sairo

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3/6/2025, 2:26:51 PM

柔らかな風がカーテンを揺らし、窓際に置かれたテーブルに薄紅の花弁を散らす。

「あら?」

読んでいた本を閉じ、女は花弁を手に取り窓の外を見る。見える範囲に花弁と同じ色をした花はない。そも、未だ寒さの残るこの季節に咲く花など、この辺りにはなかったはずだ。

「あなたはどこから来たのかしら?」

指先で花弁をなぞり、女はくすくすと笑う。揺れるカーテンに視線を向けて、ありがとう、と囁いた。

「遠くの方では、もう春が来ているのね。この庭にはいつ頃来てくれるのかしら」

目を細め遠くを見つめる女の眼は、少女のように煌めいて。

「春が来て、花が咲いたのなら。そうしたら皆でお花見をするのもいいわね。お弁当をたくさん作って…楽しみでしょう?」

見えない何かと語る女は春を夢見て頬を染め、ほぅ、と吐息を溢した。
その言葉に応えるように、風が吹き抜ける。カーテンを揺らし、女の髪を悪戯に乱して、自由気ままに駆け抜けていく。
それを笑って見送って、楽しみね、と繰り返し。

こほん、と咳を一つ。
ひゅう、と喉が鳴って。

「少し、疲れたみたい…皆が戻ってくるまで、ちょっとだけ。ほんのちょっと、眠っていよう、かしら」

机の上に身を伏せる。待ち人を想い、口元に微笑みを浮かべ。眼を閉じて、息を吐き。
そのまま眠りに落ちるように、静かに女は自身の時計の針を止めた。





はぁ、と重苦しい息を吐き、着替えもせずにベッドに横になる。
母が亡くなって一年が経った。一年経っても、未だに母の死はどこか遠い。
それはあの日。眠るようにその時を止めた母が、死とは無縁の穏やかな表情をしていたからなのだろう。


「――疲れた」

酷く疲れていた。皺になる前に礼服を脱いでしまいたいと、冷静な自分は急かしている。けれど心の内の本能に近い自分が、頑なに動く事を拒否している。

「疲れた、な」

肉体的に、ではなく。精神的に。
母の死を受け入れているとはいえ、その死と改めて向き合うのは、精神を摩耗させる。心の奥底の柔く繊細な部分を、容赦なく抉り取って行く気すらした。
目を閉じる。少しだけ、と誰にでもなく言い訳をして、微睡みに身を任せた。

不意に、どこからか甘い香りが、した。
薄目を開けて、視線を巡らせる。かたり、と音のする方へと視線を向けて、そこで始めて窓が開いている事に気づいた。
かたん、と音を立てて風が窓枠を通り過ぎ。カーテンを揺らし、ベッドシーツを波立たせて、何かを目の前に落として去って行く。

「な、に…?」

気怠い腕を持ち上げ、目の前のそれへと伸ばす。濃い紅色をしたそれは、よく見れば梅の花だった。
内心で首を傾げる。家の庭には梅の木は植えてなかったはずだ。

「邪魔をするぞ」

聞こえた声に、視線を向ける。体を起こそうとして、けれど重く怠さの強い体は動く事を只管に拒み、ほんの僅かもベッドから離れる事はなかった。

「あぁ、気にするな。母御の一年忌だったのだろう。疲れて当然だ。親しき者の死と向き合うのは、疲労を伴うものだ」
「――すみません」

穏やかに笑う彼に、小さく謝罪をする。気にするな、と繰り返して、彼は静かにこちらに歩み寄ると、そのままベッドに腰をかけた。

「庭のモノらが心配をしていたぞ。風が儂らの所まで便りを運ぶくらいだ」

大きな手が優しく頭を撫で、そっと視界を塞ぐ。

「落暉《らっき》、さん?」
「――穢れに中てられたのだろう。死とは、誰であれ、どんな形であれ穢れを呼びやすいからな」
「穢れ…」

眉が寄る。母の死を不浄だと思えなかった。

「死を忌むべきものだと、古くから人間は怖れているからな。仕方のない事だ。死に対して、悲嘆や苦痛といった負の感情が纏わり付けば、それは穢れの形をとる。どんなに穏やかな死であれ、残された者が負の感情を持てば穢れとなり、それは精神を摩耗させる」

そうか。哀しいのか。
哀しくて、寂しい。そういった想いが、母の一周忌に集まった人達の中で溢れてしまって。
自分は今、その想いで溺れかけているのか。

「疲れた時は、休むといい。父御に書き置きを残しておいた。しばらくは儂らの元でゆるりと過ごせ」

きぃん、と耳鳴りに似た音がする。地面が揺らぐ感覚がして、縋るものを求めて目を塞ぐ彼の手を掴んだ。

「怖がる事はない…ほら、着いたぞ」

穏やかな声と共に手を外される。急な眩しさに目を細めつつ、辺りを見渡した。
見覚えのある部屋だ。自分の家とは違う、木とい草の匂いのする和室。
ここは彼が何よりも大事にしている、彼女の屋敷だ。

