少女は一人、夜空を見上げていた。
そのまま夜に解けて行きそうな程の儚さに、少年は思わず息を呑む。まるで西洋の絵画を見ているような、少女の周りだけ時が止まっているような錯覚に、頭を軽く振って意識を戻す。
声をかけるべきか。暫し、悩む。
こんな夜半に、一人きりで空を見上げる少女。見目通りの、ただの少女ではないのだろう。常ならば、声をかける事なく、気づかれぬよう静かにその場を離れたはずだ。
はぁ、と溜息を吐く。関わりたくないとは思うが、帰るには少女の側を通らなければならない。
ざりっ、とわざと足音を立てて、少女に歩み寄る。それに気づいて少女は空から視線を逸らし、音のしたこちらの方へと視線を向けた。
深い海のような、濡れた青の瞳と視線が交わる。焦点を結ぶように少女は目を瞬き、ふわり、と微笑んだ。
「Good evening.こんばんは。星の綺麗な夜ね」
静かで、不思議な抑揚の言葉。
声をかけられて、仕方なく足を止めた。
「Who are you?あなたはだあれ?」
「この先にある家に住む者です。星見の邪魔をしてすみませんでした」
「Never mind.気にしないで」
くすくすと、可憐に笑う少女に会釈をして、その横を通り過ぎる。
しばらく歩き、振り返る。夜空を見上げる少女の影が小さく見えて、小さく息を吐いた。
少女と始めて出会ったあの夜から幾日か過ぎて。
変わらず同じ場所で空を見上げる少女に、どうしたものかと思案する。
近づく己に声をかけ、側を離れれば再び空を見上げる。あの日以降言葉を返さぬ己に気分を害する様子もなく、会えば嬉しそうに微笑む少女に、少しばかり申し訳なさを覚え始めていた。
夜道を一人歩く。もうすぐ、少女のいる広場へと出る。
僅かばかり速まる足取りに自嘲しながら、ふと気になり空を見上げた。
季節柄、燦めく星がよく見える。この果てしない星の海を、少女は何を想って見上げていたのだろうか。
取り留めのない事を考えながら足を進め。いつものように己に気づいて微笑む少女の側で立ち止まる。
「Good evening.こんばんは」
「――こんばんは」
少しばかり視線を逸らして、小さく挨拶を返す。視界の隅で驚いたように目を見張り、微笑う少女に気まずくなってさらに視線を逸らした。
「You're a strange one.不思議な人ね。今になって言葉を交わしてくれるなんて」
「あんたが何なのか分からなかった。危険なモノなのか、そうでないのか」
「Do you want to know about me?私を知りたいの?なら、教えてあげる」
音も立てずに近寄る少女に視線を向ける。微笑む少女の海のような瞳が、波打つようにゆらりと揺れた。
「I'm a wraith.私はレイス。この国の言葉では幽霊、と言うのかしら」
「幽霊…」
聞き覚えのある言葉に、記憶を辿る。遠い異国の伝説で、術師の魂が体から離れ、変質したモノがレイスになると本で読んだ記憶がある。幽霊よりも生霊に近かったはずだ。
「あんた、体は?」
その問いには、少女は何も答えを返さず。ただ哀しく微笑うだけだった。
「I need to ask you a question.聞きたい事があるの。あなたは私に尋ねて、それに私は答えた。だから教えてちょうだい?」
歌うように囁いて、少女は手を伸ばす。左手を取られ、確かめるように指を絡めて繋がれた。
「Who are you?Are you a magician?あなたはだれ?あなたも魔術師なのかしら」
小首を傾げ問われた言葉に、眉を寄せる。
誰か、など。知りたいのは己の方だ。
少女の言う魔術師ではないだろう。しかし、違うともまた言い切れないのがもどかしい。
答えに迷う己を急かすように、繋いだ手を軽く握られる。静かな眼に見据えられ、正しくはないが、と前置きをして口を開いた。
「人形師、が一番近いな。命ある人形を作り続け、結果人形になった…愚かな人間の成れの果てだ」
「Dollmaker…すてき」
頬を染め、少女は微笑う。
少女の反応を眼を細め見据えれば、聞きたい事はあるかと囁かれた。
一つ問いかけ、答える代わりに一つ問いに答えなければならない。そういう事だろう。
聞きたい事は山ほどある。だが語り合うには、この場所は些か寒すぎる。
「質問ではないが、提案がある。外で立ち話よりも、家の中で座って話さないか?」
「あらすてき。家に招いてくれるのね」
「今更だからな。最初に言葉を交わした時点で、縁は結ばれてるだろう」
悪戯めいた眼をする少女に小さく溜息を吐けば、声を上げて笑う。楽しげな嬉しげな声音に、その前からか、と嘆息した。
「I'm sorry.ごめんなさい。あなたを一目見た時から気になっていたの。人間のようで人間でない、あなたに取り入れば、私の新しい体を得る手がかりになるかと思って、ね」
「――依頼料は高いぞ」
眉間に皺を寄せ呟けば、良いわ、と眼を輝かせ、少女は頷いた。
腕を絡めて抱きつく少女を共に、歩き出す。肉体を持たない少女が、どんな手段で依頼料を払うのか不安はあるが、了承したのだから何とかなるだろうと、深く考えない事にして、只管に足を進めて行く。
「まったく…後悔するくらいなら、肉体を捨てるような無茶をしなければ良かっただろうに」
小さく呟けば、だって、と微かな声が返る。横目で見た少女は、頬を染め俯いて。
「だって…逢いたかったのよ。私の運命の人に」
まるで恋する乙女のような表情と声音に、出かけた溜息をすんでで呑み込んだ。
20250305 『question』
3/5/2025, 2:04:05 PM