sairo

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すぱん、と小気味良い音を立てて、障子戸が開かれる。
その音に思わず肩を跳ねさせ。視線を向ければ小脇に蜜柑が盛られた籠を抱えた青年と目が合った。

「ど、どうした?」

声をかけるが、答える様子はなく。視線を逸らし、室内を一瞥して、低く舌打ちをする。

「――あいつは?」
「あいつ…白花《しらはな》の事か?」

青年とほぼ入れ違いの形で部屋を出て行った男の名を挙げれば、青年の目が鋭さを増す。怒りのような、それでいて悲しみのような不思議な感情を湛えた目をして、大股で此方へと歩み寄る。どかり、と荒々しく座り傍らに籠を置くと、その代わりとばかりに抱き上げられた。
青年に背を預ける形で膝に乗せられて、眉を寄せる。

「おい。何度も言っているが、子供扱いを止めろ」
「餓鬼じゃねぇか。それも七つに満たない、人間の」
「何だ。今日は随分と機嫌が悪いじゃあないか」

抱く腕に、僅かに力が籠もる。それでも苦しさを覚えない程度に加減された力に、青年の不器用な優しさを感じてしまい、困ったように息を吐いた。
何かはあったのだろう。今はいない男に関係する事で。それが何か、記憶を辿りながら考えていれば、小さな呟きが鼓膜を震わせた。

「――た」
「何だ?よく聞こえない」
「だからっ、白花の奴に炬燵を片付けられちまったって言ったんだよ!まだ当分は片付けないって約束したのに」

叫ぶように吐き捨てられた言葉に、一瞬時が止まる。
炬燵、片付け、約束、と一つ一つを声には出さず呟いて。ようやく理解が追いつき、そう言えば、と思い出す。

「確かに、約束していたな。蜜柑を採りに行くから、戻ってくるまで炬燵を片付けるな、と」

青年が言っているのは、奥座敷の掘り炬燵の事だろう。
炬燵には必ず蜜柑が必要だと、平らげなくなってしまった蜜柑を求めて、青年が屋敷を出たのは二日前の事だ。その時に、炬燵を片付けるなと言い含め、男もそれを了承した。
だがその次の日には、炬燵は跡形もなく片付けられ、畳で塞がれてしまっていたが。

「あの嘘つき野郎め。戻ってきたら、あいつのご自慢の真っ白な毛皮を毟ってやる」
「いや、少し落ち着こうか。片付けたのはだな」

物騒な呟きに、顔を上げて青年を見る。片付けられた炬燵の理由に心当たりしかない身として、何とか説得しようとするも、その言葉は口の中に差し入れられた何かによって遮られる。
反射でそれを咀嚼し、飲み込む。瑞々しい甘さが口の中に広がるのを、目を細めて堪能した。

「折角、一等美味い蜜柑を探してきたっつぅのに。あいつにだけはやらねぇ」

苛立たしげに顔を顰めながら、傍らに置いた蜜柑を剥いていたらしい。ご丁寧に白い筋まで取られた蜜柑を再び差し出されて、おとなしく口を開ける。
食べさせてもらう事に複雑な気持ちはあるが、蜜柑に罪はない。故にこれは仕方がない事だ。


「なんだ。もう帰ってきてたのか」

不意に聞こえた声に、視線だけを障子戸に向ける。
いつの間にか戻っていたらしい男が、青年の膝に乗せられた己を見て、楽しげに笑みを浮かべた。

「おい、白花!約束破って炬燵を片付けたな」

険を帯びる背後の声に、小さく肩が震える。だが目の前の男は涼しい顔をして、小首を傾げてみせた。

「炬燵?確かに、あれは片付けたよ」
「最低野郎が。後で覚えてろよ!」
「だって仕方がないじゃないか。躑躅《つつじ》が落ちてしまいそうになったのだから」
「――は?」

低く訝しげな声と共に、差し出された蜜柑を持つ手が上に上がる。あ、と短く声を上げ蜜柑を追うように顔を上げれば、眉を寄せた青年と目が合った。

「なんで落ちそうになってんだ?危ねぇ事はすんなって、言ったよな?」
「これには深い事情があるんだ」
「深くはないだろう。手の届かない場所の煎餅に、無理矢理手を伸ばしたからじゃないか」

目に呆れや憐みが浮かぶのが見えて、そっと目を逸らす。

「足が動かないのに、無理に動こうとするからだよ。まぁ、俺も気づいてやれなくて悪かったと思っているよ。まさか、饅頭と団子を食べて、それで煎餅にも手をつけるとは思わなかったからね」

嘆息し語る男を睨み付けるも、全く意に介する様子はない。音もなく此方に歩み寄り、そのまま片腕で抱き上げられた。

「おいっ。勝手に取り上げるな」
「来なよ。掘り炬燵は片付けてしまったけれど、黒羽《くろは》との約束を破るつもりはないからね。代わりを用意しておいた」

そう言って男は青年を待たず、部屋を出る。方向からして、奥座敷に向かうようだ。
板張りの廊下を少しも鳴らさず歩く男の後ろから、ぎっ、ぎっと廊下を鳴らして足音が近づく。奥座敷の前で男が立ち止まれば、一歩遅れて音も止まった。

「代わりって何だよ」
「入れば分かるよ」

穏やかに告げて、男は戸惑いもなく障子戸を開ける。やはり足音一つ立てずに、座敷の中へと入って行く。

「何だ、これは」

炬燵があったはずの場所に置かれたそれを見て、首を傾げた。
以前の炬燵のものより大きな机。掛けられた布団。
これは、まるで。

「炬燵だよ。櫓《やぐら》式のね。これなら落ちる事はないだろう」
「へぇ。良い物を用意したじゃねぇか」
「炬燵は片付けられていない。約束は破ってないだろう」
「そうだな。炬燵があるなら、約束は守られてるな」

にやり、と笑い、青年は炬燵に歩み寄ると、蜜柑の入った籠を置いてそのまま足を入れる。それに続いて、男も己を膝の上に乗せた状態で炬燵に入った。
出かけた文句は、足の先から伝わる温かさに免じて呑み込む。今度は男の手によって剥かれ、差し出された蜜柑を口にして、温かさと美味さにふふ、と笑い声が溢れた。

「いいな。炬燵に蜜柑」
「だろ?やっぱ炬燵には蜜柑が一番だ」
「悪くはないんじゃないかな」

お互いに笑い。蜜柑を食べ、ぼんやりと時を過ごす。たまには、こんなまったりとした時間もいいのかもしれない。
暖かくて、腹が満たされて。眠くなってしまった。
二人も同じなのだろう。気づけば人間の姿から、元の狐の姿に戻ってしまっている。
青年だった黒い毛並みの尾のない狐が己の左側に寄り、丸くなる。反対の右側には真白い毛並みの三本の尾を持つ狐が、同じように丸くなって目を閉じていた。
いつの間にか己の現状を、二人との日々を受け入れてしまっている。変化した二人との関係を、どこか楽しんでいる己に気づいて苦笑した。
炬燵よりも暖かい二人の間で、笑いながら目を閉じる。

きっとこのまま見る夢は、二人と過ごす今の続きなのだろう。



20250304 『約束』

3/4/2025, 1:52:26 PM