「泣かないで」
呟く声が、空しく響く。
その言葉が相手に届く事はない。虚ろに涙を流し続ける少女には、己の意思など疾うになくなってしまっているのだから。
この涙は、記憶の残り滓だ。少女がかつて人間であった事を唯一証明出来る手段。
それを知りながら、男は腕を伸ばす。涙を拭い、少女を抱き上げる。
「泣かないで――笑って」
祈りにも似た声音で、男は囁いた。返る言葉がない事実から逃れるかのように、少女を抱く腕を強め、額に唇を寄せる。
また一筋、少女の頬を滴が濡らす。閉じる事のない目から、涙が零れ落ちていく。
どうして、と意味のない問いを男は繰り返す。笑えと願う男の姿は、いっそ憐れなほどに哀しく。
「いつまでも泣いていないで。早く起きて、また話をしよう。いくらでも聞いてあげるから」
少女の首を抱いて目を閉じる、男の背を。
無感情にただ、眺め続けていた。
「――という、夢を見ました」
「何でそれを、世話話でもするように気軽に言おうと思ったか、聞いてもいい?」
どこか誇らしげな幼い少女に、浮かべた笑みが思わず引き攣った。
穏やかな日差しの降り注ぐ午後。昼食を終えて微睡みかけた意識が、少女の訪問により一瞬で覚醒する。
「何故、と言われましても。これは予知夢というものではないのですか?」
「予知って…泣く少女の首を抱いた男が、現実にいてほしくないんだけど」
「化生、怪異の類いであれば、十分にあり得ますが」
少女の微笑みが、どこか恍惚に揺らぐ。
「実際に相対してみたいものです。相手にとって不足はありません」
その目に浮かぶ危うい煌めきに、思わず疲れた溜息が漏れた。
この屋敷の当主のお気に入りである少女は、順調に当主に染められているようだ。
悪い事ではないのだろう。飯綱《いづな》使いの血筋に生まれた以上、その気概はとても大切だ。敵に情を持たず、恐れを抱かずに相手に対峙出来る者など、同じ年頃の子達の中にはそうそういない。
「時に、兄様」
浮かべた笑みを消して、少女は視線を向けて声をかける。
従兄弟である自分を敢えて兄様と呼ぶのは、真剣な話があるからだろう。嫌な予感に身を竦めながら、少女を見た。
「な、何?」
「あの方とは、未だ契約をなさっておられないのですか」
静かな目がこちらを見据える。何の感情もないようで、隠し切れない嫉妬の色を湛えた目が、理解が出来ぬと言わんばかりに責め立てる。
「いつまでも契約をなされないのならば、わたくしにゆずってください」
「何、言って」
「管の扱い方の手ほどきならば、当主様自らがなさってくださるそうです」
息を呑む。強い目から逃れるように視線を逸らして、なんで、と呟いた。
「わたくしも選ばれた身です。貴重な管をこのまま遊ばせておくのなら、わたくしが使います」
「――まだ、はやい」
「兄様もわたくしの年頃に、式札を打ったと聞いています。早くなどありません」
頑なな少女の態度に、唇を噛みしめる。彼女の言うあの方とは、母がかつて従えていた管の事だ。強いが故に確固とした意思を持ち、己を従える者を選ぶような猛者だ。
彼に候補として選ばれたのが、自分と少女だった。
「早く決めて下さい。いつまでも逃げ続けるのは卑怯です」
「それ、は…」
「飯綱使いの血筋に生まれたのです。穏やかな最期など、迎えられぬ事は分かっているでしょう?失う事を恐れる時間があるなら、その分前へ進むべきです」
少女の言葉は、痛いほどによく分かる。飯綱使いとして怪異退治を生業とする身は、常に死と背中合わせだ。誰かの死を恐れて、立ち止まっている時間は意味がない。
分かってはいる。だが頭で理解はしても心では納得が出来ていない。目の前で母を失った強い記憶が、足を留めてしまう。
「分かってるよ…でも、やっぱりまだ早い」
「兄様!」
「ごめんね」
自嘲めいた笑みを浮かべて、首を振る。決して譲らないと知って、少女は強くこちらを睨み付け。そして深く息を吐いて、呟いた。
