sairo

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「あれ?」

冷蔵庫を開けて、少女は訝しげに眉を潜める。
あるはずのものがない。ほんの数十分前に入れたはずの、期間限定もののプリンが。
冷蔵庫を閉め、もう一度開ける。やはり、プリンは見当たらない。

「なんで」

呟いて、なくなった理由を考える。
考えられる原因の一つは、隣の部屋にいる少女の姉だ。一人暮らしを初めた妹を何かと気にかけては、こうして訪ねて来てくれる。料理が苦手な妹のために、帰る前には作り置きのおかずで冷蔵庫を満たしてくれる姉。優しい彼女が、妹のプリンを盗み食いするなど考えられなかった。
それ以前に姉がプリンを食べるはずがないのだ。

「どうしたの?何かあった?」
「ひゃぁ!?」

急に扉を開けて入ってきた姉に、少女は声をあげて飛び上がる。
中々部屋に戻ってこない妹を心配して来たのだろう。忙しない鼓動を落ち着かせるように胸に手を当てながら、少女は姉に視線を向けた。

「だ、大丈夫?」
「だいじょうぶ…あの、さ」

逡巡しながらも、視線は自然と姉が手にしているそれに向けられる。
赤い瓶だ。英語のラベルが貼られたその瓶は、姉がプリンを食べた犯人ではない事の何よりの証拠だった。

「お姉ちゃん。お願いだから、タバスコ持ったまま歩かないで」

タバスコ。赤唐辛子を原材料とする調味料を常に持ち歩くほどに、姉は大の辛党だった。

「ごめん。でもちゃんと蓋は閉めてるし。それに全然戻ってこないから心配になって」

しゅん、と項垂れる姉を見て、少女は密かに安堵する。
一人暮らしを始めて一月ほど経つが、姉の食の好みは変わっていないようであった。
辛党であるからなのか、姉はケーキやプリンなど甘いものを苦手としている。昔、何かの罰ゲームか何かでシュークリームを食べた時、三日寝込んでしまったほどだ。
ありがとね、と苦笑しながらも心配してくれた事に礼を言う。姉を伴いキッチンを出ようとして、では誰がプリンを食べたのかを思考する。
姉ではない。冷蔵庫に入れた本人である少女ももちろん違う。
では誰が。考えて、嫌な想像に足が止まった。

「――ぁ」
「ちょっと、本当に大丈夫なの?」

心配そうに顔を覗き込む姉を、縋る気持ちで見る。
今、この部屋には少女と姉の二人だけ。どちらもプリンを食べていないのならば――。
全く別の、第三者がこの部屋にいる事になる。

「お姉ちゃん」

迷うように、怯えるように瞳を揺らし、少女は姉を呼ぶ。
安心させるように微笑んで少女を見る姉に、恐る恐る問いかける。

「冷蔵庫のさ…プリン、食べた?」

きょとり、と姉は目を瞬かせ。
その反応にやはり姉ではないのだと、少女の肩が震え出す。
怖い。だが確認しなければ、と。
姉から視線を逸らして、キッチンを振り返ろうとしたその瞬間に――。
微かな声が聞こえた気がした。

「お姉、ちゃん?」

それはくぐもった笑い声のように聞こえた。戸惑うように姉を見るも、姉の表情は険しく、先ほどまでの優しい笑みはどこにも見えない。

「プリンがなくなったのね?」
「う、うん」

姉の淡々とした質問に、少女はびくり、と肩を跳ねさせながら肯定する。少女の答えを聞いた姉の目はさらに険しく、鋭くなる。
見た事のない姉の表情に、段々と少女が泣きそうになっていると、それに気づいた姉は深く溜息を吐いた。

「お姉ちゃん」
「ごめんね。隠しておくべきじゃなかったね」

眉を下げて姉は微笑む。少女の頭を撫でてから、束ねていた髪をはらりと解き、くるりと少女に背を向ける。

「――な、に?」

目を見張る。姉の解けた髪の合間から覗くそれから、視線を逸らせない。
艶やかな赤いそれは、人の唇の形をしていた。姉の後頭部に生えている唇は、にぃ、と笑みの形に歪めてから、徐に開く。