「ちょっと!?何やってるの!」

襖が開く音と共に、聞き覚えのある声がした。目を瞬いて焦点を合わせ、声のした方へと視線を向ける。

「樹《たつき》、大丈夫?」
「――桔梗《ききょう》?」
「うん。そうだよ。気持ち悪くない?苦しかったり、痛い所があったらすぐに言って」

側に駆け寄ってきた彼女の名前を呼べば、心配そうに眉を寄せながらも微笑まれる。無理に起き上がったために、ふらつく体を支えてくれる彼女に申し訳なく思いながらお礼を言った。

「ありがとう。ごめん」
「気にしないで。落暉の馬鹿が無理に連れてきたんだろうから。こっちこそごめんね」

眉を下げて謝る彼女に首を振り、ふと視線を巡らせた。
側にいたはずの彼の姿が、どこにもない。

「落暉さんは?」
「出て行った。台所の方へ行ったみたい」

まったく、と嘆息して、彼女は彼が出て行ったであろう障子戸を睨み付ける。ゆるりと頭を振って、支えていた体を横にさせ、布団をかけられた。

「え?ちょっと」
「少し寝た方がいいよ。ここにいてあげるから」

さっき彼がしたように、彼女の手が目を塞ぐ。暗くなった視界で、意識が揺らいだ。
遠く、誰かの声が聞こえた。彼女の答える声も、どこか遠い。

「風が、樹のお父さんが元気になるまでここにいていいよ、だって」

柔らかな彼女の声に、ありがとう、と小さく返す。目を一つ瞬いてから、ゆっくりと閉じた。
風が頬を撫でる感覚がした。ふわり、と花の香りがして、思わず深く息を吸い込んだ。
重い怠さが消えて、後は心地の良い微睡みがさらに眠気を誘う。

「樹は皆に愛されてるね」

くすくす笑う彼女の笑い声を聞きながら、それはお互い様だよ、と声に出さずに呟いた。



20250306 『風が運ぶもの』

3/5/2025, 2:04:05 PM

少女は一人、夜空を見上げていた。
そのまま夜に解けて行きそうな程の儚さに、少年は思わず息を呑む。まるで西洋の絵画を見ているような、少女の周りだけ時が止まっているような錯覚に、頭を軽く振って意識を戻す。
声をかけるべきか。暫し、悩む。
こんな夜半に、一人きりで空を見上げる少女。見目通りの、ただの少女ではないのだろう。常ならば、声をかける事なく、気づかれぬよう静かにその場を離れたはずだ。
はぁ、と溜息を吐く。関わりたくないとは思うが、帰るには少女の側を通らなければならない。
ざりっ、とわざと足音を立てて、少女に歩み寄る。それに気づいて少女は空から視線を逸らし、音のしたこちらの方へと視線を向けた。
深い海のような、濡れた青の瞳と視線が交わる。焦点を結ぶように少女は目を瞬き、ふわり、と微笑んだ。

「Good evening.こんばんは。星の綺麗な夜ね」

静かで、不思議な抑揚の言葉。
声をかけられて、仕方なく足を止めた。

「Who are you?あなたはだあれ?」
「この先にある家に住む者です。星見の邪魔をしてすみませんでした」
「Never mind.気にしないで」

くすくすと、可憐に笑う少女に会釈をして、その横を通り過ぎる。
しばらく歩き、振り返る。夜空を見上げる少女の影が小さく見えて、小さく息を吐いた。





少女と始めて出会ったあの夜から幾日か過ぎて。
変わらず同じ場所で空を見上げる少女に、どうしたものかと思案する。
近づく己に声をかけ、側を離れれば再び空を見上げる。あの日以降言葉を返さぬ己に気分を害する様子もなく、会えば嬉しそうに微笑む少女に、少しばかり申し訳なさを覚え始めていた。
夜道を一人歩く。もうすぐ、少女のいる広場へと出る。
僅かばかり速まる足取りに自嘲しながら、ふと気になり空を見上げた。
季節柄、燦めく星がよく見える。この果てしない星の海を、少女は何を想って見上げていたのだろうか。
取り留めのない事を考えながら足を進め。いつものように己に気づいて微笑む少女の側で立ち止まる。

「Good evening.こんばんは」
「――こんばんは」

少しばかり視線を逸らして、小さく挨拶を返す。視界の隅で驚いたように目を見張り、微笑う少女に気まずくなってさらに視線を逸らした。

「You're a strange one.不思議な人ね。今になって言葉を交わしてくれるなんて」
「あんたが何なのか分からなかった。危険なモノなのか、そうでないのか」
「Do you want to know about me?私を知りたいの?なら、教えてあげる」