「兄様は、夢で見た少女のようですね。傷ついても、壊されても、誰かのために泣く…どうか連れて行かれないでくださいね」
お願いです、と念を押され。戸惑う自分を置き去りに、少女は部屋を出て行く。
ぱたん、と扉が閉まる音が精一杯の少女の強がりのようで、申し訳なさに眉が下がる。
「ごめんね」
閉じた扉越しに呟く。
酷く疲れていた。何もする気が起きず、考えるのも嫌になり、ベッドに近寄りそのまま倒れ込んだ。
「誰かのために、泣く。か」
少女の言葉を思い返す。そんな事があるかと、内心で呟いて目を閉じた。
泣くのは結局自分のためだ。
失うのが怖くて、一人残されるのが嫌で泣いているのだ。まるで駄々をこねる幼い子供のように。
「馬鹿みたい」
「本当にね。いつまでも強情ばかり張って」
落ち着いた低い声がして、そっと頭を撫でられる。視線を向けずとも分かるその声色と温もりに、馬鹿、と呟いた。
「酷いな。泣いていると思ったから、慰めに来たというのに」
頭を撫でていた手が、頬を滑る。いつの間にか溢れていた涙を掬って、泣かないで、と囁かれた。
「泣いてない。ただ眠かっただけだ」
「本当に強情だ」
くすくす笑う声を聞く。それに文句を言う気力もなくて、やはり小さく馬鹿、と繰り返した。
母の管。自身で仕える者を決められる程強い、妖。
彼ならば、自分を置いていなくなる事はないだろうか。
――一人にしないで。もう誰もいなくならないで。
声には出さず、呟いて。そのまま意識を深く沈めていく。
「いいよ。――」
笑みを含んだ彼の言葉は、きっと気のせいだろう。
20250329 『涙』
穏やかな春の日差しが降り注ぐ午後。いつものように、彼の隣に寝転んで空を見上げていた。
吹き抜ける風が心地良い。ちらり、と横目で見る彼も、大分気が緩んでいるのか、狐の耳が出てしまっている。
ふふ、と笑えば、それに気づいて彼がこちらに視線を向ける。体を起こして、手を耳に見立てて頭に当てて軽く動かしてみれば、彼は少しだけ頬を染めてはにかんだ。
「もう、からかわないでよ」
「だって、可愛いんだもん」
「可愛くない」
むくれる彼に、くすくす笑いが溢れてしまう。そんな所が可愛いよ、と伝えようとして。けれどそれよりも先に、起き上がった彼に耳に見立てていた手を取られてしまう。
彼の手の熱が伝わって、嬉しくて仕方がないと鼓動が跳ねた。大分慣れてきたとはいえ、相変わらず心は彼に対してとても素直に気持ちを叫んでいる。それをいいな、と自分の事なのに羨ましがって、彼に向けている笑みに少しだけ苦いものが混じってしまった。
「どうしたの?」
「ううん。何でもない…ちょっと、いいなって思っちゃったの」
「何それ」
不思議そうな顔をして、彼は手を引くと顔を覗き込んでくる。大きく跳ねた鼓動を必死に誤魔化して、どうしたの、と惚けてみせた。
「彼氏、に、秘密事はなしにしてほしいんだけどな」
「べ、別に、秘密とかじゃ、ないもん」
頬が熱くなっていくのを感じて、さりげなく彼から視線を逸らす。これ以上はきっと駄目だ。気持ちが溢れて、泣いてしまう。
けれどそんなわたしの態度が、どうやら彼は気に入らなかったみたいで。ふん、と鼻を鳴らしてから、耳元に顔を寄せた。
まるで内緒話でもするように。悪戯を思いついた時のような、少し意地悪な声色で囁いた。
「――実礼《みのり》」
びくり、と肩が跳ねる。一つ遅れて、鼓動が煩いくらいに騒ぎ出す。
名前を呼ばれた。ただそれだけ。それだけなのに、息が出来ないくらいに、胸が熱くなる。
「な、んで。名前、ずっと…呼んでくれなかったっ」
「今まではね。妖に名前を呼ばれるのは、近くなっちゃうからあんまり良くはないんだけど。でも、今は…恋人、なんだし?」
