sairo

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4/4/2025, 10:05:19 AM

地に落ちて砕けた硝子の一欠片を摘まみ上げ、これで良かったのだと笑ってみせた。
硝子越しに、歪んだ顔が見える。泣きそうに、哀しそうに顔を顰めている。

「これで良かったんだ。こうして砕けなければ、いつまでも動けないでいたから」

だから大丈夫だと。相手にも自分自身にも言い聞かせるように、繰り返した。
欠片を手放す。かしゃん、と軽い音を立て、欠片がさらに数を増やし細かくなったのを見遣って立ち上がる。後片付けをしなければ、と場違いな事を考えながら、道具を探して辺りを見渡した。

「ごめん」

微かな声を、聞こえない振りをする。謝罪を受け入れて許す事は、きっとまだ出来ない。大丈夫だと自身を言い聞かせる事は出来ても、砕け散った一欠片ほども納得はしていない。
これが正しいのだとは理解をしているのだ。いつまでも未練がましくしがみつく事の無意味さも、痛いほどに分かっている。
一度砕けたものが、元に戻る事など二度とない。過ぎてしまった昨日は遠くなるばかりで、帰ってくる事はないのだから。

「どうしたら、許してもらえる?」
「許す、許さないじゃないよ。これで良かったって言ったんだから。それで十分でしょ」

視線は向けずに、無感情に言葉を返す。掃除道具を求めて部屋を出ようと踏み出した足は、聞こえた深い溜息に止まった。
視線を向ける。真正面から見たその表情は、泣く訳でもなく、悲しんでいるようにも見えない。
静かな目に見据えられ、息を呑む。形の良い唇が徐に開き言葉が紡がれるのを、止めてしまいたい衝動を抑えながらただ待った。

「今度の休日。スイーツバイキングに一緒に行こう。だからいい加減に機嫌を直してほしい」



ぱちり、と少女の目が瞬いた。
震えるか細い声が、スイーツバイキング、と何度も繰り返す。次第に頬が染まり、唇が笑みに形取られて行くのを見ながら、青年は密かに息を吐いた。

「本当に?嘘じゃない?やっぱなし、とかもない?」
「約束する。だからそんなにはしゃがないで。硝子を踏んだら危ないだろう」

感情が抑えきれずにその場で飛び跳ねながら、何度も確かめる少女の側に寄り、青年は手を引いて近くのソファに座らせる。それでもまだ興奮冷めやらない少女に、落ち着くよう言い聞かせた。
少女が次第に落ち着きを取り戻してきた事を確認してから、備え付けの棚から箒とちり取りを取り出す。砕けた硝子と元は菓子だった残骸を片付けながら、ごめん、と何度目かの謝罪を密かに繰り返した。

「いくら美味しかったからといって、何年も前の菓子を大事に取っておくのは、これで終わりにしてほしい」
「――うん。そう、だね」

少女の笑みが、僅かに陰る。
砕けた硝子瓶や、その中に入っていた過去に食べた菓子が砕けた事を、少女は悲しんでいるのではない。それに付随する記憶を、拠り所を失った事による虚無感に苛まれているのだ。その心の内を理解しながらも、青年は敢えて少女にとって残酷な事を口にした。

「この菓子より美味しくないものはいくらでもあるが、美味しいものもたくさんあるんだ。それを探すのも、悪くないんじゃないか?」

少女は何も言わない。どこか遠くを見る少女の視線は、青年の知り得ない過去を想っているようであった。
青年もまた、それ以上何も言わず。集め終えた残骸を捨て、道具を片付ける。


「――一緒に行く約束、忘れないでよね」

微かな呟きに、青年は少女に視線を向ける。その目に浮かぶ感情は諦めにも似た色を宿し、青年は僅かに眉を寄せた。

「自分から言っておいて、忘れる訳がない」
「約束、だもんね」

少女は、微笑う。泣いているようにも見える笑顔に、青年は眉間に皺を刻んだ。
青年よりも永くを生きる少女は、おそらくすべてに諦念を抱いているのだ。諦めているから、期待を抱かない。
未来に何も望まず、ただ束の間の安らぎだったいくつかの過去を、硝子瓶に閉じ込め慰めにする。
過去だけを見続ける少女が、青年はどうしても許す事が出来なかった。