音も立てずに近寄る少女に視線を向ける。微笑む少女の海のような瞳が、波打つようにゆらりと揺れた。

「I'm a wraith.私はレイス。この国の言葉では幽霊、と言うのかしら」
「幽霊…」

聞き覚えのある言葉に、記憶を辿る。遠い異国の伝説で、術師の魂が体から離れ、変質したモノがレイスになると本で読んだ記憶がある。幽霊よりも生霊に近かったはずだ。

「あんた、体は?」

その問いには、少女は何も答えを返さず。ただ哀しく微笑うだけだった。


「I need to ask you a question.聞きたい事があるの。あなたは私に尋ねて、それに私は答えた。だから教えてちょうだい?」

歌うように囁いて、少女は手を伸ばす。左手を取られ、確かめるように指を絡めて繋がれた。

「Who are you?Are you a magician?あなたはだれ?あなたも魔術師なのかしら」

小首を傾げ問われた言葉に、眉を寄せる。
誰か、など。知りたいのは己の方だ。
少女の言う魔術師ではないだろう。しかし、違うともまた言い切れないのがもどかしい。
答えに迷う己を急かすように、繋いだ手を軽く握られる。静かな眼に見据えられ、正しくはないが、と前置きをして口を開いた。

「人形師、が一番近いな。命ある人形を作り続け、結果人形になった…愚かな人間の成れの果てだ」
「Dollmaker…すてき」

頬を染め、少女は微笑う。
少女の反応を眼を細め見据えれば、聞きたい事はあるかと囁かれた。
一つ問いかけ、答える代わりに一つ問いに答えなければならない。そういう事だろう。
聞きたい事は山ほどある。だが語り合うには、この場所は些か寒すぎる。

「質問ではないが、提案がある。外で立ち話よりも、家の中で座って話さないか?」
「あらすてき。家に招いてくれるのね」
「今更だからな。最初に言葉を交わした時点で、縁は結ばれてるだろう」

悪戯めいた眼をする少女に小さく溜息を吐けば、声を上げて笑う。楽しげな嬉しげな声音に、その前からか、と嘆息した。

「I'm sorry.ごめんなさい。あなたを一目見た時から気になっていたの。人間のようで人間でない、あなたに取り入れば、私の新しい体を得る手がかりになるかと思って、ね」
「――依頼料は高いぞ」

眉間に皺を寄せ呟けば、良いわ、と眼を輝かせ、少女は頷いた。
腕を絡めて抱きつく少女を共に、歩き出す。肉体を持たない少女が、どんな手段で依頼料を払うのか不安はあるが、了承したのだから何とかなるだろうと、深く考えない事にして、只管に足を進めて行く。

「まったく…後悔するくらいなら、肉体を捨てるような無茶をしなければ良かっただろうに」

小さく呟けば、だって、と微かな声が返る。横目で見た少女は、頬を染め俯いて。

「だって…逢いたかったのよ。私の運命の人に」

まるで恋する乙女のような表情と声音に、出かけた溜息をすんでで呑み込んだ。



20250305 『question』

3/4/2025, 1:52:26 PM

すぱん、と小気味良い音を立てて、障子戸が開かれる。
その音に思わず肩を跳ねさせ。視線を向ければ小脇に蜜柑が盛られた籠を抱えた青年と目が合った。

「ど、どうした?」

声をかけるが、答える様子はなく。視線を逸らし、室内を一瞥して、低く舌打ちをする。

「――あいつは?」
「あいつ…白花《しらはな》の事か?」

青年とほぼ入れ違いの形で部屋を出て行った男の名を挙げれば、青年の目が鋭さを増す。怒りのような、それでいて悲しみのような不思議な感情を湛えた目をして、大股で此方へと歩み寄る。どかり、と荒々しく座り傍らに籠を置くと、その代わりとばかりに抱き上げられた。
青年に背を預ける形で膝に乗せられて、眉を寄せる。

「おい。何度も言っているが、子供扱いを止めろ」
「餓鬼じゃねぇか。それも七つに満たない、人間の」
「何だ。今日は随分と機嫌が悪いじゃあないか」

抱く腕に、僅かに力が籠もる。それでも苦しさを覚えない程度に加減された力に、青年の不器用な優しさを感じてしまい、困ったように息を吐いた。
何かはあったのだろう。今はいない男に関係する事で。それが何か、記憶を辿りながら考えていれば、小さな呟きが鼓膜を震わせた。

