「泣かないで」
呟く声が、空しく響く。
その言葉が相手に届く事はない。虚ろに涙を流し続ける少女には、己の意思など疾うになくなってしまっているのだから。
この涙は、記憶の残り滓だ。少女がかつて人間であった事を唯一証明出来る手段。
それを知りながら、男は腕を伸ばす。涙を拭い、少女を抱き上げる。
「泣かないで――笑って」
祈りにも似た声音で、男は囁いた。返る言葉がない事実から逃れるかのように、少女を抱く腕を強め、額に唇を寄せる。
また一筋、少女の頬を滴が濡らす。閉じる事のない目から、涙が零れ落ちていく。
どうして、と意味のない問いを男は繰り返す。笑えと願う男の姿は、いっそ憐れなほどに哀しく。
「いつまでも泣いていないで。早く起きて、また話をしよう。いくらでも聞いてあげるから」
少女の首を抱いて目を閉じる、男の背を。
無感情にただ、眺め続けていた。
「――という、夢を見ました」
「何でそれを、世話話でもするように気軽に言おうと思ったか、聞いてもいい?」
どこか誇らしげな幼い少女に、浮かべた笑みが思わず引き攣った。
穏やかな日差しの降り注ぐ午後。昼食を終えて微睡みかけた意識が、少女の訪問により一瞬で覚醒する。
「何故、と言われましても。これは予知夢というものではないのですか?」
「予知って…泣く少女の首を抱いた男が、現実にいてほしくないんだけど」
「化生、怪異の類いであれば、十分にあり得ますが」
少女の微笑みが、どこか恍惚に揺らぐ。
「実際に相対してみたいものです。相手にとって不足はありません」
その目に浮かぶ危うい煌めきに、思わず疲れた溜息が漏れた。
この屋敷の当主のお気に入りである少女は、順調に当主に染められているようだ。
悪い事ではないのだろう。飯綱《いづな》使いの血筋に生まれた以上、その気概はとても大切だ。敵に情を持たず、恐れを抱かずに相手に対峙出来る者など、同じ年頃の子達の中にはそうそういない。
「時に、兄様」
浮かべた笑みを消して、少女は視線を向けて声をかける。
従兄弟である自分を敢えて兄様と呼ぶのは、真剣な話があるからだろう。嫌な予感に身を竦めながら、少女を見た。
「な、何?」
「あの方とは、未だ契約をなさっておられないのですか」
静かな目がこちらを見据える。何の感情もないようで、隠し切れない嫉妬の色を湛えた目が、理解が出来ぬと言わんばかりに責め立てる。
「いつまでも契約をなされないのならば、わたくしにゆずってください」
「何、言って」
「管の扱い方の手ほどきならば、当主様自らがなさってくださるそうです」
息を呑む。強い目から逃れるように視線を逸らして、なんで、と呟いた。
「わたくしも選ばれた身です。貴重な管をこのまま遊ばせておくのなら、わたくしが使います」
「――まだ、はやい」
「兄様もわたくしの年頃に、式札を打ったと聞いています。早くなどありません」
頑なな少女の態度に、唇を噛みしめる。彼女の言うあの方とは、母がかつて従えていた管の事だ。強いが故に確固とした意思を持ち、己を従える者を選ぶような猛者だ。
彼に候補として選ばれたのが、自分と少女だった。
「早く決めて下さい。いつまでも逃げ続けるのは卑怯です」
「それ、は…」
「飯綱使いの血筋に生まれたのです。穏やかな最期など、迎えられぬ事は分かっているでしょう?失う事を恐れる時間があるなら、その分前へ進むべきです」
少女の言葉は、痛いほどによく分かる。飯綱使いとして怪異退治を生業とする身は、常に死と背中合わせだ。誰かの死を恐れて、立ち止まっている時間は意味がない。
分かってはいる。だが頭で理解はしても心では納得が出来ていない。目の前で母を失った強い記憶が、足を留めてしまう。
「分かってるよ…でも、やっぱりまだ早い」
「兄様!」
「ごめんね」
自嘲めいた笑みを浮かべて、首を振る。決して譲らないと知って、少女は強くこちらを睨み付け。そして深く息を吐いて、呟いた。
「兄様は、夢で見た少女のようですね。傷ついても、壊されても、誰かのために泣く…どうか連れて行かれないでくださいね」
お願いです、と念を押され。戸惑う自分を置き去りに、少女は部屋を出て行く。
ぱたん、と扉が閉まる音が精一杯の少女の強がりのようで、申し訳なさに眉が下がる。
「ごめんね」
閉じた扉越しに呟く。
酷く疲れていた。何もする気が起きず、考えるのも嫌になり、ベッドに近寄りそのまま倒れ込んだ。
「誰かのために、泣く。か」
少女の言葉を思い返す。そんな事があるかと、内心で呟いて目を閉じた。
泣くのは結局自分のためだ。
失うのが怖くて、一人残されるのが嫌で泣いているのだ。まるで駄々をこねる幼い子供のように。
「馬鹿みたい」
「本当にね。いつまでも強情ばかり張って」
落ち着いた低い声がして、そっと頭を撫でられる。視線を向けずとも分かるその声色と温もりに、馬鹿、と呟いた。
「酷いな。泣いていると思ったから、慰めに来たというのに」
頭を撫でていた手が、頬を滑る。いつの間にか溢れていた涙を掬って、泣かないで、と囁かれた。
「泣いてない。ただ眠かっただけだ」
「本当に強情だ」
くすくす笑う声を聞く。それに文句を言う気力もなくて、やはり小さく馬鹿、と繰り返した。
母の管。自身で仕える者を決められる程強い、妖。
彼ならば、自分を置いていなくなる事はないだろうか。
――一人にしないで。もう誰もいなくならないで。
声には出さず、呟いて。そのまま意識を深く沈めていく。
「いいよ。――」
笑みを含んだ彼の言葉は、きっと気のせいだろう。
20250329 『涙』
3/29/2025, 2:16:20 PM