「プリンがなくなったの…誰のせいかしら?」

歌うように囁いて、くすくすと笑う。呆然と見つめる事しか出来ない少女に誰かしら、と嘯いて。
だがその楽しげな声は、姉の溜息とほぼ同時に悲鳴に成り代わった。

「煩いよ。私の可愛い可愛い妹をいじめないでって、何度言えば分かるの」

手にしたままだったタバスコの瓶の口を開け、後頭部に生えた唇に押し込みながら姉は振り返る。険しい表情は少女を視界に納めると、途端に申し訳なさそうに眉を下げた。

「あの、ね。なんていうかね。この性悪な口は、なんていうか…私の、双子の片割れになるはずだった残り、というか…」
「――双子?」
「あぁ、うん。この口は、母さんのお腹の中で上手く形に成らなかったの。大半は母さんの中に還っていったんだけど、一応私の片割れだしね。一部を吸収して生まれて、これがその一部ってわけ」

知らなかった情報が次々と出され、少女は混乱する。口、吸収、と繰り返し、目を瞬きながら姉に――その背後にあるであろう唇に視線を向ける。

「つまりは――もう一人のお姉ちゃん?」
「お姉ちゃんは、私一人だけでいいの。こいつは気にしないで」
「ひどい。ひどい…辛いの、きらい、なのに。甘いの、食べたかった、だけなのに。わたしもおねえちゃん、なのに。ひどい」

か細い声が泣き言を繰り返す。それに舌打ちをして、再びタバスコの瓶を握り締める姉に気づき、少女は慌ててその手に両手を重ねて止める。

「待って。何だか可哀想だよ」
「だって煩いんだもん。それにこいつ私と違って甘党だから、プリンを食べたのもこいつだろうし。その分の復讐もしなきゃ」
「プリンはもういいからっ!だから落ち着いて」

冷めた目をして物騒な言葉を紡ぐ姉に、少女は必死に声をかける。先ほどまでの恐怖はすっかり消え失せ、これ以上の被害を止めようと思考を巡らせて。
一つ、思いつく。

「お姉ちゃん」

止められて不服そうな姉と目を合わせる。

「久しぶりに、お姉ちゃんの作ったおやつが食べたいな」

首を傾げ。昔のように微笑んで。
姉が妹である少女のおねだりに弱いのは、昔からだった。

「今日は泊まってってくれるんでしょ」
「――ぁ、う」
「ねぇ…だめ?」
「駄目じゃないからっ!お姉ちゃんが食べられちゃったプリンの分まで、何でも作ってあげるからね!}

少し俯いて見せれば、姉は慌てて瓶に蓋をして、近くの棚に置く。少女の両手を握り返し、抱き寄せて頭を撫でてから、満面の笑みを浮かべて部屋に戻っていく。

「お姉ちゃん。相変わらずだなぁ」

一人キッチンに残され、少女は苦笑する。置き忘れた瓶を手に取ると、少し迷ってから冷蔵庫の奥に仕舞い込んだ。
姉は辛党ではあるが、作る料理はとても美味しい。そこは信頼しているが、念のために、である。


「買い物行ってくるよ!何食べたい?」
「はやっ…ちょっと待ってよ。私も行くから」

姉の言葉に急いで準備を整える。ちらりと横目で見た姉の髪はしっかりと結われており、囁き声一つ聞こえはしなかった。
必要最低限の身だしなみを整えて、姉の隣に立つ。微かに聞こえたごめんなさい、の言葉に小さく笑ってもういいよ、と囁いた。

「パンケーキ、作ろうか。好きでしょ?蜂蜜とフルーツと、あとアイスも乗せたスペシャルなやつ」
「お姉ちゃん、甘いのだめなのによく作れるよね」
「そりゃあ、可愛い妹のためですから!…あぁ、あと練りわさびも買うから、帰ったら突っ込んでやって。悪い事をしたお仕置きはちゃんとしないとね」
「だからそれはもういいって!」