「そう、約束だ。もしもスイーツバイキングが気に入ったら、また一緒に行こう。他にも色々な所へ行って、好きなものを増やしていけばいい。あの硝子瓶に収まりきれないほどの思い出を、俺と一緒に積み重ねていこう」

少女の側に寄り、跪いてその手を取る。青年よりも小さく華奢な手には、もうあの硝子瓶はない。少女の過去を閉じた瓶は、偶然を装って青年が落として粉々に砕いてしまった。

「俺は、君と共にこれからを生きていきたい。過去を忘れろとは言わないが、過去に縋るのはもう止めて欲しい。今を生きる俺を、どうか見てくれ」

かつては青年と同じくただの人であったという少女が、何故悠久を抱いているのかを青年は知らない。知る必要もないと思っている。
だがもしも。もしも少女がこの先、一人に戻る事に怯えて青年に共に悠久を抱く事を望んだとしたら。
その手を取った後、取り留めのない話の一つとして尋ねればいいと、そう青年は思っている。

「ちゃんと見ているけど…本当に、馬鹿みたい」

青年から視線を逸らし、少女は小さく呟いた。不機嫌な表情をしながらも、その頬は朱に染まっている。
思わず笑みを溢す青年を、横目できつく睨み付け、少女は青年の手を強く握り返した。

「約束したからね!スイーツバイキングも、美味しいお菓子を求めて旅に出るのも。約束したんだから、必ず叶えてよ」
「分かってる。約束だ」

青年は頷き、手を握ったまま少女の小指に自らの小指をを絡める。
僅かでも今を見始めた少女に、青年は微笑みながらも、ごめん、と心の内で繰り返した。



20250403 『君と』

4/3/2025, 10:40:10 AM

眼下に広がる淵を見下ろす。
夜空の群青よりも尚昏く、底知れぬ深さを湛えた水面は波一つなく凪ぎ。青白い月を、無数の星々を写している。
膝をつき、水面を覗き込む。
月が近い。それこそ、手を伸ばせば届きそうな程に。

「――ぁ」

吹き抜ける風が水面を揺らし、月が歪んだ。そのまま掻き消えてしまいそうに見え、月を捕らえようと咄嗟に手を伸ばし。
だがそれは、水面から突き出た細い腕に掴まれ、叶う事はなかった。

「っ、驚かすな。落ちるだろうが」

思わず詰めた息を吐き出す。

「あのまま手を伸ばしていれば、結局は落ちていた。それを止めてやったのだから、感謝してもらいたいくらいだ」

静かな声が返り、水面から女の頭が現れる。声と同じく感情の乏しい表情で、しかし目だけは咎めるようにこちらを見上げていた。

「酔狂な事だ。水面に写る紛いものの空に向かい、手を伸ばすなど。数日もすれば、本物の空を飛ぶのだろう?」
「仕方がないだろう。俺は今まで、月に行くために動いてきたんだ。例え偽物だとしても、目の前で消えられたら、手くらいは伸びる」

掴まれたままの腕を振り解き、視線から逃れるように空を見上げた。
浮かぶ月はどこまでも遠い。女の言うように数日後にはあの月へと向かうのだと、理解はしているというのに実感は未だ薄い。
まだ迷いがあるのだ。月へ向かう事は、人ならざるモノの否定に繋がるのだから。

「今更、恐れているのか」

女の言葉に頭を振る。恐れはない。前へと進む選択に後悔はない。

「ならば、このような所で立ち止まっている場合ではないだろう。進み続けろ。お前は我らに頼らずとも、一人で望みを叶える事が出来るのだから」
「あんたこそ、怖くないのか。否定され、人から認識されなくなった妖は、消えるのだろう?」

妖である女を知るのは、他にはいない。己が女を否定すれば、女の存在は消えるだろうに。
それを正しく理解して、何故この女は穏やかでいられるのか。

「何を怖がる事があるんだ。我らは人間のために在る。それが人間にとって助けとなるか害となるのかは、望んだ者の認識次第であるがな…道具と同じだ。必要とされないのならば、在っても意味はない。それだけの事さ」
「そうか…なら、最後くらいはしっかりするか」

