好きだよ』

4/5/2025, 10:06:33 AM

桜は貪欲だ。
だから気をつけるように、一人では近づかないようにと誰かが言っていた。不意に過る記憶に、眉を寄せる。
忠告など、大概は手遅れだ。今のこの現状が、雄弁にそれを語っている。
はぁ、と溜息を一つ。もし戻れたら貪欲の意味を辞書で調べ直そうと、目の前の彼、或いは彼女から目を逸らした。

「可愛いわ。でもこちらもきっと似合うわね」

薄桃色の振り袖を着た少女、らしき妖は、手にした反物をあてがいながら微笑む。
らしき、なのは、声が見た目に反してとても低いからだ。声だけで判断するならば、大人の男性。けれど見た目は可憐な少女。その違いに、混乱する。

「ねえ、あなたはどちらが…いえ、どちらもという選択肢があったのを忘れていたわ。折角の機会なのだから、似合うと思うものすべてを選びましょう」

貪欲とは何だっただろうか。確かに欲深くはありそうであるけれど。
痛み出した頭を抑えたくなるが、体は背後の桜の枝に絡めとられて満足に動かす事は出来ない。どこからか取り出した反物を次々とあてがわれているこの現状に、溜息を吐くしか出来ない。

「もう、溜息ばかり吐いていたら、幸せが逃げていってしまうわよ。こんなに可愛いのだから、しゃんと笑っていなさい」

気分を害したように頬を膨らませる。その姿はとても愛らしいけれど、やはり声は低い。
曖昧に笑って誤魔化して、散歩をしたくなって一人庭に出た自分の選択を密かに後悔した。


「何をやっているんだ」

呆れた声に、顔を上げる。ようやくやってきた救世主の登場に、視線だけで助けを求めれば、彼はやはり呆れた顔をしながらもこちらに近づいた。絡みつく枝を払い、抱き上げられる。

「一人で桜に近づくなと言っただろうに」
「覚えてなかったんだから、仕方ないでしょ」

文句を言いながらも彼にしがみつく。宥めるように頭を撫でられて、その心地良さに目を細めた。

「ちょっと。可愛い子を独り占めなんて酷いわ」
「十分だろう。お前の背後にある反物の山は何だ」

彼の言葉に、内心で深く同意する。
だが妖は、まだ満たされてはいなかったようだ。

「可愛い子には、可愛い格好をさせたいものでしょう。それの何かいけないのかしら」
「限度を考えろと言っている」
「嫌よ。あたし、今まで遠くから見ているだけだったのだもの。満足するまで付き合ってもらいたいわ」

腰に手を当てて怒る妖に、彼は嘆息する。気持ちはとても分かるけれども珍しい彼の態度に、思わず彼の横顔を凝視してしまった。
手を伸ばし、さっき彼がしてくれたように頭を撫でる。僅かに目を見開いてこちらを見る彼に、笑ってみせた。
幾分か疲れが滲んでしまった事には、目を瞑ってもらいたい。

「琥珀《こはく》」
「帰ろ、槐《えんじゅ》」
「そうだな」
「ちょっと!待ちなさいよ」

妖の引き止める声がしたとほぼ同時。風に舞った桜の花びらが壁のように周りを覆い引き止められる。

「帰さないわよ。ここで帰したら、もう逢わせてもらえないんでしょ!あたしだけ、いつも屋敷に入れてもらえないもの」

激しく怒る妖に視線を向けて、彼を見る。屋敷に入れてもらえないのは何だか仲間はずれのようで、少しだけ可哀想に思ってしまった。
けれど彼は冷めた目をして妖を一瞥して、当然だろう、と呟いた。

「お前に付き合って、面倒事に巻き込まれるつもりはない。それにこの子をお前が咲き誇るための糧にさせるわけにはいかないからな」

糧。つまりはこの桜の肥料になるという事だろうか。
彼にしがみつく腕の力が、少しだけ強くなる。

「それ、いつの話よ!あたしは可愛い子を着飾りたいだけなのにっ」
「人間だった頃のこの子を、幾度となく拐かそうとしたのは誰だろうな」
「だって可愛かったもの。それにあんただって、結局隠してしまったじゃない」

彼の眉間に皺が寄る。
話を変えなければ、と内心で焦る。記憶にはないが、私が人間から妖になった時の話は、彼だけでなく屋敷の皆の、してはいけない話だ。

「あ、あの、えっと…その反物、どうするの?」

あからさまな話題の逸らし方に、彼と妖の視線が突き刺さる。けれどその意図を汲んでくれたのだろう。妖は山となった反物を一瞥して、当然のように微笑んだ。

「もちろん、すべて仕立てるわよ。採寸は終わっているから、楽しみにしていてね」
「え。それって、誰が作るの?」
「あたしに決まってるでしょ」

思わず妖の顔を見つめる。

「なによ、その顔。桜が和裁をしてはいけないなんて、思わないでほしいわ」
「桜は貪欲だと言っただろう。興味のある事に対して、怖ろしい程にどこまでも拘るんだ」
「可愛い子を着飾るための努力を、惜しまないだけの事よ」

それは確かに貪欲ではあるのだろう。
想像していた意味と異なる、自信に満ちあふれた妖を見る。自分にはないものを持つ妖が眩しく見えて、目を細めた。
妖の事。桜の事。もっと知りたくて、下ろして欲しいと彼を見た。

「止めておけ。桜は貪欲で、雑食だ。着飾って満足したら、喰われるぞ」
「だからっ!いつの時代の話をしているのよ!」

憤慨する妖は、それでも否定はしない。それはつまり、そういう事なのだろう。

「帰ろう、槐」
「そうだな。戻るとするか」
「ちょっと!」

桜に背を向けて、彼は歩き出す。いつの間にか桜の壁は消えて、彼を邪魔するものはない。
抱き上げられたままの格好で妖を見れば、未だ不機嫌そうではあるものの、こちらに手を振ってくれた。
それに手を振り返し。

「何か、疲れた」

思い出したように疲れを感じて、彼にもたれ掛かる。

「屋敷に戻ったら少し休め。このまま寝てしまっても構わない」

優しい彼の言葉に、それならば、と目を閉じる。
優しく背を撫でる手に、笑みが浮かび。心の中だけで、大好き、と囁いた。



20250404 『桜』

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