にこにこと笑いながらも物騒な台詞を口にする姉に、ひぃ、と引き連れた悲鳴が姉の背後から聞こえた。それに苦笑しながら、少女は姉の手を引いて家をでる。
あれがいい、これがいい、と食べたいものを挙げながら、どちらの姉も手の掛かる、とどちらが年上なのか分からない事を考えた。





夜。ふと喉が渇いて、少女はキッチンへと向かう。
ぼんやりと、ガラス戸越しに灯る明かりに首を傾げる。姉が起きているのだろうかと、然程気にする事もなく戸に手をかけた。

「お姉ちゃん?」

シンクの明かりを点けてだけの薄暗いキッチンで、どうやら姉は何かを食べているらしかった。夕食は済ませたのに、と嘆息して戸をゆっくりと開ける。
だが、何か可笑しい。中途半端に開けた戸に手をかけたまま、違和感に目を凝らす。
冷蔵庫の前で姉が立っている。手には昼間に買った三連のプリンの一つを持って。
息を呑む。プリンをスプーンで掬ったその手を、姉は後頭部に持っていく。解けた髪の奥の紅い唇へとスプーンを運び、大きく口を開けて唇がプリンを食べている。

「お姉、ちゃん」

びくり、と姉の肩が跳ねる。ゆっくりと振り返る姉は、虚ろな目をしながら、手の中のプリンを胸に抱きかかえた。

「どうしたの?こんな夜更けに」

声が聞こえた。姉の背後から、昼間聞いた姉ではない声が誤魔化すように囁いた。

「――もう一人の、お姉ちゃん?」

中途半場に開けていた戸を開けて、中に入る。確かめるように呼べば虚ろな目が細まり、くすくすと笑い声をあげた。

「さあ、誰かしら?」
「えっと…誤魔化さなくても、それはお姉ちゃんのために買ってもらったプリンだから食べていいやつだよ?」
「………え?」

目を瞬いて、姉は少女を見、手の中のプリンを見る。もう一度、少女を見て、ありがとう、と柔らかな声がお礼を告げた。
スプーンを手に取り、プリンを掬う。だがその瞬間、姉の動きが止まった。

「お姉ちゃん?どうしたの?」

呼びかけても姉は答えない。動きが止まったまま、次第に目が焦点を結び始め、ゆっくりと顔を上げ少女を見た。

「あれ?どうしたの?」

姉の唇が動き、姉の声がした。背後からはもう何も聞こえない。

「あ。えっとね…その。私は喉が渇いて」
「――あぁ、なるほど」

手にしたままのプリンに視線を向け、何かを理解したように一つ頷く。もう一度少女に視線を向けた姉の顔は、ぞっとするくらいに艶やかな笑みを浮かべていた。

「お姉ちゃん、ちょっと落ち着こうか。これには深い事情があってね」
「大丈夫よ。すぐに終わらせるから。こんな事もあろうかと昼間こっそりジョロキアの粉末も買っておいたの」

ジョロキア。世界一辛いと言われている唐辛子の一種である。
姉の背後から声にならない悲鳴が漏れる。笑いながらも据わった目をした姉が行動を起こす前にと体を張って止めながら、少女は姉を説得にかかる。

「そのプリンはね、お姉ちゃんのために買ってもらったの。だから食べていいやつなんだって」
「やだな。私は甘いものが駄目だって知っているでしょう?」
「そうじゃなくてね。ああ、もう!本当に落ち着いてよ!」

取り付く島もない姉に、少女は半ば叫ぶようにして声をあげる。
助けて、と震える声が聞こえて、さらに必死になった。

この先、このやりとりが日常の一部になる事とは露知らず。
何かと手のかかる姉達を宥めすかしながら、少女は疲れた顔をして密かに溜息を吐いた。



20250303 『誰かしら?』

3/3/2025, 9:45:45 AM