顔を近づけたままで話しているせいで、彼の吐息が耳を掠めてこそばゆい。話の半分も理解出来ずに、ただ恥ずかしさや込み上げる熱さから逃げるように、嫌々と首を振った。
「ちょっと、離れて」
「実礼はボクの彼女じゃないの?嫌なの?」
「やじゃない、けど。でも、でもっ!」
耐えきれなかった一滴が、閉じた瞼の端から溢れ落ちていく。それに気づいて彼は慌てて体を離すと、手を伸ばして溢れた涙を拭ってくれる。
頭を撫でられて、乱れた呼吸が落ち着いていく。恐る恐る目を開けると、困ったような顔をした彼が、ごめんね、と呟いた。
「少し意地悪だったね。本当にごめん」
「――ばか」
「そんな事言っても可愛いだけだよ」
可愛い、可愛いね、と繰り返しながら、彼は頭を撫でる。
意地悪だ。さらに泣いてしまうと分かっていて、敢えて言葉にするのだから。
涙の膜が張った目で、彼をきつく睨み付ける。滲む景色でも、彼が優しく笑うのがはっきりと分かった。
「すっかり泣き虫さんになったね…人間って、本当に不思議。悲しくなくても泣くんだから」
彼の指が、涙を拭う。僅かに輪郭を取り戻した彼の目が、愛しさに細められているのが見えて、またじんわりと涙が滲んだ。
「ばか。もう、責任、とってよ」
彼への気持ちが溢れて、こうして泣いてしまうのだから。
彼が好き。好き、の一言では足りないくらいに、大好きで。けどその気持ちを、いつも言葉にしきれない。言葉に出来なかった気持ちが溜まっていって、耐えきれなくなって涙として溢れていくのだから。
だからその責任を取って、と。縋るように彼の服の裾を掴んで訴えれば、いいよ、と優しい声が返る。
「ちゃんと責任はとるよ。実礼を世界一幸せなお嫁さんにしてあげるからね」
砂糖菓子よりも甘い声で、そこに真剣な気持ちを込めて彼は告げた。
驚きすぎて止まってしまった涙を乱暴に拭って彼を見る。頬を赤く染めた彼が真剣な顔をして、それでも視線は逸らさずに。両手を取って、わたしの答えを待っていた。
「お嫁、さん?」
「そう。いっぱい頑張って、立派な狐になるから。実礼が大人になったら、ボクのお嫁さんになって」
鼓動が大きく跳ねた。今までよりも、一番大きく。
真剣に、けれどどこか不安そうな彼に、どう答えるべきかを迷う。
嫌ではない。とても嬉しい事だけれど、彼の真剣な言葉に、はい、の言葉だけではとても足りない気がした。
彼の目を見ながら、必死に考える。
考えて、ふと、彼に名前を呼ばれた時の気持ちを思い出した。
彼の手を握り返す。気持ちが涙になって流れていかないように、一度強く目を瞑って、開く。
「いいよ。わたし、山吹《やまぶき》、くんのお嫁さんになる」
彼に気持ちが伝わりますようにと思いを込めて、言葉を紡いだ。
「――って、ちょっと!?」
ぽんっ、と、軽い音を立て。
握っていたはずの彼の手が、小さくなってすり抜けていく。少し高かったはずの彼が一瞬で縮んで、草むらに転がるように落ちていった。
黄金色の狐のまん丸く見開いた目と目が合って。
「びっくりした。名前、呼ばれるのって、こんなにどきどきするんだね」
心底驚いたように、彼は呟いた。
それが何故か可笑しくて、くすくす笑いながら、草むらに寝転がる。
「ちょっと、笑わないでよ」
不機嫌そうな彼に、ごめん、と謝りながらも笑い声は止まらずに。側に来た彼の頭を撫でながら、空を見上げた。
大好きな彼が側にいて、名前を呼んでもらえる。
これがきっと、幸せというものなのだろう。
他の人からしたらちっぽけでありふれた、幸せともいえない些細なものなのかもしれない。
けれどわたしにとっては。
この小さな幸せが、泣いてしまうくらいに愛おしくてたまらないのだ。
20250328 『小さな幸せ』
種々に咲き乱れる花を見遣りながら、物憂げに目を伏せる。
春が来た。永い眠りの時は終わり、目覚めの時が来てしまった。
早く起きろと言わんばかりに、鳥達が囀る。春を奏で、愛を歌う。
