sairo

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穏やかな春の日差しが降り注ぐ午後。いつものように、彼の隣に寝転んで空を見上げていた。
吹き抜ける風が心地良い。ちらり、と横目で見る彼も、大分気が緩んでいるのか、狐の耳が出てしまっている。
ふふ、と笑えば、それに気づいて彼がこちらに視線を向ける。体を起こして、手を耳に見立てて頭に当てて軽く動かしてみれば、彼は少しだけ頬を染めてはにかんだ。

「もう、からかわないでよ」
「だって、可愛いんだもん」
「可愛くない」

むくれる彼に、くすくす笑いが溢れてしまう。そんな所が可愛いよ、と伝えようとして。けれどそれよりも先に、起き上がった彼に耳に見立てていた手を取られてしまう。
彼の手の熱が伝わって、嬉しくて仕方がないと鼓動が跳ねた。大分慣れてきたとはいえ、相変わらず心は彼に対してとても素直に気持ちを叫んでいる。それをいいな、と自分の事なのに羨ましがって、彼に向けている笑みに少しだけ苦いものが混じってしまった。

「どうしたの?」
「ううん。何でもない…ちょっと、いいなって思っちゃったの」
「何それ」

不思議そうな顔をして、彼は手を引くと顔を覗き込んでくる。大きく跳ねた鼓動を必死に誤魔化して、どうしたの、と惚けてみせた。

「彼氏、に、秘密事はなしにしてほしいんだけどな」
「べ、別に、秘密とかじゃ、ないもん」

頬が熱くなっていくのを感じて、さりげなく彼から視線を逸らす。これ以上はきっと駄目だ。気持ちが溢れて、泣いてしまう。
けれどそんなわたしの態度が、どうやら彼は気に入らなかったみたいで。ふん、と鼻を鳴らしてから、耳元に顔を寄せた。
まるで内緒話でもするように。悪戯を思いついた時のような、少し意地悪な声色で囁いた。

「――実礼《みのり》」

びくり、と肩が跳ねる。一つ遅れて、鼓動が煩いくらいに騒ぎ出す。
名前を呼ばれた。ただそれだけ。それだけなのに、息が出来ないくらいに、胸が熱くなる。

「な、んで。名前、ずっと…呼んでくれなかったっ」
「今まではね。妖に名前を呼ばれるのは、近くなっちゃうからあんまり良くはないんだけど。でも、今は…恋人、なんだし?」

顔を近づけたままで話しているせいで、彼の吐息が耳を掠めてこそばゆい。話の半分も理解出来ずに、ただ恥ずかしさや込み上げる熱さから逃げるように、嫌々と首を振った。

「ちょっと、離れて」
「実礼はボクの彼女じゃないの?嫌なの?」
「やじゃない、けど。でも、でもっ!」

耐えきれなかった一滴が、閉じた瞼の端から溢れ落ちていく。それに気づいて彼は慌てて体を離すと、手を伸ばして溢れた涙を拭ってくれる。
頭を撫でられて、乱れた呼吸が落ち着いていく。恐る恐る目を開けると、困ったような顔をした彼が、ごめんね、と呟いた。

「少し意地悪だったね。本当にごめん」
「――ばか」
「そんな事言っても可愛いだけだよ」

可愛い、可愛いね、と繰り返しながら、彼は頭を撫でる。
意地悪だ。さらに泣いてしまうと分かっていて、敢えて言葉にするのだから。
涙の膜が張った目で、彼をきつく睨み付ける。滲む景色でも、彼が優しく笑うのがはっきりと分かった。

「すっかり泣き虫さんになったね…人間って、本当に不思議。悲しくなくても泣くんだから」

彼の指が、涙を拭う。僅かに輪郭を取り戻した彼の目が、愛しさに細められているのが見えて、またじんわりと涙が滲んだ。

「ばか。もう、責任、とってよ」

彼への気持ちが溢れて、こうして泣いてしまうのだから。
彼が好き。好き、の一言では足りないくらいに、大好きで。けどその気持ちを、いつも言葉にしきれない。言葉に出来なかった気持ちが溜まっていって、耐えきれなくなって涙として溢れていくのだから。
だからその責任を取って、と。縋るように彼の服の裾を掴んで訴えれば、いいよ、と優しい声が返る。

「ちゃんと責任はとるよ。実礼を世界一幸せなお嫁さんにしてあげるからね」

砂糖菓子よりも甘い声で、そこに真剣な気持ちを込めて彼は告げた。
驚きすぎて止まってしまった涙を乱暴に拭って彼を見る。頬を赤く染めた彼が真剣な顔をして、それでも視線は逸らさずに。両手を取って、わたしの答えを待っていた。

「お嫁、さん?」
「そう。いっぱい頑張って、立派な狐になるから。実礼が大人になったら、ボクのお嫁さんになって」

鼓動が大きく跳ねた。今までよりも、一番大きく。
真剣に、けれどどこか不安そうな彼に、どう答えるべきかを迷う。
嫌ではない。とても嬉しい事だけれど、彼の真剣な言葉に、はい、の言葉だけではとても足りない気がした。
彼の目を見ながら、必死に考える。
考えて、ふと、彼に名前を呼ばれた時の気持ちを思い出した。
彼の手を握り返す。気持ちが涙になって流れていかないように、一度強く目を瞑って、開く。

「いいよ。わたし、山吹《やまぶき》、くんのお嫁さんになる」

彼に気持ちが伝わりますようにと思いを込めて、言葉を紡いだ。


「――って、ちょっと!?」

ぽんっ、と、軽い音を立て。
握っていたはずの彼の手が、小さくなってすり抜けていく。少し高かったはずの彼が一瞬で縮んで、草むらに転がるように落ちていった。
黄金色の狐のまん丸く見開いた目と目が合って。

「びっくりした。名前、呼ばれるのって、こんなにどきどきするんだね」

心底驚いたように、彼は呟いた。
それが何故か可笑しくて、くすくす笑いながら、草むらに寝転がる。

「ちょっと、笑わないでよ」

不機嫌そうな彼に、ごめん、と謝りながらも笑い声は止まらずに。側に来た彼の頭を撫でながら、空を見上げた。

大好きな彼が側にいて、名前を呼んでもらえる。
これがきっと、幸せというものなのだろう。
他の人からしたらちっぽけでありふれた、幸せともいえない些細なものなのかもしれない。
けれどわたしにとっては。

この小さな幸せが、泣いてしまうくらいに愛おしくてたまらないのだ。



20250328 『小さな幸せ』

3/28/2025, 2:07:00 PM