「――た」
「何だ?よく聞こえない」
「だからっ、白花の奴に炬燵を片付けられちまったって言ったんだよ!まだ当分は片付けないって約束したのに」

叫ぶように吐き捨てられた言葉に、一瞬時が止まる。
炬燵、片付け、約束、と一つ一つを声には出さず呟いて。ようやく理解が追いつき、そう言えば、と思い出す。

「確かに、約束していたな。蜜柑を採りに行くから、戻ってくるまで炬燵を片付けるな、と」

青年が言っているのは、奥座敷の掘り炬燵の事だろう。
炬燵には必ず蜜柑が必要だと、平らげなくなってしまった蜜柑を求めて、青年が屋敷を出たのは二日前の事だ。その時に、炬燵を片付けるなと言い含め、男もそれを了承した。
だがその次の日には、炬燵は跡形もなく片付けられ、畳で塞がれてしまっていたが。

「あの嘘つき野郎め。戻ってきたら、あいつのご自慢の真っ白な毛皮を毟ってやる」
「いや、少し落ち着こうか。片付けたのはだな」

物騒な呟きに、顔を上げて青年を見る。片付けられた炬燵の理由に心当たりしかない身として、何とか説得しようとするも、その言葉は口の中に差し入れられた何かによって遮られる。
反射でそれを咀嚼し、飲み込む。瑞々しい甘さが口の中に広がるのを、目を細めて堪能した。

「折角、一等美味い蜜柑を探してきたっつぅのに。あいつにだけはやらねぇ」

苛立たしげに顔を顰めながら、傍らに置いた蜜柑を剥いていたらしい。ご丁寧に白い筋まで取られた蜜柑を再び差し出されて、おとなしく口を開ける。
食べさせてもらう事に複雑な気持ちはあるが、蜜柑に罪はない。故にこれは仕方がない事だ。


「なんだ。もう帰ってきてたのか」

不意に聞こえた声に、視線だけを障子戸に向ける。
いつの間にか戻っていたらしい男が、青年の膝に乗せられた己を見て、楽しげに笑みを浮かべた。

「おい、白花!約束破って炬燵を片付けたな」

険を帯びる背後の声に、小さく肩が震える。だが目の前の男は涼しい顔をして、小首を傾げてみせた。

「炬燵?確かに、あれは片付けたよ」
「最低野郎が。後で覚えてろよ!」
「だって仕方がないじゃないか。躑躅《つつじ》が落ちてしまいそうになったのだから」
「――は?」

低く訝しげな声と共に、差し出された蜜柑を持つ手が上に上がる。あ、と短く声を上げ蜜柑を追うように顔を上げれば、眉を寄せた青年と目が合った。

「なんで落ちそうになってんだ?危ねぇ事はすんなって、言ったよな?」
「これには深い事情があるんだ」
「深くはないだろう。手の届かない場所の煎餅に、無理矢理手を伸ばしたからじゃないか」

目に呆れや憐みが浮かぶのが見えて、そっと目を逸らす。

「足が動かないのに、無理に動こうとするからだよ。まぁ、俺も気づいてやれなくて悪かったと思っているよ。まさか、饅頭と団子を食べて、それで煎餅にも手をつけるとは思わなかったからね」

嘆息し語る男を睨み付けるも、全く意に介する様子はない。音もなく此方に歩み寄り、そのまま片腕で抱き上げられた。

「おいっ。勝手に取り上げるな」
「来なよ。掘り炬燵は片付けてしまったけれど、黒羽《くろは》との約束を破るつもりはないからね。代わりを用意しておいた」

そう言って男は青年を待たず、部屋を出る。方向からして、奥座敷に向かうようだ。
板張りの廊下を少しも鳴らさず歩く男の後ろから、ぎっ、ぎっと廊下を鳴らして足音が近づく。奥座敷の前で男が立ち止まれば、一歩遅れて音も止まった。

「代わりって何だよ」
「入れば分かるよ」

穏やかに告げて、男は戸惑いもなく障子戸を開ける。やはり足音一つ立てずに、座敷の中へと入って行く。

「何だ、これは」

炬燵があったはずの場所に置かれたそれを見て、首を傾げた。
以前の炬燵のものより大きな机。掛けられた布団。
これは、まるで。

「炬燵だよ。櫓《やぐら》式のね。これなら落ちる事はないだろう」
「へぇ。良い物を用意したじゃねぇか」
「炬燵は片付けられていない。約束は破ってないだろう」
「そうだな。炬燵があるなら、約束は守られてるな」

にやり、と笑い、青年は炬燵に歩み寄ると、蜜柑の入った籠を置いてそのまま足を入れる。それに続いて、男も己を膝の上に乗せた状態で炬燵に入った。
出かけた文句は、足の先から伝わる温かさに免じて呑み込む。今度は男の手によって剥かれ、差し出された蜜柑を口にして、温かさと美味さにふふ、と笑い声が溢れた。

