柔らかな風がカーテンを揺らし、窓際に置かれたテーブルに薄紅の花弁を散らす。
「あら?」
読んでいた本を閉じ、女は花弁を手に取り窓の外を見る。見える範囲に花弁と同じ色をした花はない。そも、未だ寒さの残るこの季節に咲く花など、この辺りにはなかったはずだ。
「あなたはどこから来たのかしら?」
指先で花弁をなぞり、女はくすくすと笑う。揺れるカーテンに視線を向けて、ありがとう、と囁いた。
「遠くの方では、もう春が来ているのね。この庭にはいつ頃来てくれるのかしら」
目を細め遠くを見つめる女の眼は、少女のように煌めいて。
「春が来て、花が咲いたのなら。そうしたら皆でお花見をするのもいいわね。お弁当をたくさん作って…楽しみでしょう?」
見えない何かと語る女は春を夢見て頬を染め、ほぅ、と吐息を溢した。
その言葉に応えるように、風が吹き抜ける。カーテンを揺らし、女の髪を悪戯に乱して、自由気ままに駆け抜けていく。
それを笑って見送って、楽しみね、と繰り返し。
こほん、と責を一つ。
ひゅう、と喉が鳴って。
「少し、疲れたみたい…皆が戻ってくるまで、ちょっとだけ。ほんのちょっと、眠っていよう、かしら」
机の上に身を伏せる。待ち人を想い、口元に微笑みを浮かべ。眼を閉じて、息を吐き。
そのまま眠りに落ちるように、静かに女は自身の時計の針を止めた。
はぁ、と重苦しい息を吐き、着替えもせずにベッドに横になる。
母が亡くなって一年が経った。一年経っても、未だに母の死はどこか遠い。
それはあの日。眠るようにその時を止めた母が、死とは無縁の穏やかな表情をしていたからなのだろう。
「――疲れた」
酷く疲れていた。皺になる前に礼服を脱いでしまいたいと、冷静な自分は急かしている。けれど心の内の本能に近い自分が、頑なに動く事を拒否している。
「疲れた、な」
肉体的に、ではなく。精神的に。
母の死を受け入れているとはいえ、その死と改めて向き合うのは、精神を摩耗させる。心の奥底の柔く繊細な部分を、容赦なく抉り取って行く気すらした。
目を閉じる。少しだけ、と誰にでもなく言い訳をして、微睡みに身を任せた。
不意に、どこからか甘い香りが、した。
薄目を開けて、視線を巡らせる。かたり、と音のする方へと視線を向けて、そこで始めて窓が開いている事に気づいた。
かたん、と音を立てて風が窓枠を通り過ぎ。カーテンを揺らし、ベッドシーツを波立たせて、何かを目の前に落として去って行く。
「な、に…?」
気怠い腕を持ち上げ、目の前のそれへと伸ばす。濃い紅色をしたそれは、よく見れば梅の花だった。
内心で首を傾げる。家の庭には梅の木は植えてなかったはずだ。
「邪魔をするぞ」
聞こえた声に、視線を向ける。体を起こそうとして、けれど重く怠さの強い体は動く事を只管に拒み、ほんの僅かもベッドから離れる事はなかった。
「あぁ、気にするな。母御の一年忌だったのだろう。疲れて当然だ。親しき者の死と向き合うのは、疲労を伴うものだ」
「――すみません」
穏やかに笑う彼に、小さく謝罪をする。気にするな、と繰り返して、彼は静かにこちらに歩み寄ると、そのままベッドに腰をかけた。
「庭のモノらが心配をしていたぞ。風が儂らの所まで便りを運ぶくらいだ」
大きな手が優しく頭を撫で、そっと視界を塞ぐ。
「落暉《らっき》、さん?」
「――穢れに中てられたのだろう。死とは、誰であれ、どんな形であれ穢れを呼びやすいからな」
「穢れ…」
眉が寄る。母の死を不浄だと思えなかった。
「死を忌むべきものだと、古くから人間は怖れているからな。仕方のない事だ。死に対して、悲嘆や苦痛といった負の感情が纏わり付けば、それは穢れの形をとる。どんなに穏やかな死であれ、残された者が負の感情を持てば穢れとなり、それは精神を摩耗させる」
そうか。哀しいのか。
哀しくて、寂しい。そういった想いが、母の一周忌に集まった人達の中で溢れてしまって。
自分は今、その想いで溺れかけているのか。
「疲れた時は、休むといい。父御に書き置きを残しておいた。しばらくは儂らの元でゆるりと過ごせ」
きぃん、と耳鳴りに似た音がする。地面が揺らぐ感覚がして、縋るものを求めて目を塞ぐ彼の手を掴んだ。
「怖がる事はない…ほら、着いたぞ」
穏やかな声と共に手を外される。急な眩しさに目を細めつつ、辺りを見渡した。
見覚えのある部屋だ。自分の家とは違う、木とい草の匂いのする和室。
ここは彼が何よりも大事にしている、彼女の屋敷だ。
「ちょっと!?何やってるの!」
襖が開く音と共に、聞き覚えのある声がした。目を瞬いて焦点を合わせ、声のした方へと視線を向ける。
「樹《たつき》、大丈夫?」
「――桔梗《ききょう》?」
「うん。そうだよ。気持ち悪くない?苦しかったり、痛い所があったらすぐに言って」
側に駆け寄ってきた彼女の名前を呼べば、心配そうに眉を寄せながらも微笑まれる。無理に起き上がったために、ふらつく体を支えてくれる彼女に申し訳なく思いながらお礼を言った。
「ありがとう。ごめん」
「気にしないで。落暉の馬鹿が無理に連れてきたんだろうから。こっちこそごめんね」
眉を下げて謝る彼女に首を振り、ふと視線を巡らせた。
側にいたはずの彼の姿が、どこにもない。
「落暉さんは?」
「出て行った。台所の方へ行ったみたい」
まったく、と嘆息して、彼女は彼が出て行ったであろう障子戸を睨み付ける。ゆるりと頭を振って、支えていた体を横にさせ、布団をかけられた。
「え?ちょっと」
「少し寝た方がいいよ。ここにいてあげるから」
さっき彼がしたように、彼女の手が目を塞ぐ。暗くなった視界で、意識が揺らいだ。
遠く、誰かの声が聞こえた。彼女の答える声も、どこか遠い。
「風が、樹のお父さんが元気になるまでここにいていいよ、だって」
柔らかな彼女の声に、ありがとう、と小さく返す。目を一つ瞬いてから、ゆっくりと閉じた。
風が頬を撫でる感覚がした。ふわり、と花の香りがして、思わず深く息を吸い込んだ。
重い怠さが消えて、後は心地の良い微睡みがさらに眠気を誘う。
「樹は皆に愛されてるね」
くすくす笑う彼女の笑い声を聞きながら、それはお互い様だよ、と声に出さずに呟いた。
20250306 『風が運ぶもの』
3/6/2025, 2:26:51 PM