消えるだろう女にそこまで言われてしまえば、それ以上何も言えはしない。
立ち上がり、女を見下ろす。未練がましい言葉は呑み込んで、女の目を見据え徐に口を開いた。

「俺は月へ行く。月には何もいないのだと、否定するために。兄は妖に連れていかれてなどいないと、断定するために」

女は何も言わない。薄く笑みを湛え、己の別れの言葉を待っている。

「だから、あんたともこれまでだ。俺はここに来ない。あんたとの記憶は、ただの夢だった…あんたは、現実には存在しない。忘れていくだけの、優しい夢だ」
「それでいい」

満たされたような声音。頷く女に背を向けて、歩き出す。
これから先、二度とここを訪れる事はないだろう。来た所で、妖である女に会う事は叶わないのだから。
一人きりで途方に暮れる己の手を引いて、道を指し示し寄り添い続けてくれた愛おしい女。その存在を消して、己はその罪すら忘れ生きていくのだ。
何度も立ち止まりかける足を、必死の思いで動かし続ける。
空に向かい、手を伸ばす。見上げる月は、未だ遠く。だがすぐに捕らえる事が出来るだろう。
月には何もいない。月にいる妖など存在しない。それを認識出来たのならば、月に囚われた兄の魂は安らかに眠る事が出来るはずだ。
それだけが、己にとって唯一の救いだった。





男が見えなくなり、妖はほぅ、と吐息を溢した。
憎む事でしか己を保てなかった少年の成長を見届けて、静かに水底に沈んでいく。

「お前の成長を、嬉しく思うよ」

心からそう思う。その結果が妖の存在をなくすのだとして、それは些事でしかない。
悔いはない。月に兄が連れて行かれたと、昏い瞳をして泣いていた幼い頃の男に道を示したのは妖であったのだから。

――己の眼で見据え、そして否定しろ。

それが果てしなく困難な道のりである事を、妖は知っていた。だが男は努力を重ね、己の力だけで月に行く事を叶えてしまったのだ。
水面越しに遠くなる空を見ながら、かつての少年を思う。
小さくか弱い少年だった。妖に、親に、己自身に、怒りや憎しみを抱いた哀しい子供であった。
消えるのをただ待っていただけの妖が、今一度だけ、と望みに応えようと思うほどに、愛おしい人間だった。

「進む先の幸いを。どうかお前の旅路の果てが、光に満ちている事を…月よ。お前の狂気を抱いた慈悲は、あの子によって否定される。終わる時が来たのだ」

歪む月を見て笑う。
手招く事で終を与える必要はなくなったのだ。永きに渡りその在り方を保ち続けた月に住まう妖も、ようやく終わる事が出来るのだろう。
月に向かい、手を伸ばす。水に溶けるように端から消えていくその様を見ながら、一つの名を唇が形作る。
微笑みを湛え、妖は静かに眼を閉じて。

男を愛し、男に愛された妖の存在は、欠片も残さず消えていく。



20250402 『空に向かって』

4/2/2025, 9:58:04 AM

人波をすり抜けるようにして駆け抜けていく、小さな影。普段ならば気にも留めない誰かの急ぐ背中が、何故か目を引いた。
今日は特に予定がある訳ではない。これも何かの縁だと、影を追うように駆け出した。



「あの」
「っ、誰?」

何かを探すように辺りを見回すその影に、声をかける。それに返る声は警戒を滲ませ硬い。

「何かを探しているようだったから。急に声をかけてごめんね」

不用意に声をかけてしまった事を少しばかり後悔する。敵ではないのだと伝えるにはどうするべきか悩みながら、一歩だけ影に近づいた。
表情の凪いだ、それでいて刃のように鋭い目と視線が交わる。小柄で華奢な少女には、随分と不釣り合いだ。
不意に、少女の目が僅かに見開かれ。鋭さに戸惑いが滲んで、くらり、と揺れたような気がした。

「――せんせい?」

微かな呟きが、鼓膜を揺する。それが誰なのか問う前に、少女は目を伏せて首を振った。

「何でもないです。気にかけてくれて、ありがとうございます。でも、大丈夫ですから」
「探しているのは、その先生?」
「違います。せんせいはかみさまだから、きっと大丈夫。だけど」
「探しているのは、貴様の兄か。どうやら面倒事に巻き込まれているようだな」

