肩で切りそろえた黒髪を揺らし、少女は頬を染めてはにかんだ。
父親らしき男に差し出された手と手を繋ぎ、少女は破顔する。歩き出す二人の向かう先で、赤子を抱いた母親らしき女が、微笑んで迎え入れる。
幸せそうな家族の一場面。ぼんやりと眺めていれば、少女がこちらに気づき、手を振った。
シフォンのスカートがふわりと広がる。男と繋いでいた手を離し、駆け寄る少女がその勢いのままに抱きついて。
こちらを見上げ、少女は満面の笑みを浮かべる。その赤い唇が、言葉を紡ぐために開かれて。
そこでいつも夢から覚める。
「今回も、夢の内容は同じですか」
「……はい」
俯く患者を横目に、医師はカルテを打ち込んでいく。
「私、どこか可笑しいのでしょうか」
疲れた声音で吐き出される言葉は、とても弱々しい。
――同じ夢を見続ける。それもまったく記憶にない家族らしき人の夢を。
そう訴える患者が、この病院に通院し始めて、そろそろ一月が過ぎようとしていた。いくら処方を変えても一向に変わらぬ症状に、患者だけでなく医師の表情も重苦しい。
夢の中の人物の誰にも、患者は心当たりがない。家族や親戚でもなく。友人や知り合いの中にも、あの家族はいなかった。
「それとも、あれは私の前世の記憶、というものなのでしょうか」
患者の呟きに、医師は何も答えない。
前世など非現実的な事を、医師が認める訳はないのだ。患者自身も夢を見るまでは、欠片も信じてはいなかったのだから。
実際、夢の見始めはただの夢だと歯牙にもかけなかった。二日、三日と続けて見ても、こんな事もあるだろうと、軽く考えていた。
だが一週間が過ぎ。さすがに可笑しいと、病院を受診した。
そこで処方された睡眠薬を飲んでも一向に変わらぬ現状に、患者は疲れ切っていた。
「改善が見られないようですので、もう少し量を増やしてみましょう。数日、様子を見て下さい」
「――はい。ありがとうございました」
力なく一礼して、診察室を出る。薬の量が増えれどおそらく意味がないだろう事は、患者自身が一番理解していた。
「――ぁ」
処方を受け取り、病院を出て。
患者の目が一点を見つめ、固まる。
視線の先。道路を挟んだ向かい側に、あの夢で見た少女がいた。
シフォンのスカートを揺らし、肩で切りそろえた黒髪を揺らして。笑みを浮かべて歩いている。
その背を追いかけ、思わず駆け出していた。赤信号を忌々しいとばかりに睨み付け、人混みに紛れ見えなくなる小さな背を必死に探す。
そうして、信号が青になると同時。少女を求めて駆け出して。
だが信号を渡り、辺りを見渡せど少女の姿はすでにない。
荒い呼吸を整える。道行く人が迷惑そうな表情を隠しもせずに患者の横を通り過ぎていくが、まったく気にならない。
胸に手を当てた。早鐘を打つ鼓動を感じながら、目を閉じる。
「本当に…いた」
立ち尽くし、呆然と呟くその言葉は、隠し切れない歓喜に濡れていた。
次の日訪れた患者に、医師は困惑に眉を寄せた。
「ですから、本当に彼女はいたんです!」
昨日とは打って変わって喜色溢れる表情を浮かべ、患者は医師に力説する。
「前世などではなかった。ただ、私が忘れていただけなんです」
患者は医師を見ながらも、遠いどこかを見つめている。記憶の欠落を悔いるように、欠落した事すら忘れてこうして病院を受診している事を恥じるように、だから、と呟いた。
「私は正常だった。可笑しくなった訳ではなかった!…ですので、もうこの先受診する事はないでしょう。今までありがとうございました」
お待ちください、と医師が止める間もなく、患者は一礼して診察室を去って行く。閉じられた扉に、医師は重苦しい溜息を吐いた。
――今回も駄目だった。
目頭を押さえ、椅子にもたれ掛かる。
あの患者はもうここには来ないと言っていた。だがそう遠くない先に、再び訪れる事になるのだろう。
「先生」
看護師が怖ず怖ずと声をかけるのを、何も言うなとばかりに手で制す。手を離し体を起こすと、軽く頭を振ってカルテに向き直った。
「――後で新しい病床の準備を」
「はい」
カルテに必要事項だけを記入して切り替える。それを見て、看護師が次の患者を呼ぶのを聞きながら、鬱々とした気持ちで医師は嘆息した。
深夜。医師の個室にて。
取り寄せたばかりの資料を見ながら、医師は幾度目かの溜息を吐く。
いくら資料を読み込めど、データベース内に収まる症例を検索しても、すべて結果は変わらない。
昼間訪れた患者には伝えていなかったが、同じような夢を見続ける症状の訴えが、ここ数ヶ月前から増えてきていた。
少女。両親らしき男女。乳児。これらの人物画現れる夢を見続けた者は、次第に現実にも少女がいたと訴え始め、そして最後には昏睡状態に陥る。
治療法はない。そもそも原因が不明であるがために、治療法が確立されていないのだ。
存在しない家族。存在しない記憶。
最初の症例と思われる一番古い記録には、補足でこう書かれていた。
――「彼女はいる」「今度こそやり直す」と、繰り返し発話がみられる。意思疎通は困難。
溜息を吐いて、顔を上げる。机の上のデジタル時計が、既に日付が変わっている事を示しており、込み上げる疲労に気分を変えようと立ち上がりかけて――。
「――そん、な」
何気なく来客用のソファに視線を向けて、そのまま硬直する。
ばさばさと、手にしていた資料が落ちる。拾わなければと意識の隅で思うものの体は自由にならず、視線を逸らす事も出来ない。
「そんな、ばかな」
幻覚だ。疲労で脳が働かず、現実にないものを写しているだけだ。
何度も自身に言い聞かせるも、思考のどこかではこれが現実であると認めている。相反し混乱する思考の片隅で、あの補足で書かれた言葉が思い浮かぶ。
――彼女は、いる。
此方側へ。現実の世界に来ようとしているのだ。
「――あぁ、そうか」
呆然と呟いて、崩れ落ちる。
それでも逸らす事の出来ない、視線の先。
ソファに行儀良く座りこちらを見つめる少女が、ふわり、と微笑んだ。
20250325 『記憶』
3/25/2025, 2:04:12 PM