「いいな。炬燵に蜜柑」
「だろ?やっぱ炬燵には蜜柑が一番だ」
「悪くはないんじゃないかな」

お互いに笑い。蜜柑を食べ、ぼんやりと時を過ごす。たまには、こんなまったりとした時間もいいのかもしれない。
暖かくて、腹が満たされて。眠くなってしまった。
二人も同じなのだろう。気づけば人間の姿から、元の狐の姿に戻ってしまっている。
青年だった黒い毛並みの尾のない狐が己の左側に寄り、丸くなる。反対の右側には真白い毛並みの三本の尾を持つ狐が、同じように丸くなって目を閉じていた。
いつの間にか己の現状を、二人との日々を受け入れてしまっている。変化した二人との関係を、どこか楽しんでいる己に気づいて苦笑した。
炬燵よりも暖かい二人の間で、笑いながら目を閉じる。

きっとこのまま見る夢は、二人と過ごす今の続きなのだろう。



20250304 『約束』

3/3/2025, 1:42:41 PM

ひらり、とスカートの裾を翻して、少女は少年の元へと駆けていく。

「ごめん。待った?」
「別に」

素っ気ない態度の少年に、少女の表情が僅かに曇る。しかしすぐに笑顔を浮かべると、少年の隣に歩み寄った。

「今日はどこに行くの?話があるって言ってたし、ゆっくり出来る所へ行こうか」
「ここでいい」

淡々とした声音で一言言うと。少年はようやく少女に視線を向ける。冷たささえ感じる静かな目に見据えられて、少女は込み上げる不安を押し殺すようにスカートの裾を握った。

「あのさ。もう、止めにしないか」
「――え?」
「あいつはもういない…ようやく、受け入れられそうなんだ。だからもう、あいつの代わりになる必要はないよ」

静かで、凪いだ声だった。
少年の言葉を心の内で繰り返し、少し遅れてその意味を理解する。理解して、ひゅっと喉が嫌な音を立てた。
握り締めたスカート裾に皺が寄る。俯き、強く目を閉じて。そうして感情を抑え込んでから、少女は顔を上げると、少年に向けて優しい微笑みを浮かべてみせた。

「そっか。もう、大丈夫になったんだね。よかった」
「ああ、だから」
「三年、か。長いようで短かったのかな。でも一緒にいられて楽しかったよ。今まで、ありがとうね」
「…っ」

声が震えないように気を張りながら、少女は穏やかに告げる。それは感謝の言葉でありながら、別れの言葉によく似ていた。
何かを言いたげに口を開き、けれど何も言えずに少年は視線を逸らし唇を噛みしめる。言葉を探して彷徨う目が、静かに離れていく少女の姿を捉え、反射的にその腕を掴んだ。
少女の目が瞬く。掴まれた腕と少年の顔を交互に見て、少しばかり困ったように笑った。

「どうしたの?忘れもの?」
「あ、いや。そうじゃなくて」
「あぁ、そうだね。忘れてた」

淡い微笑みを浮かべたまま、少女は腕を掴む手に触れる。手の甲から指先へ向かい優しく撫でると、少年の手は次第に力を失って、ゆっくりと離れていく。
それをどこか名残惜しげに見つめ。そして少年に視線を向けると、少女は真白いスカートの裾を軽く持ち上げて、可憐にお辞儀をしてみせた。
少年があいつと呼ぶ、三年前に亡くなった彼の幼なじみがよくしていた仕草を最後に真似て、少女は微笑う。

「――じゃあね。ばいばい」
「っ、待って」

ひらり、とスカートを翻して、少女は駆けていく。急に吹いた風が引き止めようとする少年の声を掻き消して、巻き上がる砂が、少女の後ろ姿すらも消してしまう。
あとには、少年がただ一人。

「本当の君は、誰だったの?」

最後まで言えなかった言葉を噛みしめて、俯いた。





木々の合間をすり抜けて、只管に駆け抜けていく。
ひらり、と広がるスカートの裾が木の枝に掛かり裂かれても、少女は構わず走り続ける。
裂かれたスカートの切れ端が、風に舞う。それは風に遊ばれている内に千切れた花弁となって、褪せた大地を僅かに白へと染めていく。

森の奥。一本の美しい梅の木の根元で、少女はようやく足を止めた。

「ふっ、く、うぅ」

堪えきれなくなった涙が溢れる。少年の隣にいる理由がなくなって、寂しさに悲鳴を上げる胸に手を当てて蹲る。
最初から分かっていた事だ。少女は必死に己に言い聞かせる。
限られた期間の中での逢瀬だった。少年が幼なじみの死を受け入れて、一人で再び歩き出せるまでの刹那の時間。
始めから別れを覚悟して、少年の側にいたはずだった。少しでも少年の支えになれるように。幼なじみの死を受け入れられず、虚ろな日々を過ごす少年がまた笑ってくれるように。
しかし三年という月日は、ほんの少しだけ少女に欲を持たせてしまったらしい。