背後から聞こえた声に、振り返る。険しい顔をして腕を組んだ彼が、見定めるように少女を見ていた。

「黄櫨《こうろ》」
「なに、神様」
「その娘を、我の元まで連れてこい」

何故、と少女がか細い声を上げる。その目には鋭さはなく、困惑と微かな驚愕に揺れていた。

「せんせいではないのに、せんせいがいるみたい…あなたたちは、一体誰?」

泣くように歪んだ表情に、安心させるため笑いかける。
怖くないよ、と手を差し伸べた。

「はじめまして、私は黄櫨。神様の…御衣黄様の眷属だよ」
「けんぞく…?」
「一緒に来てくれる?あなたの探している人を見つける、手助けにもなると思うから」

少女の目が、迷うように揺れて。
怖ず怖ずと、差し伸べた手を取った。





「兄の、行方が分からないんです」

調《しらべ》と名乗った少女は、そう言って力なく目を伏せる。
社務所の一室。少女の話を聞き終えて、隣で佇む彼の様子を伺った。彼は何も言わない。少女を見据えたまま、金の瞳が揺らめいた。

「もう一ヶ月近くにもなります。生きてはいるはずですが…どうしても見つからない」

兄が消えた。家にも学校にも、どこにもいない。
そう訴える少女は、膝の上に置いた手を握り締める。縁を辿って方々を探しているようだが、それも限界なのだろう。

「心当たりはないの?」

握り締めた手に力が籠もる。顔を上げた少女の目は泣きそうに歪んでいた。

「――あります。ですが、兄との約束で直接関わる事は出来ません」
「構わん。貴様の兄とやらは、蜘蛛の元には居らぬからな」

険しい顔をして、彼は断言する。
何か、見えたのだろうか。

「死す事はないだろうよ。随分と巧妙に隠されたものだ。我の眼でも視えぬ」

隠された、という事はつまり、誰かが関与しているのか。それは少女の心当たりであるらしい蜘蛛とは、別の誰かなのだろう。
敵ではない。断言は出来ないだろうけれど、そう思う。そうであって欲しいと、思っている。

「黄櫨」

険しい顔のままの彼に呼ばれ、視線を向ける。

「お前は、何を望む」

問われて、少女を見る。兄が生きているという安堵と、けれど誰かに隠されて何処にいるか分からないという不安で、今にも崩れ落ちてしまいそうだ。
今日出会ったばかりの、見知らぬ少女。調という名前以外には何も知らない。
少女の兄。蜘蛛。そして先生。

「神様の言う蜘蛛は、危険なの?」
「そうだな。ここで黙したままでいた所で、いずれ蜘蛛の糸がそこの娘だけでなく、黄櫨にも絡みつくだろう」

彼の答えを聞きながら、考える。
少女は何も言わない。倒れそうになりながらも、助けを求めて手を伸ばさずに、一人で必死に耐えている。
彼を見た。答えを待つ彼に、笑ってみせる。

「私、この子とお友達になりたいな」

息を呑む音。それに敢えて気づかない振りをして、彼に望む。。

「友達のお兄さんを一緒に探したい」
「――黄櫨がそれを望むのであれば、拒む理由はあるまいよ」
「ありがとう、神様」

不本意だという顔をしながらも否定しない彼に礼を言えば、どうして、と微かな声がした。
振り返り、少女と目を合わせる。泣きそうに揺らぐ黒曜の目を見つめて、安心させるように微笑んだ。

「そういう訳だから。一緒にお兄さんを探そう?」

はじめましてをした時と同じように手を差し伸べる。
迷う目が手を見つめ、どうして、と繰り返す。

「今日初めて会ったばかりなのに、何故危険を冒そうとするのですか」
「あなたの事が知りたい、って思ったの。そして友達になりたくなった。それだけじゃ、理由としては不十分?」