なんて残酷なのだろうか。穏やかに、陽気に目覚めを告げながら、その裏側で苦痛で喘ぐその様を、嘲笑っているのだから。
目覚めなど知らず、眠り続けている方が余程幸せだろうに。苦痛も、恐怖も、不安も。冷たく、それでいて暖かな雪の下にすべて隠していればいいのに。
本当に残酷だ。目覚めを強要され、隠していたものを暴かれるだろう先に、涙が溢れ出す。
だがしかし。こうして愚痴を溢していても仕方がない。変える事も、止める事も出来ぬのだから。ただ時が過ぎていくのを、いつものように部屋の奥で待つだけだ。
あぁ、と痛み出したこめかみを抑えつつ、窓の外を睨み付ける。辺りが黄色く煙るのを一瞥して、忌々しいとばかりにカーテンを引いた。
「大丈夫?」
「――だいじょばない」
ぐすぐすと鼻を鳴らし、ベッドの片隅で蹲る彼に、だろうな、と密かに同意する。傍らに置かれたごみ箱に、あふれんばかりに積まれたちり紙の山が、その悲惨さを物語っているようだ。
「じぬ。こんどごぞ、ごろざれるっ!」
「いや、花粉症で死んだりはしないから」
肩を竦め、街で購入してきたばかりの空気清浄機を取り付ける。ずびっ、と鼻をかむ音を聞きながら、電源を入れた。
「それで。食欲はあるの?お粥ぐらいは食べられそう?」
「……がんばる」
「頑張って。食べたら薬を飲んで寝てて」
「ありがど」
「どういたしまして」
少し待ってて、と言い残し部屋を出る。キッチンに入ると、あらかじめ作っていた粥の鍋を火にかける。少し暖めるだけで十分だろう。
今年もまた花粉は猛威を振るっているらしい。不謹慎ではあるが、こうして彼が花粉症で苦しんでいるのを見ると、春が来たのだなと実感する。春爛漫に咲き乱れる花々よりも、囀る鳥の声よりも、彼は正確に春を告げてくれる。赤くなった目や枯れた声。自覚がない頃からはっきりと現れる兆候に、春を感じながらも薬の手配や、部屋の換気に一層気を遣うのが恒例行事となってきていた。
暖め終わった粥を盆に乗せる。椀と匙、それから水と薬を一緒に盆に乗せ、出来るだけ急いで彼の元へと戻った。
「ちょっと遅かったか」
ベッドの上ででろんと伸びる、小さな鼬に戻ってしまった彼に苦笑する。サイドテーブルに盆を置いて声をかけるも、反応はない。
「しょうがないね」
一つ息を吐いて、傍らのごみ箱を引き寄せる。粥が冷めてしまうが、無理に起こすまでもない。彼が寝ている間に溜まっているごみを片付けて、ついでに新しいちり紙も用意しようかと、ごみ箱を持って立ち上がりかけ。
「――だめ」
小さな呟きと共に、腕に彼の尾が絡みつき、引き止められた。
「だめ、って…ごみを片付けるだけなんだけど」
彼は答えない。しかし尾が離れる様子はない。
「本当に、しょうがないなあ」
苦笑して、ごみ箱を床に置き。彼の隣に座り直す。
一度こうなってしまっては、彼が離してくれるまでこの尾は離れない。管である彼の行動には必ず意味がある。きっと今は彼と共にいるのが最適解なのだろう。
不意に、かたん、と窓が揺れた。
視線を向ける。かたかたと小刻みに揺れる窓は、段々にその揺れを大きくし。
「――風?」
強く吹き抜ける風の音。窓を揺らし、家を軋ませながら駆け抜けていく。
風の音に紛れ、扉越しに硝子の割れる音がした。風の勢いに耐えきれず、窓が割れでもしたのだろう。
思わず息を詰める。彼との距離を無意識に詰めて、腕に巻き付いた尾に縋るように触れていた。
そうして、しばらく風の音が渦を巻き。次第に勢いをなくしていく風に耳を澄ませて。
窓が沈黙し、風の音が聞こえなくなってから、ようやく息を吐き出した。
「っ、ありがと」
礼を言って尾を撫でる。するりと離れていく尾にもう一度ありがとうと呟いて、立ち上がった。
彼を見る。弛緩して眠る彼に苦笑を漏らし、ごみ箱を手に今度こそ立ち上がる。
「さて、片付けをしないと、だね」