――もう少しだけ。もしかしたらずっとこのまま一緒に。

そんな淡い期待の欠片を抱いた矢先の事だった。少年に夢の終わりを突きつけられたのは。

「かえ、らなきゃ。夢は、終わった、んだもの」

止まらない涙を乱暴に拭う。顔を上げ、震える足に力を入れて立ち上がる。

「だい、じょうぶ。二度と、会えなくなる、わけじゃない。きっと、もうすぐ。会いに来て、くれる」

その時は、今の少女ではないけれど。
泣きながら微笑んで。少年の姿を夢想する。
きっと近い内に少女の元を訪れるのだろう。少年が幼い時から、幼なじみと共に少女の元へ何度も足を運んでくれていたのだから。
幸せそうな笑みを浮かべて。今年も綺麗だね、と少女を褒めてくれるはずだ。
くすり、と笑い声が漏れる。懐かしさに目を細め、振り返って梅の幹に触れた。
ひらり、とスカートが広がるのを視界に収めて、ゆっくりと目を閉じた。
少女の姿が段々に薄くなる。端から解けるように形を失い、しばらくすれば少女の姿はすべて消える。

少女の消えた梅の木の根元を一筋の風が通り過ぎ。満開に咲いた白い花弁を、ひらり、と空へ舞い上がらせた。





それからいくつもの年月が過ぎて。
大人となったかつての少年は、彼の家族を連れてその梅の木の元へ訪れた。
幼い娘が、楽しげに辺りを駆け回る。それを穏やかに見守りながら、妻の手を引いて木の根元へ腰を下ろす。

「白い花が雪みたい!とってもきれいね」
「気に入ったみたいで良かったよ。この梅は父さんの大切な思い出だからね」
「思い出?なにそれ!」

駆け寄る勢いのまま抱きつく娘を優しく抱き留めながら、目を細め、梅の木を見上げた。

「父さんの幼なじみと一緒に見つけた、秘密の梅の木なんだよ。それにこの木はね、よく似ているんだ。父さんの初恋の人に」
「はつこい!」

きゃあ、と娘は声を上げて笑う。
優しく娘の頭を撫でながら、父となった少年は視線を木から己の妻へと移す。
穏やかに微笑む妻の、梅の花のように白いスカートの裾が。
風になびいて、ふわり、ひらり、と揺らめいた。



20250303 『ひらり』

3/3/2025, 9:45:45 AM

「あれ?」

冷蔵庫を開けて、少女は訝しげに眉を潜める。
あるはずのものがない。ほんの数十分前に入れたはずの、期間限定もののプリンが。
冷蔵庫を閉め、もう一度開ける。やはり、プリンは見当たらない。

「なんで」

呟いて、なくなった理由を考える。
考えられる原因の一つは、隣の部屋にいる少女の姉だ。一人暮らしを初めた妹を何かと気にかけては、こうして訪ねて来てくれる。料理が苦手な妹のために、帰る前には作り置きのおかずで冷蔵庫を満たしてくれる姉。優しい彼女が、妹のプリンを盗み食いするなど考えられなかった。
それ以前に姉がプリンを食べるはずがないのだ。

「どうしたの?何かあった?」
「ひゃぁ!?」

急に扉を開けて入ってきた姉に、少女は声をあげて飛び上がる。
中々部屋に戻ってこない妹を心配して来たのだろう。忙しない鼓動を落ち着かせるように胸に手を当てながら、少女は姉に視線を向けた。

「だ、大丈夫?」
「だいじょうぶ…あの、さ」

逡巡しながらも、視線は自然と姉が手にしているそれに向けられる。
赤い瓶だ。英語のラベルが貼られたその瓶は、姉がプリンを食べた犯人ではない事の何よりの証拠だった。

「お姉ちゃん。お願いだから、タバスコ持ったまま歩かないで」

タバスコ。赤唐辛子を原材料とする調味料を常に持ち歩くほどに、姉は大の辛党だった。

「ごめん。でもちゃんと蓋は閉めてるし。それに全然戻ってこないから心配になって」

しゅん、と項垂れる姉を見て、少女は密かに安堵する。
一人暮らしを始めて一月ほど経つが、姉の食の好みは変わっていないようであった。
辛党であるからなのか、姉はケーキやプリンなど甘いものを苦手としている。昔、何かの罰ゲームか何かでシュークリームを食べた時、三日寝込んでしまったほどだ。
ありがとね、と苦笑しながらも心配してくれた事に礼を言う。姉を伴いキッチンを出ようとして、では誰がプリンを食べたのかを思考する。
姉ではない。冷蔵庫に入れた本人である少女ももちろん違う。
では誰が。考えて、嫌な想像に足が止まった。