首を傾げて問いかければ、少女は緩く首を振る。顔を上げ、澄んだ黒曜がこちらを真っ直ぐに見返した。

「ありがとう」

小さく呟いて差し出した手に、手を重ね。

「はじめまして、調です。兄を一緒に探してくれる事、とても嬉しいです」

微笑んで、重ねた手をしっかりと握った。



20250401 『はじめまして』

3/31/2025, 2:12:18 PM

「またね!」

どこからか聞こえた声に少女は立ち止まる。

「ねぇ、何か言った?」
「別に何も言ってないけど。気のせいじゃない?」

問いかけられた少女の友人は、眉を潜めながら知らない、と首を振る。友人の反応に、そんなはずはない、と少女は辺りを見渡して。
そこで先ほどまで振っていた雨が、いつの間にか止んでいる事に気づいた。

「あ。雨上がってるよ」
「ああ、本当だ」
「このまま晴れてくれないかな。最近雨ばっかりで、気分が滅入るよ」

はぁ、と重苦しい溜息を吐いて、差していた傘を閉じる。少女に倣い友人も傘を閉じると、厚い雲に覆われた空を見上げた。

「天気予報では、晴れだったんだけどね」
「天気予報なんて当たるわけないじゃん。見るだけ時間の無駄!」
「まあ、最近はそうだね。雨が上がる事はあっても、晴れる事はずっとないし」

二人揃って嘆息する。
ここ数週間、いくら天気予報が晴れると言っても、晴れ間など少しも見える事はなかった。雨が止んでも、しばらくすればまた雨は降り始める。
じめじめとした湿気も、手放せない傘も。おしゃれに気を遣い色々と持ち物の多い女子高生達には大変に不評であった。

「いい加減に晴れてほしいよね。これじゃあどこにも行けないし。湿気で髪が広がるし…ほんと、最悪」
「こればっかりは仕方ないよ。諦めて、気分転換にカフェにでも行く?バイト代入ったばっかだから、奢るよ?」
「いいの?ありがと、大好きっ!」
「はいはい、私も大好きですよ」

じゃれ合い、笑い合いながら、二人は行き先を自宅ではなく街中へと変更する。
クラスメイトや部活動のメンバーの秘密や恋バナなど、取り留めのない話をしながら。
呆れたように笑う友人の目が、睨むように自身が持つ傘を一瞥していた事に、少女は気づく事はなかった。





「またね!」

無邪気な声に、足を止める。
溜息を一つ。恨めしい気持ちを込めて、手にしていた傘を見上げた。

「いい加減、それ止めてくれない?」

答えはない。それが不快だと言わんばかりに眉が寄る。
無言で傘を閉じ、無造作に放り投げる。放物線を描いて地面に倒れると思われた傘は、しかし地面につく直前に柄の部分で器用にバランスを取って倒れる事はなかった。

「ちょっと!あぶないじゃないか」
「またねって言うの、止めてほしいんだけど」

文句を言う傘を気にもかけず、眉間に皺を刻んで睨み付ける。

「なんでさ。べつにいいじゃん。ちょっとくらい」
「そのちょっとで、雨がずっとスタンバってるんですけどね。そのせいで髪はまとまらないし、遊びにも行けなくてこっちはすごく困ってんの」

溜息を吐きながら傘に愚痴る。納得がいかないように揺れる傘をしばらく無言で見つめ。

「――じゃあ、いいや」

また一つ溜息を吐き。傘の横を通り過ぎた。

「え?ちょっ、ちょっと!?なんでおいてくのさ!」
「新しい傘を買うから。軽くて、おしゃれで、我が儘を言わない。素直ないい子をお迎えする事にする」
「そんなっ!」

跳びは成るようにして、慌てて傘がこちらに寄ってくる。追いつけない程度に足を速めると、すぐに嗚咽混じりの泣き声が聞こえて、立ち止まった。

「や、やだっ。いいこ、するから!ねぇ、おいてかないで」

振り返る。雨の滴とはまた違う、水滴を地面に落としながらえぐえぐと泣く傘を見て、何とも言えない気持ちで痛み出したこめかみを押さえた。

「――反省した?」
「した!したからっ」

必死な傘の声に、仕方がないと歩み寄り、傘を持つ。
力なく揺れながら、すてない?と何度も繰り返す傘に、これ以上責め立てる気も起きず、捨てないよ、と適当に言葉を返した。