扉の先に広がっているだろう惨状を思い、眉を下げ。
仕方がないか、と呟いて、静かに部屋を出た。
20250327 『春爛漫』
雨上がりの空に浮かぶ七色を、目を細めて見上げた。
欠けた部分のない、はっきりと見える虹は珍しい。そういえば、と幼い頃に聞いたおとぎ話を思い出して、虹の根元を目指し歩き出す。
元より当てのない旅だ。それに虹は弟の憧れでもあったから、ちょうどいい。
「それじゃあ、宝探しといきますか」
笑って、胸に下げた七色に輝く石に触れる。それに応えるかのように石は煌めくと、背中に仄かな温もりと重さを感じた。
「にじのおたからは、何だろうね。にいちゃんは何がいい?」
「何だろうなあ。お宝だから宝石とか、珍しい金貨とかかな」
背中に抱きつく半透明の弟を見ながら、一般的な価値のあるものを述べていく。くすくす笑う弟が、ちがうでしょ、と囁いた。
「にいちゃんがほしいのは、大学のタンイでしょ。あと、あたらしいイガクの本!」
「……よく知ってんね。そのとおり」
得意げに胸を張る弟に、苦笑する。前にぼやいた呟きを、しっかりと聞いて覚えていたようだ。姿が見えずとも色々と聞かれていた事に、何ともいえない気持ちで虹に視線を向ける。
これからは姿は見えなくとも、発言には気をつけよう。密かに心に誓って、僅かに足を速めた。
「そういうおまえは何だと思う?虹の根元に埋まっているお宝は何がいい?」
「ぼくはね。にいちゃんがほしいものがうまっていたらいいと思うよ」
「欲がないなあ。本当に何かないのかよ」
「だって、今とっても幸せだもん。こうしてお外に出れるのも、にいちゃんとたびが出来るのも、本当にゆめみたいで、とってもとっても幸せ」
「――俺も幸せだよ。おまえが最期に石を託してくれたから、こうして夢を見ていられるんだ」
くふくふ笑う声を聞きながら、石を握る。
弟の願い事を思い返して、幸せだ、と自身に言い聞かせるように繰り返した。
数年前、弟は死んだ。
元々体が弱かった弟は、それでも医者に宣告された三年の余命宣告を超えて、七つを迎えるまで生き抜いた。
最期の日。窓の外の抜けるような青空を見ながら、穏やかに眠るように、弟は自身の時を止めた。ちっぽけな石とたった一つの願い事を託して、逝ってしまった。
――にいちゃん。ぼくのはんぶんを、この石にのこしていくから。だから、おねがい。ぼくをお外につれていってね。
その石は、自分が持ち込んだ外の一つだった。
外に憧れながら、一度も自らの意思で外へはいけなかった弟。窓から見える景色と、自分が語る話だけが外を知る手段だった弟のため、皆には内緒で何度も外にあるものを持ち込んだ。
春には、色とりどりに咲き誇る花を。
夏には、空へ飛び立つ蝉がおいていった抜け殻を。
秋には、風に乗って舞い踊っていた美しく色づいた葉を。
冬には、透き通る氷と、大地を白く染めていた雪を。
何度も見つかり、その度に怒られはしたが外の一部を持ち込む事を止めなかった。部屋の中に囚われて長くを生かされるよりも、短くも自由に生を駆け抜けていく方が余程大事だと思っていた。
自己満足でしかないその選択を、けれど今も後悔はしていない。弟の願いが、微笑むような最期の表情が、自分がした選択の答えだった。
「にいちゃん。何かんがえてるの?」
「ん。おまえの事。今、どうしてるのかなって」
背中から離れ、今度は腕に抱きつきながら浮かぶ弟を見ながら、微笑む。
あの日託された何の変哲もない石は、弟の葬儀が終わった後に七色の煌めきを宿すようになった。そしてその石から半透明の弟が現れるようになり。
それから機会がある毎に、こうして当てもない旅をしている。
「まだね、ねむっているよ。だからね、ゆめの中でいっしょに見てるんだよ」
石から現れた弟がいうには、弟の魂はすでに常世で眠っているのだという。今目の前にいる弟は、生前の弟の外に対する憧れと、あの最期の願いに石が応えて出来たモノらしい。