「――ぁ」
「ちょっと、本当に大丈夫なの?」

心配そうに顔を覗き込む姉を、縋る気持ちで見る。
今、この部屋には少女と姉の二人だけ。どちらもプリンを食べていないのならば――。
全く別の、第三者がこの部屋にいる事になる。

「お姉ちゃん」

迷うように、怯えるように瞳を揺らし、少女は姉を呼ぶ。
安心させるように微笑んで少女を見る姉に、恐る恐る問いかける。

「冷蔵庫のさ…プリン、食べた?」

きょとり、と姉は目を瞬かせ。
その反応にやはり姉ではないのだと、少女の肩が震え出す。
怖い。だが確認しなければ、と。
姉から視線を逸らして、キッチンを振り返ろうとしたその瞬間に――。
微かな声が聞こえた気がした。

「お姉、ちゃん?」

それはくぐもった笑い声のように聞こえた。戸惑うように姉を見るも、姉の表情は険しく、先ほどまでの優しい笑みはどこにも見えない。

「プリンがなくなったのね?」
「う、うん」

姉の淡々とした質問に、少女はびくり、と肩を跳ねさせながら肯定する。少女の答えを聞いた姉の目はさらに険しく、鋭くなる。
見た事のない姉の表情に、段々と少女が泣きそうになっていると、それに気づいた姉は深く溜息を吐いた。

「お姉ちゃん」
「ごめんね。隠しておくべきじゃなかったね」

眉を下げて姉は微笑む。少女の頭を撫でてから、束ねていた髪をはらりと解き、くるりと少女に背を向ける。

「――な、に?」

目を見張る。姉の解けた髪の合間から覗くそれから、視線を逸らせない。
艶やかな赤いそれは、人の唇の形をしていた。姉の後頭部に生えている唇は、にぃ、と笑みの形に歪めてから、徐に開く。

「プリンがなくなったの…誰のせいかしら?」

歌うように囁いて、くすくすと笑う。呆然と見つめる事しか出来ない少女に誰かしら、と嘯いて。
だがその楽しげな声は、姉の溜息とほぼ同時に悲鳴に成り代わった。

「煩いよ。私の可愛い可愛い妹をいじめないでって、何度言えば分かるの」

手にしたままだったタバスコの瓶の口を開け、後頭部に生えた唇に押し込みながら姉は振り返る。険しい表情は少女を視界に納めると、途端に申し訳なさそうに眉を下げた。

「あの、ね。なんていうかね。この性悪な口は、なんていうか…私の、双子の片割れになるはずだった残り、というか…」
「――双子?」
「あぁ、うん。この口は、母さんのお腹の中で上手く形に成らなかったの。大半は母さんの中に還っていったんだけど、一応私の片割れだしね。一部を吸収して生まれて、これがその一部ってわけ」

知らなかった情報が次々と出され、少女は混乱する。口、吸収、と繰り返し、目を瞬きながら姉に――その背後にあるであろう唇に視線を向ける。

「つまりは――もう一人のお姉ちゃん?」
「お姉ちゃんは、私一人だけでいいの。こいつは気にしないで」
「ひどい。ひどい…辛いの、きらい、なのに。甘いの、食べたかった、だけなのに。わたしもおねえちゃん、なのに。ひどい」

か細い声が泣き言を繰り返す。それに舌打ちをして、再びタバスコの瓶を握り締める姉に気づき、少女は慌ててその手に両手を重ねて止める。

「待って。何だか可哀想だよ」
「だって煩いんだもん。それにこいつ私と違って甘党だから、プリンを食べたのもこいつだろうし。その分の復讐もしなきゃ」
「プリンはもういいからっ!だから落ち着いて」

冷めた目をして物騒な言葉を紡ぐ姉に、少女は必死に声をかける。先ほどまでの恐怖はすっかり消え失せ、これ以上の被害を止めようと思考を巡らせて。
一つ、思いつく。

「お姉ちゃん」

止められて不服そうな姉と目を合わせる。

「久しぶりに、お姉ちゃんの作ったおやつが食べたいな」

首を傾げ。昔のように微笑んで。
姉が妹である少女のおねだりに弱いのは、昔からだった。

「今日は泊まってってくれるんでしょ」
「――ぁ、う」
「ねぇ…だめ?」
「駄目じゃないからっ!お姉ちゃんが食べられちゃったプリンの分まで、何でも作ってあげるからね!}

少し俯いて見せれば、姉は慌てて瓶に蓋をして、近くの棚に置く。少女の両手を握り返し、抱き寄せて頭を撫でてから、満面の笑みを浮かべて部屋に戻っていく。

「お姉ちゃん。相変わらずだなぁ」

一人キッチンに残され、少女は苦笑する。置き忘れた瓶を手に取ると、少し迷ってから冷蔵庫の奥に仕舞い込んだ。
姉は辛党ではあるが、作る料理はとても美味しい。そこは信頼しているが、念のために、である。