「ほんとうに?ほんとうにすてない?かわいいこと、うわきしない?」
「浮気って…しないしない。傘は一本だけで十分です」

それでも不安そうに繰り返す傘に、小さく息を吐く。
生まれた時からの付き合いであるこの傘は、今日も元気に情緒不安定らしい。

「まったく…大体なんで雨にまたね、なんて言うのかね。また会いたいんだって思われて、すぐに雨が降ってくる事くらい分かるだろうに」
「だってね。いっしょにがっこう、いきたかったんだもん。あめふらないと、ぜったいおいていかれちゃうし」
「そりゃあ、余計な荷物は少ない方がいいし」
「にもつあつかいしないで!」

不機嫌だと言わんばかりに怒られる。泣いたり、怒ったりと、本当に忙しくて手の掛かる傘である。

「一緒に行きたいだなんてさ。もしかしてご自分が晴れ雨兼用だって、お忘れでない?」
「………あ」

傘の動きが止まる。どうやらすっかり忘れていたようだ。

「去年はあれだけ、もう嫌だ、お家にいたいって言ってたのに…まあ、それだけ元気なら、今年の夏も頑張ってもらいましょうかね」
「や、やだっ!あんなにあついのはやだもんっ」
「わがままめ」

苦笑しながらも、傘の文句を聞き流す。
不意に見上げた空に、僅かばかりの青空が見えて、目を細めた。
またね、と再会を期待されて側にいた雨は、どうやらいなくなったらしい。

「ちょっと!ちゃんとおはなし、きいてる!?」
「聞いてる聞いてる。今年もお互い頑張ろうって事だね」
「ちがうっ!」

叫ぶ傘を適当に宥めつつ、家路を急ぐ。
明日はきっと、どこまでも広がる青空が見られる事だろう。



20250331 『またね!』

3/30/2025, 2:35:41 PM

――すごく、きれいな花。

聞こえてきた〝聲〟に、立ち止まる。
空を見上げれば、澄み切った青空高くに太陽は昇り。暖かな、というには強すぎる日差しを大地に届けている。吹き抜ける風が、汗ばむ陽気に心地の良い涼を運ぶ。
とても良い天気だ。満開とはいかないまでも、桜が咲き始めているとも聞く。
大方〝聲〟の主は、どこかで花見でもしているのだろう。桜を見て笑う姿を想像し、思わず笑みを浮かべ。

――かわいい。食べるのがもったいないくらい。

だがそれは、新たに聞こえてきた〝聲〟を聞いて固まった。

「花より団子ってやつか」

呆れたように溜息を吐き。
ふと思いつき、にやり、と先ほどとは異なる種類の笑みを浮かべ、歩き出す。
〝聲〟の主である、彼女の元へ。





「なんだ。団子を食べてた訳じゃないんだ」
「ひゃぁ!?」

すぐ後ろから聞こえてきた声に、文字通り飛び上がって驚いた。
その拍子に手から買ったばかりの和菓子の袋が宙を舞う。そのまま落ちてしまうと手を伸ばすより早く、背後から伸びた大きな手が袋を掴んだ。

「気をつけろよ。危なっかしいな、お前」

態とらしい溜息を吐かれ、袋を手渡される。突然の事に固まったまま動けないでいると、手渡した袋ごと手を掴まれて歩き出した。

「え?ちょっ、と」
「道の真ん中で突っ立ったままじゃ、迷惑だろ。行くぞ」

手を引かれる形で、背後にいた彼が前に来る。何故ここに、と疑問が浮かぶけれども、彼の言葉を思い出し納得する。
きっと心の声を聞かれたのだろう。彼の話では、人が思っている事、考えている事を意識せずとも覚れるらしい。

「行くって、どこに?」
「公園。団子を食うんだったら、花も見ろ。デートだ、デート」
「でっ!?」

デートの一言に顔が熱くなる。嫌ではないし、嬉しいのだけれども、やはり恥ずかしい。

少し前。帰り道で追いかけてきた彼に告白され、付き合う事になった。その時は、色々な事が一気に押し寄せて不覚にも気絶してしまったのは、正直な所忘れてしまいたい。
繋がれた手を見る。いつの間にか手にしていた袋を取られて、しっかりと繋がれている事に益々顔が熱くなる。