詳しくは分からない。だが弟の魂と繋がっているという目の前の弟を、疑うつもりはなかった。
「いつ目覚めて、新しく生まれてくるんだろうな」
「きっとね。にいちゃんとのたびにまんぞくしたらだと思うよ。だからまだまだ、ねむってるかな。ぼく、もっとにいちゃんとたびがしたいもん」
「そっか。じゃあ、虹の宝探しが終わったら、もっと楽しい目的地を見つけないとな」
虹の根元に向かいながらも、次を考える。
当てもない旅ではあるが、折角ならば弟に喜んでもらえる所がいい。
ふと、虹を見上げる。大分時間が経つというのに、まだ色鮮やかに残る七色に、珍しいな、と呟いた。
「あれね。たぶん、ぼくと同じようなモノだよ。雨が止んでほしい、おねがいに応えたんだ」
「そうなのか?本物の虹じゃないんじゃあ、お宝もないかな」
「あるよきっと!だって、にじだもん」
誰かの望みに応えた虹だろうと、虹は虹。だからきっと宝も埋まっていると弟は笑う。
そういうものだろうか。まあ、弟が言うのだから間違いはないのだろう。
「――少し走るか。どっちが先に虹の根元まで競争しよう」
「まけないもんね…よーい、どん!」
「おい!ずるいぞ」
腕から離れ、虹に向かい飛んでいく弟を、一呼吸遅れて追いかける。
「にいちゃん、はやく!」
楽しげに笑いながら自分を呼ぶ弟を追いかけながら、同じように笑う。
新しく生まれるために、今は眠り続けているらしい弟。
たとえ夢でしかないとしても、どうか憧れた外を精一杯に楽しんでほしい。
そしてどうか、次の生では本当の外を自由にその足で駆け抜けてほしい、と。
切に、願っている。
20250326 『七色』
肩で切りそろえた黒髪を揺らし、少女は頬を染めてはにかんだ。
父親らしき男に差し出された手と手を繋ぎ、少女は破顔する。歩き出す二人の向かう先で、赤子を抱いた母親らしき女が、微笑んで迎え入れる。
幸せそうな家族の一場面。ぼんやりと眺めていれば、少女がこちらに気づき、手を振った。
シフォンのスカートがふわりと広がる。男と繋いでいた手を離し、駆け寄る少女がその勢いのままに抱きついて。
こちらを見上げ、少女は満面の笑みを浮かべる。その赤い唇が、言葉を紡ぐために開かれて。
そこでいつも夢から覚める。
「今回も、夢の内容は同じですか」
「……はい」
俯く患者を横目に、医師はカルテを打ち込んでいく。
「私、どこか可笑しいのでしょうか」
疲れた声音で吐き出される言葉は、とても弱々しい。
――同じ夢を見続ける。それもまったく記憶にない家族らしき人の夢を。
そう訴える患者が、この病院に通院し始めて、そろそろ一月が過ぎようとしていた。いくら処方を変えても一向に変わらぬ症状に、患者だけでなく医師の表情も重苦しい。
夢の中の人物の誰にも、患者は心当たりがない。家族や親戚でもなく。友人や知り合いの中にも、あの家族はいなかった。
「それとも、あれは私の前世の記憶、というものなのでしょうか」
患者の呟きに、医師は何も答えない。
前世など非現実的な事を、医師が認める訳はないのだ。患者自身も夢を見るまでは、欠片も信じてはいなかったのだから。
実際、夢の見始めはただの夢だと歯牙にもかけなかった。二日、三日と続けて見ても、こんな事もあるだろうと、軽く考えていた。
だが一週間が過ぎ。さすがに可笑しいと、病院を受診した。
そこで処方された睡眠薬を飲んでも一向に変わらぬ現状に、患者は疲れ切っていた。
「改善が見られないようですので、もう少し量を増やしてみましょう。数日、様子を見て下さい」
「――はい。ありがとうございました」
力なく一礼して、診察室を出る。薬の量が増えれどおそらく意味がないだろう事は、患者自身が一番理解していた。
「――ぁ」
処方を受け取り、病院を出て。