「買い物行ってくるよ!何食べたい?」
「はやっ…ちょっと待ってよ。私も行くから」

姉の言葉に急いで準備を整える。ちらりと横目で見た姉の髪はしっかりと結われており、囁き声一つ聞こえはしなかった。
必要最低限の身だしなみを整えて、姉の隣に立つ。微かに聞こえたごめんなさい、の言葉に小さく笑ってもういいよ、と囁いた。

「パンケーキ、作ろうか。好きでしょ?蜂蜜とフルーツと、あとアイスも乗せたスペシャルなやつ」
「お姉ちゃん、甘いのだめなのによく作れるよね」
「そりゃあ、可愛い妹のためですから!…あぁ、あと練りわさびも買うから、帰ったら突っ込んでやって。悪い事をしたお仕置きはちゃんとしないとね」
「だからそれはもういいって!」

にこにこと笑いながらも物騒な台詞を口にする姉に、ひぃ、と引き連れた悲鳴が姉の背後から聞こえた。それに苦笑しながら、少女は姉の手を引いて家をでる。
あれがいい、これがいい、と食べたいものを挙げながら、どちらの姉も手の掛かる、とどちらが年上なのか分からない事を考えた。





夜。ふと喉が渇いて、少女はキッチンへと向かう。
ぼんやりと、ガラス戸越しに灯る明かりに首を傾げる。姉が起きているのだろうかと、然程気にする事もなく戸に手をかけた。

「お姉ちゃん?」

シンクの明かりを点けてだけの薄暗いキッチンで、どうやら姉は何かを食べているらしかった。夕食は済ませたのに、と嘆息して戸をゆっくりと開ける。
だが、何か可笑しい。中途半端に開けた戸に手をかけたまま、違和感に目を凝らす。
冷蔵庫の前で姉が立っている。手には昼間に買った三連のプリンの一つを持って。
息を呑む。プリンをスプーンで掬ったその手を、姉は後頭部に持っていく。解けた髪の奥の紅い唇へとスプーンを運び、大きく口を開けて唇がプリンを食べている。

「お姉、ちゃん」

びくり、と姉の肩が跳ねる。ゆっくりと振り返る姉は、虚ろな目をしながら、手の中のプリンを胸に抱きかかえた。

「どうしたの?こんな夜更けに」

声が聞こえた。姉の背後から、昼間聞いた姉ではない声が誤魔化すように囁いた。

「――もう一人の、お姉ちゃん?」

中途半場に開けていた戸を開けて、中に入る。確かめるように呼べば虚ろな目が細まり、くすくすと笑い声をあげた。

「さあ、誰かしら?」
「えっと…誤魔化さなくても、それはお姉ちゃんのために買ってもらったプリンだから食べていいやつだよ?」
「………え?」

目を瞬いて、姉は少女を見、手の中のプリンを見る。もう一度、少女を見て、ありがとう、と柔らかな声がお礼を告げた。
スプーンを手に取り、プリンを掬う。だがその瞬間、姉の動きが止まった。

「お姉ちゃん?どうしたの?」

呼びかけても姉は答えない。動きが止まったまま、次第に目が焦点を結び始め、ゆっくりと顔を上げ少女を見た。

「あれ?どうしたの?」

姉の唇が動き、姉の声がした。背後からはもう何も聞こえない。

「あ。えっとね…その。私は喉が渇いて」
「――あぁ、なるほど」

手にしたままのプリンに視線を向け、何かを理解したように一つ頷く。もう一度少女に視線を向けた姉の顔は、ぞっとするくらいに艶やかな笑みを浮かべていた。

「お姉ちゃん、ちょっと落ち着こうか。これには深い事情があってね」
「大丈夫よ。すぐに終わらせるから。こんな事もあろうかと昼間こっそりジョロキアの粉末も買っておいたの」

ジョロキア。世界一辛いと言われている唐辛子の一種である。
姉の背後から声にならない悲鳴が漏れる。笑いながらも据わった目をした姉が行動を起こす前にと体を張って止めながら、少女は姉を説得にかかる。

「そのプリンはね、お姉ちゃんのために買ってもらったの。だから食べていいやつなんだって」
「やだな。私は甘いものが駄目だって知っているでしょう?」
「そうじゃなくてね。ああ、もう!本当に落ち着いてよ!」

取り付く島もない姉に、少女は半ば叫ぶようにして声をあげる。
助けて、と震える声が聞こえて、さらに必死になった。

この先、このやりとりが日常の一部になる事とは露知らず。
何かと手のかかる姉達を宥めすかしながら、少女は疲れた顔をして密かに溜息を吐いた。



20250303 『誰かしら?』

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