「途中で団子とか、飲み物買って行こうぜ。この練り切りは家に帰ってからのお楽しみなんだろ」

すべて把握されている。彼は心を覚れるのだから、当然と言えば当然ではあるけれど。
心が覚れるからといって、彼に対する印象が大きく変わった訳ではない。ただ彼に対する気持ちが全部筒抜けになってしまう事は、やはり落ち着かない。
彼が好きだという気持ちが、言葉にする前に伝わってしまうのはもう仕方がない事だと半ば諦めているけれど。言わなくても伝わるからといって、言葉にしなくてもいいはずはない。
かといって好き、の一言を彼を前にして言えるかと言われれば、言えないのが正直な感想であるが。

「お前さ。そういうとこ、直した方がいいぞ」
「え?それってどういう」
「奢ってやるから、何食べるか考えておけって事」

いつもとはどこか違う彼に、不思議に思って彼を見る。
髪の間から見えた彼の耳が赤く染まっている事に気づいて、その意味を理解した。
彼に伝わっている。手を繋ぐ事が嬉しいのに恥ずかしいと思っている事も、好きだという気持ちも。言葉にしたくて出来ない、このもどかしさも。

「ほらっ!何食べたいんだ。別に団子でなくてもいいぞ。好きなもの考えろって」

ちらり、とこちらを振り返り睨み付ける彼の顔は、耳よりも赤い。思わず可愛いな、と思ってしまい、さらにきつくなる彼の目に、ごめんね、と慌てて謝った。

「本当に何なんだよ、お前。心を覚れるって打ち明けた時も、気持ち悪がったり、離れていこうとかもしないし。色々思ってるくせに、それを一言も言葉にしないし」
「だ、だって!」
「言葉にしたいって思うなら、ちゃんと行動に移せ。聞いてるこっちが恥ずかしくなる」

呟いて再び前を向く彼に、分かってる、と呟く。それでも続く言葉が何一つ出ない事に、我ながら呆れてしまう。
どうしたら良いのだろう。どうしたら言葉になるのだろうと、意気地のない自分自身に焦り。
その横を、風が通り抜けた。

「――あ。桜」

風が忘れていった薄桃色の花びらを手に取る。そういえば今日はいつもよりも暖かい。

春が来ているのだ。

彼を見る。肩についた桜の花びらに手を伸ばしながら。

「おだんごも、飲み物もいらないよ。こうして手を繋いで、一緒に桜を見れたらとってもうれしい」

素直に思っている事を口にした。



「――馬鹿」

少しの沈黙の後に、彼から出た呟く言葉にむっとする。
けれど言いかけた文句を遮るように、彼の歩みが速くなった。

「馬鹿。大馬鹿。そういう可愛い事を、簡単に口にすんな…もうこうなったら、お前の好きなもん、全部買ってやる。太らせてやる」
「なんでっ!?」

一度足を止めて、彼が振り返る。
真っ赤な顔をして真っ直ぐにこちらを見る目を、落ち着かない気持ちで見返した。

「お前が可愛いのが、悪い」

ゆっくりと噛みしめるような彼の言葉に、痛いくらいに心臓が騒ぎ出す。彼よりも真っ赤になっているだろう顔を隠すように俯いていると、彼はまた歩き出した。
公園の方向とは違う。向かう先が、さっきまでいた和菓子屋だと気づいて、別の意味で落ち着かなくなった。

「ちょっ、ちょっと。まさか、本当に」
「本当に…隠しても無駄だぞ。お前の〝聲〟は分かりやすいからな」
「あ、う…」

引き止めようとも、きっと彼は止まらない。
どうしようと焦る背中を風に押され、複雑な気持ちで彼の隣に並んだ。
周りから恋人のように見られたらいいな、と密かに期待して。

「本当にお前、馬鹿」

彼を見れば呆れたように笑っている。けれどその笑顔はとても優しくて、嬉しくなって笑い返した。

ああ、春が来ている。
心が落ち着かないのも、こんなに幸せだと笑ってしまうのも。
きっと、春のせいなのだろう。



20250330 『春風とともに』

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