患者の目が一点を見つめ、固まる。
視線の先。道路を挟んだ向かい側に、あの夢で見た少女がいた。
シフォンのスカートを揺らし、肩で切りそろえた黒髪を揺らして。笑みを浮かべて歩いている。
その背を追いかけ、思わず駆け出していた。赤信号を忌々しいとばかりに睨み付け、人混みに紛れ見えなくなる小さな背を必死に探す。
そうして、信号が青になると同時。少女を求めて駆け出して。
だが信号を渡り、辺りを見渡せど少女の姿はすでにない。
荒い呼吸を整える。道行く人が迷惑そうな表情を隠しもせずに患者の横を通り過ぎていくが、まったく気にならない。
胸に手を当てた。早鐘を打つ鼓動を感じながら、目を閉じる。
「本当に…いた」
立ち尽くし、呆然と呟くその言葉は、隠し切れない歓喜に濡れていた。
次の日訪れた患者に、医師は困惑に眉を寄せた。
「ですから、本当に彼女はいたんです!」
昨日とは打って変わって喜色溢れる表情を浮かべ、患者は医師に力説する。
「前世などではなかった。ただ、私が忘れていただけなんです」
患者は医師を見ながらも、遠いどこかを見つめている。記憶の欠落を悔いるように、欠落した事すら忘れてこうして病院を受診している事を恥じるように、だから、と呟いた。
「私は正常だった。可笑しくなった訳ではなかった!…ですので、もうこの先受診する事はないでしょう。今までありがとうございました」
お待ちください、と医師が止める間もなく、患者は一礼して診察室を去って行く。閉じられた扉に、医師は重苦しい溜息を吐いた。
――今回も駄目だった。
目頭を押さえ、椅子にもたれ掛かる。
あの患者はもうここには来ないと言っていた。だがそう遠くない先に、再び訪れる事になるのだろう。
「先生」
看護師が怖ず怖ずと声をかけるのを、何も言うなとばかりに手で制す。手を離し体を起こすと、軽く頭を振ってカルテに向き直った。
「――後で新しい病床の準備を」
「はい」
カルテに必要事項だけを記入して切り替える。それを見て、看護師が次の患者を呼ぶのを聞きながら、鬱々とした気持ちで医師は嘆息した。
深夜。医師の個室にて。
取り寄せたばかりの資料を見ながら、医師は幾度目かの溜息を吐く。
いくら資料を読み込めど、データベース内に収まる症例を検索しても、すべて結果は変わらない。
昼間訪れた患者には伝えていなかったが、同じような夢を見続ける症状の訴えが、ここ数ヶ月前から増えてきていた。
少女。両親らしき男女。乳児。これらの人物画現れる夢を見続けた者は、次第に現実にも少女がいたと訴え始め、そして最後には昏睡状態に陥る。
治療法はない。そもそも原因が不明であるがために、治療法が確立されていないのだ。
存在しない家族。存在しない記憶。
最初の症例と思われる一番古い記録には、補足でこう書かれていた。
――「彼女はいる」「今度こそやり直す」と、繰り返し発話がみられる。意思疎通は困難。
溜息を吐いて、顔を上げる。机の上のデジタル時計が、既に日付が変わっている事を示しており、込み上げる疲労に気分を変えようと立ち上がりかけて――。
「――そん、な」
何気なく来客用のソファに視線を向けて、そのまま硬直する。
ばさばさと、手にしていた資料が落ちる。拾わなければと意識の隅で思うものの体は自由にならず、視線を逸らす事も出来ない。
「そんな、ばかな」
幻覚だ。疲労で脳が働かず、現実にないものを写しているだけだ。
何度も自身に言い聞かせるも、思考のどこかではこれが現実であると認めている。相反し混乱する思考の片隅で、あの補足で書かれた言葉が思い浮かぶ。
――彼女は、いる。
此方側へ。現実の世界に来ようとしているのだ。
「――あぁ、そうか」
呆然と呟いて、崩れ落ちる。
それでも逸らす事の出来ない、視線の先。
ソファに行儀良く座りこちらを見つめる少女が、ふわり、と微笑んだ。
20250325 『記憶』